「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない(5)


 ちょっと前に引用した最先端=亀山郁夫の文章に、これがありました。

 あらためて繰り返すことになるが、「第一の小説」においてアリョーシャは、必ずしも主人公と呼ぶことができるほど活躍しておらず、一種のトリックスター的な役割に甘んじている。その彼が、主人公としての相貌をちらりとかいまみせるのが、ゾシマの遺体から発した腐臭に衝撃を受ける場面である。強い不信におそわれ、およそ想像もつかない失意がアリョーシャをとらえる。あるいはゾシマ長老が懸念していたかもしれない、まさに彼の脆さ、弱さが一瞬、露呈した瞬間でもある。

亀山郁夫「解題」)


 そこでの「強い不信におそわれ、およそ想像もつかない失意がアリョーシャをとらえる」と ── 自己に淫した最先端=亀山郁夫の ── いうところが、『カラマーゾフの兄弟』において、唯一アリョーシャが自己に淫してしまった場面です。しかし、アリョーシャはグルーシェニカのことばでそのことに気づき、再び自己に淫していない自己に淫すまいとする自分に戻る ── 単に戻るというより、これまでより以上に強固な覚悟を持つ(これより前のアリョーシャと後でのアリョーシャについてはまた別の文章で触れましょう) ── ことになるんです。つまり、アリョーシャはこの作品の最初に ── 僧服姿で ── 登場してからずっと、自己に淫していない自己に淫すまいとする人間として描かれていて、作品半ばでとうとう自己に淫してしまうんですが、すぐにまた自己に淫していない淫すまい ── それ以前よりいっそう強固に ── とする人間になるんです。これに対して、ミーチャは自己に淫した人間であったのが、自己に淫していない淫すまいとする人間に変化していくのであり、イワンは自己に淫していたのが、ますます強固に淫していくという図になります。これが『カラマーゾフの兄弟』です。

 したがって、

 アリョーシャはおどろきをこめて永いこと彼女を見つめていた。その顔が明るくかがやきはじめたかのようだった。
「ラキーチン」突然彼がりんとした大声で言った。「僕が神さまに謀叛を起したなんて、からかわないでほしいな。君に恨みをいだきたくはないから、君も好意的になってくれたまえよ。僕は、君なぞ一度も持ったことのないような宝を失ったんだから、君だって今僕を裁いたりできないはずだ」


 ── というのは、アリョーシャが自分を取り繕ったりしたのではなく、単に、また自己に淫していない自己に淫すまいとする自分に戻ったために、そういったにすぎません。そのとき彼には恥などありません。取り繕う必要もまったくないんです。そうした恥や取り繕いが必要な人間は自己に淫している人間だけだからです。
 しかし、自己に淫した読者は、 ちょうど自己に淫したラキーチン同様に右の場面のアリョーシャについて次のようにしか受け取ることができません。

「君はさっき長老という弾丸をこめてもらったんで、今度はそいつを俺に発射したってわけか、アリョーシャ、君は神の人だよ」憎さげな笑いをうかべて、ラキーチンが言い放った。

(同)


 それに対してアリョーシャが何といったか?

「笑わないでくれ、ラキーチン、嘲笑うのはよせよ、故人のことなぞ言わないでほしいね。あの人はこの世のだれよりも偉い人だったんだから!」声に涙を含ませてアリョーシャは叫んだ。「僕は裁き手として君に話をするために立ったわけじゃないんだ。僕自身、裁かれる者の中で最低の人間だもの。この人にくらべたら、僕なぞ何者だろう? 僕がここへ来たのは、堕落してそれでも『かまうもんか、かまうもんか!』と言うためだったんだ。それも僕の浅はかさからだ」

(同)


 アリョーシャが「嘲笑うのはよせよ」というのは、そのようにいえば、ラキーチンの「自尊心の病」の奥にいる本当の彼自身にはこの呼びかけが理解できると思っていたからです。しかし、ラキーチンにはそれがわかりませんでした。

 さらに、

 アリョーシャはまたしてもきこえぬかのようだった。ラキーチンはこらえきれなくなった。
「なんだい、君は罪深い女を更生させたとでも思ってるのか?」彼は意地わるくアリョーシャをせせら笑った。「迷える女を真理の道に向けてやったというわけか? 七匹の悪魔を追いだして、え? われわれの期待していた奇蹟がやっとここで実現したってわけだ!」
「やめてくれよ、ラキーチン」魂の苦悩をこめてアリョーシャが答えた。
「君は今、例の二十五ルーブルのことで俺を《軽蔑》しているんだろ? 真の友人を売ったと言いたいんだな。しかし、君はキリストじゃないし、俺もユダじゃないよ …… 」
「ああ、ラキーチン、そんなこと僕は忘れてたよ、本当にさ」アリョーシャは叫んだ。「君自身が今思いださせたんだよ …… 」
 だが、ラキーチンはもはや完全に怒っていた。
「君らなんぞ、一人残らずみんな消え失せるといいんだ!」突然、彼はわめいた。「畜生、どうして君なんぞにかかり合ったんだろう! 今後、君のことなんぞ知りたくもないよ。一人で行きな、そっちが君の道だ!」
 そして彼は、アリョーシャを闇の中に一人残して、くるりと別の通りに曲った。アリョーシャは町を出て、野原をぬけて修道院に向った。

(同)


 自己に淫したラキーチンは、自己に淫することの土俵上でしか自分自身とアリョーシャとを見ることができないんです。自己に淫したラキーチンは自分が軽蔑されているはずだと思い、そのことを気にする ── 自己に淫しているからこそ自分への他人の評価を気にします ── わけですが、自己に淫していない淫すまいとしているアリョーシャはそんなことを全然問題になんかしていなかったということです。ところが、自己に淫したラキーチンにはそれが理解できません。つまり、ラキーチンがアリョーシャの立場であれば、必ずラキーチン自身を軽蔑するはずだからです。彼は、アリョーシャが自分を軽蔑しているというのなら、理解できるんです。ところが、そうではない。そうして、右の場面を読んで、ラキーチンの小ささを笑うことのできる読者も、もしアリョーシャが自分を取り繕ったなどと思うことがあるとすれば、結局のところ、そのひともラキーチンと同じです。ラキーチンと同じく自己に淫しています。

 いまのはほんの一例に過ぎませんが、そうやって、自己に淫している者は、自己に淫していない淫すまいとしている者を理解できないために、自己に淫していない淫すまいとしている者と対立することになります。
 自己に淫している者は、同じく自己に淫している者たちとならば、相互に理解可能なんですよ。その理解の上に立って、彼らは互いにどちらが上なのかを競ったり、支配したり、されたりするわけです。ところが、自己に淫していない淫すまいとしている者は、その彼らの関係を根底から破壊します。なぜなら、自己に淫していない淫すまいとしている者は自己に淫している者たちに対しても、彼らが自己に淫していないかのように対するからです。彼は彼らの「自尊心の病」の奥にいる本当の彼ら自身に直接呼びかけるからです。そうして、そのまま呼び出されてしまうひとたちがいるんです。これは、これまでずっと維持されてきた、自己に淫した者たちどうしの関係を破壊してしまいます。彼らの秩序を破壊し、彼らの個々をも破壊するでしょう。

 それが、ゾシマ長老がアリョーシャにいったことの意味です。

「私はお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛することになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ、お前はそういう人間なのだ」

(同)


「大勢の敵を持つことになろうが」です。

 そうして、アリョーシャ自身もそのことをよく理解しています。つまり、繰り返しますが、自己に淫している者は、自己に淫していない淫すまいとしている者を理解できないために、自己に淫していない淫すまいとしている者と対立する ── 自己に淫していない淫すまいとしている者は、「大勢の敵を持つ」=大勢の自己に淫している者たちと対立する ── ということです。だから、彼は自己に淫しているイワンにこういうんです。

「兄さん」アリョーシャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことをいったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです。たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても ……」

(同)


 アリョーシャが呼びかけているのは、イワンの「自尊心の病」の奥にいる本当のイワン自身に、です。しかし、アリョーシャには、イワンの「自尊心の病」が必ずそれを妨害するだろうということがわかっています。だから、「たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても ……」というんです。
 いいですか、アリョーシャは何もかもわかったうえで、イワンに「あなたじゃない」といったんです。しかし、そう私が何度繰り返しても、自己に淫した読者には理解することができません。
 繰り返しますよ、彼らはこう考えるんです。もし、アリョーシャにミーチャやイワンを理解できるというなら、彼にもその二人に比肩しうる苦悩や行動や思想が描かれていなくてはならない。つまり、自己に淫した読者には、アリョーシャの自己への淫し具合はどんなもんなんだい? というものさししかないんです。アリョーシャが自己に淫していなければいないほど、彼らはアリョーシャを認めることができないんです。つまり、彼らにはアリョーシャが見えない。ということは、『カラマーゾフの兄弟』が見えないということです。だから、彼らは「第二の小説」に過剰な期待を寄せざるをえません。「第一の小説」でのアリョーシャがあまりに頼りない、単純な馬鹿 ── 成長過程の ── にしか見えません。そういう自己に淫した読者のまなざしこそ、私はいいますが、「心正しき者の堕落と恥辱を好む」まなざしと変わりません。彼らはアリョーシャに「堕落と恥辱」を要求しているんです。いったい、お前は俺たちに認められる、どんな悪いことをしたんだい? ということです。「堕落と恥辱」なしに信仰を獲得できるはずがない、信仰を得るためには何か劇的な経験やら覚悟やらがなければならない、とでも考えているんでしょう。その彼らは、他方、イワンが何か思想の階段をそのまま登っていくことによって、ある段に達すれば ── 作品ではそこまでは描かれていないけれど ── それまでの同じ自己に淫したイワンのまま信仰を獲得できるはずだとでも考えているんでしょう。いや、イワンがもし信仰を獲得できるなら、それまでのイワンは徹底的に「砕かれて」いなければなりません。
 そうして、自己に淫した読者がゾシマ長老の信仰に何か素直な憧れめいたものを感じるのは、ゾシマ長老が自らの自己に淫した経験を語ったからです。同様の経験を彼らはアリョーシャにも求めます。ところが、それが描かれていない、と彼らは声高にいいます。それゆえ、彼らはアリョーシャを過小評価します。というか、アリョーシャが見えません
 たとえば、いったいアリョーシャのこれまでの人生にどんな「挫折(人生経験・試練・葛藤等々)」があったのか? とせせら笑うように彼らが問うとき、幾多の「挫折(人生経験・試練・葛藤等々)」をこれまでの人生において乗り越えてきたかもしれない彼ら自身の、そのこれまでの乗り越えかたは、結局、新たな「自尊心の病」によって・新たな自己への淫しかたによって乗り越えてきたというにすぎません。彼らは、これまでの自分を、そのまま維持・強化することによって「挫折(人生経験・試練・葛藤等々)」を乗り越えただけです。その事前事後での自分には強化だけがあり、自分は自分のままです。「自分は正しい」、「自分は間違っていない」、「間違っているのはあいつらだ」、「自分はこの点に関しては誤っていた。自分がこの自分の誤りを認めたことを、あいつらは評価しなければならない」、「自分はあいつらより優れている」、「結局あいつらは …… 」云々。そう彼らが主張するときの、その「自分」の重さが問題なんです。その「自分」の重さがそれまでと変わらなかったり、あろうことか、さらに重くなっていたりするわけです。つまり、彼らの心は「挫折(人生経験・試練・葛藤等々)」のたびに「砕かれて」いないままだったということです。自分など無価値だということにまったく気づかないままだったということです。
 彼らが自他の人生を測る尺度は、あくまで、どれだけ自己に淫したか、です。もちろん、彼らには自己に淫しているなどという自覚なんかありません。自己に淫しているなどといわれると、侮辱としか感じることができません。彼らにとっては、どれだけ自分が必死に生きてきたか、なんです。自分、自分、自分、です。そういうひとたちに、「自分が他の誰に対しても罪がある」・「自分こそが最も罪深い人間である」と自覚した人間のことなどわかるはずもない。彼らのものさしに、「自分が他の誰に対しても罪がある」・「自分こそが最も罪深い人間である」と自覚した人間を測る目盛はありません。そうなると、当然に彼らには、自己に淫していない淫すまいとしている者の存在など信じられません。

 かりに、彼らが百歩譲って、彼らのものさしが「どれだけ自己に淫しているか」だということを認めたとしても、彼らはこういわざるをえません。もし、この自分がお前のいうとおりに、自己=自分に淫しなくなったとしたら、いったい、この自分・この生きて苦しんでいる自分に何の意味があるというのか? 何のためにこの自分は存在し、生きて苦しんでいるのか? その問いは当然です。そうして、その問いに、『カラマーゾフの兄弟』に即して私が答えますが、そのあなたの人生に意味なんかありません。そもそも「意味」の意味を取り違えています。いいですか? あなた個人の「自分」はあなた個人のものじゃないってことです。あなたの「自分」はあなた個人の所有物なんかじゃないんです。あなたはあなたの人生を終えることで完結しようと思っている。自分の人生には意味があった・なかったなどを自問自答しながら。ところが、それが間違いなんです。かりにもし、あなたがいまのあなた自身を維持しながら、そのまま完結などしてしまえば、あなたは「ただ一粒のまま」なんです。あなたの人生はあなたのものではなく、現に生きている・これから生まれる・過去に生きていた誰彼のためのものなんです。そのひとたちのために、あなたはあなたがあなたの所有しているものだと思っているあなた自身を投げ出さなくてはならないんです。あなたがあなたの人生を、あなたの所有のものではない、現に生きている・これから生まれる・過去に生きていた誰彼のためのものだ、と認めて、そのひとたちのために投げ出すことができれば、あなたは「豊かに実を結ぶようになる」でしょう。あなたがあなたの人生に求める「意味」というのは、その「豊かに実を結ぶようになる」かどうかということに求められなくてはなりません。あなたがあなたの所有物ではないとあなたが知ること ── それが「一粒の麦」の「死」です。あなたはあなたの「自尊心の病」に気づかなくてはなりません。気づいて、「自分が他の誰に対しても罪がある」・「自分こそが最も罪深い人間である」と自覚しなくてはならないんです。そうして、あなたがあなたの人生を、あなたの所有のものではない、現に生きている・これから生まれる・過去に生きていた誰彼のためのものだ、と認めて、そのひとたちのために投げ出すことに、いまのあなたが考えているような「意味」を要求してはなりません。それが報われるとか報われないとかいうことを決める資格があなたにはないんです。あなたはいまのあなたの考えているような「結果」を知ろうとしてはなりません。あなたが「豊かに実を結ぶようになる」とき、そのあなたの人生は、いまのあなたの抱いている基準からすれば、徒労・無駄骨・無意味でしかないかもしれないんです。あなたには、この世界がどういうものであるか、最後まで見届けたり、決定したりする資格なんかないんです。当然ながら、あなたはイワンの望むような「報復」を望んではなりません。あなたはとにかく、自分を他の誰彼のために投げ出すしかないんです。

 ── とまあ、そういうことを、私は自己に淫した読者を納得させるためにいうのではなくて、自己に淫していない読者の読みを援護するためにしか、いいえません。というのも、自己に淫した読者には、私のいうことが理解できないからです。

 アリョーシャには、私がここでしゃべってきたことのすべてがわかっています。つまり ── わざわざこんなふうにいわなければならないことが残念ですが ── 、アリョーシャは、自己に淫した読者が考えている以上に、自己に淫したひとびとの、その淫しかたに精通しているということです。『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャのふるまいのすべてに、私はそれを認めます。アリョーシャは、自己に淫したひとたちに対して、常に適切な働きかけをします。自己に淫していることから発生する彼らの苦しみに対して、適切なやりかたで対応します。それは、目前の自己に淫した彼らから、自己に淫していない彼らを救い出して・引き出してやることです。「自尊心の病」の奥にいる本当の彼ら自身を救い出して・引き出してやるんです。繰り返しますが、アリョーシャはけして、自己に淫した彼らの、自己に淫した主張の土俵に立ちません。もし彼が彼らと同じ土俵に立ってしまえば、彼らの思うつぼなんです。というのも、それが結局「お前と俺とで、どちらが自己に淫しているか、勝負しろ」ということになってしまうからです。自己に淫した読者たちはこれがわからないんです。他の作中人物たちがそれぞれに自分の苦悩をさらけ出しているというのに、アリョーシャだけがそれをしていない。それをしていない以上、アリョーシャに大した中身なんかないのだ、彼はただやみくもに神や善を信じているだけ ── 「第一の小説」では彼はまだまだ発展途上にあり、すべては「第二の小説」を待たなければならない ── のことで、彼にはたとえば、あれほど苦悩しているイワンにあれこれいう資格なんかない、「あなたじゃない」なんていうのは僭越に過ぎるだろう、云々というわけです。つまり、彼らはアリョーシャにイワンやその他の人物との「苦悩勝負」を要求することしかできないんです。ということは「自己への淫し勝負」に他なりません。

(つづく)