「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない(4)


 もうちょっとわかりやすいように、ここで私は「自尊心の病に憑かれた」ひとたちのことを強調してみます。「自尊心の病」の重症・軽症の程度は、彼らがどれほど自己にしがみついているか、どれほど自己にインしているかということでも測れるでしょう。
「インする」 ── です。これを引用しておきます。

『プレーンソング』のあとすぐに短篇の『夢のあと』を書き、それからすぐにまた構えがすごく緩くてエッセイのような小説を書いたのだが、それは「群像」の藤岡さんから「まだこういうものは載せない方がいい」と言われ(それはその後書き直して『東京画』になった)、そのまた次のも藤岡さんから載せられないと言われた。一つ目はともかく二つ目の方は私は納得できなかったので言い合いになり、
「じゃあ、小島さんに読んでもらって決めることにしてくれ。」
 という話になって、小島さんに送られた。いや、自分で送ったのか。九一年の四月のことだ。一週間もしないうちに私のアパートの部屋の留守電に「読んで、いろいろ言いたいことがあるので電話がほしい」というメッセージが入っていた。私はそのメッセージを外で聞き、すぐに公衆電話から電話した。
 小島さんはまず、単刀直入に載せない方がいいという意見を言った。それでどこがよくないかという話になったのだが、
「途中からえんえんと三人の会話がつづくよねえ。保坂さんはそこをおもしろいと思って書いたと思うんですけど、作者がねえ、会話にインしているんですよ。
 わかりますか? インするのインです。
 インランのイン。インプのイン。インプカンプなんて言い方があって、みだらな女のことを言うときに使いますよ。
 サンズイにノのようなチョンを書いて、カタカナのツに似たチョンチョンを書いて、王様の王にも似ている壬申の乱の壬を書く「淫」ですよ。
 わからなければあとで辞書を引いてください。」
 私はその説明の変なところのしつこさに少し腹が立ちつつも(だいたい公衆電話なので車の音がうるさくて聞き取りづらかった)あまりの小島信夫ぶりに感動した。
 ともかく私は小島さんの判断がそうなのだからボツを入れ、アパートに帰るとベッドに体を投げ出して、失恋したときみたいに天井を見上げてため息をついた。で、また二日後には別の小説を書き出した。それが『キャットナップ』だ。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 新潮社)


 ── というわけで「淫する」です。「自尊心の病に憑かれた」ひとたちというのは、自己に淫しているひとたちです。

 もちろん『カラマーゾフの兄弟』において、最も自己に淫しているのはイワン・カラマーゾフです。反対に、最も自己に淫していないのがアレクセイ・カラマーゾフだと私はいいます。そうして、最も自己に淫している者に対して、最も自己に淫していない者から発されたことばが「あなたじゃない」なんです。「あなたじゃない」の意味は「自己に淫することなく、あなたの「自尊心の病」のずっと奥にいるはずの本当のあなた=神の前に立つあなたであってください。そのあなたには、お父さんを殺したのがあなたではないということがわかっているはずです」に他なりません。

 しかし、そのことが自己に淫している読者には理解することができません。なぜなら、自己に淫している読者には、自己に淫していない自己に淫することを恐れるということが理解できないからです。イワン・カラマーゾフのどこが間違っているのか、イワンこそ、この自分(自己に淫している読者)の代弁者だ、ということしか彼らにはいいようがありません。イワンこそ、神の存在なしにやっていく人間(つまり、自己に淫したままやっていく人間)の可能性を拡張する立派な主張の持ち主ではないか、というわけです。
 やれやれ、思い上がるのもいい加減にしたらどうか、と私がいったとしても、彼らにはわかりません。彼らの自尊心はいまだに「砕かれて」いないからです。

 もう一度、萩原氏の文章を引用します。

 それでは、ドストエフスキーはいつ自分が自尊心の病に憑かれていると気づいたのか。『地下室の手記』の主人公の先に引用した言葉から分かるように、ドストエフスキーが『地下室の手記』を書いていた頃、そのことに気づいていたのは明らかだ。「ドストエフスキーヴェイユ」で述べたように、『地下室の手記』の主人公の自尊心はリーザという売春婦に会うことによって砕かれる。砕かれて初めて、彼はそれまで自分が自尊心の病に憑かれていたことに気づく。砕かれなければ気づかなかっただろう。
 従って、「ドストエフスキーヴェイユ」で述べたように、『地下室の手記』を執筆していた頃、ドストエフスキーの回心への道も開かれたのだ。なぜ自尊心が砕かれると回心への道が開かれるのか。それは自分を何者かであると思う自尊心がなくなり、自己が無に近づくからだ。それは自分を創造した造物主に一歩近づく、あるいは、その造物主とひとつのものになろうとする運動に他ならない。「ドストエフスキーヴェイユ」で紹介したように、このような事態をシモーヌ・ヴェイユは「脱創造」という言葉で説明している。

(萩原俊治「自尊心の病」 ── 「こころなきみにも」)


  さらにべつの引用。これは直接に『カラマーゾフの兄弟』あるいはドストエフスキーに関してのものではありませんが、

 恥ずべき過ちを犯したのにも拘わらず、自分がまったく変わっていないと気づくこと、自分が過ちを犯す前と同じ愚か者であると思い知ること、そのような自分は何の意味もない存在であると知ること、そして精神的に死ぬこと、これが回心というものだ。

(萩原俊治「蟻の兵隊」 ── 「こころなきみにも」)


 そこでの「精神的に死ぬこと」こそが、自らの「自尊心の病」に気づくということであり、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフでいわれている「死」です。

 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)


 私はいいますが、徹底的に自己に淫したイワン・カラマーゾフは、「地に落ちて」死なないので、「ただ一粒のまま」なんです。彼は「豊かに実を結ぶ」ことになりません。
 すでに昨年に書きましたが、イワンは次のような存在です。

 ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。


 そのイワンにゾシマ長老がどういうことをいったか?

「本当にあなたは、不死という信仰が人間から枯渇した場合の結果について、そういう信念を持っておられるのですか?」
「ええ、僕はそう主張してきました。不死がなければ、善もないのです」
「もしそう信じておられるのなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなけれ非常に不幸なお人ですの!」
「なぜ不幸なのです?」イワンが微笑した。
「なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです」
「ことによると、あなたのおっしゃるとおりかもしれません! しかし、それでも僕はまるきり冗談を言ったわけでもないのです …… 」突然イワンは異様な告白をしたが、みるみる赤くなった。
「まるきり冗談を言われたわけでもない、それは本当です。この思想はまだあなたの心の中で解決されておらないので、心を苦しめるのです。しかし、受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。今のところあなたも、自分の弁証法を自分で信じられず、心に痛みをいだいてひそかにこれを嘲笑しながら、絶望のあまり、雑誌の論文や俗世の議論などで憂さを晴らしておられるのだ …… この問題があなたの内部でまだ解決されていないため、そこにあなたの悲しみもあるわけです。なぜなら、それはしつこく解決を要求しますからの …… 」
「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさりませ。「高きを思い、高きを求めよ、われらの住む家は天上にあればこそ」です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!」

(同)


 ゾシマ長老がそのようにイワンにいったのは、イワンの「問題」が彼の「自尊心の病」ゆえのものだということがわかっていたからです。つまり、イワンのその問いの立てかたが間違っているんです。

 これも『カラマーゾフの兄弟』についてのことばではありませんが、

 言うまでもないであろう。ロジオン・ラスコーリニコフとの出会いは、少年時代のもっとも重要な出来事のひとつであった。いや、何歳であろうと、注意深い読者なら、若いラスコーリニコフがその途方もない行為と、そしてまた ── もっと痛切に、もっと胸苦しく迫ってくるのだが ── 彼の混乱を反映する、見た目は仮借なく厳密な論理とによって呼び起こす圧倒的な印象から、逃れることはできないであろう。彼が求め、語り、行い、そして行わなかったことすべてに、私は強い関心を抱いた。しかし、私は彼が好きではなかった。彼の殺人に嫌悪した。この小説は私に、きわめて危険な誘惑のひとつである間違った二者択一に対するたえざる警告を与えてくれたのだった。そして、この警告のとおりだ、と痛感したことが一度ある。政治の領域においてであった。とくに困難な時期で、両方の側から間違った二者択一を迫られ、それを拒否することがほとんど不可能に見えたのだった。

(マネス・シュペルバー『すべて過ぎ去りしこと……』 鈴木隆雄・藤井忠訳 水声社


 イワンは「自尊心の病」 ── 自己に淫している ── ゆえに「間違った二者択一」にとらわれているんです。ゾシマ長老がいっているのは、イワンの設けた二者択一の否定です。けしてイワンの思想の高さの肯定なんかではありません。ゾシマ長老のことばでむしろ注目すべきなのは、次のことばです。「あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです」 ── これが「自尊心の病」への指摘です。イワンが自らの「自尊心の病」 ── かなり重症の ── に気づくことができれば、彼はそれだけ深い回心にいたるだろう、ということです。イワンの抱いている思想をそのままもっともっと突き詰めれば、信仰に至るだろう、などということではなく、イワンの当の思想が深い挫折をすればするほど彼が信仰に至るだろう、という意味です。つまり、イワンほど深く自己に淫している者が、その淫していることを悟ったとき、大きい回心に至るだろうということです。『カラマーゾフの兄弟』におけるこの奥行きを読み誤ってはいけません。

 しかし、「自尊心の病に憑かれた」読者には、そのことがけしてわかりません。わからないので、アリョーシャが見えません。彼らにはアリョーシャが単純素朴な馬鹿にしか見えません。そうして、こういうんです。

(アリョーシャにとっては、すべてが「第二の小説」にあるのだ)

亀山郁夫「解題」)


 やれやれ。

カラマーゾフの兄弟』には、自分の「自尊心の病」に気づいていくミーチャと、「自尊心の病」に憑かれたまま ── あくまで自己に淫したまま ── 自滅していくイワンとが描かれています。そうして、主人公アリョーシャは、そのどちらとも異なる位置にいます。この第三の位置がわからないひとに『カラマーゾフの兄弟』はわかりません。つまり、アリョーシャが見えないということです。アリョーシャは、読者の前に僧服姿で登場する、この作品の最初から自分の「自尊心の病」に気づいている人間として描かれています。

 おさらいしますよ。

 アリョーシャは自らの「自尊心の病」から距離を置いて生きています。彼は他人と接するときも、相手の「自尊心の病」から距離を置くようにします。相手の「自尊心の病」を承知しつつ、相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身に向き合うんです。相手の「自尊心の病」が仕掛けてくる争い・誘惑に乗らず、相手に支配されたり、相手を支配したりはしないんです。相手の「自尊心の病」の土俵に乗りはしません。そうやって、相手がその「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身であれるように手助けするんです。そうやって、「自尊心の病」から離れたところでひとびとを結びつけていくんです。

 さて、自己に淫した読者にはこれがわかりません。私のいう「相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身」とはいったい何だ? ── そう呆れる他ありません。自己に淫している読者は、自らが自己に淫しているために、アリョーシャにも自己に淫している姿を要求します。要求せざるをえないんです。つまり、アリョーシャに、ミーチャやイワンと同レヴェルに描かれた苦悩や行動や思想などを要求するわけです。それが描かれていない、と自己に淫した読者は主張します。アリョーシャにはミーチャやイワンに比肩する苦悩や行動や思想がない、もし、アリョーシャにミーチャやイワンを理解できるというなら、彼にもその二人に比肩しうる苦悩や行動や思想が描かれていなくてはならない、というわけです。そうでなくては、アリョーシャに確固とした信仰があるなど信じられない。もうこれが間違いです。ミーチャやイワンの苦悩や行動や思想は自己に淫した者の苦悩や行動や思想だからです。対するアリョーシャの苦悩や行動や思想は、自らの「自尊心の病」に気づいていて、できるだけ自分の「自尊心の病」から距離を置いておくことにした者の苦悩や行動や思想だからです。土俵が違うんです。それなのに、自己に淫した読者には、結局、アリョーシャを、どれだけ自己に淫しているかということでしか測ることができないんです。そうして、その尺度によれば、人間は自己に淫していればいるほど立派なんです。それこそが人間の苦悩や行動や思想だ、というわけです。彼らには自他を測るものさしが他にないんです。

(つづく)