「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない(3)


 小説『カラマーゾフの兄弟』において描かれているのは、人間が神の存在なしには生きていけないということです。人間は自分たちだけでなどやっていけません。神の存在を認める認めない、あるいは、神の創ったこの世界を認める認めないなどということの決定権など人間にはありません。人間は人間だけの知識や思想だけで自立することができません。人間は必ず人間より以上の大きな存在を必要としています。人間は自分たちなどちっぽけな存在でしかないということを知らなければなりません。人間はとにかく、いまの思い上がり ── 人間が人間だけの知識や思想だけで自立しようとする ── を捨てて、自分より大きな何者か ── つまり、それが神ですが ── の前にへりくだらなくてはなりません。人間のあるべき姿は、それぞれが自分こそ他の誰よりも罪深い人間だと自覚し、そんな自分のためにも祈ってくれるひとがいると信じている ── このとき必ず「謙遜な勇気」が必要になります ── 姿です。その姿へと向かう登場人物の代表として、ミーチャがいます。反対に、右の考えかたにあくまで逆らって自滅する登場人物としてイワンがいます。このときアリョーシャはそのどちらでもありません。そのアリョーシャがこの小説の主人公です。
 私は昨年に書いた長い文章で、イワンとミーチャとがどのように違うか、また、アリョーシャの書いたゾシマ長老のことばとイワンの言動との対比を示して、イワンがどれほど駄目なのかをいいました。

 イワンには、最終的に ── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── どういう結果になろうが、とにかくいまこの瞬間に生きている人間として、神の前に立ち、自らへりくだり、「人間の顔」を正視し、自身を投げ出すということができないんです。彼はいますぐに「結果」を知りたい。「結果」は保証されなければならないんです。実は、そういう「結果」── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── は、とにかくいまこの瞬間に生きている「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間がそれぞれに自身を投げ出すことの長い長い連鎖・継続・継承によってしかもたらされるはずのないものなんです、たぶん。イワンはしかし、若く性急です。自分が「十七年も荒野で祈りつづけ」るなんてことすら冗談ではないわけです。彼にはまだ「謙遜な勇気」を持つことができません。彼は自分自身をいまあるままに保ちながら、いますぐ「結果」を知りたい。自分を無にしたり、犠牲にしたり、礎石にしたりすることなしに、いますぐ「結果」を知りたい。「結果」を知ってなら、「信仰」もしようというんです。しかし、いまこの瞬間の自分の「信仰」が最終的に無駄になるのだとしたら、「信仰」なんかごめんです。保証が得られないのだったら、自分は好き放題にやるよ、というんです。それが「すべては許される」です。損なことはしないんですね。といいつつ、「結果」は気になるんです。 


 また、

「非力な反逆者ども」・「《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》」=「人類」を盾に、イワンは「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」=キリストを避けます。「人間の顔」を正視しない・できないことによって避けるんです。それは、こういうことでもあります。イワンは、神の前で傲然と頭を上げていようとしているんです。彼は誰にも頭を下げたくありません。彼にはへりくだることができない。「謙遜な勇気」(キルケゴール)がないんです。もう一度いいますが、彼はミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすること、ですね ── を頭では理解することができますが、心で感じること・信じることができないんです。イワンはあくまで傲然と自分自身であろうとします。彼はこの世界のありとあらゆるものを自分で理解したい、この世界の意味を最後まで見届けたいんですね。それを見届けるのは必ず自分でなくてはならないんです。彼は保証をとりつけたい。神にそれを委ねるなんてまっぴらごめんなんです。 


 それに、

 もちろんイワンは「いずれ蝗を食として、魂を救いに荒野へさすらいに出る」つもりだったんですが、悪魔の手前、それをそのまま認めようとはしません。でも、そのことは是非とも訊ねてみたいわけです。訊ねるけれど、自分の先行者たちを「十七年も荒野で祈りつづけて、苔の生えたような人たち」などと表現する(いったい、そのイワンがいま何歳なんですか? そのことを思い出してください)。しかし、その「苔の生えたような人たち」こそ悪魔が誘惑したい存在・悪魔が価値を認めた存在だということがわかっている。悪魔にそれほどまでに誘惑される人間こそ高度に信仰している人間なんですね。それで、イワンは自分がそういう「高価」な「ダイヤモンド」でありたいと思っているわけです。「同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」人間でありたいんです。つまり、そうであるからには、「《まっさかさまに》転落」するすれすれの位置にいたいわけです。それどころか、「《まっさかさまに》転落」することは、彼にとって非常に魅力的なことでもあるでしょう。「《まっさかさまに》転落」できるからには、つまり、それほどの高さにいたというわけです。その高低差こそが彼自身の価値なんです。その高低差が大きければ大きいほど、彼の魂は悪魔にとって「高価」な「ダイヤモンド」であるんです。
 これが「若い思想家で、文学と芸術の大の愛好家で、『大審問官』と題する将来性豊かな叙事詩の作者」なんですよ。


 そうして、証人として法廷に立ったイワンを駄目だといったんでした。

 もちろん、「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」なんてつもりじゃ駄目ですよ。イワンには相手に対して「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」のでなければならないんです。くどいようですけれど、イワンがアリョーシャの「あなたじゃない」を受け入れるためにも、誰彼に対しての「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」ということができなくてはなりませんでした。なぜか? 「あなたじゃない」を受け入れるためには、自分が「すべての人に対して罪がある」という自覚がなければなりませんから。しかも、この自覚は必ず「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。「ほかの人」との「つながり」が絶対に必要ですし、自分がへりくだって、「神の前」で無に等しい存在にならなければなりません。自分の「孤独」と「離反」を放棄しなくてはならないんです。イワンはこれを拒絶するんです。


 裁判の前夜、アリョーシャはイワンについてこう考えたんでした。

 真実の光の中に立ち上がるか、それとも、自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びるかだ。


 結果は後者でした。もし、イワンが法廷まで行って、自分に罪があると証言したということを、それだけでも立派じゃないか、などというひとがあれば、そのひとにはアリョーシャが見えていません。そのひとは「自尊心の病に憑かれた」読者です。

 さて、もっと以前に私はこうもいいました。

 あなたは『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、登場人物の誰かが ── ものすごくおおざっぱにいいますが ── 、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えることによって、自分自身と他人とを傷つける言動をしてしまう、そうしてそれがやがて取り返しのつかないことになっていく、というのをさんざん見てきたのじゃないでしょうか? 「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」 ── それが、その人物の自分自身に対する「嫉視」であり、「悪意」なんですよ。その人物が ── いろんな事情もあるでしょうが ── 自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を抱え込んで離さないでいること、ですね。この態度が、せっかくさしのべられた《ただ一人の罪なき人》とそれに準ずるひととの手を拒みます。単純にいえば、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えるひとが、他人の好意を否定し、極端な場合には、それを踏みにじって自分と他人とをひどく傷つけるということです。こういってしまうと、この世のなかのほとんどの小説がそうだよ、といわれてしまいそうでもありますが、しかし、『カラマーゾフの兄弟』は、おそらく執拗に登場人物たちと《ただ一人の罪なき人》との「応答」を描いて、ものすごく動的な作品として成立していると思うんです。


 そうして、

 アリョーシャは自身の限界を承知しているでしょうが、それでも《ただ一人の罪なき人》がいる ── 自分の前に・自分と並んで・自分のなかに ── と感じるので、誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。そうして彼には、この世界のどこかに、たとえ彼がその人をまったく知らず、先方も彼を知らぬにしても、彼のために祈ってくれる・彼を愛してくれるひとがいることを信じているんです。彼はそうしたつながりを信じています。だから、彼も誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。どうでしょう? これはすごいことじゃないでしょうか? アリョーシャにはそういう「謙遜な勇気」があると私はいいます。 


 くどいですが、

 アリョーシャは、イワンが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」=「殺したのは私だ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめないでいるんです。イワンに自分=アリョーシャとのつながりを信じること、自分=アリョーシャに対して気持ちを開くことを呼びかけているんです。アリョーシャはイワンの良心の証人になろうというんです。そうしてイワンに「離反」と「孤独」から、こちらに戻って来るように、と訴えているんです。自分自身をも信じないこと ── 自意識の堂々巡り ── から脱却してください、と懇願しているんですよ。「謙遜な勇気」を持ってください、といっているんです。こうして《ただ一人の罪なき人》からアリョーシャを通じてさしのべられている手が、ここで描かれているんです。これが『カラマーゾフの兄弟』で描かれている「罪」と「愛」なんです。


 さらにもくどく、

 繰り返しますが、そういう「罪」に対して、手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめない人物たちがいるんです。つまり、誰かが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめない人物たちです。その人物たちは「自分のためにも祈ってくれる人がいる」ということを信じています。そういう人物たちから発せられる「あなたじゃない」は、実は『カラマーゾフの兄弟』の全体に遍在しています。どういう形であれ、「あなたじゃない」の変奏 ── というか、最終的に「あなたじゃない」として完成されることになるものの変奏 ── を受け取るべきでない登場人物がこの作品にはいないでしょう。私は以前(「その二」)、アリョーシャの「あなたじゃない」が「第十一編 兄イワン」において「全然脈絡のないものでない、唐突でわけのわからぬものではない」といいましたが、実ははるかにその前から「あなたじゃない」はこの作品のそこかしこに響いていた音だったんですよ。それがイワンに向けたアリョーシャのことばによって最も高度な鋭い形で完成されたんです。というわけで私は、なおさら、アリョーシャの「あなたじゃない」が読み取れない ── しかも、それがイワンに図星だとわからない ── 読みかた(亀山郁夫)がいかにとんちんかんであるか、といいます。ふつうに『カラマーゾフの兄弟』を読んできた読者であれば、「あなたじゃない」が何を意味しているかがわかります。


 私は何をいいたいのか? 私のいってきたことが『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちにおける ── 萩原俊治氏のいう ── 「自尊心の病」の症状と、それに対するアリョーシャのふるまいだということです。
 私がずっと四苦八苦してしゃべってきたこと ── 右の引用の他にも私はたとえば「からくり」ということばも使ってきました ── に、この「自尊心の病」という病名=視点・論点を照射すれば、一気にいろんなことが整然と見えてくるんじゃないでしょうか?

 こうです。

 小説『カラマーゾフの兄弟』の全体が描いているのは自らの「自尊心の病」に苦しむひとびとの群像です。この作品の全体が目指しているのは、彼らがどうにかして自分の「自尊心の病」に気づくことです。自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であると口にするこの作品の何人かの人物たちは、自分の「自尊心の病」に気づいています。「自尊心の病」に気づくとはどういうことか? 自分が無であると知り、そのことを知らなかったこれまでの自分を知ることです。自分の意味や価値を決めるのは自分ではない・自分ではなかったと知ることです。自分が自立して生きている・生きていたのではないことを知り、生かされている・生かされていたことを知ることです。自分の存在が自分のためのものではない・自分のためではなかったことを知ることです。この世界は自分のためにあるのではない・自分のためにあるのではなかったし、世界の意味や価値を決めるのは自分ではない・自分ではなかったと知ることです。自分の見栄や誇りや優越感や劣等感や卑下や恥がまったくの無意味である・無意味であったと知ることです。自分が自分の支配者ではない・支配者ではなかったと知ることです。このことに気づいたひとは、世のなかのひとびとがどんなに ── これまでの自分同様 ── 「自尊心の病」に憑かれているのかを知るんです。「自尊心の病」に憑かれたひとびとがそれぞれどんなに苦しみ、また相互に争い、嘘をつき合い、支配したりされたりしているかを知るんです。とはいえ、そのとき、「自尊心の病」に気づいたひとたちは、それに気づいたからといって、その病から完全に治ることはありません。どんな人間も自尊心のなくなることはなく、「自尊心の病」は全快しません。だからこそ、自らの「自尊心の病」に気づいたひとたちは自分の「自尊心の病」を恐れます。その自覚が、「自分が他の誰に対しても罪がある」・「自分こそが最も罪深い人間である」ということです。そうして、それは、かつての自分(「自尊心の病に憑かれた」自分)の考えていたような恥ではありません。もはや彼に恥はありません。彼の意味や価値を決めるのは彼ではないからです。彼は自分の意味や価値を自分自身では無と考え、それをもっと大きい存在 ── 神 ── に委ねています。そのとき必要なのが「謙遜な勇気」です。そこで、彼が自らの「自尊心の病」を知りながら生きていくためにどうするか? なるべく自分の「自尊心の病」から距離を置いて生きるんです。それは可能です。というより、それしかありません。その距離は大きければ大きいほどいいんです。この距離を特に大きく保とうとするひとたちが『カラマーゾフの兄弟』に描かれています。そのひとたちは、他人と接するときも、相手の「自尊心の病」から距離を置くようにします。相手の「自尊心の病」を承知しつつ、相手の「自尊心の病」の奥にある本当の相手自身に向き合うんです。相手の「自尊心の病」が仕掛けてくる争い・誘惑に乗らず、相手に支配されたり、相手を支配したりはしないんです。相手の「自尊心の病」の土俵に乗りはしません。そうやって、相手がその「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身であれるように手助けするんです。そうやって、「自尊心の病」から離れたところでひとびとを結びつけていくんです。これが『カラマーゾフの兄弟』における「実行的な愛」です。しかし、いったい、他人の「自尊心の病」がどんな様相のもので、それを見抜いたり、見定めたりするなどということは、相手を見下していることになるのじゃないか? 相手の「自尊心の病」の奥にある本当の彼自身などがわかるものか? そういう問いを、このひとたちは常に必ず抱いています。相手の内面への洞察力が求められますが、そのとき、その根底には、自分が他の誰に対しても罪がある、自分こそが最も罪深い人間であるという自覚が必要ですし、自分のその洞察を確信し、それにもとづいた行為をなすためには必ず「謙遜な勇気」が必要になります。そのとき、彼を支えるのは、自分のためには他の誰かが祈ってくれる、と信じることです。その「他の誰か」の最奥に、あの「ただ一人の罪なき人」=キリストがいます。

 ── とまあ、そんなふうに私は考えています。

(つづく)