再開

再開

 ようやくまた何かしらが書けるようになった。このことに気づいたのは十二月十二日で、道を歩いていて岩波文庫の『講演集 リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』(トーマス・マン)を思い出し、この本について昔「自分が停滞したと感じたときに読み返す」と書いたことがあるのを思い出して、それで気がついた。眼球の感覚がさっきまでと変わり、こわばりが解けたような感じがした。それで、「ああ、書けるようになったな」と思った。これまでまったく何も書けない状態でいたわけではなかった。ぽつぽつと書いていて、それをよいものにしようと試みていた。しかし、どうも書いている気がしなかった。それが終わった。たぶん、読むこともできるようになっただろう。
 とはいえ、この変化にはがっかりもした。これには少なからぬ分量で非常にうさんくさい、浅ましい、こずるい、ちょっと勝ち誇ったようなものが混じっているのがすぐにわかったからだ。この感じをどう説明したらいいのか、一週間以上も考えていたのだが、さっき思い出した本がある。うつ病からの回復が書かれた箇所にはこうあった。

 そんな私なりの対策をあれこれ講じているうちに、さらに私の身にある変化が生じた。「朝勃(あさだ)ち」である。朝勃ちは私に「あ、これでしっかりうつが抜けるな」という確信に満ちた予感をもたらした。

代々木忠『つながる』 新潮文庫


 先の私自身の文章がまるでこれを見ながら書いたかのようだが、私が自分に生じた変化にがっかりもしたというのは、そこに右の「朝勃ち」的な要素が混じっているからなのだ。代々木忠の「確信に満ちた予感」は本当にその通りだったろうと思う。「朝勃ち」にはそれほどの大きさ・重量がある。しかし、私は自分が単に再び書けるようになることだけでよかったのだ。そこにある「朝勃ち」的要素は私にとって必要以上のものだ。だが、この余剰なしにただ書けるようになるということがそもそもありえないことなのかもしれない。書くということに「朝勃ち」的要素はつきまとう、書くということに「朝勃ち」的要素が含まれるということかもしれない。だから、私は書きながら、ちらちら顔をのぞかせる「朝勃ち」的なものを常に恐れなければならないだろう。

 さて、『講演集 リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』は、ただその文庫本のことを思い出しただけで、内容の何かが私に変化をもたらしたわけではないと思っていたのだが、自信がなくなってきた。せっかくだから好きな箇所を引用する。

この物語は、芸術家というものが自分の作品について元来いかに知るところが少ないか、芸術家は自分が関わる作品自体が持っている我意を最初はどれほど理解していないかということを知るために、ぜひ追体験しておくべき物語であります。── すなわち、芸術家は、その作品がそもそもどんなものになっていこうとしているのか、それがまさに彼の作品としてどうなるべきものなのか、ということを全く知らず、やがて彼はその仕事を前にして「このような物を私は望んではいなかった。だが今やそれをせねばならぬ。神よ助けたまえ!」と感じることがしばしばなのだということであります。── 自我の青白い功名心などというものは偉大な作品が生まれる初めにあるものではなく、それが生まれ出る源泉ではないのです。功名心は芸術家にあるのではなく、作品にあるのです。作品は、芸術家が期待してもよいと信じた以上に、あるいは彼が恐れねばならぬと信じた以上に、遥かに多くのことを自己自身のために欲するものであり、作品は自分の意思を芸術家に押しつけます。ヴァーグナーは、世間をあっと言わせるために、四夜にわたる大叙事詩を舞台にのせることを思いついたのではありません。それをせねばならぬということを、彼は驚きと、それにまたもちろん誇りの入りまじった喜びをもって、彼の作品から知らされたのです。

トーマス・マン「リヒァルト・ヴァーグナーと『ニーベルングの指輪』」
青木順三訳 『講演集 リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』所収 岩波文庫


「四夜にわたる大叙事詩」というのは四部作『ニーベルングの指輪』のことで、『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジーグフリート』、『神々の黄昏』のひとつづきの作品が四夜にわたって上演される。ワーグナー(私は「ヴァーグナー」と書かない)はまず最終話の『神々の黄昏』に当たる作品を書き始めるが、そうしているうちに、その前史として『ジーグフリート』に当たる作品を書かなければならないことに気づく。ところが、それを進めて行くうちにさらに『ワルキューレ』を、なお『ラインの黄金』までもを遡って書かなければならないことに気づいてしまう。
 これだけだと、単に作品の規模・分量・長さの問題にしか思われないかもしれないが、そうではない。どんなに短い作品であっても、作品は作者に自分の意思を押しつける。作品は作者の上位にあり、作者は作品に奉仕する。そうして、作品は聴き手や、また読者の上位にもいる。

(二〇一六年十二月二十六日)