「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない(2)


 いってみたいことはいくつもあるんですが、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者は、たとえばゾシマ長老に過剰な期待を寄せるんです。最先端=亀山郁夫の繰り返す文句「聖性」などがその典型です。ゾシマに「聖性」があったり、彼が「聖人」であったりするというような読みかたが私には理解できません。ゾシマはごく普通の人間にすぎません。ただ、彼は自分の「自尊心」に気づいている人間なんです。それだけです。また、ゾシマにいわゆる「揺るぎない信仰」があるかのように思うのも間違いだといっておきましょう。つまり、彼が ── 最先端=亀山郁夫のいうように ── 「聖性」を帯びている人物だと考えるひとは、目の前に描かれているゾシマの行動や状態が彼の不断の努力のゆえだということを理解していません。彼だって普通の人間なんですよ。だから、彼には超越的な「予言」の能力もありません。音信不通の息子の法要を願い出た老婆に、息子は生きているとゾシマがいったのは、「予言」なのではなくて、ただの人間的常識判断にすぎません。ゾシマに息子の安否がわかるはずもありません。彼は老婆に、わからないものを死んだと決めつけてはいけないといっただけのことです。実際に老婆の息子は生きていましたが、死んでいたとしても、ゾシマは同じことをいったでしょう。その場合、「予言」ははずれたわけで、ただそれだけです。過去にもはずれた「予言」などはたくさんあったでしょう。この「予言」の場面は、ゾシマの周囲の人びとが彼をどう見ていたかを描いているだけのことで、まさか本人に「予言」の能力があるなどと読むひとがいるだなんて私は考えもしていませんでした。しかし、いるんですね。そういうひとは『カラマーゾフの兄弟』における「信仰」を劇的な意味で誤解しています。「信仰」がなにかとんでもない試練や経験がないと獲得できないものであるかのように、また、ひとたび「信仰」が得られれば、それが永続的なものであるかのように、そうして、超越的な「予言」の能力が備わるかのようにしか理解できないんです。
 しかし、それでもなお、ゾシマがミーチャに跪拝したことはどう説明するんだ(という問いすら私には信じがたいんですが)、というひとがあるかもしれません。これも単にゾシマの人間的洞察の結果です。それだけのことです。天からお告げがあったわけじゃありません。ゾシマは超能力者じゃありません。もしゾシマに何か信仰による超越的な能力が備わっているならば、この同じ作品内に「大審問官」のあることは無意味になります。いいですか、ゾシマはただの普通の人間です。最先端=亀山郁夫が「それは果たして、ドストエフスキーやゾシマ長老が考える「聖人」と両立するのか?」なんていうのは大間違いです。誰がそんな「聖人」のことなんかを考えていたというのか? あるいは、「聖人」という語の受け取りが間違っていますね。まあ、最先端=亀山郁夫というひとは、常に実質よりも外部からの評価しか、いわゆる「権威」しか問題にしないひとだから、しかたがないです。つくづくなさけない。ともあれ、最先端=亀山郁夫がそんなことをいうのも、彼にアリョーシャが見えていないからですよ。
 そんなふうだから、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者は、いわゆる「第二の小説」にこれまた過剰な期待をせざるをえないんです。「ドストエフスキーは、「第二の小説」の構想をにらんで、すべての状況に通じながら、けっして表には出ることのない、そして過剰に自らを露出させることのない主人公として、アリョーシャを設定していたことがうかがえる(アリョーシャにとっては、すべてが「第二の小説」にあるのだ)」ということになります。「第一の小説」において、どれほどアリョーシャが活躍していたかということがまったく見えていないために、彼らはそんなことをいうんです。彼らの目は節穴です。しかし、残念ながら、私がそう指摘しても、そのことが彼らに理解できるはずもないんです。
 とはいえ、この私にしても「他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられるアリョーシャ」なんていうことを以前にいいもしていたわけです。しかし、ここでもまた、私は、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者に、まさか本当にアリョーシャが見えていないなどということがありうるとは思いもしていなかったんです。そういう読者を想定していたら、右のようにはいわなかっただろうと思います。
 そこで、私がこれからいうのは、アリョーシャがなぜ「他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられる」のか、というその理由です。また、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者にはなぜアリョーシャが見えないのか、というその理由です。しかも、その理由こそが『カラマーゾフの兄弟』という作品の核心でもあると私はいいます。したがって、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者には『カラマーゾフの兄弟』という作品もまた見えていないのだと私はいいます。それゆえ、私と彼らとは、同じ『カラマーゾフの兄弟』を読んでいながら、実はまったくべつの作品を読んでいるということになってしまうんです。私は以前に、私のこの一連の文章をきちんと読んでくれたひとへの批判にはちゃんと答えようといいましたが、撤回します。私は、私の読んでいる『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる読者の私への批判には答えることができますが、べつの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるひとには答えようがないんです。いや、答えることができても、それが「自尊心の病に憑かれた」読者にはまったく通じないんです。それほどの差異が、私と「自尊心の病に憑かれた」読者との間には存在します。しばらく前までは到底信じられないことでしたが、いまはたしかにその存在を私は認識しています。そういうわけで、あらかじめ断わっておきますが、ここで私がいくらしゃべろうが、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者は、私がこれから説明することについて、絶対に納得することになりません。怒り狂うだけです。なぜなら、私は彼らにまったく見えていないものについてしゃべるからです。彼らからすると、妄想・幻覚としかいいえないことが私に見えているというしかないからです。つまり、自らが「自尊心の病に憑かれた」読者であるということを認められないひとにはけして見えないことを私はしゃべるのだ、ということです。
 重ねていいましょう。私がここまでやってきた最先端=亀山郁夫批判の中心はアリョーシャの「あなたじゃない」についてでしたが、私は今後も同じ中心の周りをぐるぐる回るだけです。そうして、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者にはけしてアリョーシャの「あなたじゃない」の意味がわかりません。もし、アリョーシャの「あなたじゃない」を考えるときに、ほんのわずかでも「それじゃ、アリョーシャは犯人を誰だというのか?」という問いを持つ読者は「あなたじゃない」を全然理解していません。「あなたじゃない」といったときのアリョーシャは、「父親を殺したのは自分だ」とイワンが思っているから、そういっただけです。イワンが「自分だ」と思うそのことに問題があるんです。そんなふうに思ってはならない、ということだけをアリョーシャは訴えたわけです。したがって、そういう読者は、イワン・カラマーゾフの何が問題なのかも全然理解していないのだ、と私はいいます。そういう読者の読む『カラマーゾフの兄弟』は、私の読んでいる『カラマーゾフの兄弟』ではありません。だから、彼らと私とで議論のできるはずもありません。
 とはいえ、私はここまで、その点についてまったく無自覚なまま最先端=亀山郁夫 ── もちろん「自尊心の病に憑かれた」 ── を批判してきたわけですから、同じ観点から、今後もやはりどうしても、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者の読みかたを批判せねばなりません。「自尊心の病に憑かれた」読者は自分の「自尊心の病」に気づかないからしかたがないし、そのことで彼らを責めてもしかたがない ── 彼らに責任能力がないからしかたがない ── んですが、それでも、そんなひとたちが結局のところ、『カラマーゾフの兄弟』をねじまげて読んでしまうのだから、自らの「自尊心の病」に気づいている読者を守るためにも、また『カラマーゾフの兄弟』という作品を守るためにも、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者を批判せざるをえないんです。ところが、そうやって彼らを批判しながら、私は彼らの反論に答えることができません。彼らには私に見えているものを妄想・幻覚だというしかないし、私にも自分に見えているものを彼らに見せることができないからです。なんという複雑な事情が私を待ち受けていたのか ── 私は自分で驚いています。

 さて、私がここでしゃべるのは、この一連の記述全体(これまでのものはもちろん、これからの分をも含んで)の見取り図とでもいうべきものになります。さっきもいいましたが、私はアリョーシャの「あなたじゃない」から離れるつもりがなく、今後の記述にしても、さして進捗などしません。私は同じことをずっと繰り返すだけです。ともあれ、詳細は、すでに昨年のうちに書き始めていた原稿の、この先公開する ── いったいどれくらい先になるのか ── 長い文章に譲るとして、全体の見取り図をあらかじめ提示しておきましょう。

 しかし、その前に私はさっきいいかけたことのつづきをいわなくてはなりません。つまり、最先端=亀山郁夫を批判する者は自分の『カラマーゾフの兄弟』についての読みを提出しなくてはならない、といったことのつづきです。実をいうと、その私の主張は正しいのだろうか、と私は疑ってもいます。私の最先端=亀山郁夫批判のやりかたは間違っているのではないか?

 モノローグ小説の伏線はある事実と結びつき、その秘められた意味を明らかにするのである。しかし、ポリフォニー小説の伏線は、さまざまな伏線と緩やかに結びつくだけで、いつまでも最終的な意味を獲得しないままになる。ドストエフスキーの小説では、このような例は無数に挙げられる。
 その中でも、すでに述べた主人公の真実は代表的なものだ。ある主人公の真実はその主人公が生きているかぎり暫定的なものであり、確定しない。このため、ある主人公の言動がどのような意味をもつのか、読者は最終的に決定することができない。


 右の「主人公の真実」とは、バフチンが「ドストエフスキーの小説に登場してくる主要人物のことを「主人公」と言い、「登場人物」とは言わない」こと、さらに、「バフチンのいう主人公の真実とは、最終的に確定した真実ではなく、主人公によって現在受け入れられている真実に過ぎない」という、同じ萩原氏の文章で述べられていたことを踏まえています。

 さて、『カラマーゾフの兄弟』の、そのように「確定しない」主人公の真実を私は確定したものとしてずっとしゃべりつづけてきたのではないでしょうか? つまり、それが私の「穴」埋めですね。私は勝手に「物語」をつくってしまっているのじゃないでしょうか? 私は最先端=亀山郁夫が勝手につくっている「物語」に対抗して、自分のつくった「物語」を提出しているにすぎないのじゃないでしょうか?

 だが、こんな物語は北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。
 いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。

田中小実昌「北川はぼくに」 河出文庫『ポロポロ』所収)


 田中小実昌の「北川はぼくに」は、語り手の「ぼく」が、かつて北川という人物が話してくれたことに、いろんな解釈を加え、意味づけをして、これまでいろんなところでしゃべってきたわけなんですが ── もちろん、当人のいないところでです。そのつど、その「物語」は誰彼に面白がられたことでしょう ── 、それがそもそも北川が「ぼく」に話したことと全然べつのことをしゃべっていたのではないか、「ぼく」は勝手な「物語」をつくってしまっているのではないのか、北川に非常に悪いことをしてしまっているのではないのか ── 「北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに」 ── 、と疑っているんです。 ── という私の説明もわかりづらいでしょうから、とにかく「北川はぼくに」を読んでみてください。そういえば、私は小説作品を読むときに ── 保坂和志を引きもしながら ── 「読んだことを、まとめようとするな」とかこれまでにいっていませんでしたっけ? 萩原氏はずっと「物語の暴力」ということで、そのように勝手に「物語」をつくってしまうことについて警告しつづけてもいます。これも最初のうちは、私にはよく理解できないことだったんですが、「そうだ、それは「北川はぼくに」や保坂和志じゃないか。萩原氏は私のまったく知らないことを述べているわけではないのだ」と、あるとき不意にわかったんですね。
 むろん、どんなひとも自分で「物語」をつくらないでは ── プロットの「穴」埋めをしないでは ── 『カラマーゾフの兄弟』を読むことはできません。しかし、常に作品そのものに立ち戻って、これまでの自分の「物語」を新しく更新するということはできますし、そうでなくてはなりません。
 ただ、私には、私が最先端=亀山郁夫のあまりにもひどすぎる「物語」を批判するときに、私が自分の「物語」を提出することが本当に有効なのかどうかがわからないんです。しかし、最先端=亀山郁夫のでたらめに騙されている・騙されかかっている読者のなかには、この私の「物語」を必要としているひとがあるのじゃないか、私の「物語」をそのひとたちの読み ── つまり、そのひとたちそれぞれの「物語」 ── に照射することによって、そのひとたちが誤った「物語」から抜け出すことができるのではないか、とは思っているんです。もっとも、私の想定している、そうした読者のうちに、もちろん「自尊心の病」に憑かれた読者は入っていないんですけれど。

 そういうわけで、私の最先端=亀山郁夫批判の「全体の見取り図」です。

 ざっと、こんなふうです。

(つづく)