「自尊心の病に憑かれた」読者にアリョーシャは見えない(6)


 アリョーシャがどうやって自己に淫しているひとびとに接するのか? あたかも彼らが自己に淫していないかのように接します。彼は、彼らから、自己に淫していない彼ら自身を引き出します。彼は、自己に淫して苦しんでいた彼らがその苦しみを脱するとき、あたかも最初から自己に淫していなくて、自力で自己に淫していない状態に立てたかのように思わせるんです。

 このときは数人の少年がイリューシャのそばに坐っていた。彼らもみな、スムーロフと同様、アリョーシャが中に入ってイリューシャと仲直りさせたことを否定したそうな様子だったが、事実はそのとおりだった。この場合、彼の手際のよさは、《べたべたした愛情》なしに、子供たちを次から次へと、さりげなく、さも偶然をよそおって、イリューシャと和解させたことにあった。それがイリューシャの悩みに大きな安らぎをもたらした。かつての敵だった少年たちみんなの、ほとんどやさしいと言ってもよい友情や同情に接して、彼はすっかり感動した。


 そんなのは子供相手の話じゃないか、と憤慨するひとがあるかもしれません。それじゃ、これはどうですか?

 アリョーシャが刑務所の門のベルを鳴らしたときは、もうすっかり遅かった(それに十一月の昼は短いのである)。夕闇さえおりはじめていた。しかしアリョーシャは、自分が何の妨げもなくミーチャのところへ通してもらえることを知っていた。これはみな、この町でも、どこでも同じことだった。もちろん、予審の終った当初は、親戚やその他の人々がミーチャと面会するにも、やはりいくつか必要な手続きが設けられていたのだが、その後、手続きがゆるめられたとまではゆかぬにせよ、少なくともミーチャに面会にくる何人かの者には、ひとりでにある種の例外ができていたのである。ときによると、所定の部屋での未決囚との面会も、ほとんど立会いなしで行われるようにさえなっていた。もっとも、そういう人間はごく少数で、グルーシェニカと、アリョーシャと、それにラキーチンだけだった。しかし、グルーシェニカに対しては、当の郡警察署長ミハイル・マカーロウィチが、非常に好意的だった。モークロエで彼女をどなりつけたことを、この老人はずっと気にしていたのである。その後、本質を知るにおよんで、署長は彼女に対する考え方をすっかり改めた。しかも奇妙なことに、ミーチャの犯行を固く信じてはいたものの、拘置以来しだいに彼に対する見方が和らいできていた。『おそらく善良な心の持主なのだろうが、酒と乱行とで、スウェーデン人みたいに身を持ち崩してしまったんだ』彼の心の中で以前の恐怖は一種の憐れみに変った。また、アリョーシャに関して言うなら、署長はこの青年が大好きで、もうずっと昔からの知人だったし、最近いやに足しげく面会にくるようになったラキーチンは、当人のよび方に従えば《署長令嬢》たちのごく親しい知人の一人で、毎日のように署長の家に入りびたっているのだった。それに彼は、職務に厳格とはいえお人好しの老人である刑務所長の家で、家庭教師もしていたのである。アリョーシャもやはり、刑務所長とは特別な古い知人で、所長は彼を相手に概して《高邁な事柄》を談ずるのを好んでいた。これがたとえばイワンだと、所長自身も、もちろん《自分の頭で到達した》とはいえ、たいそうな哲学者だったにもかかわらず、イワンの見解に一目おく、というより畏怖さえしていた。だが、アリョーシャに対しては、なにか抑えきれぬ共感をいだいていた。ここ一年、老人はちょうど経典外聖書に取りくんでいたので、のべつ自分の感想をこの若い友人に伝えるのだった。前には修道院にアリョーシャを訪ねて、彼や司祭修道士たちと何時間もぶっつづけに語り合ったこともあった。こんなわけで、一口に言うならアリョーシャは、たとえ刑務所の面会時間に遅れても、所長に頼みこみさえすれば、いつも万事うまくゆくのだった。おまけに、刑務所ではいちばん下っ端の門衛にいたるまで、みながアリョーシャと顔馴染みになっていた。看守も、上司の許可さえあれば、もちろん意地わるをしなかった。

(同)


 これも、ただのコネの話じゃないか、と一笑に付すひとがあるかもしれません。しかも、これではラキーチンと同等じゃないか、などといいだすことになるかもしれません。しかし、真面目にいいますが、私はこう読み取っているんです。いわゆるコネの話はラキーチンにのみかかるだけで、そのラキーチンにせよ、もしアリョーシャの存在がなければ、こうも自由に刑務所に出入りなどできなかったでしょう。ラキーチンは、郡警察署長と刑務所長とがアリョーシャという例外を設けた、そのおこぼれにあずかっているだけだと思います。アリョーシャという例外を設けたために、いつのまにかラキーチンも自由に出入りできるようになっていたということでしょう。また、グルーシェニカびいきである郡警察署長のミーチャ評も、もちろんグルーシェニカゆえの要素もあるでしょうが、アリョーシャの存在が小さくない理由になっていると思います。また、刑務所長以下、アリョーシャと「顔馴染み」になっている刑務所職員たちみながアリョーシャに好感を持っていただろうということを想像することは容易です。それらは、単にアリョーシャが善良だったからという理由ではかたづけられない何かがあるはずです。

 また、これはどうですか?

 部屋に入るなりアリョーシャは、一時間ちょっと前にマリヤ・コンドラーチエヴナが彼の下宿に駆けつけて、スメルジャコフが自殺したことを報じた、とイワンに告げた。「サモワールを片づけに行ったら、壁の釘にぶらさがっているんです」ということだった。「だれか、しかるべき人に届けましたか?」というアリョーシャの質問に、彼女は、だれにもまだ知らせず、「真っ先にこちらへとんできたんです。途中ずっと走りどおしでした」と答えた。彼女は半狂乱で、木の葉のように全身をふるわせていた、とアリョーシャは伝えた。

(同)


「半狂乱の」マリヤ・コンドラーチエヴナは、なぜスメルジャコフの死を伝えるために「真っ先に」 ── 警察でも、病院でも、グリゴーリイとマルファとのところでもなく、もちろんイワンのところへでもなく ── アリョーシャのもとへ「走りどおし」で来たんでしょうか? ここでも、以前から彼女と彼との間に大事な信頼関係が築かれていたからじゃないですか? アリョーシャは、スメルジャコフ本人とは接触できなかったかもしれませんが(つまり、スメルジャコフが拒否すれば、というか、彼は必ず拒否したでしょう。アリョーシャは会えもしなかったでしょう)、マリヤ・コンドラーチエヴナとの信頼関係を築くことはできていたのじゃないでしょうか。
 まあ、ここでも自己に淫した読者からは、私の「妄想、ここに極まれり」、といわれるに違いありません。しかし、私はいいますが、『カラマーゾフの兄弟』はこのような「穴」埋めをせずに読むことができません。というより、私のやったようなやりかたより他にどのような読みかたがあるのか、とすら私は思います。これは、「書かれていることをそのまま読め」という、以前からの私の主張と何ら矛盾しません。なぜなら、この作品の場合、書かれていないことを読めと、当の作品がその構造・つくりによって私に要請するからです。アリョーシャがスメルジャコフにだけは冷たかった、などという読みかたをするひとがあるのは知っています。私は、それは誤解だと思います。アリョーシャが望んでも、スメルジャコフの方で、アリョーシャを拒否したのだと読む方が自然じゃないでしょうか? いくらアリョーシャでも、そういうふうに拒まれれば、手の打ちようもありません。しかも、これには時間的制限(フョードルの死後でいえば、およそ二か月)がありました。まだまだ時間があれば、ふたりの関係はまだべつのものになっていたかもしれません。それでも、アリョーシャはマリヤ・コンドラーチエヴナとは親しくなっていた、アリョーシャはスメルジャコフに近づこうとしていた、と読んでいいのじゃないでしょうか? 同時にそれがスメルジャコフ自身 ── 『カラマーゾフの兄弟』において、アリョーシャに内心を吐露することのない人物、頭からアリョーシャを拒否する人物としての ── をも示すことになるのじゃありませんか?

 その他に、グルーシェニカもカテリーナも、フョードル殺害事件以後、現にこの作品に描かれているような状態でいられたのは、アリョーシャの存在があればこそだと私は読んでいます。アリョーシャがいなければ、彼女らはもっと不安定な、疑心暗鬼にとらわれた日々を送ったはずだと思っているんです。アリョーシャが必ず彼女らの心の支えになっていただろうと思うんです。アリョーシャがいなければ、彼女らは互いにもっと憎み合っていて、それを当然だと思うことができたでしょう。つまり、アリョーシャは彼女らの「自尊心の病」の衝突の緩衝材の役は果たしていただろう、というんです。それは非常に重要な役ではないでしょうか? それらの詳細はこの後の長い文章に譲りますが、ざっとそんなふうに私は考えているんです。

 アリョーシャがこの「第一の小説」において、どれほど活躍していたのかを読み取るためには、この作品の全体が自己に淫したひとびとで埋め尽くされていること、そうして、彼が自己に淫したそれらの人物たちにどのように接していたかを読むしかありません。これができないで『カラマーゾフの兄弟』を読んだことにはなりません。彼が作中でただ一度自ら自己に淫してしまう場面の前と後とでは活躍の強度に差がありますが、それでも、彼は自己に淫していない自己に淫すまいとする人間として、全編において、自己に淫している人物たちそれぞれに適切なふるまいをしています。読者がそのことを読み取るためには、まず、アリョーシャの前で自己に淫している人物たちのその淫しかたがどのようなものかを読み取ることにかかっています。もし、自己に淫している人物たちのその淫しかたが読み取れなければ、あなたにアリョーシャは見えません。というのも、あなたは、アリョーシャとともに、目の前で自己に淫している人物たちのその淫しかたを見なければならないからです。ところが、自己に淫している読者には、それがまったく見えません。彼らはただひたすら、自己に淫している自分自身の尺度によってしか見ることができないからです。そこで、彼らの目にはアリョーシャのふるまいがちっぽけで頼りないものにしか映りません。

 たとえば、こんなふうに。

 アリョーシャはしばしば、人の質問に対してオウム返しで答える。その問いとおなじ言葉で機械的に返事をするが、これを、憑依の力ないし、シンクロする一つの資質と見るべきなのか、あるいは逆に、他者にたいする決定的な想像力の欠落と見るべきなのか、判断にとまどうところである。
 たとえば、第1章第3編のフョードルとアリョーシャの会話に、次のようなやりとりがある。父親が「おれがただの道化じゃないってことを信じてくれるか?」と聞くと、アリョーシャは「ただの道化じゃないって、信じてます」と答える。
 そのあとにも、父の「アリョーシャ、神はいるか」という問いに対して、「神さまはいます」と答える。さらに「神も不死もか?」「神さまも不死もです」など、アリョーシャのオウム返しぶりは、それこそ物語のいたるところに示されるのだ(じっさい、ラキーチンに「オウム返しじゃないか」と言われている。第1部215ページ)。
 日本語では訳し分けてあるが、原文で用いられている単語は同じで、そこに、アリョーシャ自身の心理的なニュアンスを伝える言葉は挟みこまれていない。確信している以上はあたりまえという考え方も成りたつが、やはり原文から受ける印象には、彼が抱いている宗教的信念とはまた別の不気味さがある。
 ここで少し立ち止まって考えていただきたいのは、この「オウム返し」の資質が、小説全体を、ドミートリーの有罪という取り返しのつかない悲劇に駆り立てる、歯車の役割を果たしていないか、という問題である。
 たとえば主人公アリョーシャは、一種のメッセンジャーの役割でさまざまな場所に出没し(その意味でラキーチンと好一対をなしている)、いろいろな人々と出会い、多種多様の情報を手に入れることができる立場にある。言ってみれば、あらゆるところで情報をにぎり、加工し、操作できる位置にあるはずだが、彼はけっしてそれをせず、つねにオウム返しに第三者に伝えてしまう(逆にラキーチンは情報を操作するのに長けている)。相手の気持ちをおもんぱかり、情報を取捨選択し、たとえばこれこれの話は伝えない、といった内面での作業をほぼ怠っている。ゾシマ長老ならずとも、はたして最終的にこういう人間にどこまで他人を救えるのか、という根本的な疑いが出されても不思議はないだろう。
 第1部第3編、カテリーナ宅での女性のすさまじい「醜態」の内容を、アリョーシャが修道院への帰り道、ミーチャにこまかく伝える場面があるが、そこでのアリョーシャには、もはやミーチャに対し、傷心のカテリーナの人格を守るという気遣いすら感じられない。
 鏡のように、オウム返しに受けた言葉をそのまま反射させる ── 。それこそが、ドストエフスキーが考えるアリョーシャの聖性のあかしなのか、それとも作家は、俗世に出て穢れを知れと命じたゾシマ長老にならい、アリョーシャの危険な資質をそこに見てとったのか。
 この、アリョーシャの欠陥めいた部分は、彼が聖なる存在として認められるうえで欠かせない資格と思えるくらい、決定的に彼の性質に属し、同時に危うさを示している。ドストエフスキーのアリョーシャに対するまなざしには、プロットを追うだけでは、あるいは丁寧に均(なら)された翻訳では、ほとんど読みとることのできない微妙な部分が隠されていることをつねに念頭に置いていただければ、と思う。

亀山郁夫「解題」)


 最先端=亀山郁夫のあまりなとんちんかんぶりにはもう驚きませんが ── いや、やっぱり驚きますね ── 、それにしてもひどい。何が「オウム返し」ですか? それで、アリョーシャには「もはやミーチャに対し、傷心のカテリーナの人格を守るという気遣いすら感じられない」んだそうですよ。そうして、「ドストエフスキーのアリョーシャに対するまなざしには、プロットを追うだけでは、あるいは丁寧に均された翻訳では、ほとんど読みとることのできない微妙な部分が隠されている」んだそうです。「丁寧に均された翻訳」なんかとは程遠く、杜撰のでたらめだらけの最先端=亀山郁夫訳ならば、読み取れるんですかね?

 それはともかく、フョードルやミーチャやカテリーナがどんなふうに自己に淫していて、まさにその淫していることによって苦しんでいることを、読者はアリョーシャとともに見なければなりません。彼らに対するアリョーシャのふるまいはすべて適切です。アリョーシャは自己に淫していない淫すまいとする人間として適切にふるまったんです。何度でもいいますよ。アリョーシャは、自己に淫した彼らから、自己に淫していない彼らを救い出して・引き出してやろうとするんです。「自尊心の病」の奥にいる本当の彼ら自身を救い出して・引き出してやるんです。アリョーシャはけして、自己に淫した彼らの、自己に淫した主張の土俵に立ちません。そうして、アリョーシャのふるまいが適切であることがわかるためには、アリョーシャの前にいる、自己に淫した人物たちのその淫しかたがわからなければなりません。さらに、アリョーシャが自己に淫していない淫すまいとする人物であることも理解できなくてはなりません。

 もうひとついっておきます。『カラマーゾフの兄弟』を読む自己に淫した読者は、もしかしたら、この作品が問題にしているのが、神はあるのかないのか、不死はあるのかないのか、「神の創った世界」を人間が認めるか認めないか、だと思っているのかもしれません。ところが、この作品が問題にしているのは、そんなことではありません。神はあるし、不死はあるし、人間に「神の創った世界」を認める認めないなんてことを考える資格はありません。『カラマーゾフの兄弟』が問題にしているのは、神があるのかないのか、不死があるのかないのか、「神の創った世界」を人間が認めるか認めないか、などということを考えてしまう人間のありかたです。つまり、人間の自己への淫しかたが問題にされているんです。そこで、『カラマーゾフの兄弟』には、自己に淫していない淫すまいとする人物 ── しかも、健康な若者 、しかも、きわめて論理的で知的な若者 ── が主人公に設定されるんです。この主人公を、基本的には、彼が他の自己に淫した登場人物たちにどのように接するかだけを描くことによって、ドストエフスキーは主人公たらしめようとしているんです。これがどれほど困難なことであるか、ドストエフスキー自身にも最初からわかっていました。

 だが、もし、読み終ってもわかってもらえず、わがアレクセイ・フョードロウィチのすぐれた点に同意してもらえないとしたら? わたしがこんなことを言うのも、悲しいことに、それが予想できるからだ。わたしにとって彼はすぐれた人物であるが、はたして読者にうまくそれを証明できるかどうか、まったく自信がない。要するに、彼はおそらく活動家ではあっても、いっこうにはっきりせぬ、つかみどころのない活動家である、という点が問題なのだ。


 同じ箇所が、萩原俊治氏の試訳では、こうなっています。

 ふむ、しかし、読んで頂いても分かってもらえなかったら、わがアレクセイ・フョードロヴィッチが注目に値する人物であるということに賛成して頂けなかったら・・・こんな弱音を吐くのは、悲しいかな、あらかじめそうと予測がつくからだ。私にとって彼が注目に値する人物であることに間違いはない。しかし、諸君に納得してもらえるかどうかということになると、まったく自信がない。というのも、彼は社会活動家なのだが、これがまた、何ともはや、これと明確に説明できないような漠とした社会活動家であるからだ。

(萩原俊治「奇人変人は害になる?」 ── 「こころなきみにも」)


 萩原氏は右の「社会活動家」という訳語について、

「実践家」という言葉はあるのだろうか。むろん、「理論家」という言葉はある。しかし、「理論」の反対語である「実践」から派生した「実践家」という言葉を、私はこれまで聞いたことがない。聞いたことのない言葉を使うわけにはゆかない。従って、アレクセイについては「社会活動家」という訳を当てたい。これは私が『カラマーゾフの兄弟』全体を読んだ上での判断だ。

(同)


 ── と書いています。私は「社会活動家」 ── 「これは私が『カラマーゾフの兄弟』全体を読んだ上での判断だ」に共感します。

 さて、自己に淫した読者の読みかたは、まさにドストエフスキーが危惧したとおりの読みかたということになります。しかし、それはドストエフスキーの失敗ではなく、自己に淫した読者の責任です。というのも、自分の「自尊心の病」に気づいている読者ならば、まさにドストエフスキーの描いたとおりに読むことができるからです。

 これで私は、八面六臂の活躍しているにもかかわらず、アリョーシャがなぜ「他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられる」のか、というその理由をしゃべったつもりです。また、アリョーシャが見えない読者、「自尊心の病に憑かれた」読者にはなぜアリョーシャが見えないのか、というその理由を。しかも、その理由こそが『カラマーゾフの兄弟』という作品の核心でもあることを。

 そういうわけで、ゾシマ長老がアリョーシャに修道院から出て俗世間で生きるようにいうのは、自己に淫した最先端=亀山郁夫のいうような「危険な資質」だの「欠陥」のゆえではなく、まして「修道院にとどまれば、並みの修道僧に堕するしかないという真剣な危惧」なんていう馬鹿馬鹿しい理由でもなければ、「俗世に出て穢れを知れ」なんて消極的なものでもなく、まったく正反対の積極的な理由からです。アリョーシャは、修道院に置いておくのはもったいないほどの立派な資質 ── 自己に淫しているひとたちの、自己に淫しているがゆえの苦しみを解いてやり、そういうひとびとを結び合わせる ── を備えており、俗世間において「実行的な愛」を行なうのにこそふさわしいとゾシマ長老は考えたんです。

(つづく)