「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 高村 七月にお目にかかったときに、何に驚いたかといって、ドストエフスキーはもともと悪文で、どのようにも翻訳できるのだ、とお聞きしたことです。
 亀山 ものすごく気分屋なんですね。癲癇症状の末期と分かるような文体が時々現れる。一文の中で同じ副詞を何度も用いる。全然筆が走っていないのがわかるんです。これはこれで一つの現実だと諦めをつけ、確信犯的に悪文を書き連ねているところがあるように思います。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』がそうですが、しかし書き終えた後で手直しというものをまったくしようとしていない。
 ですから、米川正夫さんは見事な日本語にしたと思うし、原卓也先生は、逆にギスギスしたところを正直に訳している。私は、一応日本語として読みやすいスタイルをめざしました。理由はあります。私が中学二年のときに読んだ『罪と罰』で残ったものは何かといえば、文体ではなく経験そのものだったんですね。ですから、とにもかくにも読者にドストエフスキーを経験させよう、と考えました。難しい文体だろうが、いわゆる翻訳調だろうが、意識的につくられた文体だろうが、滑らかな文体だろうが、どうでもいい。見えてくるものは見えてくるだろうと思ったのです。
 しかし、他方、僕自身、フォルマリズムの理論をずっと研究してきましたから、読みやすいスタイルの翻訳というのには少なからず抵抗があった。芸術の受容においては、そのプロセスが長引けば、長引くほど、困難であればあるほど、経験の密度が高まる、というのがフォルマリズムの理論です。詩的言語と呼ばれるものがその代表ですが、要するにツルツル読めてしまうようなものはダメだと言っているわけです。それをまさに裏切るような形で『カラマーゾフの兄弟』を訳したことで少し罪の意識はあるんです。自分のこれまでの研究に対する裏切りだという意識ですね(笑)。
 高村 でも、読者が自由にドストエフスキーの訳を選べる日本は、贅沢ですよ。私が十代のころには米川さんの訳しかなかったので、私のドストエフスキーは米川さんのドストエフスキーということになりますけれども、今年初めて亀山先生のドストエフスキーを読ませていただいて、あらためて文体が小説体験そのものだということを痛感しました。私は昔から、文体こそが世界という読者だったようです。

(「文学界」二〇〇九年二月号)


 さて、

 高村 七月にお目にかかったときに、何に驚いたかといって、ドストエフスキーはもともと悪文で、どのようにも翻訳できるのだ、とお聞きしたことです。

(同)


 まず、やれやれと思うのは、最先端=亀山郁夫がまたしても「ドストエフスキーはもともと悪文で、どのようにも翻訳できるのだ」なんてことをしゃべっていたということについてです。また、高村薫高村薫で、そんなことをまともに聞いていたのか? と呆れます。そんなことがありうるなんて聞かされて、小説家 ── 当然小説を実際に書いているひとですよね ── としておかしいと思わなかったんですか? まあ、だから「驚いた」ということなんでしょうが。それにしても無邪気すぎる。

 で、おそらく最先端=亀山郁夫はあわてて過去の自分の発言を取り繕うわけです。

 亀山 ものすごく気分屋なんですね。癲癇症状の末期と分かるような文体が時々現れる。一文の中で同じ副詞を何度も用いる。全然筆が走っていないのがわかるんです。これはこれで一つの現実だと諦めをつけ、確信犯的に悪文を書き連ねているところがあるように思います。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』がそうですが、しかし書き終えた後で手直しというものをまったくしようとしていない。

(同)


 これは本当ですか? 本当なら、最先端=亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』のどの箇所とどの箇所とどの箇所と……がそうなのか、挙げてみるがいい。しかも、いちいちについてどうして「癲癇症状の末期と分かる」・「全然筆が走っていないのがわかる」のかも述べるがいい。高村薫も「ほう、それはたとえばどこですか?」と訊いてみればよかったのに。
 ところで、奇妙なことに、最先端=亀山郁夫は、ドストエフスキーが「一文の中で同じ副詞を何度も用いる」ことについて「解題」ではこう書いていました。

 物語の進行とともに、イワンの「そそのかし」に秘められるなぞめいた欲望が徐々に姿を現していく。ここで一つ、印象的な場面を紹介しておこう。二日目の夜、料理屋「都」でアリョーシャに「大審問官」の物語詩をきかせたあと、イワンは家の表でスメルジャコフに出会い、「明日の朝の出発」を告げた。家の広間で、迎えに出た父親をふりきるようにして二階の自室にこもった彼は、真夜中に階下の父親の様子を盗み聞きする。そこに、次のような説明が記される。「この『行為』を、彼はその後一生をとおして『けがらわしい』行為とよび、生涯をとおして一人ひそかに、心の奥で、自分の全人生でもっとも卑劣な行為とみなしつづけた」
 同義的な副詞句が繰り返される同義反復的(トートロジカル)な文章だが、勢いはすばらしい。

(「解題」)


 まさか最先端=亀山郁夫は、自ら「勢いはすばらしい」と評しているこの文章が「癲癇症状の末期と分かる」・「全然筆が走っていないのがわかる」文章だっていうんじゃないですよね。

 それに、

 ですから、米川正夫さんは見事な日本語にしたと思うし、原卓也先生は、逆にギスギスしたところを正直に訳している。

(「文学界」二〇〇九年二月号)


 これも私にはわかりません。米川正夫訳を私は読んでいませんが、原卓也の訳文についていえば、それのどこが「ギスギス」しているのか、さっぱりわかりません。最先端=亀山郁夫原卓也の訳文のどこか「ギスギス」しているのか、挙げてみるがいい。私には最先端=亀山郁夫が自分の新訳を正当化するために過去の訳者たちの仕事を慇懃無礼に貶めているとしか思えません。

 私は、一応日本語として読みやすいスタイルをめざしました。理由はあります。私が中学二年のときに読んだ『罪と罰』で残ったものは何かといえば、文体ではなく経験そのものだったんですね。ですから、とにもかくにも読者にドストエフスキーを経験させよう、と考えました。難しい文体だろうが、いわゆる翻訳調だろうが、意識的につくられた文体だろうが、滑らかな文体だろうが、どうでもいい。見えてくるものは見えてくるだろうと思ったのです。

(同)


 最先端=亀山郁夫の手にかかっては、読者には何も ── 他の翻訳者たちの仕事からは見えてくるものが見えてくるかもしれませんけれども ── 見えませんて。「私が中学二年のときに読んだ『罪と罰』で残ったものは何かといえば、文体ではなく経験そのものだったんですね。ですから……」って、もう最悪ですね。いいですか、もうここまで私は口が酸っぱくなるくらい繰り返しているんですけれど、作品というものは「文体」がすべてですよ。つまり、読者にとっては、そこに「何が描かれているか」よりも「どう描かれているか」がすべて ── 「どう描かれているか」によって「何が描かれているか」が生きてくる ── なのだし、作者にとっては「何を描くか」よりも「どう描くか」がすべてなんですよ。それが「文体」です。「文体」とは「語り口調」 ── それは「文体」によって生じる表面的な結果にすぎません ── なんかじゃないんです。このことを理解できないひとに文学のわかるはずがない。だから、このことをわかっているはずの高村薫のこの発言を私はいったいどう理解したらいいんですかね?

 今年初めて亀山先生のドストエフスキーを読ませていただいて、あらためて文体が小説体験そのものだということを痛感しました。私は昔から、文体こそが世界という読者だったようです。

(同)


 ── 最低ですね。もっとも、彼女が「昔から、文体こそが世界という読者だったようです」ということで、最先端=亀山郁夫の文体をひどいものだと認識したことを皮肉まじりにいったのなら、それは正しいんですけれど。しかし、そうじゃないんでしょう。高村薫、ひどいものだなあ。彼女の実作はともあれ、読書は最低ですね。いや、こんな読書のひとにどれだけの実作ができるんでしょうかねえ? 高村薫さん、反論があるなら、受けますよ。あなたがいまの発言を皮肉まじりにしたというのなら、全面的に謝りもしますよ。

 亀山 それは根本的には、詩的言語を目指すか、日常言語を目指すか、という作者の選択なんですね。小説であっても詩的言語を志向するということは大いにあり得ます。高村さんの小説を読むと、本来ならば日常言語をめざすべきところが、それとは裏腹に、どこか詩的言語を志向しているところが見受けられるようです。
 高村 そんなふうに指摘していただいたのは初めてです。でも、そうなのかもしれません。極端なことを言えば、私にとって小説はストーリーではない。文体でつくられる空間の手触りで、人間や社会や時代を表現できると考えている部分があるような気がします。なぜそうなのかは自分でも分からないのですが。でも、最初にすべての人の道が、散文か、詩的な言語かの二つに分かれてゆくんでしょうか。何が読者を分けるのでしょう。
 亀山 自分が理想とするもののつくり方の問題なのでしょうね。『カラマーゾフの兄弟』の訳文のモデルに『照柿』のスタイルを採用できないかな、と考えたこともありますが、この濃密さでは、読者はついてこられないと感じました。
 高村 ふつうの人は自分の理想を考えて小説を読むわけではないですけど。それでも小説に接する最初の一ページのところで、言語野が強く反応するか、聴覚野が強く反応するか、といった違いが出てくるのかもしれません。
 亀山 あとは読み手の読解力という問題もあるでしょうね。つまり、総じて日本人の読解力は、崖から転げ落ちるように落ちていますよね。詩的言語を受け入れるには、それこそ強い精神的エネルギーが必要ですが、日本人はそのエネルギーが著しく退化していますからね。私は、根本的なところで、教養教育の一環として詩の教育を積極的に行わなくてはダメだと思っています。異質なもの同士がぶつかって火花を散らす想像力の世界に遊ぶ喜びを教えていかないと。
 高村 やはりそこが問題ですね。

(同)


 もう、やれやれ、なんですが、「『カラマーゾフの兄弟』の訳文のモデルに『照柿』のスタイルを採用できないかな、と考えたこともありますが、この濃密さでは、読者はついてこられないと感じました」などと話す最先端=亀山郁夫は、訳文の「スタイル」=「文体」が翻訳者である自分の自由がきくものだ、何とでも変えられる、と思っていたんですね。私はいいますが、まず最先端=亀山郁夫ほどにも文章力のないひとにそんな「自由」はありません。そんなことより、翻訳者は原作に奉仕しなければならないひとなんですよ。真摯な翻訳者であるなら、原作が要請する「文体」でしか訳しようのあるはずがない。それを勝手にいじることができると考えた時点で、最先端=亀山郁夫の最先端ぶりが見事に発揮されたわけです。最悪です。こんな最先端に翻訳なんかさせちゃ駄目なんだよ、と私は思います。


 さて、右のつづきはこうでした。

 亀山 でも、もう、とても大事なことを忘れてしまう人がどんどん増えて、圧倒的な数になりつつあるんですよ。古い世代が若い世代の人たちに不満をこぼすことはできないはずです。だって、インターネットを作りあげたのは、私たちの世代ですから。映像に一方的に負けていてはいけない。活字を通してのみ経験できる、果てしなく素晴らしい想像力の世界があることを教えなくてはならない。そう、子どもたちに童話を聞かせなくてはならない、と思うんです。活字文化の将来を思うと、すごく暗澹とした気持ちにはなります。でも、そこで諦めちゃいけないですね。

(同)


 あのさあ ── もう私は我慢の限界です ──、 亀山郁夫さんよ、誰も、お前みたいな最先端=馬鹿=低能にそんなことをいわれたくないんだよ! お前こそ、「活字文化の将来」をめちゃくちゃにしている張本人じゃないか! 偉そうなことをいうんじゃないよ!「活字を通してのみ経験できる、果てしなく素晴らしい想像力の世界があること」を誰よりもわかっていないのはお前だろうが!「活字文化の将来を思うと、すごく暗澹とした気持ち」になるって? いい加減にしろ! お前は笑っているだけだろうが! そうして、「そこで諦めちゃいけない」のは、この俺だよ! 何でこの俺がこんなことに巻き込まれなきゃならないんだよ! お前のせいじゃないか! 好きでやってるとでも思うのか! 冗談じゃない!