「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 ── ごくごく控えめに、私の怒りのほんのわずか一部だけを ── 敢えて乱暴ないいかたをしてみるなら ── 破裂させてみましたが、それはさておき、もう一度高村薫です。

 極端なことを言えば、私にとって小説はストーリーではない。文体でつくられる空間の手触りで、人間や社会や時代を表現できると考えている部分があるような気がします。なぜそうなのかは自分でも分からないのですが。

(文学界」二〇〇九年二月号)


 右の発言は正しく、高村薫が実作者としてちゃんとした姿勢でいることがわかります。なのに、なぜ彼女は同じ口でこんなことがいえたのでしょうか?

 今年初めて亀山先生のドストエフスキーを読ませていただいて、あらためて文体が小説体験そのものだということを痛感しました。私は昔から、文体こそが世界という読者だったようです。

(同)


 繰り返しますが、最悪です。繰り返しますが、彼女が最先端=亀山郁夫に対する皮肉をいっているのなら、いいんですよ。でも、そうではない。「文体こそが世界という読者」が最先端=亀山郁夫のでたらめをなぜ見抜くことがきないのか? 私には、それがまったくわからないんです。

 もう少し、つづけましょう。これもまた再引用ですが、

 七月にお目にかかったときに、何に驚いたかといって、ドストエフスキーはもともと悪文で、どのようにも翻訳できるのだ、とお聞きしたことです。

(同)


 なぜ高村薫は「驚いた」ままにしておいたんでしょうか? なぜ「どのようにも翻訳できる」「悪文」によって書かれた小説などがありうると思ったんでしょうか? なぜ「文体」について意識的な実作者が、そんなことはありえない、と思わなかったんでしょう?
 また、最先端=亀山郁夫

 私は、一応日本語として読みやすいスタイルをめざしました。理由はあります。私が中学二年のときに読んだ『罪と罰』で残ったものは何かといえば、文体ではなく経験そのものだったんですね。ですから、とにもかくにも読者にドストエフスキーを経験させよう、と考えました。難しい文体だろうが、いわゆる翻訳調だろうが、意識的につくられた文体だろうが、滑らかな文体だろうが、どうでもいい。見えてくるものは見えてくるだろうと思ったのです。
 しかし、他方、僕自身、フォルマリズムの理論をずっと研究してきましたから、読みやすいスタイルの翻訳というのには少なからず抵抗があった。芸術の受容においては、そのプロセスが長引けば、長引くほど、困難であればあるほど、経験の密度が高まる、というのがフォルマリズムの理論です。詩的言語と呼ばれるものがその代表ですが、要するにツルツル読めてしまうようなものはダメだと言っているわけです。それをまさに裏切るような形で『カラマーゾフの兄弟』を訳したことで少し罪の意識はあるんです。自分のこれまでの研究に対する裏切りだという意識ですね(笑)。

(同)


 だの、

カラマーゾフの兄弟』の訳文のモデルに『照柿』のスタイルを採用できないかな、と考えたこともありますが、この濃密さでは、読者はついてこられないと感じました。

(同)


 ── を聞いて、おかしいとか「なぜだ」とか思わなかったんでしょうか?
 なぜ、高村薫は最先端=亀山郁夫に対して、「あなたのおっしゃる「文体」は、私の考えている「文体」とは全然違うんですけれど、いったい、あなたには文学作品における「文体」というものがわかっているんですか?」といわなかったんでしょうか? 相手が「ドストエフスキー研究の権威」、「いまや押しも押されもせぬ亀山郁夫大先生だから」ですか?

 ここで、べつの本から引用してみましょう。

藤原 生き延びるための情報収集をきちんとするために、これとこれとこれは絶対にしてください、ということは。
高村 まず、人の話をうのみにしない。人の話というのは、政治家、企業、メディアなどですが、うのみにしない。
 それから、日々生きているなかで、直感的になんか変だと思うこと、違和感を覚えることについて、「なぜだ」と自問すること。どんなことでもいいんです。「なぜだ」も、いろんな「なぜだ」があって、人によって違うはずですが、違っていい。ともかく毎日のなかで、自分自身の体感や実感を信じて、「なぜだ」と問う。

高村薫・藤原健『作家と新聞記者の対話 2006 ― 2009』 毎日新聞社


 また、

高村 ネットの時代には情報発信者はますます匿名化します。それだけに、どういう記事か、だけではなく、誰の記事か、誰が書いたのか、という情報は重要です。私たちは、あふれる情報の中からどれが信頼できるのかを判断しなければならない。その時の手掛かりの一つは主語、つまり「誰が」発信している情報なのかという点にあります。あの記者が書いた記事なら、あの論説委員が書いた社説なら信頼できるな、と。顔の見えない意見、情報は信頼されません。

(同)


 さらにまた、

高村 自分の言葉、他人の言葉、世界の言葉を聞き、自分なりの世界像の中で自分を位置づける、という志を持ってほしい。言葉の体系から世界をとらえるということを拒否していたら、人類は滅んでしまう。それくらいの危機感が私にはあります。

(同)


 そして、そして、

高村 先ほど生存戦略といいましたが、それは「だまされない」という意味も含みます。為政者にだまされない。詐欺師にだまされない。怪しいと見抜くには、相手の言っていることを自分の世界像の中に置いてみることです。その時に「おかしい」と思えばだまされない。人間、生きていくには「見抜く」ということが大事。

(同)


 そうして、もう一度、これ。

 でも、読者が自由にドストエフスキーの訳を選べる日本は、贅沢ですよ。私が十代のころには米川さんの訳しかなかったので、私のドストエフスキーは米川さんのドストエフスキーということになりますけれども、今年初めて亀山先生のドストエフスキーを読ませていただいて、あらためて文体が小説体験そのものだということを痛感しました。私は昔から、文体こそが世界という読者だったようです。

(「文学界」二〇〇九年二月号)


 何ですか、これは?

 高村薫さん、よく検討してみてください。そうして、あなたのすべきことは、まず毎日新聞紙上で最先端=亀山郁夫批判をすることです。毎日新聞でそれをすることには非常に大きな意味があります。そうしてまた、「文学界」(文藝春秋)でも同じことをすべきです。そうすれば、同誌に連載されている佐藤優のこれ以上のでたらめを阻止することもできるでしょう。それができるほど、あなたは信頼されている小説家ではないでしょうか?