「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 高村薫が感染し、村上春樹も、柴田元幸も、ロシア文学の学者たちも、さらには、出版社や新聞社やテレヴィ局などのマスメディアや、それからまた多くの読者や、もちろんこの私も感染している「ペスト」について ── 翻訳に不満がないわけではないですが ── 、再読するよい機会じゃないでしょうか?

「君は人間を銃殺するところを見たことはないだろうね? いや、ないにきまっている。こいつは一般に招待に基づいて行われるし、見物はあらかじめ選んであるのだ。その結果として、君たちの知識は版画や書物の域にとどまるということになる。目隠し、処刑柱、それから遠くに幾人かの兵隊……。ところが、どうして、そんなもんじゃない! 君は知ってるかい ── 銃殺班は、それどころか、処刑者から一メートル五〇のところに並ぶんだぜ。処刑者が二歩前に出たら、銃口が胸にぶつかってくるくらいなんだぜ。そんな近距離から、銃手たちは心臓部めがけて射撃を集中するので、それがみんないっしょになって、しかも大きな弾丸(たま)だし、それこそ握り拳がはいるぐらいの穴がそこにできるんだぜ。まったく、君はそんなことを知りゃしない。そういう細かい点は誰も話そうとしないことだからだ。人々の安眠というやつは、ペスト患者にとっての生命以上に神聖なものなのだ。善良な人々の眠りを妨げてはならない。そんなことはよっぽど悪趣味でなければならないし、趣味のよさというものは物事を強調しないことにある ── みんな誰でもそれを心得ているのだ。しかし僕は、そのとき以来、よく眠れたことがない。悪趣味だろうが、なんだろうが、いやな後味が口に残っていて、僕はいつまでも強調することをやめなかった。つまりそれを考えることをやめなかったのだ。
「そのとき僕は、その長い年月の間 ── しかも全精神をあげてまさにペストそのものと闘っていると信じていた間にも、少なくとも自分は、ついにペスト患者でなくなったことはなかったのだ、ということを悟った。僕は、自分が何千という人間の死に間接的に同意していたということ、不可避的にそういう死を引起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもしていたということを知った。
 ……(中略)……
「それ以来、僕の考えは変らなかった。それからずいぶん長い間、僕は恥ずかしく思っていたものだ。たといきわめて間接的であったにしろ、また善意の意図からにせよ、今度は自分が殺害者の側にまわっていたということが、死ぬほど恥ずかしかった。時がたつにつれて、僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、こんにちでは人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえないのだ。まったく、僕は恥ずかしく思いつづけていたし、僕ははっきりそれを知った ── われわれはみんなペストの中にいるのだ、と。
 ……(中略)……
「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、ひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの ── 健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果であり、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ。つまりそのためなんだ、誰も彼も疲れた様子をしているのは。なにしろ、こんにちでは誰も彼も多少ペスト患者になっているのだから。しかしまたそのために、ペスト患者でなくなろうと欲する若干の人々は、死以外にはもう何ものも解放してくれないような極度の疲労を味わうのだ」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫


 まったく、何という疲労でしょう。「りっぱな人間」なんかとんでもないというこの私は、いったいどうしたらいいんでしょう?