「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 雑誌「文学界」(文藝春秋)二月号での「新春特別対談」は、題して「カタストロフィ後の文学 ── 世界と対峙する長篇小説」。対談したのは高村薫と最先端=亀山郁夫。このふたりが対談したのは二度め(最初が毎日新聞社主催で二〇〇九年七月。この二度めが同年十一月)。

 私は高村薫の作品を ──『レディ・ジョーカー』の最初の数十ページを除いて ── ひとつも読んだことがありません。彼女の作家としての実質を私は知りません。しかし、一書店員として、彼女が世のなかの読者にとってどんな位置にいるか ── ある程度「硬派」の読者に受け入れられ、彼女の社会的発言も重んじられている・社会的信用を得ている ── ということは何となく知っているとも思います。そうして、私は、その位置にいる彼女が、でたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低の最先端=亀山郁夫などと対談 ── 二度までも! ── したことを嘆きます。これは高村薫の恥になるでしょう。
 反対に、得をしたのは最先端=亀山郁夫です。この対談の全体を読んで私の感じたのは、世のなかで信頼に足る作家として評価されている高村薫と、その高村薫の威を借りて、コバンザメのように彼女に貼りついて、自分のでたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低ぶりをごまかし、正当化しようとしている凡庸以下どころか最低の大学教授(!)との噛み合わないやりとり ── ですね。しかし、おそらくふつうの読者にはそれがわかりません。というわけで、まあ、高村薫を高く評価する読者、あるいは、彼女の世評の高さを知るひとの多くは最先端=亀山郁夫に好感を持ってしまったでしょう。繰り返しますが、この対談は高村薫の恥であり、罪でもあります。

 高村 もともと先生はなぜ、そのアヴァンギャルドに惹かれたんでしょうか?
 亀山 大学ではドストエフスキーを四年間読み、『悪霊』について拙い論文を書きました。しかし、いわゆる連合赤軍事件と比較される革命結社内部の内ゲバ抗争といったテーマにはまったく関心がわかず、ひたすらスタヴローギンに惹かれていました。人の死を冷然と認め、なおかつ、他者に対する死の願望を自分の手を下すことなく実現していく彼の奇怪さです。そのスタヴローギンが自分のどこかにもいる、という何かしら直観めいたものがあって、そのなかでドストエフスキーにおける「悪の系譜」といったタイトルの卒論を書いていたわけです。しかし結果的には、スタヴローギンと同期する経験だけが残って、経験そのものを客観的に意味づける批評的な文章は一行たりともかけませんでした。完全に劣等生でしたし、文学者として全然才能が欠けているのかもしれない、と思いつめ、しばらく劣等感に苦しみました。

(「文学界」二〇〇九年二月号)


 学生時代に「しばらく劣等感に苦し」んだ最先端=亀山郁夫は、「しばらく」だけじゃなくて、ずっとその「劣等感」を大事にしなくてはならなかったんですよ。そして、もちろん、このいまもそれに苦しんでいなくてはなりません。最先端=亀山郁夫はいまも「完全な劣等生」のままであり、「文学者として全然才能が欠けて」います。

 「いわゆる連合赤軍事件と比較される革命結社内部の内ゲバ抗争といったテーマ」などを通じて作品を読むことができなかったこと ── これは最先端=亀山郁夫が「批評的な文章」を書けなかったことと何の関係もありません。おそらく、当時の彼の周囲にそのテーマで論文を書いた優秀な(と最先端=亀山郁夫には思えた)学生がいて、担当教授がそちらを評価し、最先端=亀山郁夫を評価しなかったということなんでしょう。最先端=亀山郁夫はそういう観点で論文を書けなかった自分ということを口にしているわけです。しかし、最先端=亀山郁夫はもうそこで大きな勘違いをしています。彼が評価されなかったのは、彼の読解能力があまりにも低レヴェルだったことに尽きるはずだからです。それを棚に上げて、自分には「スタヴローギンと同期する経験だけが残って」なんて理屈でごまかし、自分を正視しようとしていないんですね。そうとしか思えません。

 また、スタヴローギンについて「人の死を冷然と認め、なおかつ、他者に対する死の願望を自分の手を下すことなく実現していく彼の奇怪さ」といいますが、スタヴローギンはそういう人物ですか? 私は違うと思いますよ。しかし、私がその理由を説明するのは、いずれべつの機会、べつの場所で、です。
 ともあれ、私がここで問題にするのは、最先端=亀山郁夫の読書の、ある傾向 ── つまり「亀山郁夫的読書」 ── についてです。「スタヴローギンと同期する経験だけが残って」── ここに問題があります。スタヴローギンがスタヴローギンたりうるのは、『悪霊』という作品の全体があってこそなんです。『悪霊』という作品があり、そこにステパン氏やシャートフやキリーロフやピョートルらがいる ── その全体が動的に表現されてこそ、スタヴローギンはスタヴローギンたりうるんです。作品全体を考えずにスタヴローギンだけを ── いわば「悪のヒーロー」として ── 採り上げる読書は小さい・せこい・貧しい・薄っぺらな読書ですよ。だいぶ前にもいいましたが、亀山郁夫の読書はドストエフスキーが非常に動的に描いた作品を、そのまま動的にとらえることができていないんです。なんだか平べったい止まったものとしてしか読めていないんです。それは真のスタヴローギンを損なう読書だ、と私はいいます。「人の死を冷然と認め、なおかつ、他者に対する死の願望を自分の手を下すことなく実現していく彼の奇怪さ」ですって? 最先端=亀山郁夫にはスタヴローギンの苦悩がまったくわかっていません。
 右の発言と重なることを、最先端=亀山郁夫はべつの場所で次のように語っています。

 私は大学の卒業論文で『悪霊』を取り上げましたが、そこでは「使嗾(そそのかすこと)」というテーマを追究しました。大学時代の私は本当に世間知らずで、世の中の仕組みやお金のことなど何もわからない、子どものようなものでした。本を読み、ただただ主人公に同化することだけが、自分にとっての文学だった。文学とは、テクストを読むことだけでなく、それをしっかりと受け止め、言語化する営みであることを知らなかったのです。
 自分にとって大学四年間のドストエフスキー体験は、作品全体を経験し、同化することでした。しかし、三島由紀夫の『仮面の告白』やいろいろな研究論文を読み、「自ら書くことのだいじさ」を《発見》したのは、ようやく大学四年生になってからです。文学においては、読むことによる経験はどうでもよくて、まず言語化することが肝要である、うまく言語化できる人が優れた文学者、とされると、そのときは考えたわけです。
 経験の深さこそ文学であると思っていた私にとっては、その発見は大きなショックでした。自分には書くべき批評的なタームも、道具もない。私はけっきょく、原始人のようにドストエフスキーの洞穴の中に身を潜めているに過ぎないと思ったのです。
 しかし、振り子はまた元に振れることになります。幸いなことに、一九八四年のあの体験によって、文学はやはり「頭ではなく、ハートなんだ」という発見に、もういちど連れ戻された。身を焼き尽さんばかりの恐怖感、自分で自分を疑いだすという崩壊感覚……、そこからが、私の第二の文学人生の始まりでした。
 今では、自信をもって、こう言うことができます。恐らくどんな作家も芸術家も、経験することの深みを持っていなければ、絶対に伸びることはない。どれほど優れたレトリックがあっても、読者はすぐに底の浅さをかぎつけてしまう。経験の重さ、深さに見合う言葉の力を持つことができた瞬間に、はじめて作家になるのだ、と。当時はそれが漠然としたかたちでわかったのです。そして「わかった」ことの自分なりの最初の試みが、先ほど申し上げた『ドストエフスキー 父殺しの文学』になります。

亀山郁夫ドストエフスキー罪と罰』の謎」
 『カフェ古典新訳文庫Vol.1』所収 光文社古典新訳文庫


 で、その最先端=亀山郁夫はその後、『カラマーゾフの兄弟』を翻訳したわけですが、そこに至っても、アリョーシャの「あなたじゃない」が「イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます」だの、ペレズヴォンはジューチカとはべつの犬だだの、「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」がフェラポント神父の傲慢さへの非難だのとしか読めていないんですよ。何が「今では、自信をもって、こう言うことができます」ですか。

 右の最先端=亀山郁夫の発言の何が誤りであるか、先と重なりますが、いっておきます。
 まず、「本を読み、ただただ主人公に同化することだけが、自分にとっての文学」というのがそもそもの誤り。私はもう何度もいっていますが、読者は「作品に自分を合わせる」ことが大事です。「作品に」ですよ。「主人公に」じゃありません。最先端=亀山郁夫流の「主人公に同化すること」は、実は「作品を自分に合わせる」ことに結びます。彼がスタヴローギンに惹かれたのなら、「どのように」スタヴローギンが描かれているからなのか、をじっくりと考えなければならなかったんです。また、おそらく最先端=亀山郁夫の「主人公に同化する」というのは、たとえばスタヴローギンの誤った読み取りを根拠として、自分の誤った行為 ── 何か卑劣な行為 ── を正当化するということでもあるのじゃないですか? それは、スタヴローギンの誤用・濫用・悪用・乱用であるはずです。

 次に、「文学とは、テクストを読むことだけでなく、それをしっかりと受け止め、言語化する営みである」ですが、それはすぐ後でこういい換えられていますね。「文学においては、読むことによる経験はどうでもよくて、まず言語化することが肝要である、うまく言語化できる人が優れた文学者、とされる」。このいい換えられた方が本音でしょう。ひどいものです。「読むことによる経験」が「どうでもいい」わけはないんです。「読むことによる経験」はとても大事です。「読むことによる経験」が「どうでもいい」ということになるのは、その読書が「亀山郁夫的読書」である場合だけです。このことを、いまだに最先端=亀山郁夫は理解していません。彼の「ただただ主人公に同化することだけが、自分にとっての文学だった」という、その「同化」ですが、一般的な読書でいえば、それは間違いではないでしょう。そういう読書を私は認めます。しかし、その「同化」がどういう「同化」であるかが問題なんです。つまり、そのときでも、読者のその「同化」は彼が作品に奉仕する作品に自分を合わせる形での「同化」でなければなりません。絶対に作品を自分に合わせるような読書であってはならないんです。だから、私は最先端=亀山郁夫の「同化」だけが間違った「同化」なのだといいましょう。最先端=亀山郁夫的「同化」は誤りです。つまり、それが「最先端=亀山郁夫的読書」であるわけです。

 また、「まず言語化することが肝要である、うまく言語化できる人が優れた文学者、とされる」の「とされる」がいかにも最先端らしい表現です。結局、学生時代からいまに至るまで、最先端=亀山郁夫は他人からの評価 にしか頭が働かないんですね。彼は長年、どうしたら他人から高く評価されるか ── どうしたら褒められ、テレヴィなどに出演でき、尊敬され、金儲けができるか ── ということしか考えてこなかったんでしょう。だから、現在も高村薫などにコバンザメ的に擦り寄ることが大事なんです。そのとき、ドストエフスキーなんかただの商売道具です。

 ここで、またべつの作家のことばを引用しておきます。

 今日は芥川賞直木賞発表の日だ。新聞・テレビは芥川賞直木賞しか文学賞がないかのような騒ぎ方をするが、それはいいとしよう。芥川賞直木賞すら騒がれなくなってしまったら文学業界はいよいよ苦しい。それに芥川賞直木賞はたぶん(現存する)一番古い文学賞だから、それなりの敬意は払われてもいい。私だって高校生ぐらいのときは芥川賞直木賞しか知らなかった。そして、「小説家になって芥川賞とる」なんて、単純なことを考えたものだ。
 文学に関係のない人間がそう考えるのは問題ない、というか仕方ない。しかし文学の周辺で仕事をしている人たちが、「新人作家は芥川賞を目指して書く」というような言い方をするのはやめてほしい。私も新人の頃はインタビューのときに、「保坂さんも芥川賞を目指して書いていらっしゃるんですか?」と訊かれたり、受賞したらしたで、「芥川賞をとったら、もう目標がなくなってしまったんじゃないですか?」と訊かれたりしたものだ。質問者があまりに罪のない表情をしているから、いちいち「そうじゃない」とは言わなかったが、本当はそうじゃない。「××××を目指す」「目標は△△△△」という発想は、大学受験や高校受験の発想なのだ。
 受験はそれをクリアすることが目標となり、しかも高校も大学もよっぽど怠けなければ卒業までスルスルいく。だから高校も大学も入学試験を突破することが最大の関門となるのだが、小説は全然そういう風ではない。芥川賞直木賞は賞の性格か違うから話を前者に絞るが、芥川賞をとっても、次の小説がダメならそっぽを向かれる。賞の効用が少しはあるから、二、三作は辛抱してもらえるとしても、それ以上はつづかない。 ── というこの説明はわかりやすいが、肝心なのはそういうことではない。この説明で、評価が外からなされていることに気づいただろうか。
 小説を書くことにおいて何より大事なのは、自分がどこまで納得できるか? 自分のイメージをどこまで達成できたか? なのだ。新人が最初からそんな確固たるイメージなり基準なりを持つことは難しいと思うだろうが、キャリアとともにイメージや基準が変わるとしても、こういうものがない人に小説は書けない。小説家は七〇歳になっても書きつづけなければならない。三〇歳でデビューしたら四〇年以上、四〇歳でデビューしたって三〇年以上ある。外からの評価でふらふらしていたら、そんな長い年月書きつづけられない。

保坂和志 日本経済新聞夕刊「プロムナード」 二〇一〇年一月十四日)


 これが「作品に奉仕する」小説家のことばです。最先端=亀山郁夫保坂和志の爪の垢を煎じて飲んだらいいと思います。

 亀山 ですから、高村さんの『晴子情歌』にかなり敏感に反応できたのもわけがあるんです。春子と彰之の母子関係に、何かいわく言いがたいエロティシズムを感じました。でもどうしてあそこまで高村さんに書けるのか、ほんとうに不思議な気もしました。
 高村 ドストエフスキーがどうだったかは分かりませんが、少なくとも私自身は「欠如」の人間です。自分自身は何も持っていないんですよ。性格程度のものはもちろんありますけれど、それでも核と言えるほどのものではない。
 亀山 なるほど。もし核があったとしたら、数十ページで終わる短篇しか書けないかもしれませんね。『太陽を曳く馬』の最後に、エディプス・コンプレックスの話が出てきますが、それがまさに巨大な物語として小説全体を貫いているのを感じます。福沢榮にしてもそうでしょう。作家というのは、ひょっとすると、大いなる空なる母なんでしょうか?
 高村 自分では、本当に欠如だと思います。物書きとしてはそれでいいと思うんですが、人間としてこんなに空っぽでいいのかと思うぐらい空っぽです。言葉を探すというのは、一時的に言葉で自分を埋める行為でして、そうやって生きてきたし、これからも生きていくだろうとは思うんですが、自分自身は空っぽだという自覚があるものですから、こうやっていくら人間の物語を書いても、これは自分の血肉ではないという空虚感はいつもあります。小説家は人間のことを書くと言いながら、人間である自分自身とは永遠に別のところにいる。その空虚感を引き受ける者かもしれませんね。
 亀山 でも、読者は自分自身の経験と物語とを照らし合わせながら読んでいきますよね。ですから、小説そのものが何か器になっていて、巫女的に高村さんが引き寄せているということもあるのでしょうね。
 たしかに、小説的な想像力の在り方というのは、少なからず、外部を吸引する欠如といった形を前提としているのかもしれません。ドストエフスキーも、つねに同時代人の中からモデルを探しだしていました。『罪と罰』の主人公もそうですし、『白痴』もそうです。『悪霊』は、セルゲイ・ネチャーエフ、バクーニン。しかし、彼の小説世界そのものを成り立たせている一元的かつ根源的なエネルギーとは何か、と問われたら、そこは、欠如ではなく、幼児体験だと答えざるをえないところがあるんですね。
 高村 そうしますと、スタヴローギンはドストエフスキーのどういうところから出てきたんですか?
 亀山 自分の魂からつかみ出した、と彼は言っていますね。
 高村 欠如ではない、何かの行き着いた形ですか。
 亀山 根本的には幼児体験の反映だと思うし、その延長上にある癲癇も重要なファクターだと思います。そういえば、末永和哉も癲癇の病を病んでいますね。で、さらにそこにプラスされる何かがあるんだと思います。僕は作家自身が、現実に、何がしかの「踏み越え」を経験していると思います。つまり具体的な犯罪をです。一線を超える経験です。でなくてはとうてい書けません。そこで体験された一種の被害妄想に近い恐怖、それがスタヴローギンの根源的な部分を形づくっているような気がします。スタヴローギンはドストエフスキー自身ですし、最後の被害妄想に近い恐怖というのが、まさに彼の幼児体験そのものなんですね。今、ふと感じたのですが、世界を見つめるスタヴローギンの眼差しと、『太陽を曳く馬』の彰之の生き方には、どこか通低するものがあると思います。

(「文学界」二〇〇九年二月号)


 ほら、「でも、読者は自分自身の経験と物語とを照らし合わせながら読んでいきますよね」ですって。来た、来た。

 どうですか? これほどまでに噛み合わない対談があるでしょうか? 一方の高村薫は作家(実作者)としての自分が「欠如」、「空っぽ」であり、自作の登場人物は作家自身とは関係がない、登場人物は創造されたものだ、といっているんです。他方、最先端=亀山郁夫は、それを聞きながら、その意味をまったく理解せず、作品の登場人物があくまで作家自身の体験からしか出てこないとしかいっていないんです。これ、彼お得意の、でたらめな「自伝層」のことですよね。

 僕は作家自身が、現実に、何がしかの「踏み越え」を経験していると思います。つまり具体的な犯罪をです。一線を超える経験です。でなくてはとうてい書けません。

(同)


 ほらほら、これを思い出しますね。

 では、この長老に果たして「偉大な罪人」と呼べるだけの試練はあったのだろうか。長老の残した「談話」は、むしろ長老の経験の欠落を暗示してはないいか。彼はどのような「穢れ」をまとうことにより、今の聖性の高みに到達することができたのか。

亀山郁夫「解題」)


 人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できるというゾシマ長老の考え方は、現代社会においてはとうてい受け入れがたい、ほとんど不可能に近い信念ではないだろうか。とりわけ競争のはげしい現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られる。

(同)


 そんな読みかたしかできない最先端につきあわされた高村薫の困惑はいかばかりだったでしょう。最先端=亀山郁夫は、高村薫も「現実に、何がしかの「踏み越え」を経験している」というんですか?「つまり具体的な犯罪」、「一線を超える経験」を? やれやれ。