「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 朝日新聞(二〇一〇年一月三十一日)の「本の舞台裏」という記事にこうありました。

名著の新訳はプロに
 ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)、ドストエフスキーの『罪と罰』(亀山郁夫訳)など、ここ10年ほど古典名著の新訳出版が活況を呈している。そんな中、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中山元訳)も今月、日経BP社から新訳が出た。
 同社は08年にミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』(村井章子訳)の新訳を皮切りに「日経BPクラシックス」シリーズをスタートさせ、本書で7タイトル目。ユニークなのはいずれも「20世紀の古典」と位置づけ、訳者に学者以外の「プロの翻訳家」を起用している点だ。
「世界的な名著、翻訳が難解なために多くの人に読み継がれない。これをなんとかしたい。グローバリズムの時代、資本主義を再考するのに最適な本を新訳で出すことに意味があると思いました」と、同社の編集委員、黒沢正俊さん(56)。
 学術系名著が一般読者に敬遠される原因は訳者にあるとも。「学者の翻訳は学問的な正確さを期すが、日本語としてはいかがか。今日の翻訳技術は格段に進歩しています」
 そこで、ベテラン翻訳家の山岡洋一さんらをアドバイザーに迎え、シリーズの訳者を厳選。専門領域にも詳しく、複数言語に通じ、なによりも日本語として伝わる翻訳ができる在野の実力者を選んだという。
 本書の訳者、中山元さんはカント、ニーチェ、ルソーらの名著を近年立て続けに新訳している。黒沢さんは「中山さんは全共闘世代の翻訳家で思想家。本書への思いは深く、原著の注も重視し、訳者注にも力を注ぎました。ぜひ岩波文庫などと比べてほしい。読みやすさには自信がある」と話している。

(衣田彰)


 また、これだ。私は以前こう書きました。

 つい先日も読売新聞が「魅了する格調・名調子 海外文学 旧訳本相次ぎ刊行」と題する記事(二〇〇九年一月十四日 山内則史)において、書き出しの「『カラマーゾフの兄弟』で火がついた海外文学の新訳ブーム」から亀山郁夫訳をヨイショしているんですね。記者の山内則史は自分の書いていることの意味がわかっているのか? 彼は亀山訳を読んだのか? また、あの「解題」を読んだのか? 読んだうえで共感しつつ記事を書いたのか? 疑いを抱きつつ、それを脇へ置いて書いたのか? いずれにせよ、ひどいです。

(二〇〇九年一月三十日)


 こうやって新聞記事の枕に最先端=亀山郁夫の名を書くことの責任を衣田彰も理解していません。最先端=亀山郁夫のでたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低なことをよく知っている私には、彼の文章は滑稽で愚劣きわまりない悲惨なものとしてしか読めません。こんなふうです。

ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)、ドストエフスキーの『罪と罰』(でたらめ・低レヴェル・いいかげん・めちゃくちゃな最先端=亀山郁夫訳)など、ここ10年ほど古典名著の新訳出版が、でたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低なものを含むどころか、そうしたものを先頭・代表格にまでして 、いかがわしい活況を呈している。そんな中、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中山元訳)も今月、日経BP社から新訳が出た。》

 いかがですか?

 長谷川宏訳『精神現象学』や中山元訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の実質を私は知りませんが、もしそれらがきちんとした翻訳なのだとすれば、最先端=亀山郁夫なんかと一緒に並べられてはいい迷惑でしょう。そのことを衣田彰はわかっていません。それとも、衣田彰もまた、「古典名著の新訳出版が活況を呈している」という「事実」・「現象」だけを扱った ── なるほど間違いではないかもしれません ── ということですか? その実質の意味を問わずに? そんなことで記事を書いていいんですか? なぜなら、衣田彰のこの記事の読者は長谷川宏中山元の仕事に対すると同じように最先端=亀山郁夫の訳業に好感を持つことになるでしょうから。衣田彰は自分の文章にどう責任を取るつもりなのか? 責任など感じていないのじゃないのか?

 それに、編集者である黒沢正俊。「学者の翻訳は学問的な正確さを期すが、日本語としてはいかがか。今日の翻訳技術は格段に進歩しています」という、ふつうの読者がここしばらくもううんざりするほど聞かされてきたこの決まり文句はどうにかならないんですかね? こうやって一般論として翻訳を語るとき、それが大方正しいとしても、最先端=亀山郁夫の仕事のように、でたらめ・いいかげん・めちゃくちゃ・素っ頓狂・無能・無理解・無責任・最低のものが、ちゃっかりそこに入り込み、大きな顔をしていることを考えれば、もっと慎重なものいいをしなくてはならないでしょう。また、黒沢正俊は必ず最先端=亀山郁夫の実質を知っておくべきです。そうでないと、自分までとんでもない翻訳を出版することになりかねません。その恐ろしさをよく知っておくべきなんです。そのうえで、こういうべきなんです。「学者の翻訳は学問的な正確さを期すが、日本語としてはいかがか。今日の翻訳技術は格段に進歩しています。ただし、粗悪な類似品にはご注意ください。たとえば、光文社古典新訳文庫カラマーゾフの兄弟』なんかと一緒にしないでください。あんなでたらめなものとは違いますから。この点、私どもの出版する新訳の品質は保証いたします」とかなんとか。

 もう一度衣田彰に戻りますが、彼は黒沢正俊の発言がたしかにその通りであったにせよ、それを安易にまとめて記事にしてしまうこと ── ということは、取材のしかたにも結ぶはず ── の恐ろしさをよく知らねばなりません。彼も最先端=亀山郁夫の実質を知っておかねばなりません。もし、知れば、右のような記事は怖くて書けないはずです。そうして、知らずに書くのは無責任です。その無責任が後々どんな結果をもたらすかを彼はよく想像できなければなりません。

 私は繰り返します。

「じゃ、誰だ、誰なんだ、結局のところ、最先端=亀山郁夫の仕事が素晴らしいなんていっているのは?」
 そうして、みんながこういうんです。
「私じゃない!」
「《私じゃない!》私じゃないとは、どういうことだ?」