「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 昨年十二月に放映されたテレヴィ・ドキュメンタリー「ベストセラー解剖学〜「1Q84」とベストセラーの変遷〜」(wowow)の最後は、番組内でそれまでに発言していた十数名に対する「あなたにとってベストセラーとは?」への各人の回答でした。

高頭佐和子NPO本屋大賞実行委員会理事)
 書店にとっては、ベストセラーは、やっぱり売り場を活性化する力……

鶴巻謙介サンクチュアリ出版代表)
 当然、出版社にとっても憧れ……

清田義昭出版ニュース社代表)
 時代を映す鏡だと……

横里隆(月刊書評誌「ダ・ヴィンチ」編集長)
 この本だけは読んでおかないとまずいだろう、というものだけがベストセラーになると思うんですよね。

後藤裕二新潮新書編集長)
 どういう形にせよ、考えるきっかけをくれる本……

山田真哉公認会計士
 単にたくさん消費された本ていう……

石黒謙吾(著述家・編集者)
 結果がよければすべてよし、っていうひとにとっては最高の商品だと思う。

木下和郎(書店員)=私
 ベストセラーは、ない方がいいものなんですけれどね……

岩本暢人集英社翻訳書籍編集部)
 普段、本買わないひとが買ってくんないと、ベストセラー、絶対できませんから。

湊かなえ(小説家)

 その時代の流れに乗ったものだと思います。

大森望(評論家)
 宝くじ、そんな感じですよね。

瀧川修集英社文庫編集部編集長)
 ずうっと売れつづけるとか読まれつづけるっていう方がベストセラーと呼ぶにふさわしいんじゃないかな。

堀口智絵スターツ出版編集部)
 作りたいですよね。難しいですけれども。

鈴木力(新潮社村上春樹編集担当)
 ベストセラーを作ることはできない。ただベストセラーは生まれていく。


 さて、放映に先立つ九月に、この番組制作会社から取材を申し込まれたとき、私はてっきりベストセラー礼讃の番組だろうと思っていたんですが、違いました。番組は、あくまで社会現象としてのベストセラーというものを扱っていて、しかもその疑わしさ・いかがわしさまでを表現していました。もちろん、もっともっといろんなことに踏み込む余地はあっただろうとは思いますけれども。

 取材後、私はこう書いたんでした。

 さて、先月私はあるテレヴィ番組の取材を受けました。この十年間の「ベストセラー」をいろんな切り口で採りあげるという企画です。書店員の手書きPOPから生まれた「ベストセラー」ということで『白い犬とワルツを』が扱われるわけです。私はここしばらくそういった取材を基本的には断わってきていましたが、新潮社がこの九月にあの作品を絶版にするつもりだった(これは土壇場で回避されました)のを知っていたので、愛着のある作品のために何かしておこうと思ったんです。絶版の件がなければ、受けなかった。それでも、私は番組制作側に、自分が「ベストセラー」というものに否定的であること、『白い犬とワルツを』の総部数(一八八万部)をよくないと思っていることを理解してほしいといい、さらに条件をつけました。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』も採りあげるのか、と訊ね、まず最先端=亀山郁夫自身への取材のないことを確認、さらに(数日かかって)、光文社編集部への取材のないことをも確認しました。もし、そのどちらかでもがあったら、私は取材を受けない、なぜなら「あんなでたらめなものと一緒に並びたくないから」と告げたんです。ただ、それでも「新訳ブーム」という切り口からは、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の書名だけは挙げざるをえないので、それは了承してほしいといわれました。

(二〇〇九年十一月十一日)


 ところが、驚いたことに、この番組は最先端=亀山郁夫の「誤訳問題」を採り上げたんですね(この部分のいわば章題は「新訳古典の功罪」)。「書名だけは挙げざるをえない」どころではなく、むしろ逆に斬り込んだといえるのかもしれません。
 ここでいっておきますが、番組制作スタッフは私に取材を申し込んだ時点で「誤訳問題」を知らなかったんですよ。ということは、彼らに「誤訳問題」の存在を教えたのは私ということになるようです。そうして、彼らは私への取材の後に「誤訳問題」を扱うことにしたようなんですね。私の後に取材した面々にこの「誤訳問題」をどう思うかと訊いていたらしい。それならば、再度私のところに来てもよかったのじゃないか ── 『白い犬とワルツを』よりもこちらの方を私は思いっきりしゃべったはずなんです ── 、と私は思うんですが、そういうことにはなりませんでした。
 ともあれ、いわゆるマスメディアで、最先端=亀山郁夫の「誤訳問題」が取り上げられたのは「週刊新潮」以来なんじゃないでしょうか。この点について私はこの番組を評価します。しかし、……。

 番組のナレーションを引用します。ここでの「旧訳」は原卓也訳です。

 新しく翻訳され直すことで、突然ベストセラーとなった古典もある。新訳『カラマーゾフの兄弟』は、今年五巻合わせて百万部以上売れた。読みづらかった古典が、ゼロ年代のいまだから、ゼロ年代の日本語でよみがえった。
 たとえば……
 旧訳版での一節 ──「ドミートリイが哄笑した」は、新訳版では「ドミートリーはからからと笑った」。「そりゃ文学的な剽窃ってもんだよ、アリョーシャ」は「それは盗作だよ、アリョーシャ」という具合に。
 もっとも、新訳はあまりにも原作から離れ過ぎているのではないか、という批判もある。つまり、「誤訳」ではないか、と。


 やれやれ、またこれだ。最先端=亀山郁夫の「誤訳問題」がまたしてもこういう表面的・表層的なレヴェルでしか理解されていません。もっとも「文学的な剽窃」と原卓也が訳したものを「盗作」としか訳さなかった最先端=亀山郁夫は誤っているんじゃないでしょうかね? 「文学的な」に当たる語が原文にはあるんじゃないんですか? あります(これはだいぶ以前に、例のロシア文学に詳しい友人に訊ねたことがあります)。そんなものは「ゼロ年代の読者」には不要だというんでしょうか? 日本語として「文学的な剽窃」と「盗作」は同じものではありません。
 最先端=亀山郁夫の「誤訳問題」というのは、この番組スタッフの考えているようなレヴェルのものじゃないんですよ。そんな「表面的・表層的な誤訳」なんかじゃない。「表面的・表層的な誤訳」は「深層的・構造的に作品読解がまったくできていないこと」から生じている表面的・表層的な結果にすぎません。この問題を理解するためには「結果」でなく「原因」の方を見なければならないんですよ。そういうことが彼らにはまったくわかっていません。
 そんなことで番組を作ってしまうから、番組視聴者はこの「誤訳問題」を理解することができません。それどころか、新訳に軍配を上げてしまうことになりかねません。

 つづいて番組は、この問題に関して三名の発言を紹介します。

横里隆(月刊書評誌「ダ・ヴィンチ」編集長)
 すごく苦かった薬をですね、もう青汁みたいなものだったのを、少し飲みやすくしてくれたっていう ── 。『カラマーゾフの兄弟』を読もう、って思うひとたちの数は多くないんですけど、でも、それをかき集めたら、これだけいるっていう ── のがあのヒットだったと思うんですよね。

大森望(評論家)
 ま、もちろん誤訳云々の問題はあるんですけど、百人翻訳者がいれば、百通りの翻訳ができるので、好きな翻訳を読めばいいわけですよ。だから、昔の翻訳がいいと思うひとは昔の翻訳を読めばいいわけだから、べつに文句をいう必要はないと思うんですよね。

石黒謙吾(著述家・編集者)
 本気のものは、読むのはしんどい。だから新訳みたいなふうに出されたりすると、「あ、私でも手が届くかな」という感じが出るんだと思うんです。正統的なるものを、少しライトにしてくれると、欲求を満たすんだと思いますよ。


 右のうち、横里隆と石黒謙吾の発言について、私は「まあ、こんなものは放っておけ」と思います。「はいはい」って感じです。「いつまでも無責任に他人事のように適当なコメントをしゃべっていろ」と思います。こういうものわかりのいいひとたちがこんなことをいいつづけるのがいまの出版業界の主流なんですね。絶望的状況です。まあ、「放っておけ」です。
 それよりも、私が怒りを覚えたのは大森望の発言です。
 大森望は、この番組では「評論家」という肩書きですが、彼は実は「翻訳家」でもあります。私はかつて彼の訳したコニー・ウィリスの三作『ドゥームズデイ・ブック』、『航路』、『リメイク』を読みました。特に『ドゥームズデイ・ブック』を読んだことは忘れられません。あれほど楽しい読書もなかったようにすら思っています。その翻訳者がこれほどまでに無責任なコメントを口にするとは!

 もう一度引用。

 ま、もちろん誤訳云々の問題はあるんですけど、百人翻訳者がいれば、百通りの翻訳ができるので、好きな翻訳を読めばいいわけですよ。だから、昔の翻訳がいいと思うひとは昔の翻訳を読めばいいわけだから、べつに文句をいう必要はないと思うんですよね。


 想像ですが、「ま、もちろん誤訳云々の問題はあるんですけど」という大森望は、おそらく木下豊房のサイトを知っているでしょう。なぜ私がそう思うかというと、だいぶ昔のことになりますが、私が自分の勤める書店のホームページ内掲示板に書いた『航路』(大森望訳)の短い感想を、彼が自分のホームページに引用していたことがあったからです。当時私は彼がそんなところ ── 一書店の細々とした掲示板 ── までチェックしていることに驚いたんですね。彼はまめにネットの情報を読み込んでいるひとです。だから、彼が「誤訳云々の問題はある」というからには、少なくとも木下豊房らの批判は読んでいるはずだ、と私は思っています。
 にもかかわらず、大森望には「誤訳云々の問題」の本質がまったくわかっていません。つまり、彼もまたこの問題が「表面的・表層的な誤訳」でしかないと思っているわけです。
 いいですか? 最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は、「百人翻訳者がいれば、百通りの翻訳ができる」なんていう大森望の認識のレヴェルをはるかに超える ── 彼の想定外の ── 駄翻訳なんですよ。翻訳につきものの ── 大森望がよく知っているであろう ──「誤訳」と最先端=亀山郁夫の「誤訳」とはけっして同列に考えることはできません。なぜかというと、最先端=亀山郁夫には全然『カラマーゾフの兄弟』が読めていないからですよ。というか、最先端=亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』だけでなく、あらゆる文学作品を読む能力がないんです。めちゃくちゃなんですよ。また、これはいわゆる「専門家」による「作品解釈」の問題でもありません。最先端=亀山郁夫の読み取りはふつうの「作品解釈」以前の低レヴェルでしかない。中学生だって最先端=亀山郁夫よりはるかに高レヴェルの読書ができますね。それほどの最先端に翻訳などできるわけがないんです。しかし、まさかここまでひどい翻訳があるだなんてことを大森望はきっと理解していません。理解していたなら、「好きな翻訳を読めばいいわけですよ。だから、昔の翻訳がいいと思うひとは昔の翻訳を読めばいいわけだから、べつに文句をいう必要はないと思うんですよね」なんていう無責任きわまりない発言のできるわけがない。
 それに、大森望は「昔の翻訳がいいと思うひとは昔の翻訳を読めばいいわけだから、べつに文句をいう必要はない」というとき、原作者と作品とその読者とのことをまるっきり思いやっていません。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の偽物であり、これが現在の・将来の読者にとってどれだけの害をもたらすことになるかを理解していません。
 というか、大森望には『カラマーゾフの兄弟』なんかそもそもどうだっていいんですよ。全然関心なんかありません。だから、いいかげんな認識のまま、「世のなかそんなもん」みたいな斜に構えた発言をするんです。

 それにしても、大森望の最悪な点はこの問題に取り合わないということに尽きます。これが最もいけない。なぜなら、彼は問題を放棄してしまうので、もはや肯定も否定もできないし、そのどちらかの撤回もできないからです。

 これをまた引用しておきます。

 躓きの最低の(人間的にいえば、最も無邪気な)形態は、キリストに関する全問題を未決定なままに残しておいてこう判断するものである、 ── 「私はこの点に関してあえていかなる判断をも下さない、私は信仰もしないが、判断を下すこともしない。」これが躓きの一形態であることを大抵の人は看過している。


 大森望はそういうふつうのひとたちの「先導者」の役割を担っているはずです。自分の発言の影響力とか責任とかいうことをもっと考えなくてはならないひとのはずです。村上春樹柴田元幸同様。

 というわけで、「ベストセラー解剖学〜「1Q84」とベストセラーの変遷〜」は最先端=亀山郁夫の「誤訳問題」をまったく理解していませんでした。ちょっと触れてみて、三名のいいかげんな発言でまとめて終わりでした。