「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 最先端=亀山郁夫批判の難しさというのは、こういうことです。まず、『カラマーゾフの兄弟』という小説(最先端=亀山郁夫訳以外。なぜなら最先端=亀山郁夫訳は偽物だから)を読んだことのあるひとが非常に少ない。しかも、そのひとたちの大半は、ただ最初のページから最後のページまでをめくっただけなんですよ(さぞかし大きな達成感があったことでしょう。それで満足なんですよ)。そんな彼らでも、いくらかは作品の強烈さに打たれはしているんでしょうが、しっかり細部までを読み取ることをせずに、なんとなく「打たれた」気になったにすぎません。なんとなく「感動」してしまったんですよ。いやあ、「大審問官」はすごかったなあ、あれは実に深遠な思想だなあ、いまの自分には歯が立たないよ、いつかああいうことまで理解できるようになればいいなあ、とかなんとかかんとか。でも、私は高邁な文学作品に接してみたよ、すごいな、私、とかなんとかかんとか。つまり、このひとたちは「作品に自分を合わせた」のでなく、「作品を自分に合わせた」わけです。
 いや、それでも彼らは『カラマーゾフの兄弟』(最先端=亀山郁夫訳以外)を読んだんです。そうして、感動さえ覚えたわけです。そういうことは大切なんですよ。『カラマーゾフの兄弟』の読書に限らず、読者というものは絶対に、常に「背伸び」しなければいけません。でも、そこで終わりにしちゃいけないんです。「背伸び」して読書したひとは、さらに、なぜ自分が「打たれた」のか、なぜ自分がその作品に「深遠さ」を感じたのか、延々と考えつづけなければなりません。たとえば二十五年くらい時間をかけて。二十五年間、ずっとそのことだけを考えろ、なんていっているんじゃありませんよ。しかし、意識のどこかにその作品に関するアンテナみたいなものができていて、何か ── それはあなたの人生に起こった何かかもしれませんし、べつの作品の読書であるかもしれません ── があるたびにそれがぴくりと震える、というような経験を重ねた方がいいんです。いったい、なぜいまこのこと ── あなたの人生に起こった何か ── でそのアンテナが震えたのか、そこから考える ……、考えて、いつか昔に読んだ作品のどこかが思い出され、その作品についての理解が深まる ……というような経験を重ねることです。そういうことの多い作品こそ、あなたにとって大切な作品であるはずです(もちろん、反対に、同じ経験が、あなたのかつて読んだ作品のどれほど無価値であったかをも教えてくれます。これも大事なこと)。
 と、そういってしまうと、たとえ原卓也訳であろうと、昨日今日『カラマーゾフの兄弟』(最先端=亀山郁夫訳以外)を読み終えたばかりの若いひとには、私がここでずっと書きつづけていることが理解できないということになるかもしれません。それはしかたがない。年齢を重ねなければわからないことだってあるんです(でも、年齢だけを重ねたって、最先端=亀山郁夫のように、これ以上ないというほど見事な理解にしか到達しない例もあるんですが)。しかし、そういう若いひとたちにとって、私の文章が「刺」や「引っかかり」にでもなれればいいな、と私は思います。私にしたところでたかだか四十七歳です。これからまだまだ『カラマーゾフの兄弟』(最先端=亀山郁夫訳以外)についての理解が深まるはず。

「なんかそういう言い方って、経験とか四十四歳っていう年齢とか、こっちにないことを盾に取ってるみたいで、ズルイよね」
 と、僕を見ながら言った。
「経験や年齢を盾に取ったつもりはないけど、俺のしゃべる言葉や考えることに経験や年齢がくっついているのはしょうがないことで、経験や年齢がそれなりにある人間が全然ない人間みたいにしゃべったら、それはそれでかえってフェアじゃないよな」

保坂和志『もうひとつの季節』 中公文庫)


 話が逸れましたが、つまり、最先端=亀山郁夫批判を理解できるほど『カラマーゾフの兄弟』(最先端=亀山郁夫訳以外)を読み込んでいるひとの絶対数があまりにも少ないわけです。
 そうして、読んでいないひとを含めて、ふつうのひとたちには『カラマーゾフの兄弟』(最先端=亀山郁夫訳も含んで)とかドストエフスキーとかが「名作」や「文豪」や「古典」とかいうレッテルで、高邁な何か、身につけておいた方がよい教養的な何かとして括られて、それで終わりです。そのレッテルをうまく利用し、「読みやすい訳」だの「古典を現代によみがえらせた」だのといいかげんな宣伝の助けを借り、自らもそれに乗っかって、ふつうのひとたちをいいように騙しているのが最先端=亀山郁夫です。ふつうのひとたちには騙されているということがわかりません。それどころか、最先端=亀山郁夫のことばにうっとりしてしまうんですね。「亀山先生って、ドストエフスキー研究の第一人者なんでしょう? NHKがそういっていたもの」、「東京外国語大学の学長さんなんでしょう?」、「村上春樹さんも褒めていたもの」とかなんとかかんとか。
 とはいえ、実は、最先端=亀山郁夫にも自分が多数のひとたちを騙しているなんていう自覚はありません。最先端だからです。これほどまでに最先端だと、自分自身の本当のレヴェルを自覚する能力すらありません。彼には、自分の素晴らしい仕事が多くのひとたちを感動させているとしか理解できないんですね。「おれって、ドストエフスキー研究の第一人者なんだよね? NHKがそういっていたものなあ」、「いやあ、おれ、東京外国語大学の学長さんなんだなあ」、「村上春樹さんもおれを褒めていたものなあ」というふうに、どこまでも最先端な受け取りしかできないんです。彼の実際は、どこに出しても恥ずかしい仕事(低レヴェルの・いいかげんな・無能な・無知の・でたらめだらけの)しかしていない最先端なんですが、そのことを自分でまるっきりわかっていません。あまりにも最先端すぎるために、実は責任云々を自覚できないというのが本当のところです。最先端だからしかたがないんです。