「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 こう考えてくると、そんな哀れな最先端よりもずっと罪深いひとたちがいることがわかりますよね。つまり、たとえば、NHKであり、東京外国語大学であり、村上春樹です。その他にもたくさんなんですが、きりがない。

 で、NHK。そのなかに、もうずっとしきりに私のブログをチェックしつづけているひと ── ひとりだか複数だかわかりません ── がいるんですけれど、あなた(がた)は私の文章をどう思っているんですか? 最先端=亀山郁夫の暴走を止める気にならないんですか? あなた(がた)も最先端なんですか? それとも、単に卑劣なんですか? あるいは、会社の方針と自分の本心との間で葛藤しているひと(たち)なんですか? 何とかしたらいいんじゃないですか? あんな最先端をゲストにしたら ── 私は観ていませんが、「爆笑問題のニッポンの教養」(二〇〇九年十一月十七日放映) ── 、「爆笑問題」が恥をかくんじゃないんですか? いや、NHKにとっても、これ以上ないというほどの恥でしょう。そうして、「爆笑問題」にも大きい責任はあるはずで、(「爆笑問題」の)太田光カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』 ── 私の生涯の読書におけるベストいくつかに入るはずの ── をこの数年にあれだけ評価し、広めたのだから、同じ口で最先端なんかを相手になんかしちゃ駄目なんですよ。そんなことをすれば、ヴォネガットに傷がつくでしょうに。太田光はもうだいぶ以前に ── ということは最先端=亀山郁夫訳以外で ── 『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるはずです。なぜかというと、彼の愛読するヴォネガットが『スローターハウス5』でこう書いているからなんですね。

 あるときローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。SFではないが、これも本の話である。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」


 太田光は最先端=亀山郁夫訳での『カラマーゾフの兄弟』を読んだのか? 読んでいないのじゃないのか? 読んだとしても、番組収録に間に合わせるために、急いで読んだのじゃないか? 最先端=亀山郁夫を「歓迎」するために(前提で)読んだのじゃないのか?
 というか、問題はべつのところにあります。この番組「爆笑問題のニッポンの教養」は毎週放送です。三十分の番組。私は以前からいっていますが、テレヴィにせよ、新聞・雑誌にせよ、「書評欄」(に限らないでしょうが)というのは、いつも決まった放映時間・文字数で、とにかく締め切りに合わせて必ず穴埋めしていかなければならない、というやりかたでは駄目なんです。よいものがなければ、穴を開ければいいんです。「今回は該当作なし」ということでいいじゃないですか? また、反対によいものがあれば、普段の数倍・数十倍・数百倍・数千倍もの放映時間や文字数を充てるべきなんです。そうしない・そうできないことがテレヴィ・新聞・雑誌などの大きな欠陥だと思うんです。
 それはともかく、いまのやりかたでは、太田光がゲストの実質などをいちいち検証なんかできるはずがありません。番組スタッフが呼んだゲストということで、実質がどれほど最先端であっても「歓迎」せざるをえません。しかし、本来、太田光は必ず検証すべきです。結局、彼の番組だから。もちろん、その番組スタッフだって同じことです。彼らは最先端=亀山郁夫の仕事を読みもせずに出演依頼をしたんじゃないですか? と思ったら、違うようですね。番組ディレクターは最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだらしいです。

今回の取材を始めるにあたって、まず、ドストエフスキーを再読しました。
大学時代に『罪と罰』をどうにかこうにか読み終え、『カラマーゾフの兄弟』に至っては、序盤の修道院での家族の会食シーンあたりで頓挫してしまった不肖の身としては、少々不安を感じながら、ページを開いてみると・・・
番組のなかで太田さんも話していましたが、「何これ、サスペンス!?」と思うほど、めくるめくような世界が広がっていたのです。
まさに亀山先生が仰るところの"大地"を、私はドストエフスキーの文章と、その余白から、その行間から感じました。
どこに話が展開していくのかわからなくなるような長い長い登場人物たちのエピソードも、だんだん、「もっと、もっともっと私を揺さぶって! もっと!」と思えるほど。
それはまるでロシアの大地のうねり・・・、ときに激しく、ときに厳しく、ときに寛容に、読者を運んでいくドストエフスキーのその筆致に、私はすっかり心を奪われてしまったのでした。
もちろん、読んだことのない方には上記の文章もさっぱり意味がわからないかと思いますが、そんな方には、ドストエフスキーのこの一言を・・・。

「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」と ――。


 やれやれ。この程度の読み取りしかできないひとがNHKの番組ディレクターであるわけです。彼はいったいいつ最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読んだのか? 最先端=亀山郁夫への出演依頼をし、承諾を得た後に読んだのか(きっと大急ぎで)? しかも、彼にすれば、自分がゲストとして選んだ最先端=亀山郁夫が素晴らしいひとでないと困るわけです。これ、もし彼が出演依頼をする前にきちんと読んだのなら(出演依頼の後でも)、大馬鹿ですよ。そうだとすれば、彼には文章を読む力がないし、「文学」もわからないということになります。まあ、でもとにかく最先端=亀山郁夫先生の偉業を伝えることが彼の仕事なわけです。それもしかたがない。毎週毎週「誰かいないかな?」とやらざるをえないんですから。その際、彼らが頼りにするのが「世のなかの評判」なんですね。ところが、その「世のなかの評判」とやらをつくり、支えつづけているのは誰なのか? やれやれ ── やれやれ ── です。何なんだ、いったい? これでは、誰が責任を取るのか? NHKの誰かはこういうんじゃないんですか?「だって、ロシア文学会の面々が亀山の仕事を保証してくれているじゃないですか!」、「だって、世のなかの大勢のひとたちが光文社古典新訳文庫で『カラマーゾフの兄弟』を買って、読んでいるじゃないですか!」 ── やれやれ。そういうものだ。

「じゃ、誰だ、誰なんだ、結局のところ、最先端=亀山郁夫の仕事が素晴らしいなんていっているのは?」
 そうして、みんながこういうんです。
「私じゃない!」
「《私じゃない!》私じゃないとは、どういうことだ?」

 もちろん、ここで絶対に《私じゃない》ということのできないひとたちはいるんですよ ── 沼野充義とか佐藤優なんかです。しかし、いまここで私が批判するのは沼野充義とか佐藤優なんかでなく、NHKをはじめとするメディア ── テレヴィだとかラジオだとか新聞だとか雑誌だとか ── のひとたちです。
 彼らにはまだまだ大きい影響力があります。そうであるからには、彼らには大きい責任があるはずです。そうして、彼らは恥知らずなほど無責任だと私はいいます。その彼らの無責任ぶりをよく知っていて、それに乗っかっているのが、沼野充義とか佐藤優なんかです。メディアがきちんと責任を果していたならば、沼野充義とか佐藤優なんかもこうまででたらめを振りまくことなどできなかったでしょう。
 ここに「各人の弱みや卑劣さをたがいに薄ぎたなくいたわり合って衆を恃むような消極的連帯」の恐ろしい広がりがあります。この後で引用しますが、私も「ある空漠たる恐怖に捕えられ」ます。