(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)


 しかし、またべつの側面から私はしゃべってみましょう。「悪魔」はイワンにこういいます。

「しかし、僕の目的は立派なものだよ。僕は君の心にほんのちっぽけな信仰の種子を一粒放りこむ、するとその種子から樫の木が育つんだ。それも並大抵の樫じゃなく、君がその枝にまたがれば、《荒野の神父や汚れなき尼僧たち》の仲間入りをしてくなるような、立派な樫の木がさ。だって君は心ひそかにそれを切実に望んでいるんだし、いずれ蝗を食として、魂を救いに荒野へさすらいに出るだろうからね!」
「それじゃ、お前は俺の魂の救出のために努力してるってのか、悪党め?」
「せめて一度くらい、いいことをしなけりゃならないからね。君は怒ってるのかい、見たところ怒ってるらしいね!」
「道化め! しかしお前はかつてそういう人たちを、つまり蝗を食とし、十七年も荒野で祈りつづけて、苔の生えたような人たちを誘惑したことがあるだろう?」
「ねえ、君、僕のやってきたことはそれだけだよ。この全世界も、宇宙も忘れて、一人のそういう人物につきまとっているのさ、なぜってダイヤモンドというやつは非常に高価だからね。そういう魂一つだけで、時によると、星座まる一つ分の値打ちがあるものさ。僕らには独特の算術があるからね。勝利こそ貴重なんだ! なにしろ、そういう連中の中には、君はそんなこと信じないだろうが、ほんとの話、知的発育が君にも劣らぬような人だっているんだからね。とにかく同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができるわけだから、実際、時によると、あとほんの一押しで、役者のゴロブーノフの台詞のように、その人間が《まっさかさまに》転落するような気がするもあるんだよ」


 さらに、

「ねえ、君、僕はさるきわめて魅力的な、愛すべきロシアの若い貴族を知っているんだよ。若い思想家で、文学と芸術の大の愛好家で、『大審問官』と題する将来性豊かな叙事詩の作者なんだ……僕はその青年のことしか念頭になかったんだよ!」

(同)


「悪魔」はそうやってイワンを「よいしょ」します。イワンをくすぐりつづけます。そうやっておいて、いきなり彼を突き落としもするんです。

「ところで問題は、やがてそういう時期の訪れることがありうるか、どうかだと、わが若き思想家は考えた。もし訪れるなら、すべては解決され、人類は最終的に安定するだろう。しかし、人類の根強い愚かさからみても、おそらくまだ今後千年は安定しないだろうから、現在でもすでにこの真理を認識している人間はだれでも、まったく自分の好きなように、この新しい原理にもとづいて安定することが許される。この意味で彼にとっては《すべては許される》のだ。それだけでなく、かりにそういう時期が永久に訪れぬとしても、やはり神や不死は存在しないのだから、新しい人間は、たとえ世界じゅうでたった一人にせよ、人神になることが許されるし、その新しい地位につけば、もちろん、かつての奴隷人間のあらゆる旧来の道徳的障害を、必要とあらば、心も軽くとび越えることが許されるのだ。神にとって、法律は存在しない! 神の立つところが、すなわち神の席なのである! 俺の立つところが、ただちに第一等の席になるのだ……《すべては許される》、それだけの話だ! 何から何まで結構な話ですな。ただ、ペテンにかける気を起こしたのに、なぜそのうえ、真実の裁可なんぞが必要なんだろう、という気はするけどね? しかし、現代のロシア人てのは、こうなんだね。裁可がなければペテンをする決心もつかないんだ、それほど真理がお気に召したってわけさ……

(同)
(傍線は私・木下による)


 もっと前に「悪魔」はこうもいっていました。

「お前たちのあの世には、その千兆キロ以外に、どんな苦しみがあるんだい?」なにか異様に張りきって、イワンがさえぎった。
「苦しみだって? ああ、きかないでほしいな。以前にはいろいろあったんだが、この節はもっぱら精神的なものがはやりだして、《良心の呵責》なんて下らんものになっちまった。これも君らの、《慣習の緩和》とやらのせいで、はやりだしたのさ。これで、だれが得をしたと思う。得をしたのは良心のない連中だけさ。なぜって、良心がまるでなけりゃ、良心の呵責もへちまもないからね。その代り、まだ良心や誠意の残っていたまともな人たちは苦しむようになったわけだよ……これだから、まだ準備もととのわぬ地盤に、それもよその制度をまる写しにした改革を行なうなんて、害をもたらすだけさ!」

(同)


 もちろんイワンは当の「《良心の呵責》なんてもの」に苦しみ、「「真実の裁可」なんぞ」を必要としているんです。「悪魔」はこうしてイワンを思うがままにいじり、愚弄するわけです。

 もちろんイワンは「いずれ蝗を食として、魂を救いに荒野へさすらいに出る」つもりだったんですが、悪魔の手前、それをそのまま認めようとはしません。でも、そのことは是非とも訊ねてみたいわけです。訊ねるけれど、自分の先行者たちを「十七年も荒野で祈りつづけて、苔の生えたような人たち」などと表現する(いったい、そのイワンがいま何歳なんですか? そのことを思い出してください)。しかし、その「苔の生えたような人たち」こそ悪魔が誘惑したい存在・悪魔が価値を認めた存在だということがわかっている。悪魔にそれほどまでに誘惑される人間こそ高度に信仰している人間なんですね。それで、イワンは自分がそういう「高価」な「ダイヤモンド」でありたいと思っているわけです。「同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」人間でありたいんです。つまり、そうであるからには、「《まっさかさまに》転落」するすれすれの位置にいたいわけです。それどころか、「《まっさかさまに》転落」することは、彼にとって非常に魅力的なことでもあるでしょう。「《まっさかさまに》転落」できるからには、つまり、それほどの高さにいたというわけです。その高低差こそが彼自身の価値なんです。その高低差が大きければ大きいほど、彼の魂は悪魔にとって「高価」な「ダイヤモンド」であるんです。
 これが「若い思想家で、文学と芸術の大の愛好家で、『大審問官』と題する将来性豊かな叙事詩の作者」なんですよ。

「やっとお前も察したな。事実そのとおりさ、実際その一点だけにすべての秘密があるんだよ。だが、はたしてそれが、たとえ彼のように荒野での苦行に一生を台なしにしながら、なお人類への愛を断ち切れなかった男にとってだろうと、苦しみではないだろうか? 人生の終り近くなって彼は、あの偉大な恐ろしい悪魔の忠告だけが、非力な反逆者どもを、《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》を、いくらかでもまともな秩序に落ちつかせえたにちがいないと、はっきり確信するのだ。そして、こう確信がつくと、死と破滅の恐ろしい聡明な悪魔の指示に従ってすすまねばならぬことが、彼にはわかるし、またそのためには嘘と欺瞞を受け入れ、人々を今度はもはや意識的に死と破滅に導かねばならない。しかもその際、これらの哀れな盲どもがせめて道中だけでも自己を幸福と見なしていられるようにするため、どこへ連れてゆくかをなんとか気づかせぬよう、途中ずっと彼らを欺きつづけねばならないのだ。そして心に留めておいてほしいが、この欺瞞もつまりは、老審問官が一生その理想を熱烈に信じつづけてきたキリストのためになされるのだからな! これが不幸ではないだろうか?」

(同)


 このアリョーシャとの対話はこうつづくんでした。

「兄さんもその老人といっしょなんでしょう、兄さんも?」アリョーシャが悲痛に叫んだ。イワンは笑いだした。
「だって、こんなものはたわごとなんだぜ、アリョーシャ。いまだかつて二行の詩も書いたことのない愚かな学生の愚かな詩にすぎないんだよ。どうしてそうまじめに取るんだい? まさか俺が、キリストの偉業を修正する人々の群れに加わるために、これからまっすぐイエズス会の連中のところへ出かけて行くなんて、考えてるんじゃないだろうな? ええ、冗談じゃないよ、俺に何の関係がある? さっきも言ったじゃないか、俺はせいぜい三十まで生きのびりゃいいんで、そのあとは杯を床にたたきつけるだけさ!」
「じゃ、粘っこい若葉は、大切な墓は、青い空は、愛する女性はどうなるんです! どうやって兄さんは生きてゆけるんです? それらのものをどうやって愛するんですか?」アリョーシャが悲しそうに叫んだ。「心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか? いいえ、兄さんはきっとその連中の仲間に入りに行くにきまっている……もしそうじゃなければ、自殺するほかありませんよ、堪えきれずにね!」
「どんなことにも堪えぬける力があるじゃないか!」もはや冷たい嘲笑をうかべながら、イワンが言い放った。
「どんな力です?」
カラマーゾフの力さ……カラマーゾフ的な低俗の力だよ」
「それは放蕩に身を沈めて、堕落の中で魂を圧殺することですね、そうでしょう、ええ?」
「たぶんね、それも……せいぜい三十までなら、ことによると避けられるかもしれないし、そのあとは……」
「どうやって避けるんです? 何によって避けるんですか? 兄さんのような思想をいだいていて、そんなことは不可能ですよ」
「これもまたカラマーゾフ流にやるのさ」
「それが《すべては許される》ということですか? すべては許される、そうですね、そうなんでしょう?」

(同)


「非力な反逆者ども」・「《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》」=「人類」を盾に、イワンは「《ただ一人の罪なき人》と、その人の流した血」=キリストを避けます。「人間の顔」を正視しない・できないことによって避けるんです。それは、こういうことでもあります。イワンは、神の前で傲然と頭を上げていようとしているんです。彼は誰にも頭を下げたくありません。彼にはへりくだることができない。「謙遜な勇気」(キルケゴール)がないんです。もう一度いいますが、彼はミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすること、ですね ── を頭では理解することができますが、心で感じること・信じることができないんです。イワンはあくまで傲然と自分自身であろうとします。彼はこの世界のありとあらゆるものを自分で理解したい、この世界の意味を最後まで見届けたいんですね。それを見届けるのは必ず自分でなくてはならないんです。彼は保証をとりつけたい。神にそれを委ねるなんてまっぴらごめんなんです。

「……俺に必要なのは報復だよ、でなかったら俺はわが身を滅ぼしてしまうだろう。その報復もそのうちどこか無限のかなたなどじゃなく、この地上で起ってもらいたいね。俺がこの目で見られるようにな。俺はそれを信じてきたし、この目で見たいのだ。もしその時までに俺が死んでしまうようなら、よみがえらせてほしい。だって、俺のいないところですべてが起るとしたら、あまりにも腹立たしいものな」

(同)


「俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいただきつづけているほうが、よっぽどましだよ」

(同)


 イワンには、最終的に ── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── どういう結果になろうが、とにかくいまこの瞬間に生きている人間として、神の前に立ち、自らへりくだり、「人間の顔」を正視し、自身を投げ出すということができないんです。彼はいますぐに「結果」を知りたい。「結果」は保証されなければならないんです。実は、そういう「結果」── それがいつのことなのか、誰にもわかりません ── は、とにかくいまこの瞬間に生きている「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間がそれぞれに自身を投げ出すことの長い長い連鎖・継続・継承によってしかもたらされるはずのないものなんです、たぶん。イワンはしかし、若く性急です。自分が「十七年も荒野で祈りつづけ」るなんてことすら冗談ではないわけです。彼にはまだ「謙遜な勇気」を持つことができません。彼は自分自身をいまあるままに保ちながらいますぐ「結果」を知りたい。自分を無にしたり、犠牲にしたり、礎石にしたりすることなしに、いますぐ「結果」を知りたい。「結果」を知ってなら、「信仰」もしようというんです。しかし、いまこの瞬間の自分の「信仰」が最終的に無駄になるのだとしたら、「信仰」なんかごめんです。保証が得られないのだったら、自分は好き放題にやるよ、というんです。それが「すべては許される」です。損なことはしないんですね。といいつつ、「結果」は気になるんです。

 しかし、私はゾシマ長老のこれを引用しておきます。

 もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない

(同)
(傍線は私・木下による)


 それはともかく、話を戻しますが、レヴェルの差はあれ、イワンと同様のことを考えていた人物がもうひとりいました。フョードル・カラマーゾフです。つまり、フョードルとイワンとに共通しているものが何かというと、ふたりとも「真理」を気にかけてはいながら、自分の生きているこの現世でどうするのが損なのか得なのかを考え、損得を基準にもろもろを選択するということです。フョードルは自分を投げ出さずにいて、「真理」の不備を盾に、いろいろなものを掠め取ってしまおう・ちょろまかせるものはちょろかましてしまおう、と考えています。神があるなら、この自分をこんなふうに好き放題にふるまわせておかないだろう、しかし、いまのところ自分は好き放題だ、だったら、このままやりたい放題でいこう! 悪いのは神やら「真理」やらの怠慢さ! レヴェルはまったく違いますが、フョードルの考えていることとイワンの考えていることは同根です。

「でも、何のために閉鎖するんです」イワンが言った。
「真理が一日も早くかがやくためにさ、それが理由だよ」
「だって、真理がかがやきはじめたら、お父さんなんぞ、まず最初に財産を没収されて、そのあと……閉鎖でしょうね」
「やれやれ! だが、たぶんお前の言うとおりだろうな。ああ、俺も騾馬か」

(同)


 ともあれ ── 、

「俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれか祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ。この世の中に、そんな奇特な人がいるもんだろうか? なあ、お前、こういうことに関しちゃ、俺はひどく愚かでな。お前にゃ信じられないかもしれんけどさ。ひどいもんだよ。しかしな、どんなに愚かだろうと、俺はたえずいつもそのことを考えてるんだよ、もちろん、いつもってわけじゃなく、時々の話だがね。俺が死んでも、悪魔たちが鉤で引き寄せるのを忘れる、というわけにはいかんものだろうか、と思うのさ。それからこう思うんだ。鉤だなんて? どこからそんなものが悪魔の手に入るんだろう? 材質は何だ? 鉄だろうか? いったいどこで作るんだろう? やつらのところにも、工場か何かがあるのかな? なにしろ修道院の坊主たちは、早い話、地獄に天井があると、どうやら考えているらしいからな。そりゃ俺だって、地獄を信じてもいいけれど、ただ天井だけはぬきにしてもらいたいよ。でないと、せっかくの地獄が何かこう、垢ぬけた文化的な、つまり、ルーテル派式のものになっちまうからな。それに実際のところ、天井があるのとないのとでは大違いだろう? とにかく、いまいましいことに、問題は実にその点にあるんだからな! だってさ、もし天井がないんなら、つまり、鉤もないってわけだ。鉤がなけりゃ、いっさいご破算てわけだから、またぞろ信じられなくなってくるからな。だってさ、そうなったら、いったいだれが俺を鉤で引きずっていくんだい。なぜって俺みたいな人間を引きずっていかないとしたら、いったどうなる、この世のどこに真実があるんだい?」

(同)


 どうですか?

俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれか祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ。この世の中に、そんな奇特な人がいるもんだろうか?」

(同)
(傍線は私・木下による)


 ── ですよ。フョードル自身がそもそも作品の最初の方でこんなことをいっているんですね。しかも、彼が話しているのはアリョーシャです。相手がアリョーシャだからこそフョードルもこういうことがいえるんです(イワンも相手がアリョーシャであれば、普段の自分がけっしていわないことを口にすることができます)。これはフョードルの本音です。こうなると、「あなたじゃない」に絡む要素が『カラマーゾフの兄弟』の全体に隈なく行き渡っていることが、あらためてわかってもらえるのじゃないかと思うんですが、まあ、それはともかく、先ほどいったことをもう一度いうことになりますが、フョードルはやっぱり自分の生 ── 現世 ── の後にあるもののことを心配しているんですね。「真実」のことを心配しているんです。彼もいますぐ「結果」を知りたいくちなんです。最終的に「真実」が不問に附されるのであれば、この世で得なのは、好き放題にふるまうということだと彼は考えているんですね。でも、彼は心配でならないわけです。これは彼にとって非常に重要な、焦眉の問題でもあるんです。もし「神」があるのなら、彼はとんでもない間違った一生を送ってきたことになるんです。「不死」も同様です。「神」も「不死」もないなら、彼のこれまでの生涯は正しい ── やり得ということです ── んですが、それでも、やはり「真実」がものをいう ── やり得なんかとんでもない ── ことがなければ、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞと思いもしているんです。
 フョードルが「道化」なのは、彼にものを見る目があるからです。つまり、本来自分や他人はどうあるべきかという視点があるということです。彼は自他の偽善やごまかしをはっきり認識します。しかし、どうやらこの世のなかでは正しさなんかどうでもいいらしいことが彼にはわかっています。だから、彼はわざと自分のいやらしさを誰彼に誇張してみせ、不快な思いを味わってもらうんですね。どうだい、これが現実ってものさ! お高くとまってみせたって駄目さ、何をお上品にふるまっているんだい? 世のなか、どんな愚劣なことでもやったもん勝ちじゃないか! でも、彼は「真実」を恐れています。

「『ほら、見ろ、お前の聖像だぞ、どうだ、俺はこいつをはずすからな。よく見てろよ、お前はこれを奇蹟の聖像と思いこんでいるらしいが、俺が今お前の目の前でこいつに唾をひっかけてやる、それでも罰なんぞ当りゃせんから!』そのときの彼女の目つきときたら、いや、今にも俺を殺すんじゃないかと思ったくらいさ。だけど彼女は跳ね起きて、両手を打ち合せたあと、いきなり両手で顔を覆って、全身ふるえはじめ、床に倒れるなり……そのまま気絶しちまったんだ……おい、アリョーシャ、アリョーシャ! どうした、どうしたんだ!」

(同)


 また、以下の引用は非常によくフョードルの人間性を表現しています。

「とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか? ただ、まじめにだぞ! 俺は今まじめにやりたいんだ」
「ありませんよ、神はありません」
「アリョーシカ、神はあるか?」
「神はあります」
「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
「不死もありません」
「全然か?」
「全然」
「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな? とにかく何もないってわけはあるまい!」
「まったくの無ですよ」
「アリョーシカ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか?」
「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」
「ふむ。どうも、イワンのほうが正しそうだな。まったく考えただけでも、やりきれなくなるよ、どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力をむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう、しかもそれが何千年もの間だからな! いったいだれが人間をこれほど愚弄しているんだろう? イワン、最後にぎりぎりの返事をきかせてくれ、神はあるのか、ないのか、これが最後だ!」
「いくら最後でも、やはりありませんよ」
「じゃ、だれが人間を愚弄してるんだい、イワン?」
「悪魔でしょう、きっと」イワンがにやりと笑った。
「じゃ、悪魔はあるんだな?」
「いませんよ、悪魔もいません」

(同)


 さて、そのイワンが「悪魔」にこう訊ねるんでした。

「お前だって神を信じていないんだろう?」イワンは憎さげにせせら笑った。
「つまり、どう言えばいいのかな、もし君が真剣に……」
「神はあるのか、ないのか?」また有無を言わせぬしつこさでイワンが叫んだ。
「じゃ、君は真剣なんだね? ねえ、君、本当に僕は知らないんだよ、いやたいへんなことを言ってしまったな」
「知らなくても、神の姿は見えるんだろ? いや、お前は一個の独立した存在じゃない、お前はなんだ、俺以外の何物でもない! お前なんぞ屑だよ、俺の幻想だ!」

(同)


 まさにイワンの問いは「真剣」です。つまり、先のフョードルの問いこそはまさにイワン自身の問いだったんです。「まったくの無ですよ」だなんて冗談じゃありません。フョードルに対してはそんなふうに茶化しながら答えつつ、実はそれこそイワンの最も知りたいことだったんですよ。この「悪魔」との対話は、イワンが本音をぶちまけるにふさわしい舞台なんです。そう認識したうえで、フョードル、イワン、アリョーシャによる先の対話を考え直してほしいんです。それがどれだけの重量をかけられた描写だったか。

 さて、最先端=亀山郁夫が先のフョードルとイワンとの会話についてどう書いていたでしょう?

 これまでのドストエフスキー論は、おおむねこのやりとりに過重な意味を見出し、ここに大きなテーマが提示されていると考えてきた。しかし、ここでのやりとりは、酒のうえでのとるにたらぬ話題にすぎないと考えられる次元の会話であり、それじたいに何の意味もない。アリョーシャが「いる」と答えるのは当然だし、イワンが「いない」と言うのも当然である。

亀山郁夫「解題」)


 全然違います。何が「イワンが「いない」と言うのも当然である」ですか。まったく「超」のつくほどの「最先端」です。もう一度いいましょう。誰かこの「最先端」を止めろよ、この「最先端」を何とかしろよ、と私は思います。こんな「最先端」にイワン・カラマーゾフがわかっていたはずもありません。また、そうなると、イワンとフョードルとの類似が正しく認識できていたはずもありません。最先端=亀山郁夫にはイワン・カラマーゾフのみならず、フョードル・カラマーゾフがまったくわかっていません。しかも、この場面にはもちろんアリョーシャがいたんです。この場面は、フョードルという人物をよく表現すると同時に、イワンがアリョーシャを意識的に試すということをも表現しているんです。もちろん、です。何だって私はわざわざこういわなくてはならないんでしょう? 全部、最先端=亀山郁夫のあまりの「最先端」ぶりのせいです。

「何でも好きなものから、はじめてください。《反対側》からでもかまいませんよ。だって兄さんは昨日お父さんのところで、神はいないと断言したんですから」アリョーシャは探るように兄を眺めた。
「俺は昨日、親父のところで食事をしながら、そう言ってお前をわざとからかったんだけど、お前の目がきらきら燃えあがったのがわかったよ」




(つづく)