(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 しかし、私はまだイワンとフョードルとについてしゃべっておくべきだろうと思います。ふたりが同根の考えを持っていたとはいいましたが、補足として、たしかに同根の考えを持ってはいたにせよ、実はふたりがどう違うのかということをしゃべりたいんです。
 私はこういいます。フョードル・カラマーゾフは個々の「人間の顔」に向き合っていました。ただし、ミーチャのような「他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりする」ふうにではないですよ。ここで、いささか的外れな引用をしてみますが、実はこれらは非常に大事なことなんです。

「フォン・ゾーンそっくりだ」だしぬけにフョードルが言った。
「またそんなことばかり言って……どうしてあの男がフォン・ゾーンに似てるというんです? あなた自身、フォン・ゾーンを見たことがあるんですか?」
「写真は見たよ。目鼻立ちじゃないにせよ、いわく言いがたい点が似てますな。まさに正真正銘フォン・ゾーンの複製だ。こういうことは、顔だちを見ただけでわかるほうでね」

(同)


「だったら、その神父に手紙を書くんですね、神父が取りきめてくれますよ」
「あいつにはそんな才覚はないよ、そこが厄介なところさ。あの神父はものを見る目を持たんのだ。人は実によくて、今すぐ受取りなしに二万ルーブル預けたって平気なくらいだけど、およそ人間離れしていて、ものを見る目がまるでないから、阿呆にだって欺されかねないよ。それでいて、学はあるんだから、おどろくじゃないか」
 ……(中略)……
「だったら、僕だって何もできやしませんよ。ものを見る目なんぞ、僕にだってありませんからね」
「まあ、待てよ。お前だって役に立つさ、やつの特徴をすっかり教えてやるから、ゴルストキンの。やつとはもう昔から商いをしているからな。いいか、やつの顎ひげを見ていなけりゃならないんだ。あいつは赤茶けた、貧相な細い顎ひげを生やしている。もし、顎ひげをふるわせて、当人がかっかしながら弁じたてるようなら、つまり幸先よしってわけだ。やつの言葉は本当で、取引きを望んでいるのさ。ところが、もし左手で顎ひげを撫でながら、へらへら笑っていたら、ごまかして、一杯食わす肚なんだ。やつの目は絶対に見ちゃいかんよ、目を見たって何一つわかりゃせん、見当もつかんよ、いかさま野郎だからな。顎ひげを見ることだ」

(同)


 ゴルストキンには、後でミーチャがひどい目にあっていますよね。

「お前は染物屋じゃないか!」
「とんでもない、わたしはカラマーゾフです、ドミートリイ・カラマーゾフですよ、あなたに相談があるんです……有利な相談が……とても儲かる話ですよ……例のあの森の件で」
 百姓はもったいぶって顎ひげを撫でた。

(同)


 フョードル・カラマーゾフには、個々の「人間の顔」と向き合う必要がありました。そうでないと、彼は財産を増やすことができないばかりか、生活もしていかれないんです。だから、彼はこれまでも実にたくさんの個々の「人間の顔」と向き合うことでやってきたんです。これは彼の死活問題です。そうやって彼は世のなかを渡ってきたんです。ある意味では、彼は自分が実際に向き合った個々の「人間の顔」だけを大事にしていたのでもあるでしょう。個々の「人間の顔」を自分がどう読み取るかということに彼の注意は集中していたでしょう。個々の「人間の顔」とどう取り引きするかということが、彼の全人生だったでしょう。それが、彼の人生の手触りであり、手応えでもあったでしょう。彼は確実な「人間の顔」をとらえようとしていたんです。「人間の顔」の見える確実な範囲で行動することにしていたわけです。これをいい換えると、フョードルは「限度」を知っていたということになります。
 しかし、イワンはそうではありません。彼は個々の「人間の顔」を見ようともしない。いきなり「人類全体」のことを考えるんです。彼は誰のことも軽蔑しています。彼にはフョードルの感じていた「人生の手触り」だとか「手応え」がありません。そういうものがあるのを承知していても、拒否してしまうんですね。「人間の顔」なんか邪魔なだけです。イワンにとって「人間の顔」とは、愛を妨げるものです。

「人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」

(同)


 そうして、イワンは個々の「人間の顔」に見向きもせず、一足飛びに「人類全体」のことを考えるんです。フョードルがけっして離れようとしなかった範囲 ──「人間の顔」が見える確実な範囲=「限度」 ── から逸脱します。イワンはフョードルよりもはるかに高度な思考を試みます。私の使ったことばでいえば、フョードルの「やり得」なんかは、イワンにしてみればものすごく「せこい」わけです。なぜなら、フョードルにとっては、「神や不死は存在」する懸念があるために、「やり得」もごく狭い範囲で、掠め取るようにしなくてはならないからです。もし「神や不死が存在」していたら、大変なことになりますからね。それがイワンには非常な醜態にしか思えません。何をびくびくしているんだ? だから、イワンは「神や不死は存在しない」と宣言するんです。「もし存在していたら、大変」なんてみみっちいことをいわずに、「存在しない」といい切るんです ── というのは、もちろん彼の「部分」です。べつの「部分」は「神や不死は存在している」と信じています。しかし、「存在している」なら、どうしてこの世のなかはこんなに愚劣なんだ? こうして彼は「信と不信の間を行ったり来たり」するんです。
 こういうイワンをフョードルならどう評価するでしょう? フョードル自身のことばを用いて、後にイワンがこんなことをいいます。

「イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模が違うやつがさ。それでも黙っているんだ。あいつはフリーメイソンだと思うよ。きいてみたんだけど、何も言いやしない。あいつの知恵の泉の水を飲んでみたかったんだが、何も言わないんだ。たった一度、一言だけ言ってたがね」
「何て言いました?」アリョーシャは急いで水を向けた。
「俺がこう言ってやったのさ。つまり、そうなると、すべてが許されるってわけかって。あいつは眉をひそめて、『うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ』と、こうだぜ。これはもうラキーチンより純粋だな」

(同)


 右の会話は、ラキーチンの話題から移ってきたもので、ミーチャはこういっていました。

「ところで、俺を苦しめるのは神だよ。それだけが俺を苦しめるんだ。神がなかったらどうだろう? そんなものは人類の作った人工的な観念だなんていうラキーチンの説が正しかったら、どうなるだろう? もし神がいなければ、そのときはこの地上の、この宇宙のボスは人間じゃないか。結構なこった! ただ、神がいないと、どうやって人間は善人になれるんだい? だれに感謝し、だれに讃歌をうたえばいいんだい? ラキーチンは笑いやがるんだ。ラキーチンは神がいなくたって人類を愛することはできる、なんて言うんだ。今日だって俺にこう言いやがったぜ。『そんなことより、市民権の拡張のために奔走するほうが利口だぜ、さもなけりゃ、せめて牛肉の値段が上がらないようにでもな。哲学なんぞより、そのほうが手っ取り早く簡単に人類に愛情を示せるからね』」

(同)


 さて、ラキーチンのことば「人類」にも注目しておいてほしいですね。ともあれ、もうひとつ再引用しますが、

「苦しみだって? ああ、きかないでほしいな。以前にはいろいろあったんだが、この節はもっぱら精神的なものがはやりだして、《良心の呵責》なんて下らんものになっちまった。これも君らの、《慣習の緩和》とやらのせいで、はやりだしたのさ。これで、だれが得をしたと思う。得をしたのは良心のない連中だけさ。なぜって、良心がまるでなけりゃ、良心の呵責もへちまもないからね。その代り、まだ良心や誠意の残っていたまともな人たちは苦しむようになったわけだよ……これだから、まだ準備もととのわぬ地盤に、それもよその制度をまる写しにした改革を行なうなんて、害をもたらすだけさ!」

(同)


 ラキーチンは「得をした」連中のひとりです。彼にはイワンと違って「良心の呵責もへちまもない」んです。
 しかし、ミーチャの「これはもうラキーチンより純粋だな」で対比されるべきラキーチンのことばはこちら。

「ところでラキーチンは神さまぎらいだな、大きらいなんだぜ! これがあいつらみんなの弱い点だよ! でも、隠してやがるんだ。嘘をついてやがる。芝居してやがるのさ。『どうなんだい、評論の分野でもこれを貫く気かい?』って俺がきいたら、『そりゃ、露骨には出さないさ』なんて言って、笑ってやがるんだ。『ただ、そうなったら、人間はどうなるんだい? 神さまも来世もなけりゃさ? とすると、今度はすべて許されるんだからな、何をしてもいいってわけか?』と俺はきいてみた。するとあいつは、『君は知らなかったのか?』なんて言って笑うじゃねえか。『利口な人間は何でもできるさ、利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。ところが君なんざ、人を殺して、パクられて、牢屋の中で朽ち果てるんだ!』この俺にこんなことを言いやがるんだぜ。まったくの豚野郎さ!」

(同)


 さて、それで「うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ」というイワンのことばですが、この文脈上、普通に読めば、フョードルには良心があった、つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? 輝くべきなのに! と考えていた、ということになるでしょう。ラキーチンなんかとは全然違うわけです。「まだ良心や誠意の残っていたまともな人たち」のひとりということです。イワンと同じです。しかし、このスタートの認識は同じでも、フョードルのような「だらしない子豚同然」なんかではない自分=イワンはもっと高度なことを考えている、ということです。
 で、「だらしない子豚」というイワンの用いたことばですが、フョードルの ──

「俺にとっちゃな」得意の話題に入ったとたん、一瞬しらふに返ったように、彼はにわかに元気づいた。「俺にとっちゃ……ええ、おい! お前らはまだ子供だし、小さな子豚も同然だから、わからんだろうが、俺にとって、これまでの生涯に醜い女なんて存在しなかったよ、これが俺の主義なんだ! お前たちにこれがわかるかい? わかるはずはないさな。お前らはまだ、血の代りにオッパイが流れてるんだし、殻が取りきれてないんだから!」

(同)


 ── 中の「小さな子豚も同然」を踏まえているでしょう。この会話の場に居合わせて、なおかついまミーチャから話を聞いているアリョーシャにはそれがわかったでしょう。
 イワンにしてみれば、「お前たちにこれがわかるかい? わかるはずはないさな。お前らはまだ、血の代りにオッパイが流れてるんだし、殻が取りきれてないんだから!」なんていわれるのは非常に心外なんですよ。どっちが「子豚同然」なんだか! と思っているんです。
 しかし、イワンは自分が若すぎることを意識もしていました。そうして、それを逆手に取りさえしていました。

「ほかの連中はともかく、俺たち、嘴の黄色い若者は別なんだよ、俺たちは何よりもまず有史以前からの永遠の問題を解決しなければならない、それこそ俺たちが心を砕くべき問題なんだ。今や若いロシア全体が論じているのも、もっぱら有史以前からの永遠の問題だけなんだよ」

(同)


 さらに、

「兄さんもその老人といっしょなんでしょう、兄さんも?」アリョーシャが悲痛に叫んだ。イワンは笑いだした。
「だって、こんなものはたわごとなんだぜ、アリョーシャ。いまだかつて二行の詩も書いたことのない愚かな学生の愚かな詩にすぎないんだよ。どうしてそうまじめに取るんだい? まさか俺が、キリストの偉業を修正する人々の群れに加わるために、これからまっすぐイエズス会の連中のところへ出かけて行くなんて、考えてるんじゃないだろうな? ええ、冗談じゃないよ、俺に何の関係がある? さっきも言ったじゃないか、俺はせいぜい三十まで生きのびりゃいいんで、そのあとは杯を床にたたきつけるだけさ!」
「じゃ、粘っこい若葉は、大切な墓は、青い空は、愛する女性はどうなるんです! どうやって兄さんは生きてゆけるんです? それらのものをどうやって愛するんですか?」アリョーシャが悲しそうに叫んだ。「心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか? いいえ、兄さんはきっとその連中の仲間に入りに行くにきまっている……もしそうじゃなければ、自殺するほかありませんよ、堪えきれずにね!」
「どんなことにも堪えぬける力があるじゃないか!」もはや冷たい嘲笑をうかべながら、イワンが言い放った。
「どんな力です?」
カラマーゾフの力さ……カラマーゾフ的な低俗の力だよ」
「それは放蕩に身を沈めて、堕落の中で魂を圧殺することですね、そうでしょう、ええ?」
「たぶんね、それも……せいぜい三十までなら、ことによると避けられるかもしれないし、そのあとは……」
「どうやって避けるんです? 何によって避けるんですか? 兄さんのような思想をいだいていて、そんなことは不可能ですよ」
「これもまたカラマーゾフ流にやるのさ」
「それが《すべては許される》ということですか? すべては許される、そうですね、そうなんでしょう?」

(同)


 イワンの「俺はせいぜい三十まで生きのびりゃいい」は、フョードルのようになりたくないということでもあります。イワンは、自分がいくら「カラマーゾフ流」にやっても、三十を過ぎればフョードルのようになってしまうと考えているでしょう。

 まだ「子豚同然」についていいますが、私は、以前に『カラマーゾフの兄弟』ロシア語原典における「人類」・「人類全体」・「全人類」と「人間」・「多くの人たち」・「すべての人々」とに当たる語を調べてもらったロシア文学に詳しい友人に、今度も訊いてみたんですが、フョードルの「子豚」もイワンの「子豚」も同じ単語です(複数形・単数形の違いはありますが)。その際、友人は次の箇所についても指摘してくれました。

「あいつが言ったんだ」疑念も許さずに、イワンがきっぱりと言った。「なんなら教えてやるけど、あいつはその話ばかりしていたよ。『君が善を信じたのは結構なことさ。話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから、というわけか。しかし、君だってフョードルと同じような子豚じゃないか、君にとって善が何だというんだ? 君の犠牲が何の役にも立たないとしたら、いったい何のためにのこのこ出頭するんだね? ほかでもない、何のために行くのか、君自身にもわからないからさ! ああ、何のために行くのか自分にわかるなら、君はどんな値でも払うだろうにね! まるで君は決心したみたいだな? まだ決心していないくせに。君は夜どおし坐って、行こうか行くまいかと、迷いつづけることになるだろうよ。でも、とにかく君は行くだろうし、自分が行くってことも知っている。君がどう決心しようと、その決心が君の意志によるものじゃないってことも、自分で承知してるはずだよ。君が行くのは、行かずにいる勇気がないからさ。なぜ勇気が出ないか、これは自分で推察するんだね。これは君に与えられた謎だよ!』」

(同)


 ついでにいいますが、これを思い出しませんか?

「彼女は今日は夜どおし聖母マリヤにお祈りすることだろうよ。明日の法廷でどう振舞えばいいか、教えてもらうためにな」突然彼はまた憎しみをこめて語気鋭く言った。
「それは……カテリーナ・イワーノヴナのこと?」
「そうさ。ミーチェニカの救世主になるか、それとも破滅者になるべきか? そのことをお祈りして、心の闇を照らしてもらおうというわけさ」

(同)


 もうひとつ、ついでです。「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」について。これも再引用です。

倦むことなく実行するがよい。夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思いだしたなら、すぐに起きて実行せよ。もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つ者がお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。

(同)


 どうですか? まさにそっくりそのままイワンのためにあるようなことばじゃないでしょうか? そして、イワンには絶対に受け入れられないことばでもあるはずです。

 おさらいしますよ。

 わが家に帰りつくと、彼は突然、唐突な疑問をいだいて立ちどまった。『今すぐ、これから検事のところへ行って、すべてを申し立てる必要はないだろうか?』彼はふたたびわが家の方に向きを変えて、この疑問を解決した。『明日、全部ひとまとめにしよう!』彼は心につぶやいた。と、奇妙なことに、ほとんどすべての喜びが、自分に対する満足が、一瞬のうちに消え去った。

(同)
(傍線は私・木下による)


 これに対しての、

 倦むことなく実行するがよい。夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思いだしたなら、すぐに起きて実行せよ。

(同)


 ── だったんですし、「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」に対する、

 もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つ者がお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。

(同)


 ── というわけです。

 どうですか? まるでイワンのために語られたことばみたいじゃないですか? そうして、イワンにこれらのことばを受け入れることができますか? もちろん、「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」なんてつもりじゃ駄目ですよ。イワンには相手に対して「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」のでなければならないんです。くどいようですけれど、イワンがアリョーシャの「あなたじゃない」を受け入れるためにも、誰彼に対しての「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」ということができなくてはなりませんでした。なぜか? 「あなたじゃない」を受け入れるためには、自分が「すべての人に対して罪がある」という自覚がなければなりませんから。しかも、この自覚は必ず「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。「ほかの人」との「つながり」が絶対に必要ですし、自分がへりくだって、「神の前」で無に等しい存在にならなければなりません。自分の「孤独」と「離反」を放棄しなくてはならないんです。イワンはこれを拒絶するんです。

 悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。もしも彼がそういう仕方で救われるのであれば、無論彼は喜んで救ってもらいたいのである。けれども救済の必要が更に深い意味において真剣に問題になる場合、特により高いものないしは最高のものによる救済が必要とせられるという場合、どのような仕方の救済も絶対に受け入れなければならないとしたら、これは屈辱である。あらゆることを可能ならしめる「救済者」の手のなかでは自己はほとんど無に等しきものとならなければならない、或いはまた単に他の人間の前に自分の身を屈しなければならないというだけのことにしても、とにかく彼は救助を求める限り彼自身であることを放棄しなければならない。このような屈辱に比すれば、よし彼がいま抱いている苦悩が疑いもなくどのように数多く、そして深刻であり、またいつ果てるとも知れないほどのものであるにしても、それはまだしも彼にとっては耐ええられるのであり、したがって自己はもしこのまま彼自身として存在することさえ許されるならばむしろこの苦悩の方を選ぶのである。




(つづく)