(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 さて、「悪魔」がイワンを籠絡しようとするには、イワンの「良心」の傷口に塩を塗りこめ、苦痛をもたらすことが必要でした。「悪魔」が持ち出す論点は必ずそこに触れるものでなくてはなりません。「悪魔」が執拗に攻撃するのは、イワンの弱点に対するものでなくてはなりません。「悪魔」はイワンの「信仰」を逆手に取り、逆説的に彼をやりこめなくてはなりません。「悪魔」からしてみれば、イワンが「信仰」していればいるほど、落としがいがあるんですよ。「信仰」すれすれの「不信」こそ「悪魔」の望むものなんです。それこそが「ダイヤモンド」なんですよ。イワンは神を信じています。しかし、彼は「ダイヤモンド」でもありつづけたいんです。彼が「ダイヤモンド」であることを保証してくれる存在こそが「悪魔」(=イワン自身)だというわけです。これがイワン・カラマーゾフです。

 さて絶望して彼自身であろうと欲するところのかかる苦悩者のうちに、意識がより多く存在すればする程、それだけまた絶望の度も強くなってそれはついに悪魔的なるものにまで至る。悪魔的なるものの根源は普通次のようなものである。絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、── いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って凶暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、── それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。このことが最後には非常に深く彼の脳裏に刻み込まれるので、彼は全く独自の理由からして永遠の前に不安を抱くことになる、── 永遠は彼が他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。彼は自分の具体的自己からの無限の抽象をもって始めた、しかるに今や彼はついにそのような仕方で永遠となることはとうてい不可能であるまでに具体的となった、── にもかかわらず彼は絶望的に彼自身であろうと欲するのである。ああ、何という悪魔的な狂想であろうか! 永遠がもしかしたら彼の悲惨を彼から奪い去ることを思いつくかもしれないということに思い至るとき最も凶暴になるというのは!


 しかし、私はイワンの「うちの親父はだらしない子豚同然だったけど、考え方だけは正しかったよ」についてしゃべっていたんでした。私は「普通に読めば、フョードルには良心があった、つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? 輝くべきなのに! と考えていた、ということになるでしょう」といいました。「普通に読めば」です。それで十分だともわかっています。でも、私はそうではなく、イワンのことばをある種の敗北宣言のように読んでしまうんですね。つまり、この世のなかはおかしいぞ、間違っているぞ、どうして「真理」が輝かないんだ? という同じ認識からスタートしているにもかかわらず、イワンと違って、フョードルが「人間の顔」の見える確実な範囲=「限度」から逸脱しようとしなかった ── 「人類」やら「すべてが許される」なんてものに踏み込まなかった ── ことについて、その手堅いやりかたについて「正しかった」とイワンがいったように思えてならないんです。イワンが自分の「限度」を超えた思想と、その思想を抱えることの苦しさとを嘆いたように思えてならないんです。
 また、彼はいっそのこと自分の抱えている思想はおろか、フョードルのレヴェルでの「真理」の認識さえも手放してしまえるなら、どんなにいいだろうとも考えているんです。「悪魔」がこういいます。

 僕はこの世界を歩きまわり、空想する。空想が好きだからね。おまけに、この地上にくると僕は迷信的になるんだよ。まあ、笑わないでくれたまえ。迷信的になるという、まさにその点が僕には気に入っているんだから。僕はここで君たちの習慣をことごとく受け入れる。銭湯へ行くのも好きになったよ。どうだい。商人や坊さんたちといっしょに、蒸風呂に入るのが好きなんだ。僕の夢はね、百キロもある太った商家のおかみさんになりきってしまう、それも二度と元に戻れぬよう決定的になりきって、おかみさんの信ずるすべてを信じきることなのさ。僕の理想は、教会へ行って、純粋な心で蝋燭をあげることだよ。ほんとだよ。そのときこそ、僕の苦悩に限界がくるんだ。


 もうひとつ。

「そりゃ、もちろん、人間たちは苦しんでいるよ、しかし……その代り、とにかく生きているじゃないか、幻想の中でじゃなくて、現実に生きているんだ。なぜなら、苦悩こそ人生にほかならないからね。苦悩がなかったら、たとえどんな喜びがあろうと、すべては一つの無限なお祈りと化してしまうことだろう。それは清らかであるけれど、いささか退屈だよ。それじゃ、この僕はどうだ? 僕だって苦しんでいる、でもやはり僕は生きていない。僕は不定方程式のXにひとしいんだ。初めも終りも失くした人生の幻影みたいなもんでね、ついには自分の名前まで忘れちまったくらいさ。笑っているのかい……いや、君は笑っていない、また怒ってるんだね。君はいつも怒ってばかりいるし、君には知性さえありゃいいらしい。でも、またぞろくりかえして言うけれど、僕は百キロもある商家のおかみさんの魂に宿って、神さまに蝋燭をあげることさえできるなら、そのために、あの星の上の生活や、いっさいの官位や名誉を棄てたっていいんだよ」

(同)


 それで、「百キロもある太った商家のおかみさん」についてちょっと。彼女について考えるとき、いつも私はあるべつの作家の作品を思い浮かべてしまうんですが、なぜそうなったのか、両者を結びつける誰かの文章をどこかで読んだことがあるせいなのか、それとも、これから私の引用する箇所についてだけの誰かの文章を読んだときに私が彼女のことを思い出したのか、どうしても思い出せないんですね。いまも、ネット上でいくらか検索してみたんですが、すぐには見つけられませんでした。もっとも、これまでにも誰かしらが必ずどこかで両者を結びつけているはずなんです。また、それをいうなら、私がここまで『カラマーゾフの兄弟』についてしゃべりつづけてきたことも同様なんです。
 私はここで引用する作品を十代の終わりに読んだんですが、いまほとんど内容を覚えていません。引用するにあたっても、作品全体を読み返していません。そういうわけで、どういう事情でふたりの人物が左のような会話をすることになったのか、わかりません。このことからも、私がやはりいつかどこかで、誰かが書いたこの会話についての文章を読んでいるに違いないと思われます。

「とにかく、ある晩、放送の前に、ぼくは文句を言いだしたことがあるんだ。これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いて行けと言ったんだよ。ぼくは怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな最低だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアはとにかく磨いて行けって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いて行けって言うんだよ。彼が何を言っているんだかぼくには分からなかった。けど、いかにもシーモア風の表情を浮べてたもんだからね、ぼくも言われた通りにしたんだよ。彼は『太っちょのオバサマ』が誰だかぼくに言わなかったけど、それからあと放送に出るときには、いつもぼくは『太っちょのオバサマ』のために靴を磨くことにしたんだ ── きみといっしょに出演したときもずっとね。憶えてるかな、きみ。磨き忘れたのは、せいぜい二回ぐらいだったと思うな。『太っちょのオバサマ』の姿が、実にくっきりと、ぼくの頭に出来上がってしまったんだ。彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から晩まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしているんだ。暑さはものすごいだろうし、彼女はたぶん癌にかかっていて、そして ── よく分んないな。とにかく、シーモアが、出演するぼくに靴を磨かせたわけが、はっきりしたような気がしたのさ。よく納得がいったんだ」
 フラニーは立っていた。いつの間にか顔から両手を放して、受話器を両手で支えている。「シーモアはわたしにも言ったわ」と、彼女は電話に向って言った。「いつだったか、『太っちょのオバサマ』のために面白くやるんだって、そう言ったことがあるわ」彼女は受話器から片手をとると、頭のてっぺんにほんのちょっとだけあてたが、すぐまたもとに返して両手で受話器を支えた。「わたしはまだ彼女がヴェランダにいるとこを想像したことがないけど、でも、とっても ── ほら ── とっても太い足をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ」
「そうだ、そうだ。よし、きみに聞いてもらいたいことがあるからね。……きみ、聴いてる?」
 フラニーは、ひどく緊張した面持で、うなずいた。
「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう ── きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分らんのかね? この秘密がまだきみには分らんのか? それから ── よく聴いてくれよ ── この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」

(J・D・サリンジャー「ゾーイー」 野崎孝訳 『フラニーとゾーイー』所収 新潮文庫


 さあ、どうでしょう?「百キロもある太った商家のおかみさん」も「太っちょのオバサマ」も「悪魔」(=イワン)、ゾーイー、フラニーにとって、「いったいこの自分に何の関わりがある?」という存在、自分から最も遠い存在であるはずです。「百キロもある太った商家のおかみさん」も「太っちょのオバサマ」も彼らにとってある種、侮蔑の対象 ── 自分が最もなりたくない存在 ── でしょう。おそらく、彼らの抱えているような悩みを抱くこともない存在、ある意味、彼らより知的にも、自尊心という点でもひどく劣った存在として想像されているでしょう。べつのことばでいうなら、「ダイヤモンド」から最も遠い存在です。だからこそ「悪魔」(=イワン)は、わざとでもそうなりたい、というわけです。
 しかし、サリンジャーによる、ゾーイーとフラニーとの会話は、そういう存在のために、そういう存在のためにこそ自分たちが何かをする、それが大事なんだ、というわけです。そのことによって、「太っちょのオバサマ」の意味は当初の意味から逆転します。それは、そういう認識に立ったゾーイーとフラニーが彼女より下に立つということです。

 また、ゾーイーの「スタジオの観客なんかみんな最低だ、アナウンサーも低能だし、スポンサーも低能だ、だからそんなののために靴を磨くことことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね」は、イワンの「話を信じてもらえなくたってかまわない、俺は主義のために行くんだから」あるいは「あんな百姓どもにほめてなんぞもらいたくないよ!」と呼応してもいるでしょう。
 サリンジャーは必ず『カラマーゾフの兄弟』の「百キロもある太った商家のおかみさん」を意識していたでしょうし、彼がもっと後に書いた「シーモア ─ 序章 ─ 」のエピグラフにはキルケゴールの『死に至る病』が引かれています(この箇所はまた後で引用します)。

 それはさておき、こうして『カラマーゾフの兄弟』から「ゾーイー」へと連想が働いてみると、今度はそこから、これを思い出しますね。ロシアの民衆についてのゾシマ長老のことばです。

『お前さんは身分も高いし、金持で、頭もいいし、才能もある。結構なことだ、神さまが祝福してくださいますように。わたしはお前さんを尊敬する、でも、こんなわたしもやはり人間であることを知っているんだ。妬みもせずにお前さんを尊敬することによって、わたしはお前さんに人間的な徳を示しているんだよ』実際にはこんなことは言わぬにしても(なぜなら、まだこんな気のきいたことを言うすべを知らないのだ)、そんなふうに振舞っているのを、わたしはこの目で見たし、経験もしてきた。そして本当の話、わがロシア人は、貧乏で地位が低くなればなるほど、ますますこの美しい真理が顕著になるのだ。


 あるいは、

 必要なのはごく小さな一粒の種子にすぎない。その種子を民衆の胸に投げこんでやれば、それは死ぬことなく、一生その胸に生きつづけ、心の闇の中に、罪の悪臭のただなかに、明るい一つの点となり、大きな警告としてひそみつづけることだろう。だからあれこれと説き、教えこむ必要はない。民衆はすべてを素朴にわかってくれるのだ。諸師は民衆が理解してくれないとでも思っておられるのか?

(同)


 あるいは、

「本当にね」わたしは答えた。「何もかもがすばらしく、美しいからね。それというのも、すべてが真実だからだよ。馬を見てごらん、人間のわきに寄り添っているあの大きな動物を。でなければ、考え深げに首をたれて、人間に食を与え、人間のために働いてくれる牛を見てごらん。牛や馬の顔を見てごらん。なんという柔和な表情だろう、自分たちをしばしば無慈悲に鞭打つ人間に対して、なんてなついていることだろう。あの顔にあらわれているおとなしさや信頼や美しさはどうだね。あれたちには何の罪もないのだ、と知るだけで心を打たれるではないか。なぜなら、すべてみな完全なのだし、人間以外のあらゆるものが罪汚れを知らぬからだよ。だから、キリストは人間より先に、あれたちといっしょにおられたのだ」

(同)


 もうそうなると、当然に、

 兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得するすべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる、悪人でも愛するだろう。青年だった私の兄は小鳥たちに赦しを乞うたものだ。これは無意味なようでありながら、実は正しい。なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。小鳥に赦しを乞うのが無意味であるにせよ、もし人がたとえほんのわずかでも現在の自分より美しくなれば、小鳥たちも、子供も、周囲のあらゆる生き物も、心が軽やかになるにちがいない。もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい。それを知ってこそ、小鳥たちに祈るようになるだろうし、歓喜に包まれたかのごとく、完璧な愛に苦悩しながら、小鳥たちが罪を赦してくれるよう、祈ることができるだろう。たとえ世間の人にはどんなに無意味に見えようと、この歓喜を大切にするがよい。

(同)


 というより、もう私はゾシマ長老のことばの全文を引用したいくらいなんですね。
 私のいいたいのは、こうです。
 ゾーイーの「この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ」を、私は『カラマーゾフの兄弟』の読者としてこう読み換えます。「太っちょのオバサマ」にこそキリストはついていてくれるんですよ。このとき、ゾーイーにもフラニーにも確実に「太っちょのオバサマ」の「人間の顔」が見えています。

「『太っちょのオバサマ』の姿が、実にくっきりと、ぼくの頭に出来上がってしまったんだ。彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から晩まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしているんだ。暑さはものすごいだろうし、彼女はたぶん癌にかかっていて、そして ── よく分んないな」

(J・D・サリンジャー「ゾーイー」 野崎孝訳 新潮文庫


「わたしはまだ彼女がヴェランダにいるとこを想像したことがないけど、でも、とっても ── ほら ── とっても太い足をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ」

(同)


 しかも、ふたりはそんな「太っちょのオバサマ」のためになにかをする、それが大事だ、というふうに考えているわけです。

 さて、この世界に存在する無数の「太っちょのオバサマ」たちが、イワンには「非力な反逆者ども」・「《嘲弄されるために作られた実験用の未完成な存在たち》」=「人類」なんてものにされてしまうんです。つまり、イワンには「太っちょのオバサマ」の「人間の顔」が全然見えていない。それどころか、彼は見ようともしないんです。

 しかし、あなたは「太っちょのオバサマ」たちの「人間の顔」を見なくてはなりません。またも引用しますが、その姿勢は、

 もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つ者がお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫

(傍線は私・木下による)


 ── なんです。なぜなら、あなたには「すべての人に対して罪がある」からです。私はずっと同じことばかり繰り返していますが、どうでしょう? これで私のいいたいことがわかってもらえたでしょうか? そして、「すべての人に対して罪がある」という自覚には必ず、「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。そうでなければ、この自覚は持ちこたえることができないでしょう。ここでは本当に他の誰彼との「つながり」が大切なんです。その「つながり」とは、ゾシマ長老のいう「すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一個所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである」でいわれているような「つながり」です。また、ミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりする ── の、その「つながり」でもあります。ところが、イワンには誰に対しても「決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕える」ことができません。だから、彼は「孤独」と「離反」とに陥り、「悪魔」(=自分自身)と対話するんです。

 イワン・カラマーゾフはそういう人物です。彼は分裂していて、「信と不信の間を行ったり来たり」します。「信仰」すれすれの「不信」にいます。「不信」も同然の「信仰」にいます。「とにかく同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」人物、悪魔にとっての「ダイヤモンド」です。しかし、彼にはどうしても神の前に自分を投げ出し、へりくだることができません。彼は神の前で頭をさげず、一個の「ダイヤモンド」としてありつづけたいんです。彼は一方で「讃歌」を歌いたい。他方、彼はすべてを見届けたい。神にすべてを委ねるなんてまっぴらです。

 そんな人物を表現することがどんなに難しいことであるかを考えてみてください。イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』において不確定的な表現ばかりで描かれているのは、そういう事情によるものです。繰り返しますが、作品の構造上でも、イワンのこの不確定的なものに対して加えられる一撃 ──「あなたじゃない」── は必ず確定的なものでなければなりません。不確定的なものに対する一撃が同じく不確定的なものであってはならないんです。不確定的なものを動揺させるもの、破壊するものは必ず確定的なものでなくてはならないんです。「あなたじゃない」に一切のあいまいさはありません。
「悪魔」はイワンを不確定的なもののなかに隔離します。彼を不確定的なところに留めおこうとするわけです。「悪魔」は「ダイヤモンド」をさらに磨かれたものにしようとするんです。イワンには自分でこのからくりがわかっています。わかっているということが、まったく始末に負えないわけです。彼は自身「ダイヤモンド」でありたいんです。彼はこの誘惑に勝てません。

(つづく)