(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 さて、私はこれから「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」についてしゃべるつもりなんですが、その前にちょっとだけ寄り道をして、もう一度、最先端=亀山郁夫の例の文章に戻ります。

 ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる。ゾシマは、傲慢が生みだす悲劇を身をもって体験した。決闘のエピソードが示すように、彼自身ジラールの「三角形的欲望」のとりこだったことは疑いようがない。「三角形的欲望」の源にあるものこそ、傲慢である。その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、もちろんそれは、みずからの「傲慢」を最終的に克服するための第一歩にすぎなかった。ともあれ、この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもない、「謎の訪問客」である。

亀山郁夫「解題」)


 これは「ゾシマ長老の回想と説教 ── 大成の道」という小見出しを付けられた文章の一部なんですが、この文章、まず出だしからこんなふうです。

 人間は大きな罪を経て、はじめてある世界に到達できるというゾシマ長老の考え方は、現代社会においてはとうてい受け入れがたい、ほとんど不可能に近い信念ではないだろうか。とりわけ競争のはげしい現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られる。

(同)


 最先端=亀山郁夫が「大きな罪」というのは、むろん例の「法的にどうか」という観点からの「罪」── たとえば殺人とか強盗 ── ですね。そうでなければ、「現代社会では、人は、少しでも罪を犯したら終わりであり、命とりとなり、脱落を迫られ」ることがありません。ということは、つまり、人間は、たとえば殺人を犯すことによって「はじめてある世界に到達できる」、それが「大成の道」だ、ということになります。何ですか、これは? で、いったい誰の信念なんですって? 誰がそんなことを説いているのか?

 最先端=亀山郁夫はこうつづけます。

 ではゾシマの教えに、どのような可能性、現代性があるのだろうか。わたしたちは、小説世界に閉じられたものとして、その教えを受け入れざるをえないのか。

(同)


 つまり、現代では「大成」したくても、おいそれと殺人なんかできないなあ、どうしたらいいんだろう? ということです。

 これ以前にべつの箇所で、最先端=亀山郁夫はこう書いていました。

 では、この長老に果たして「偉大な罪人」と呼べるだけの試練はあったのだろうか。長老の残した「談話」は、むしろ長老の経験の欠落を暗示していないか。彼はどのような「穢れ」をまとうことにより、今の聖性の高みに到達することができたのか。

(同)


 これが典型的な「最先端=亀山郁夫的読書」です。すぐに「偉大な罪人」だの「聖性の高み」だの、作品に勝手な余計な意味をもたせて、派手な「まとめ」をやらかす読書です。そういう読みかただから、ゾシマ長老にも他人にいえない派手な犯罪を期待してしまうんです。ひどすぎる。私は『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、「偉大な罪人」だの「聖性の高み」だのを思い浮かべたことなんか一度もありません。いいですか、ゾシマ長老はごくふつうの人間ですよ。彼を妙なふうに特別扱いした読みかたで読んではなりません。ただ作品中に描かれたそのままの人物像を読めばいいだけです。いいですか、作品を自分に合わせちゃ駄目なんですよ。自分を作品に合わせるんです。作品を自分の貧弱な想像力に見合ったものに変えて、ないものねだりの読書なんかしちゃいけません。

 しかし、話を戻しましょう。
 最先端=亀山郁夫はこうつづけます。

 ゾシマ長老の教えが現代的な問題を深くはらむとすれば、それは「すべてに対して罪がある」という思想である。長老の教えの核心にあるものこそ、この思想であり、その意味でも「謎の訪問客」は、はかりしれず重要な意味を担うエピソードといえる。

(同)


 何が「ゾシマ長老の教えが現代的な問題を深くはらむとすれば」ですか? 最初から「「すべてに対して罪がある」という思想」についてだけをいっていればよかったものを。ともあれ、いま私が指摘したことだけで、最先端=亀山郁夫の読書が最先端だということがおわかりいただけたと思います。彼の「解題」は「作品を自分の貧弱な想像力に見合ったものに変えて、ないものねだりの読書」をした者のでたらめの集積です。こんな最先端が「翻訳者」だというわけです。

「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう。それだけをそのまま受け取れば、たしかに間違ってはいません。しかし、最先端=亀山郁夫にはその「傲慢」の意味がわかっていません。

 人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代りに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできるかぎり、この精神で行うことだ。なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりもずっときびしく自分を裁くにちがいないからである。かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れていないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。このことを信ずるがよい。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。
 倦むことなく実行するがよい。夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思いだしたなら、すぐ起きて実行せよ。もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら……

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。地位高き者をも、力強き者も恐れてはならぬ、だが、賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

(同)
(傍線は私・木下による)


 わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成を妨げるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」なとと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう。ところが、自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ。

(同)
(傍線は私・木下による)


「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう。しかし、「傲慢を捨てる」だけでなく、さらにずっとへりくだることをゾシマ長老は説いているんです。いや、もしかしたら、「傲慢を捨てる」ことがそのまま「へりくだる」ことなのかもしれません。つまり、傲慢と謙遜とに中間はないのかもしれません。とはいえ、最先端=亀山郁夫が「傲慢」の意味をわかっていないと私がいう理由はそれだけではありません。でも、それについてしゃべるのは、もっと後回しにします。

 さらに枝分かれした先の隅っこへと寄り道をしますが、私は、先の最先端=亀山郁夫の文章中にある「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……」について、以前にこう書いたんでした。

「その彼」というのはゾシマなんですが、彼が修道院への道を踏み出したのは、「謎の訪問客」に出会う以前なんですよ。「謎の訪問客」は、決闘を放棄して、軍籍を離れ、修道僧になろうとしている奇妙な人物ゾシマの評判を聞きつけてやって来たひとたちのひとりなんです。それなのに、なぜ亀山郁夫は「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんて書くんでしょうか? もうこれが理解できない。めちゃくちゃです。あまりに杜撰です。雑に過ぎる。わざとやっているのか? それとも、彼は本当にこの小説を訳したのか? でなければ、「解題」を誰かべつの無能な人物に代筆させているのか? 最悪なのが、小説を訳した人物と「解題」を書いた人物とが同一である場合です。最悪なのか? 最悪なんだろうなあ。 ── とまあ、こういうことです。


 そうして、その私の文章と、それを引用した木下豊房の文章とを受けた最先端=亀山郁夫がNHKテキストで自分の誤りをごまかそうとしているだろうと疑ったんでした。最先端=亀山郁夫はNHKテキストでこう書いていたんですね。

「ああ、これがはたして嘘だというのだろうか? 泣きながらわたしは思った。もしかすると、このわたしこそ、すべての人々に対してほかのだれよりも罪深く、地上のだれにもまして悪い人間なのではないか?」
 決闘場に立った彼は、相手に向かって銃を放つことを拒否します。それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした
 第六編「ロシアの修道僧」には、この回心のエピソードにつづいて、もう一つの魅力的なエピソード「謎の訪問客」が記されています。長編小説のなかにエピソードが入れ子細工のように挟まれる構造は、ドストエフスキー文学の魅力のひとつですが、この「謎の訪問客」はたんなる余興としての面白さを超えて、『カラマーゾフの兄弟』全体のテーマに迫る強烈な問題性をはらんでいるように私には思えます。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」)
(傍線は私・木下による)


 さて、そもそも最先端=亀山郁夫がなぜ「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、……」なんてことを書いたのかというと、おそらくこうです。彼は以下の文章を読み誤ったんです。「最先端=亀山郁夫的読書」です。

「あの晩、真夜中にわたしが二度目に訪ねて行ったのを、おぼえているかい? そのうえ、おぼえておくように言っただろう? 何のためにわたしが行ったか、わかるかね? あれは君を殺しに行ったんだよ!」
 わたしは思わずぎくりとした。
「あの晩、君のところから闇の中に出て、通りをさまよいながら、わたしは自分自身と戦っていた。そしてふいに、心が堪えていられぬほど、君が憎くなったんだ。『今やあの男だけが俺を束縛している。俺の裁判官なんだ。俺はもう明日の刑罰を避けることができない。だって、あの男が何もかも知っているからな』君が密告するのを恐れたわけじゃなく(そんなことは考えもしなかった)、こう思ったのだ。『もし自首しなければ、どうしてあの男の顔を見られるだろう?』たとえ君が遠く離れたところにいようと、生きているかぎり、しょせん同じことだ。君が生きており、何もかも知っていて、わたしを裁いている、という考えが堪えられないからね。まるで君がすべての原因であり、すべてに罪があるかのように、わたしは君を憎んだ。そこでわたしは君のところへ引き返したんだよ。テーブルの上に短剣があったのを、今でもおぼえているよ。わたしは坐り、君にも坐るように頼んで、まる一分というもの考えつづけた。もし君を殺せば、たとえ以前の犯罪を自白せぬとしても、どのみちその殺人のために身を滅ぼしたにちがいない。でも、あの瞬間、そんなことは全然考えなかったし、考えたくもなかった。わたしはただ君を憎み、すべての復讐を精いっぱい君にしてやりたかっただけなんだ。だけど、神さまがわたしの心の中の悪魔に打ち克ってくださった。それにしても、いいかい、今までに君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ
 ……(中略)……
 ……だが、わたしは沈黙を守り、間もなくすっかり町を離れて、五カ月後には、これほどはっきり道を示してくれた、目に見えぬ主の御指を祝福しながら、主の思召しによって揺るぎない荘厳なこの道に踏みこむ栄に浴した。しかし、苦しみ多かった神のしもべミハイルのことは、いまだに毎日、お祈りの中で思い起しているのである。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 傍線部「これほどはっきり道を示してくれた、目に見えぬ主の御指を祝福しながら、主の思召しによって揺るぎない荘厳なこの道に踏みこむ栄に浴した」は、ただ単に「それにしても、いいかい、今までに君はあれほど死に近づいたことはなかったんだよ」に対応しているだけのことですよ。ゾシマが修道僧になることはもう確定していました。修道僧になろうとしているゾシマを、殺人者から神が守ったということです。だからこそ、いよいよゾシマは神に感謝しつつ、「これほどはっきり道を示してくれた」というんです。しかし、最先端=亀山郁夫はこの部分から、「その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志す」なんてことを読み取ってしまうんですね。さらに、自分の誤りを指摘されると、訂正するのでなく、「決闘」を「最初のきっかけになった経験」などといって、糊塗するわけです。

 いやはや、こんな「最先端」、こんな低レヴェルの読み取りにいちいち批判の文章を書かなくてはならない ── 何と、もうじき一年になろうとしているじゃないですか ── 私自身にもうんざりしてきます。でも、しかたがありません。「最先端=亀山郁夫的読書」をするひとの数が恐ろしく多いからです。私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を守るために、「最先端=亀山郁夫的読書」を粉砕しなくてはなりません。いいですか、「最先端=亀山郁夫的読書」による翻訳者の『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』じゃないんですよ。何度でもいいます。最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』はでたらめだらけの偽物です。

(つづく)