(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 しかし、先へ進みましょう。
「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」について、私はしゃべろうとしていたんでした。

 私はここまで『カラマーゾフの兄弟』におけるイワン・カラマーゾフについての表現がどれだけ語り手にとって困難なものであったかを ── 寄り道をしつつ、過剰に引用を重ねながら ── しゃべってきたわけですが、そこで、イワンの経験することをゾシマ長老のことばに対比させてきました。どうでしょう? まるで誂えたようにそれらは呼応していたんじゃないでしょうか?

 それで、私はゾシマ長老のことばを、語り手による地の文章とアリョーシャによる「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉から」との別なく引用していました。しかし、実は、両者は区別されなければなりません。

 この両者を区別することが、アレクセイ・カラマーゾフという人物への理解を深めることになるでしょう。

 おそらく『カラマーゾフの兄弟』の読者のほとんどが、「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」によってはじめてゾシマ長老という人物に親しみを覚えたはずだと思います。この部分にいたるまでの大方の読者は、語り手が何とか否定しようと試みたにせよ、「長老」を何かいかめしい、特別の権威であって、それが自分たちふつうの人間からかけ離れているものだという印象を持ちつづけていただろう、と思うんです。ところが、ここへ来て、そうではないとわかります。ここまで来ると、ゾシマ長老の声がまったく柔らかく親しみ深いものとして聞こえてくる ── そういう経験をしただろうと思うんです。そういう読者が『カラマーゾフの兄弟』を再読すると、ゾシマ長老の声はもはや最初から、その柔らかく親しみ深いものとして聞こえてきます。

 それは、逆にいうと、語り手が自身の語りで語ったゾシマ長老の声が、べつの人物(アリョーシャ)による語りで語られたゾシマ長老の声としっかり重なるということでもあります。

 ここで断わっておかねばならないが、長老が生涯の最後の日に訪れた客人たちと交わした最後の説話は、ある程度、書きとどめられて残された。長老の死後しばらくして、アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフが記念に書きとどめたのである。しかし、それが完全にその時の説話そのままであるか、あるいは彼がそれまでの師との対話からもこの記録に付け加えたのか、わたしには何とも決められない。おまけに、この記録では、まるで長老が友人たちに向って自分の一生を物語の形で述べたかのように、説話が少しの切れ目もなくつづいているのだが、これにつづくいくつかの話から判断すると、疑いもなく、実際はいささか事情が異なっていたようだ。なぜなら、たとえ客人たちが主人の話をほとんどさえぎらなかったとはいえ、この晩の話はみなで交わしたものであり、だれもが会話に口をはさんで、自分も発言し、おそらく自分たちも何かの話を語ったり、披露したにちがいないのだし、そのうえ、この物語がこれほど淀みなく語られることなどありえないからだ。


 今は、説話の細部まですべて述べることをせず、むしろアレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの原稿にもとづく長老の物語にだけに限ることを、断わっておきたい。くりかえして言うが、もちろん大部分はアリョーシャがこれまでのいろいろな説話からも選んで、一つにまとめたものであるとはいえ、このほうが簡潔であるし、それにさほど退屈でもないだろう。

(同)


 アレクセイ・カラマーゾフの手記はここで終っている。くりかえして言うが、これは完全なものではなく、断片的なものだ。たとえば伝記的資料にしても、長老の青春時代のごく初期を含むにすぎない。また長老の説教や見解から、明らかにさまざまな時期に、いろいろな動機から語られたと見られるものが、一つのまとまったもののように集められている。いずれにせよ、長老が生涯の最後の数時間に語ったことは、正確に指定されておらず、アレクセイ・カラマーゾフが以前の説教から手記に収めた部分と対比すれば、その法話の性格や真髄について概念が得られるというにすぎない。

(同)


 こうして、アリョーシャの編纂した文章は小説の語り手が公認したものです。語り手は、この文章が作品の全体を語る自分の意図と齟齬をきたすことがない、あるいは、まさにぴったりのもの・好都合なものである、と判断したということです。それだけでなく、この文章がアリョーシャ自身を如実に表現することにもなる、と考えてもいたでしょう。そうでなければ、ここをアリョーシャに委ねたりはしません。

 逆に語り手はアリョーシャ自身を描くのに、このアリョーシャの原稿から引用しさえしますよね。

 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝らの喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うたのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天上のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想と言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった……

(同)


 注目すべきことは、このときアリョーシャが自分でゾシマ長老のことばそのものを意識していたのではない、ということです。「何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかった」んですよ。もしかすると、彼の「魂」に「ひびいた声」は、ゾシマ長老の「声」で聞き取れていたのかもしれません。しかし、彼はこのとき、ゾシマ長老を想起しなくても、大地を抱きしめていたんです。あるいは、それほどゾシマ長老の教えが彼の身にしっかりと根づいていたということなのかもしれません。アリョーシャが後になって、そうだ、あれはゾシマ長老のいっていた通りだった、と気づいたのかもしれません。わかりません。ともあれ、語り手は、アリョーシャを描写するのに、実はアリョーシャ自身の文章から引用しているんです。

 少し前に私はこういいました。

 また、おそらくは、やはり語り手がこの作品の主人公をアリョーシャだとしたいからでもあるでしょう。つまり、アリョーシャから離れないようにしながらイワンを語ることだけが語り手にとって重要だということでしょう。


 いま私はもしかすると非常に重要なことに触れているのかもしれないと思いますが、それはさておき、話を戻して ──

 私は何がいいたいのか?

 孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 この地上では多くのものがわれわれから秘め隠されているが、その代りわれわれには、他の世界、天上の至高の世界と生きたつながりを有しているという、神秘的な貴い感情が与えられているし、またわれわれの思考と感情の根はこの世ではなく、他の世界に存するのである。事物の本質はこの地上では理解できないと哲学者が言うのは、このためにほかならない。神は他の世界から種子をとって、この地上に播き、自分の園を作られた。だからこそ、生じうるものはすべて生じたのである。だが、その育てられたものは、もっぱら神秘的な他の世界と接触しているという感情によって生き、溌剌としているのであって、もしその感情が弱まったり消えたりすれば、自己の内部に育てられたものも死んでしまうのだ。そうなれば、人は人生に無関心になり、それを憎むようにさえなるのである。わたしはそう考える。

(同)
(傍線は私・木下による)


 青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。また、このこともおぼえておくがよい。毎日、できるときでよいから、『主よ、今日御前に召されたすべての人を憐れみたまえ』と、たえず心の内でくりかえすのだ。それというのも、毎時毎分、何千という人がこの地上の生を棄て、その魂が主の御前に召されてゆくのだが、そのうちのきわめて多くの人が、だれにも知られず、悲しみと愁いのうちに一人淋しくこの世に別れてゆくのであり、だれも彼らを憐れむ者はなく、そんな人たちがこの世に生きていたかどうか、それさえまったく知らないからなのだ。と、そのとき、地球の反対の端からお前の祈りが、たとえお前がその人をまったく知らず、先方もお前を知らぬにしても、その人の安らぎをねがって主の御許にのぼってゆくにちがいない。恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にもまだ自分を愛してくれる人間が残されていると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前より慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだ。そしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。

(同)
(傍線は私・木下による)


 私は何がいいたいのか?

 私がいいたいのは、編纂者アレクセイ・カラマーゾフが、自分の聞き取ったゾシマ長老のことばを、この『カラマーゾフの兄弟』に描かれている一連の出来事を経験した者として記しているということです。それは何を意味しているか? ここに記されているゾシマ長老の教えは、アリョーシャの理解しえた範囲でのものだということです。そこには、彼が漠然としか予感しえないものも含まれるかもしれませんが、とにかく、彼は自分がまったく理解しえなかった教えを書き記すことはできません。文章というのはそういうものです。
 それにもかかわらず、ゾシマ長老のしゃべったそのままを書けばいいじゃないか、などと考えるひとがいるなら、大間違いです。そのひとは文章というものがまったくわかっていません。
 私はパンフレット『故ゾシマ長老の生涯』の著者ラキーチンにも、アリョーシャが書いたようにはけっして書けやしないし、しかも、同じゾシマ長老のことばがふたりによってまったくべつの位置づけ、意味づけをされている箇所もかなりの数になるだろう、といっているんです。これに同意できないひとがいますか? います。そういうひとの考えが最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を是とする温床です。つまり、目の前にあるこの作品のロシア語原典の一文一文をそのまま訳していけば、それでこの作品全体の翻訳が完成だと考えるわけです。まったくの誤りです。『カラマーゾフの兄弟』に書かれている原典の文章のいちいちについて、それらが全体のなかでどういう意味を持つものなのか、力点はどこにあるのか、それらはどちらを向いているのか、などなど ── 全体の構造がどうなっていて、細部がどちらを指向しているのか ── を理解しえないひとに作品の翻訳なんかできるわけがないんですよ。たとえば、最先端=亀山郁夫がアリョーシャに代って、ゾシマ長老のことばを編纂したなら、どんなことになるでしょうか? アリョーシャの文章すらろくに読み取れないこの最先端なんかの手にかかれば、さぞかし扇情的で軽薄な代物が出来上がることでしょう。このことがわからないひとは、もう「文学」から足を洗え、とまたしても私はいっておきます。

 これも再引用します。

 哲学においては、論拠がちがう同じ主張なんてものはそもそも存在しない。

永井均『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書


 それにしても、私は何がいいたいのか?

 アリョーシャは、自分の聞き取ったゾシマ長老のことばを自分がどう受け止めたか・どう理解したかのみならず、他の誰彼に対してどう伝えるか、ということを考えなくてはなりませんでした。そのうえで書かれた文章なんです。

 いいですか、「たかだか二十歳になるかならずだった」若者の文章なんですよ、これは。しかし、アレクセイ・カラマーゾフは恐ろしく頭がいい。もしかすると、イワンにひけを取らないほど優れた知性の持ち主じゃないでしょうか。彼が、いわば天真爛漫に・無邪気に神を信じているなんて考えてはいけません。それどころか、彼は、兄イワンに何が起こっているのかを正確に見極められるほど「不信」について知っていたんです。いうまでもなく、これはゾシマ長老もです。アリョーシャとゾシマ長老とは、確かに「信仰」のひとではあるでしょうが、「不信」のからくりについても熟知していました。だからこそ、ふたりは力を尽くして「信仰」を誰彼に説く ──「あなたじゃない」をいいつづける ── んです。このことを認識して読むか読まないかということが『カラマーゾフの兄弟』の読書において、読者の読み取りの重大な分かれめにもなるでしょう。

 私はだいぶ以前 ── およそ十か月前 ── にこういいました。 

 イワンの心中を正確に見通していたアリョーシャは、「謙遜な勇気」を持って、イワンのために、献身的にことばを発したんですよ。アリョーシャの勇気はそういう性質のものです。そうして、これはゾシマ長老にもいえることで、このふたりは、他人の心理を洞察することに長けているんです。犯罪者の心理にまで、その洞察の範囲は及んでいるでしょう。アリョーシャがリーザにいった「僕もそれとまったく同じ夢を見ますよ」もおぼえておいてほしいですね(それを受けてリーザが、彼には何でも話せる、というんでした)。こういうアリョーシャだから、イワンに「あなたじゃない」といってやることができるんです。もしかすると、これを悪用することができるのじゃないか、という疑いも生じるかもしれませんが、おそらく、彼らの洞察力の基盤は「信仰」── あるいは、「善意」でしょうか。あるいは、人間を尊重する心でしょうか ── にあります。「信仰」なしに、この洞察力がどこまで力を発揮するのか、疑問ですね。しかし、亀山郁夫には彼らのすごさがこうした洞察力にあるということがわかっていません。だから、「聖性」だの「聖人」だの「予言」だのということを大げさなやりかたで持ち出さなくてはならなくなるんです。「来るべき聖人」なんてどうでもいいし、そもそもゾシマ長老だってそういう「聖人」なんかじゃありません。


 それはともかく、アリョーシャ編纂によるゾシマ長老のことばは、単にゾシマ長老のことばであるだけでなく、アリョーシャの理解の範囲内のものであること、アリョーシャが他の誰彼に伝えたいことでもあることに念を押しておきます。しかも、アリョーシャはそれをいわば自戒の糧ともしなくてはならなかったでしょう。
 ここでは、教えを実行しようとする者がすぐにもぶつかるはずのいくつもの障害について先回りがなされ、励ましが与えられます。その励ましは、励まし手自身にも向けられているはずです。

 もしかすると、僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。


 しばらく前とそっくり同じ引用をし、同じ私の意見を繰り返します。

 かりに罪人がお前の接吻にまったく冷淡で、せせら笑いながら立ち去ったとしても、それに心をまどわされてはいけない。これは取りも直さず、まだその罪人の時が訪れていないからであり、やがていずれ訪れるだろう。たとえ訪れなくても、しょせん同じことだ。彼でなければ、他の者が彼の代りにさとり、苦しみ、裁き、みずから自分を責めて、真理は充たされるだろう。このことを信ずるがよい。疑いなく信ずることだ。なぜなら、聖者のいっさいの期待と信頼はまさにその一事にかかっているからである。

(同)


 また、光を与えたのに、その光の下でさえ人々が救われないのに気づいたとしても、いっそう心を強固にし、天の光の力を疑ったりしてはならない。かりに今救われぬにしても、のちにはきっと救われると、信ずるがよい。あとになっても救われぬとすれば、その子らが救われるだろう。なぜなら、お前が死んでも、お前の光は死なないからだ。行い正しい人が世を去っても、光はあとに残るのである。人々が救われるのは、常に救い主の死後である。人類は予言者を受け入れず、片端から殺してしまうけれど、人々は殉教者を愛し、迫害された人々を尊敬する。お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。なぜなら、それでなくてさえお前にはこの地上ですでに褒美が与えられているからだ。行い正しき人のみが獲得しうる、精神的な喜びがそれである。地位高き者をも、力強き者も恐れてはならぬ、だが、賢明で、常に心美しくあらねばならぬ。節度を知り、時期を知ること、それを学ぶがよい。孤独におかれたならば、祈ることだ。大地にひれ伏し、大地に接吻することを愛するがよい。大地に接吻し、倦むことなく貪婪に愛するがよい。あらゆる人々を愛し、あらゆるものを愛し、喜びと熱狂を求めるがよい。喜びの涙で大地を濡らし、自分のその涙を愛することだ。その熱狂を恥じずに、尊ぶがよい。なぜなら、それこそ神の偉大な贈り物であり、多くの者にでなく、選ばれた者にのみ与えられるものだからである。

(同)


 どうですか?

 お前は全体のために働き、未来のために実行するのだ。決して褒美を求めてはならない。

(同)


 アリョーシャ(ゾシマ長老)は、いま自分の生きているうちに「結果」が得られるなどと考えるな、といっているんです。自分が「すべてを見届ける」ことなど望むな、といっているんです。どうなるのかもわからない・何の保証もない未来のために、いまの自分がへりくだり、誰彼に奉仕することを説いているんです。前にもいいましたが、これはイワンの考えの対極に当たります。そうして、アリョーシャ(ゾシマ長老)は、自身をも含めてですが、他の誰彼がきっと「いや、自分はすべてを見届けたい」というに違いないことを承知しながら、右のことばを語ったでしょう。多くのひとが「そんなどうなるのかもわからない・何の保証もないものを信じて、この自分の人生を賭けることなどできない」というに違いないことを見越していたでしょう。

 それは、まあ、こういう理屈です。

『読者たるわたしが、なぜその男の生涯のさまざまな出来事の詮索に時間を費やさにゃならないんだい?』

(同)


 しかし、この賭けを賭け、献身することをアリョーシャ(ゾシマ長老)は説きつづけるんです。右の引用のすぐ前 ── この小説のエピグラフ ── はこうでした。

 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)


 私は何がいいたいのか?

「今は亡き司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯より。長老自身の言葉からアレクセイ・カラマーゾフが編纂」は、たしかに「長老自身の言葉」なんですが、しかし、アリョーシャが編纂した以上、ある意味、アリョーシャ自身のことばでもあるはずなんです。文章がしっかりとしていて、書き手の「何を描くか」と「どのように描くか」とが緊密に結んでいればいるほど ── アリョーシャの文章はそういう文章だと思います ── そこには必ず何かしらの偏向があるだろうとも思います。また、ある意味、そういう偏向はなくてはならないものでもあります。編纂者自身の声の聞き取れない長老のことばには、実は何の価値もありません。私はわけのわからないことをいっているでしょうか? しかし、文章というのは、そういうものなんです。文章というのは、書き手自身を問うものです。文章は書き手を試します。読者にとっては、その書き手が当の文章を書くのに、どれほど真摯になっているか、どれほど苦しんでいるか、どれほどの覚悟があるかを見極めることが大事です。読者はそうして、書き手が信用に値する人間であるかどうかを測るんです。書き手はどうしたって、無色透明でいること・ニュートラルでいることができません。かりにそう見えることがあるとしても、それは単に見かけにすぎません。繰り返しますが、文章というのはそういうものです。
 いいですか、私はアリョーシャがゾシマ長老のことばを捏造したとか、そういう類の話をしているのじゃありません。しかし、文章というのは、必ずいまいったような性質を持っているんです。そうして、作品の語り手もそういう文章を公認したんです。いや、語り手は逆にすべてをアリョーシャの文章を核として語ったのかもしれません

 さらにいえば、アリョーシャの文章は、語り手が語ったこの小説内時間の先 ──「エピローグ」の後 ── までを示してもいるでしょう。

 神はヨブをふたたび立直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが、「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、どうして新しい子供たちを愛したりできるだろう? どんなに新しい子供たちがかわいいにせよ、はたして以前のように完全に幸福になれるものだろうか?」という気がしたものだ。だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく。


カラマーゾフの兄弟』を少なくとも二度読んだ読者は、ここでスネギリョフとイリューシャのことを思い出すはずじゃないでしょうか?
 そうして、作品の途中でのアリョーシャはスネギリョフについて、しかし、こういっていたんでした。

「あの人の場合、今やすべてが、この地上のすべてが、イリューシャに集約しているんです。だから、もしイリューシャが死んだら、あの人は悲しみのあまり気が違ってしまうか、でなければ自殺してしまうでしょうよ。今のあの人を見ていると、ほとんどそう確信してもいいくらいですよ!」

(同)


 それで、イリューシャが、

「パパ、泣かないでよ……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってね……みんなの中から自分でいい子を選んで、イリューシャって名前をつけて、僕の代りにかわいがってね……」

(同)


 そうしてスネギリョフが、

「いい子なんか要るもんか! ほかの子なんか要るもんか!」歯ぎしりしながら、彼は異様なささやき声で言った。「エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を……」
 彼は涙にむせんだように、しまいまで言えず、木のベンチの前に力なくひざまずいた。両の拳で頭をしめつけ、なにかぶざまな声を張りあげて、それでも小屋の中にその声が聞こえぬように必死にこらえながら、泣きだした。コーリャは通りに走りでた。
「さよなら、カラマーゾフさん! あなたもまた来るでしょう?」彼は怒ったように、語気鋭くアリョーシャに叫んだ。
「晩に必ず来ます」
エルサレムとかって、何のことですか……あれは何のことです?」
「あれは聖書の言葉で、『エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば』というんです、つまり自分のいちばん大切なものを忘れたり、ほかのものに見変えたりしたら、わたしを罰してください、という意味ですよ……」

(同)


 しかし、アリョーシャが後にゾシマ長老のことばを自分で文章にしたとき、「だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく」は右の時点での認識とは違うものだったのじゃないでしょうか? 右の時点で、彼はまだ、そんなことができるわけがない、スネギリョフは死んでしまう、と思っていたのじゃないでしょうか? しかし、その認識が変わった。つまり、「エピローグ」以降のいつかの時点で、スネギリョフがイリューシャの死の悲しみを乗り越えて(自殺もせず)、誰か他の子どもを愛するという事実をアリョーシャはこの目で見たのじゃないか、と思うんです。それゆえにこそ、アリョーシャは確信を持って「だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく」と書くことができたのじゃないでしょうか?

 ともあれ、そういうわけで、『カラマーゾフの兄弟』において、他の登場人物たちに比べると、何となくおとなしく、無口のように ── 自身のことをあまり語らない ── 感じられるアリョーシャが、もしかすると私たちの思っていた以上に自らを語っていたかもしれないんです。


(つづく)