(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 さて、アリョーシャの手記は「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」で終わっていました。いくつかに分割しますが、全文を引用します。

 神父諸師よ、『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。かつて、時間によっても空間によっても測りえぬほど限りない昔、ある精神的存在が、地上へ出現したことによって『われ存す、ゆえに愛す』と自分自身に言う能力を与えられた。そしてあるとき、たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間が彼に与えられた。地上の生活はそのために与えられたのであり、それとともに時間と期限も与えられた。それなのに、どうだろう、この幸福な存在は限りなく貴いその贈り物をしりぞけ、ありがたいとも思わず、好きにもならずに、嘲笑的に眺めやり、無関心にとどまった。このような者でも、すでにこの地上から去ってしまえば、金持とラザロの寓話に示されているように、アブラハムの懐ろも拝めるし、アブラハムと話もする。天国も観察し、主の御許にのぼることもできる。しかし、愛したことのない自分が主の御許にのぼり、愛を軽んじた自分が、愛を知る人々と接するという、まさにそのことで彼は苦しむのである。なぜなら、このときには開眼して、もはや自分自身にこう言えるからだ。『今こそ思い知った。たとえ愛そうと望んでも、もはやわたしの愛には功績もないし、犠牲もないだろう。地上の生活が終ったからだ。地上にいたときはばかにしていた、精神的な愛を渇望する炎が、今この胸に燃えさかっているというのに、たとえ一滴の生ある水によってでも(つまり、かつての実行的な地上生活の贈り物によってでも)、それを消しとめるためにアブラハムは来てくれない。もはや生活はないのだし、時間も二度と訪れないだろう! 他人のために自分の生命を喜んで捧げたいところなのに、もはやそれもできないのだ。なぜなら、愛の犠牲に捧げることのできたあの生活は、すでに過ぎ去ってしまい、今やあの生活とこの暮しの間には深淵が横たわっているからだ』地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりもないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。それに、この精神的苦痛というやつは取り除くこともできない。なぜなら、この苦痛は外的なものではなくて、内部に存するからである。また、かりに取り除くことができたとしても、そのためにいっそう不幸になると思う。なぜなら、たとえ天国にいる行い正しい人々が、彼らの苦しみを見て、赦してくれ、限りない愛情によって招いてくれたとしても、ほかならぬそのことで彼らの苦しみはいっそう増すにちがいないからだ。なぜなら、それに報いうる実行的な、感謝の愛を渇望する炎が彼らの胸にかきたてられても、その愛はもはや不可能だからである。それにしても、臆病な心でわたしは思うのだが、不可能であるというこの自覚こそ、最後には、苦痛の軽減に役立つはずである。なぜなら、返すことはできぬと知りながら、正しい人々の愛を受け入れてこそ、その従順さと謙虚な行為の内に、地上にいたときには軽蔑していたあの実行的な愛の面影ともいうべきものや、それに似た行為らしきものを、ついに見出すことができるはずだからである……諸兄よ、わたしはこれを明確に言えないのが残念だ。


 これは、人間の地上の生というのが、「たった一度だけ、実行的な、生ける愛の瞬間」として与えられたものだという前提でのことばです。人間の地上の生の前後は、べつの世界にあります。そうして、地上での生において「実行的な、生ける愛の瞬間」を蔑ろにした者がべつの世界に帰った後、どんな苦しみを負うかということを語っています。だから、「実行的な、生ける愛の瞬間」というこのただ一度の機会を生かして、この地上では、できる限り愛せよ、というんです。もちろん、それはこの手記のこれまでの流れからして、自分には「すべての人に対して罪がある」という自覚が必要なんですし、そのためには「人間の顔」にしっかり向き合うことが必要です。誰彼との「つながり」も必要なんです。

 しかし、この「実行的な、生ける愛の瞬間」というこのただ一度の機会を生かさず、それどころか、この機会そのものを自らすすんで無にしてしまうひとたちもいるんです。

 だが、地上でわれとわが身を滅ぼした者は嘆かわしい。自殺者は嘆かわしい! これ以上に不幸な者はもはやありえないと思う。彼らのことを神に祈るのは罪悪であると人は言うし、教会も表向きは彼らをしりぞけているかのようであるが、わたしは心ひそかに、彼らのために祈ることも差支えあるまいと思っている。愛に対してキリストもまさか怒りはせぬだろう。このような人々のことを、わたしは一生を通じて心ひそかに祈ってきた。神父諸師よ、わたしはそれを告白する。そして今でも毎日祈っているのだ。

(同)


 もちろん、ここでアリョーシャはスメルジャコフのことを想起していたに違いありません。アリョーシャはスメルジャコフのためにも「毎日祈っている」でしょう。

 そこでいくらかまた脇へ逸れますが、アリョーシャがフョードルの死後、スメルジャコフについてどう考えていたかというと、こうですね。

 もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りとでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったら、何よりもその感情を恐れるがよい。そのときは、他人のその悪行をみずからの罪であるとして、ただちにおもむき、わが身に苦悩を求めることだ。苦悩を背負い、それに堪えぬけば、心は鎮まり、自分にも罪のあることがわかるだろう。なぜなら、お前はただ一人の罪なき人間として悪人たちに光を与えることもできたはずなのに、それをしなかったからだ。光を与えてさえいれば、他の人々にもその光で道を照らしてやれたはずだし、悪行をした者もお前の光の下でなら、悪行を働かずにすんだかもしれない。

(同)


 フョードル殺害の犯人をスメルジャコフだと主張しつづけていたアリョーシャにとって大事なのは、この事件が「法的にどうか」などということではありませんでした。裁判の場で彼が何よりも気にかけていたのは、ミーチャが有罪になってしまうことだったでしょう。ミーチャは殺していないからです。ミーチャが受刑するのは不当です。

「心構えのできていない兄さんに、そんな大殉教者のような十字架は必要ないんですよ。もし兄さんがお父さんを殺したのだったら、兄さんが自分の十字架を拒否することを僕は残念に思ったでしょう。でも、兄さんは無実なんだから、そんな十字架はあまりにも重すぎますよ。兄さんは苦しみによって自分の内部に別の人間を生みだそうとしたんです。僕の考えでは、兄さんがたとえどこへ逃げようと、一生涯その別の人間のことを常におぼえてさえいれば、それで十分なんです。兄さんが大きな十字架の苦しみを引き受けなかったことは、心の内にいっそう大きな義務を感ずるのに役立って、その絶え間ない感覚が今後一生の間、ことによると向うへ行く以上に、自分の復活の助けになるかもしれませんよ」

(同)


 他方、スメルジャコフが有罪になれば、それはそれでかまわなかったでしょうが、べつに有罪になる必要もありませんでした。アリョーシャは最初から「法的にどうか」なんていう視点でこの事件を見ていないんです。アリョーシャが問題にしていたのは、事件の関係者各人が「神の前で」どうなのか、ということだけだったと思います。むろん、自分の父親を殺した犯人は憎いでしょう。また、兄を無実の罪に陥れた犯人も憎いでしょう。しかし、彼はその感情を恐れたはずです。

 ── と書いて、ふっと思い出しました。やれやれ、どうしていままでこれを忘れていられたんだろう?

「かりに、今のような時代にさえ社会を守り、当の犯罪者をも更正させて、別の人間に生れ変らせるものが何かしらあるとすれば、それはやはりただ一つ、おのれの良心の自覚の内にあらわれるキリストの掟にほかなりませぬ。キリスト社会、すなわち教会の息子として、おのれの罪を自覚してこそはじめて、その人間は社会そのものに対する、つまり教会に対する罪も自覚するのです。というわけで、現代の犯罪者がおのれの罪を自覚しうるのも、ひとり教会に対してだけであって、決して国家に対してではありませぬ」

(同)


 で、そんなふうにゾシマ長老が話す前に、イワンがこういってもいたんです。

「かりにすべてが教会になれば、教会は犯罪者や不従順な人間を破門こそするでしょうが、その場合だって首をはねたりしないはずです」イワンがつづけた。「あなたにひとつうかがいますがね、破門された人間はそうなったらどこへ行けばいいんです? だって、そうなれば破門された人は、現在のように人間社会からだけではなく、キリストからも離れ去らなければならないんですよ。なにしろその人間は自分の犯罪にによって、単に世間に対してだけではなく、キリストの教会に対しても立ち向うことになるんですからね。そりゃもちろん今だって、厳密な意味ではそうですが、やはり公示されてるわけじゃありませんから、現代の犯罪者の良心は実に多くの場合、自分自身と闇取引きをして、『俺は泥棒こそしたが、べつに教会に逆らったわけじゃないし、キリストの敵でもないんだ』なんてことを、現代の犯罪者はほとんど一人残らずが心に言うんです。しかし、教会が国家になり変るようになったら、この地上のすべての教会を否定しないかぎり、こんなことを言うのはむずかしくなるでしょうね。『どいつもこいつも間違ってやがる。みんな本筋からはずれちまったんだ。偽の教会ばかりだ。人殺しで盗人のこの俺さまだけが正しいキリストの教会なんだ』こんなことは容易に言えるわけのものじゃなく、膨大な条件や、そうざらには存在しない環境を必要としますからね」

(同)


 やれやれ、イワン。彼はそんなふうにしゃべりながらも、自分ほどの「ダイヤモンド」ならば、「キリストからも離れ去る」ことが可能だと考えていたでしょう。

 それとともに、最先端=亀山郁夫のこれを確認しておきましょう。

 アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 どうですか? 最先端=亀山郁夫の視野がどれだけ狭いか、あらためてわかるのじゃないでしょうか?

 しかし、先へ進みましょう。「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」は自殺者にまで触れました。おさらいしますが、ここまでで、地上での生において「実行的な、生ける愛の瞬間」を蔑ろにした者がべつの世界に帰った後、どんな苦しみを負うかということが語られ、さらに、地上での「実行的な愛」の機会を自ら潰してしまった者(自殺者)が嘆かれたんでした。そうして、この後に語られるのは、このべつの世界そのものを否定し、無としてしまおうとする ── 考えられる限り最高度の ── 傲慢な者たちです。

 ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。

(同)
(傍線は私・木下による)


 私はこう思っています。「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」という短い文章が、このアリョーシャの文章のなかで、最も浮いてしまっている・何か付け足しのメモのようだ、と感じる読者は少なくないのじゃないでしょうか。唐突な感じがして、最も意味のわかりかねる文章だ、と。むろん、これはアリョーシャの文章全体とはしっかりつながっていて、これまでは「こうしなさい」というふうに書かれていたものが、今度は、その「こうしなさい」を拒んだ者がどうなるかということを語っているわけです。

 しかし、これは唐突で、短くて、メモのようでよかったんです。なぜなら、その具体例がこの小説の後半で詳細に語られることになるからです。

 右の記述に際してアリョーシャが想起していたのがイワンだったと私はいいます。アリョーシャはイワンの「地上の生」が終わりかけていると考えていたでしょう。そうして、もしこのままイワンの「地上の生」が終わってしまうなら、イワンは必ず右に描かれている人びとのひとりになっていたでしょう。

 私はこれまでもイワンを理解するためにキルケゴールの『死に至る病』を引用してきましたから、ここでもまた引いてみます。これは「第一編 死に至る病とは絶望のことである」の末尾です。そうして、以下の引用の最後の部分が、サリンジャーによる「シーモア ─ 序章 ─ 」のエピグラフでもあります。

 悪魔的な絶望は絶望が最もその度を強めたところの形態であり、ここでは人間は絶望的に自己自身であろうと欲するのである。この絶望のなかでは人間はまたストア的な自己自身への溺愛によってないしはまた自己神化によって彼自身であろうと欲するのでもない(自己神化は、無論欺瞞的ではあるにしても、なお或る意味では自己の完全性を目指している)、いな、そこでは彼は自己の存在を憎悪しつつしかも彼自身であろうと欲するのである、惨めなままの自己自身であろうと欲するのである。彼が彼自身であろうと欲するのは単に強情の故にではなく、むしろ挑戦せんがためである。彼は自分の自己をそれを措定した力から強情的に引き離そうと欲するのではなく、むしろ挑戦的にその力に迫り、それに自分を押しつけようと欲するのである。彼は悪意でその力をつかまえておこうと欲するのである。悪意の抗議をなすものがまず何よりも先に自分の抗議に向けられている相手方をつかまえておく必要があることはいうまでもない。彼は全存在に向って反抗することによって、全存在を、全存在の好意を、反駁しうる証拠を握っているつもりでいるのである。絶望者は自己自身その証拠であると考えているのである、彼はその証拠であることを欲する、── それ故に彼は彼自身であろうと欲するのである、すなわち自己の苦悩をもって全存在を拒絶しうるように苦悩をもったままの彼自身であろうと欲するのである。弱さに絶望している者が、永遠が彼にとって慰藉であることなどに耳を傾けようと欲しないように、強情における絶望者もまた永遠の慰藉などには耳を傾けようとは欲しないのであるが、その理由は異なっている、── 後者は実に全存在に対する抗議たらんと欲しているのであるから、慰藉などはかえって自己の没落となると考えるのである。比喩的に語るならば、それはいわば或る著作家がうっかりして書き損ないをしたようなものである。この書き損ないは自分が書き損ないであることを意識するにいたるであろう、(もしかしたらこれは本当はいかなる書き損ないでもなしに、遥かに高い意味では本質的に叙述全体の一契機をなるものでもあるかもしれない、)さてこの書き損ないはその著述家に対して反乱を企てようと欲する、著作家に対する憎悪から既に書かれた文字の訂正されることを拒否しつつ、狂気じみた強情さをもって彼は著作家に向ってこう叫ぶのである、──「いや、おれは抹消されることを欲しない、おれはお前を反駁するための証人として、お前がへぼ著作家であることの証人として、ここに立っているのだ。」


 右のふたつの引用の傍線部分を比較してみてください。これらは相手が高ければ高いほど、大きければ大きいほど、ますます盛んになっていく運動であり、また、まったく終わりのない運動なんですね。

 ついでに引用しますが、

 罪とは、人間が神の前に絶望して彼自身であろうと欲しないことないしは人間が神の前に絶望して彼自身であろうと欲することである。だがこの定義は、ほかの点ではなるほど優れているかも知れないが、(就中最も重要なことはそれが唯一の聖書的な定義であるという点である、── 聖書は罪をいつも不従順として規定している)、それはしかしあまりに精神的でありすぎはしないか? そういう疑問に対してはまず第一にこう答えらるるべきである、── 罪の定義があまりに精神的でありすぎるということはありえない(それが「精神的」すぎて、罪を廃棄すると言うのでもない限り)、なぜというに罪はまさに精神の規定なのである。更になぜそれはあまりに精神的でありすぎるというのであろうか? この定義が殺人、窃盗、姦淫等について何も語っていないためであるか? だがこの定義もまたそういうことに触れているのではないか? それらもまた神に対する我意、神の命令に反抗する不従順にほかならないではないか? 他面、人々が罪ということをいっていつもそういうような罪だけを挙げるときには、すべてそのような事柄に関してはたとい或る程度まで申分がないとしても(人間的な意味では)、しかも生活の全体が罪 ── かのよく知られている種類の罪、諸々の輝かしい悪徳 ── である場合がありうることを実にあっさりと忘却しているのである。

(同)


 ── そういうことが最先端=亀山郁夫にはまるっきりわかっていません。彼の考える「罪」がどんなにつまらない、薄っぺらで、ちっぽけなものであるか。

 人間がキリスト教に躓くのは、キリスト教があまりに暗く陰鬱であるからだとかないしそれがあまりに厳格であるからだというようなことが今日非常にしばしばいわれている。それで人間がどうしてキリスト教に躓くのであるかというその本来の理由をここで言っておくことは思うにきわめて適切であろう、── その理由というのはキリスト教があまりにも高いからである、キリスト教の量る尺度が人間ではないからである、キリスト教は人間を人間の理解することのできないような並はずれたものにしようとするからである。

(同)


 ── 大審問官!

 さて躓きの度は、人が驚嘆への熱情をどれだけ多くもっているかということに依存している。空想も熱情ももたないところのより散文的な人間、したがって本当の意味で驚嘆することのできない人間、もまた躓くことはありうる、けれども彼等はその場合「こういうことは私には理解できない、私はそのことには立入らない」というだけで、それ以上には進まないのである。彼等は懐疑論者である。だが人間が熱情と想像力を多くもっておればおる程、したがって或る意味で(すなわち可能性において)信仰者たらんとする(註! 並はずれたものの前に賛美しつつ謙遜に跪くこと)点に近づいておればおる程、躓きもまたそれだけ熱情的なものとなるのである。最後には結局根扱ぎにし、破壊し、泥の中に踏みつけにでもしなければ満足ができなくなるのである。

(同)


 イワンの「熱情と想像力」がどれほどのものであったかを考えてみてください。つまり、これが「信と不信の間を行ったり来たり」すること、「信仰」すれすれの「不信」、「不信」も同然の「信仰」であって、「とにかく同じ瞬間に信と不信のすごい深淵を見つめることができる」ということであり、したがって彼は悪魔にとっての「ダイヤモンド」なんです。

 ああ、地獄に落ちて、すでに反駁の余地ない真理を明白に知り、観察しているにもかかわらず、傲慢な怒り狂った態度をとりつづける者もいる。サタンとその傲慢な精神にすっかり共鳴した恐ろしい人々もいるのだ。こういう人々にとって、地獄はもはや飽くことを知らぬ自発的なものとなり、彼らはすでに自発的な受難者にひとしいのである。なぜなら、彼らは神と人生を呪った結果、われとわが身を呪ったことになるからだ。ちょうど荒野で飢えた者が自分の身体から血をすすりはじめるように、彼らは憎悪にみちた傲慢さを糧にしているのである。それでいて永遠に飽くことを知らず、赦しを拒否し、彼らに呼びかける神を呪う。生ある神を憎悪なしに見ることができず、生の神がいなくなることを、神が自分自身と自己のあらゆる創造物を絶滅することを、彼らは要求する。そして、おのれの怒りの炎で永遠に身を焼き、死と虚無とを渇望しつづけるだろう。しかし、死は得られないだろう。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 おそらく、最後には、自分のいろいろな理論武装にもかかわらず、イワンは右のような状態での反抗に行き着かざるをえないだろう、と私は思うんです。そうして、アリョーシャもそのように認識していただろうと思うんです。

 もうひとつ、

 悪意の抗議をなすものがまず何よりも先に自分の抗議に向けられている相手方をつかまえておく必要があることはいうまでもない。


 この身振りはフョードル・カラマーゾフにもうかがえるものでしょう。

 そういうわけで、もう一度私はいいますが、最先端=亀山郁夫の ──

 この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもない、「謎の訪問客」である。

亀山郁夫「解題」)


 ── は大間違いです。この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもありません、イワン・カラマーゾフです。これは、この小説のつくり・構造からしてもそうなんです。

 さらにいいますが、最先端=亀山郁夫の ──

 ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる。

(同)


 ── について、それだけをそのまま受け取れば、たしかに間違ってはいないとここまで私はいってきましたが、やはり最先端=亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味がまるっきりわかっていない! とはっきりいいましょう。したがって、最先端=亀山郁夫による「ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる」は大間違いです。

 なぜか?

「解題」において、最先端=亀山郁夫が「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」の最後の部分を自ら引用しつつ、その前後で何と書いているか?

 もう一つの「傲慢」は、ゾシマの談話の最後に現れる。おそらくはフェラポント神父に対する根本的な批判にねざした、ゾシマ長老による裁きである。
「ああ、地獄にあって、争う余地のない知識と、反駁しがたい真実を目にしながら、なおも、傲慢で凶暴な態度をとりつづけるものがいる。悪魔や、その傲慢な精神に全面的に与している、恐ろしい連中もいる。彼らにとって地獄とは、自発的に求められた、つねに飽くことをしらないものだということだ。彼らはいわば、自発的な受難者たちなのだ。というのも、彼らは神と生命を呪うことによって、われとわが身を呪ったのだから。荒野で飢えたものが、自分の体から自分の血をすすりはじめるのと同じように、彼らは、憎しみに満ちた傲慢さを糧に生きているのだ。それでいて彼らは、永遠に満たされることを知らず、許しをしりぞけ、彼らに呼びかける神を乗ろう。彼らは生きた神を憎しみなしで見ることができず、彼らはまた生きた神がなくなることを、あるいは神がみずからを、さらにはみずからのすべての創造物を破壊することを、求めてやまない……そして彼らは、自分の怒りの火のなかで永遠に焼かれながら、死と虚無を渇望しつづける。だが、死は得られない……」(第2部464ページ)
 熟読玩味していただこう。この最後の一節が、フェラポント神父の長寿に対するアイロニーを含んでいるかもしれないという思いは、不当だろうか。傲慢を捨てる道は、ほかでもない、自然にみずからの肉体をさらすということではないだろうか。あるいは、自分の腐臭をも平然と受け入れるという姿勢ではないだろうか。

(同)


 フェラポント神父! ええっ! フェラポント神父!

 いったいどうしたらこんな素っ頓狂な読みができるんですか? 何が「熟読玩味していただこう」ですか? 「熟読玩味」しなくてはならないのは誰なのか? いったい誰が「腐臭」の話なんかしているのか? フェラポント神父! 開いた口がふさがりません。というか、こちらの頭がおかしくなりそうです。気が遠くなります。こんな読みしかできない「最先端」── 私がどういったって、わかるはずもない ── をわざわざ批判しなくてはならないのは本当に苦痛です。

 いいですか、最先端=亀山郁夫のいう「傲慢」なんてのは、こんな程度の理解 ── こんな素っ頓狂 ── でしかないんですよ。最先端=亀山郁夫の「最先端」な頭のなかでは、フェラポント神父 ── あまりに馬鹿ばかしくて、私はいまフェラポント神父についてしゃべる気にもなりません ── が「傲慢」の象徴か何かになっているんでしょう。しかも、最先端=亀山郁夫は、ゾシマ長老ないしこの文章の書き手であるアリョーシャが、フェラポント神父へのあてこすりみたいなことをやっているといっているんです。これが最先端=亀山郁夫の小ささ・せこさ・薄っぺらさ・貧しさですよ。

 繰り返します。「「傲慢を捨てよ」── 結構でしょう」── そう私はいってきましたが、駄目ですね。なぜなら、最先端=亀山郁夫には『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味がまるでわかっていないから。一見間違いでなさそうだった最先端=亀山郁夫の「ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる」はでたらめです。〇点。『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の意味をこんなとんちんかんなふうにしか理解できない人間が何をいっても無駄です。

 哲学においては、論拠がちがう同じ主張なんてものはそもそも存在しない。

永井均『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書


「傲慢を捨てよ」── これは、もし、最先端=亀山郁夫でなく、私がいうなら正しいんですよ。なぜなら、私と最先端=亀山郁夫とでは『カラマーゾフの兄弟』における「傲慢」の理解が違うからです。
 どうですか、まだわからないでしょうか? まさにこのことが最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が偽物だということなんです。

 最先端=亀山郁夫を擁護するひとたちは、いまのフェラポント神父云々については、どう考えているんでしょうか?「いや、さすがにフェラポント神父はおかしいよ」と思うならば、最先端=亀山郁夫訳を全否定するはずなんですけれどね。なぜなら、これは構造的・深層的な問題だからです。構造的・深層的にこれほど素っ頓狂な読みしかできない翻訳者を認めることなんかが、どうして彼らにはできるんでしょうか? できるとすれば、「文学」を読む力がないからですよ。そんなひとはもう「文学」から足を洗え、と私はまたいいます。

 こんな「最先端」が『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者でいいんですか?


 連日UPしてきたこの稿(その一三)終わり。
 PDFファイルも更新します。
http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf