(二三)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一四


 一連の記述をつづけて、そろそろ本当に一年が過ぎようとしています。私が最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』における「あなたじゃない」解釈に仰天したのが、昨二〇〇八年七月初旬でした(「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一 ── の公開が七月十三日)。私の原稿も(同年六月の一文を含めて)文庫本の字詰めにして七六〇ページを超え、原稿用紙にして一三〇〇枚を超えてしまいました。いま、あらためてプリントアウトしてみましたが、あまりの厚み(二五五枚 ── 三十七字×二十八行×二段。字間を狭くしているので、一行の文字数はほぼ三十七字という具合です)にぎょっとしています。呆れるばかりです。もっとも、私のここまでのやりかたは、引用を惜しまないどころか、過剰にも ── しかも、同一の引用をいったい何度繰り返していることか ── していますし、また、一度しゃべった私自身の主張をいちいち新たな原稿に取り込んで、いわば増殖させる形で膨らませるというものなので、当然分量も嵩むわけです。過剰な引用については、私は読者に文章を遡る手間をかけたくないという気持ちがあるんです。たとえば、引用に番号をつけて、後は番号のみを記載するとか、註をまとめて後回しにするとか、そういうことをしたくない。読者にいつも手間を取らせないと同時に、もうすぐにでも読者の頭に引用箇所を響かせるようにしたい、しかも、できるだけ長い引用 ── 中心だけでなく、その前後を含めて ── を、という気持ちがあるんです。できるだけ私の頭にあるような形を読者の頭に再現することを望むわけです。こんなことは、おそらく学術論文では許されないでしょうが、私は敢えてやっているんです。これはネットだからできることです。というわけで、この全体の膨らみ具合は私の意図したものです。私自身の最初の読み取りを増殖する形でのしゃべりも意図したものです。
 それでも、ここまで私の記述が膨れ上がってしまったことに危惧を抱きもします。こんなことになっては、もはや新しい読者が期待できないかもしれないと思うんですね。それにまた、前回の原稿の公開までの長いブランクもよくないですね。なぜなら、この最先端=亀山郁夫批判は常に誰彼の目のつくところで頻繁に更新されねばならないからです。とはいえ、そんな時間も力量も私にはありません。成り行きまかせです。しかし、私が毎日原稿を公開していったとしても、以前からの読者以外には、もうこの最先端=亀山郁夫批判の存在を知ってもらうことすらできないでしょう。というのも、すでに「YAHOO!」の《ブログ検索》で、私の文章は、キーワードとしての「亀山郁夫」でも「カラマーゾフ」でもヒットしなくなりましたから。以前はそうではなかったんですけれどね。「Google」の《ブログ検索》ではもうだいぶ前からヒットしません。やれやれ、です。

 もともとが私の読書量なんか大したことはないんですが、特にこの一年はほとんど本を読んでいません。たぶん昨年五月に『人間を撮る』(池谷薫 平凡社)を読み終えてからは、先月に『さまざまな生の断片』(ジャック・ロッシ 外川継男訳 成文社)を読み終えるまで、『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)以外に一冊の本も読み通していません。
 ここしばらくでも書店員としての私には、「手書きPOP」のことで取材させてほしいとか、今年上半期に出版された本からお薦めの本を紹介してほしいとか、いくつかの出版社から声がかかりもしましたけれど、断わっています。書店をめぐる状況は相変らず ── 私がこの「連絡船」で批判した通り ── なわけです。そうだ、ひとつ思い出しましたが、去年、一件だけ取材に応じたことがありました。私の方で逆にその取材者に会いたかったので ── そのひとの著作がとても面白かったので(ということは、私はこの一年の間に、右の他にもう一冊 ──『週末陶芸のすすめ』(林寧彦 文春文庫PLUS)は読んでいたんですね)── 引き受けたんです。その掲載誌が送られてきたんですが、そこでのべつの特集記事のなかで最先端=亀山郁夫がアンケートに答えていましたっけ。つまり、一冊の雑誌のなかで私と最先端=亀山郁夫とが並んでいたんですね。笑っちゃいました。

 それはともかく、この一年のほぼ毎日 ── まるっきり休んだのはほんの数日 ── を、私はこの最先端=亀山郁夫批判に費やしてきたんですね。それで、私はいいたいんですが、誰かにある作品の読書を薦めるならば、これくらいのことをする覚悟を持て、というんです。特に「手書きPOP」なんかを書き、引きも切らない出版社のアンケートなんかに答える書店員にいいたい。妥協するな、ってことです。

 おさらいですが、これを引用しておきます。

 ベストセラー『白い犬とワルツを』の仕掛け人といわれていて、現在一枚のPOPも書いていない私、木下和郎個人から、現在POPを書いている書店員に提言します。
 書店員が自分の読書の感動を「みんな」に伝えるためにPOPを書く ── といいますが、現在のその読みかたには最初から「みんな」が入り込みすぎているのではないか? あなた自身の孤独な読書はどこにあるのか? そもそもあるのか? なければならない ── ということでの提言です。
(一)「多読」・「速読」・「新刊チェック」の読書をきっぱりやめる。特に、今後三年間は日本人作家の新作を読まない。いまの自分には手に負えないほどの本だけを読む。「みんな」の読んでいる本を読まない。
(二)出版社がもちこむ新刊のゲラを読まない。もし読んでしまったなら、はっきり自分の意見を告げる。出版社とあなたとは対等です。絶対に卑下した・自信のない回答はしない。駄作は徹底的に駄作といいましょう。
(三)十年後にもひとに薦められる本や、十歳年長のひとにも薦められる本にしかPOPを書かない。「今年のベスト」なんていう視点は軽蔑(そういう出版社のお手軽なアンケートは拒絶)してください。常にあなたの「オールタイムベスト」です。
(四)いまの売れすじや「みんな」を離れて、読者が自分ひとりかもしれないという本にこそPOPを書く。偏向と、それにともなう孤独を恐れないでください。新しさ大きい部数でしかものを測れないひとたちを軽蔑してください。「みんな」が動きだしたら、何かが間違っています。「手書きPOPからベストセラー」は矛盾です。あなたがPOPで訴えるのは「みんな」ではないごく僅かなひとたちにです。そしてそれも、なにより、あなたが行動しなければ死んでしまうだろう本のためにそうするんです。
 あなたの根底に核として、まず、そういうPOPが想像されなければなりません。
「それじゃ、POPなんて一枚も書けないよ」というひとは、安心してください、もう全然書かなくていいんですから。

(「しゅっぱんフォーラム」二〇〇七年五月号 トーハン


 で、以前にもこれの後につづけた引用を再び。

 ……わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。

(トーマス・マン『ファウストゥス博士』 円子修平訳 新潮社)


 同じことを最先端=亀山郁夫の擁護者たちにもいいたい。あなたがたは、「あなたじゃない」の最先端=亀山郁夫解釈をどう考えているのか?「大審問官」におけるキリスト僭称者説をどう考えているのか? コーリャのことばをいい換えたアリョーシャをどう考えているのか? ジューチカとペレズヴォンのことをどう考えているのか?「地獄と地獄の火について。神秘的な考察」についてのフェラポント神父云々をどう考えているのか? 私と同じ労力を費やして答えてみればいい。自分の読みをさらけ出して主張してみればいい。これは面子の問題なんかじゃない。あなたがたが『カラマーゾフの兄弟』をどれだけ大事にしていて、これにどれだけ奉仕するかということなんです。


(追記 なぜかこの稿だけは久しぶりに「YAHOO!」の《ブログ検索》に引っかかるようになりました。即日ではなかったですが。もうこのことを考えるのはやめることにします。とにかく、私はやれることをやるだけです。)