(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 しかし、手綱を緩めずに先へ進みましょう。
 イワンはスメルジャコフとの三度めの対面で、フョードルを殺したのがミーチャではなく、スメルジャコフであることを知ります。

「実行した? じゃ、ほんとにお前が殺したのか?」イワンはぞっとした。
 脳の中で何かが動揺したかのようで、全身がぞくぞくと小刻みにふるえだした。今度はスメルジャコフのほうがびっくりして相手を見つめた。どうやら、イワンの恐怖の真剣さにやっとショックを受けたようだった。
「それじゃ、本当に何もご存じなかったので?」イワンの目を見つめて、ゆがんだ薄笑いをうかべながら、彼は信じかねるようにねちっこい口調で言った。
 イワンはなおも相手を眺めていた。舌がしびれてしまったかのようだった。

  ああ、ワーニカはピーテルに行っちゃった、
  わたしは彼を待ったりしない!

 突然、頭の中であの歌の文句がひびいた。
「おい、お前が夢じゃないかと、俺は心配なんだ。俺の前にこうして坐っているお前は、幻じゃないのか?」彼はたどたどしく言った。
「わたしたち二人のほか、ここには幻なんぞいやしませんよ。それともう一人、第三の存在とね。疑いもなく、それは今ここにいます。その第三の存在はわたしたち二人の間にいますよ」
「だれだ、それは? だれがいるんだ? 何者だ、第三の存在とは?」あたりを眺めまわし、その何者かを探して急いで隅々を見わたしながら、イワンは怯えきって叫んだ。
「第三の存在とは、神ですよ。神さまです。神さまが今わたしたちのそばにいるんです。ただ、探してもだめですよ、見つかりゃしません」
「お前が殺したなんて、嘘だ!」イワンは気違いのようにわめいた。「お前は気が狂ったのか、でなけりゃこの前みたいに、俺をからかってやがるんだ!」


 もちろん、イワンの想起しているのは例の「悪魔」です。イワンは「悪魔」が自分の幻覚だと承知しています。だから、いま目の前にいるスメルジャコフも自分の幻覚ではないのか、と疑うわけです。ところが、偶然にも、スメルジャコフが ── いいですか、イワンとスメルジャコフとはそれぞれにべつのことを考えているんですよ。スメルジャコフはイワンの「悪魔」なんか知りません。彼には彼のこの二か月があり、その間に生じた変化があるんです。それで ──「第三の存在」などといいだすんですね。とたんに、やっぱり「悪魔」は実在するんだ、あれは自分の幻覚なんかじゃなかったんだとイワンは思い、怯えるんです。アリョーシャとの会話と同じことです。

「夜中に、あいつが来ていたとき、お前もいたんだな……白状しろ……あいつを見たんだろ、見たな?」

(同)


 イワンは「悪魔」が自分の幻覚であるという認識と、実在するものだという認識との間を「行ったり来たり」します。これはちょうど、フョードルを殺したのが自分ではないという認識と、自分だという認識とのひっきりなしの往復に重なりもします。

「ほんとに、ほんとに今までご存じなかったんですか?」スメルジャコフがもう一度たずねた。
「ああ、知らなかった。ドミートリイだとばかり思っていたんだ。兄さん! 兄さん! ああ!」彼はだしぬけに両手で頭をかかえた。「おい、お前一人で殺したのか? 兄の手を借りずにか、それとも兄といっしょか?」
「あなたといっしょにやっただけです。あなたといっしょに殺したんですよ。ドミートリイさまは本当に無実なんです」
「わかった、わかった……俺のことはあとだ。どうしてこんなに震えるんだろう……言葉が出てきやしない」
「あのころはいつも大胆で、『すべては許される』なんて言ってらしたのに、今になってそんなに怯えるなんて!」いぶかしげにスメルジャコフが言った。

(同)


 いいですか、スメルジャコフでさえ、このイワンをいぶかしく思ったんですよ。それほどにイワンは怯えきっていたんです。

「さあ話せ、話してくれ!」
 彼は冷静に戻ったかのようだった。今からスメルジャコフがすべてを話すだろうと、確信しきって待ち受けていた。
「どんなふうにやってのけたかってことをですか?」スメルジャコフが溜息をついた。「ごく自然な方法でやってのけたんですよ。あなたの例の言葉がきっかけで……」
「俺の言葉はあとにしろ」イワンはふたたびさえぎったが、もはや先ほどのようにどなったりせず、しっかりと言葉を発音し、まったく自分を抑えたかのようだった。

(同)


 イワンはそれでもまだ殺人犯がドミートリイであることに希望をつなごうとしています。

「待てよ……こんがらがってきたぞ。とつまり、やはり殺したのはドミートリイで、お前は金を取っただけなのか?」

(同)


 しかし、もはやスメルジャコフもいいたいことをいいます。

「いいえ、あの方は殺しちゃいません。そりゃ、今でもわたしは、あの方が犯人だと、あなたに言うこともできるわけです……でもいまさらあなたに嘘をつく気はないんですよ、なぜって……なぜって、もし本当にあなたが、お見受けしたとおり、いまだに何一つわかっていらっしゃらずに、ご自分の明白な罪をわたしにかぶせようと演技していらっしゃるわけではないとしても、やはりあなたはすべてに対して罪があるんですからね。だって、あなたは殺人のことも知っていらしたし、わたしに殺人を託して、ご自分はすべてを承知のうえでお発ちになったんですから。だからこそ、あの晩わたしは、この場合、殺人事件の主犯はもっぱらあなたで、わたしはたとえ直接に手を下したにせよ、主犯ではないってことを、面と向ってあなたに証明しようとしたんです。あなたは法律上も殺人犯人にほかならないんですよ!」
「なぜ、なぜ俺が殺人犯なんだ? ああ!」イワンはついに堪えきれなくなり、自分のことは話の終りにまわそうと言ったことも忘れた。

(同)


「それじゃ、俺がそんなことを望んでいたというのか、望んでいたと?」イワンはまたしても歯ぎしりした。

(同)


 イワンはある意味、「真実」に恐ろしいほど接近していました。しかし、それでもまだ彼は「真実」を直視できません。このときでもイワンはやはり彼とスメルジャコフとの関係 ── これまで通りの上下関係 ── においてしゃべっているにすぎません。彼はスメルジャコフを「人間と見なさず、どうせ蠅くらいにしか見ていない」んですよ。

「おい、お前は不幸な、卑しむべき人間だな! 俺がいまだにまだお前を殺さずにきたのは、明日の法廷で答えさせるためにとっておくんだってことが、お前にはわからないのか。神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手を上にあげた。「ことによると、俺にも罪があるかもしれないし、ことによると俺は本当に、親父が……死んでくれることを、ひそかに望んでいたかもしれない。しかし、誓って言うが、俺にはお前が考えているほどの罪はないし、ことによると、全然お前をそそのかしたことにならぬかもしれないんだぞ! そう、そうだとも、俺はそそのかしたりしなかった! しかし、いずれにせよ、俺は明日、法廷で自分のことを証言する。決心したんだ! 何もかも話すんだ、何もかもな。しかし、お前を連れて出廷するからな! 法廷でお前が俺に関して何を言おうと、どんなことを証言しようと、俺は甘んじて受けるし、お前を恐れたりしない。こっちこそ、何もかも裏付けてやるよ! しかし、お前も法廷で自白しなけりゃいかんぞ! 必ずそうしなけりゃいけない。いっしょに行くんだ! そうするからな!」
 イワンは荘重に力強くこう言い放った。光りかがやくその眼差しだけからでも、きっとそうなることは明らかだった。

(同)


「「神さまが見ていらっしゃる」イワンは片手を上にあげた」ですね。しかし、彼のいう「神さま」はついさっきスメルジャコフの口にした「神さま」であって、イワンの考えている「神」ではありません。スメルジャコフが相手だからこそできた言明です。
 ところで、この同じ夜に片手を上にあげた人物がもうひとりいました。

「アリョーシャ、神さまの前に立ったつもりで、掛値なしに本当のことを言ってくれ。お前は俺が殺したと信じているのか、それとも信じていないのか? お前は、お前自身は、そう信じているのか、どうなんだ? 本当のことを言ってくれ、嘘をつかずに!」彼は狂おしく叫んだ。
 アリョーシャは全身を揺すぶられたような気がした。心の中を何か鋭いものが通りすぎたみたいで、彼にはその気配さえきこえた。
「いい加減にしてくださいよ、何を言うんです……」途方にくれたように彼はつぶやきかけた。
「本当のことを言ってくれ、隠さずにな。嘘をつくなよ!」ミーチャがくりかえした。
「兄さんが人殺しだなんて、ただの一瞬も信じたことはありません」突然アリョーシャの胸からふるえ声がほとばしりでて、彼はさながら自分のことばの証人に神を招くかのように、右手をあげた。とたんにミーチャの顔全体を幸福の色にかがやかした。
「ありがとう!」気絶のあと息を吹き返すときのように、彼は長く語尾をひいて言った。「お前は今、俺を生き返らせてくれたよ……本当の話、今までお前にきくのがこわかったんだ。なにしろ相手がお前だからな! さ、もう行くがいい、行きなさい! お前は俺に明日のための力をつけてくれたよ、お前に神の祝福があるように祈ってるぜ! それじゃ、行きなさい、イワンを愛してやってくれ!」最後の言葉はミーチャの口からほとばしりでた。

(同)


 アリョーシャのあげた「右手」とイワンのあげた「片手」との違いを考えてみてくれませんか? また、ミーチャとイワンとの違いについても考えてほしいんです。どうでしょう、このときにもミーチャは「イワンを愛してやってくれ!」といっていたじゃないですか? ミーチャには誰彼にそういう気遣いをする懐の深さ ── 彼にはいろんな誰彼の「人間の顔」が見えていて、いつもその「人間の顔」に直進していくし、また返答を求めるんですね ── があるんです。イワンにはけっしていえないことばです。

 ともあれ、イワンはスメルジャコフのいる小屋を出ます。

 吹雪は相変らずつづいていた。最初の五、六歩を彼はさっそうと歩いたが、ふいにその足がふらつきはじめたかのようだった。『これは肉体的なものだろう』苦笑して、彼は思った。さながら喜びに似た気持が今や彼の心に湧いた。彼は自己の内部に限りない意志の堅固さを感じた。最近あんなにひどく自分を苦しめていた迷いも、いよいよこれで終りなのだ! 決意はできたし、『もう変ることはない』── 幸福な気持で彼は思った。

(同)
(傍線は私・木下による)


 悲しいことに、イワンのこの「幸福な気持」というのがまたしても彼の「部分部分ばらばら」の一部にすぎないと私は思っているんですよ。
 スメルジャコフとの二度めの対面の終わりはこうでした。このときの方がまだイワンにとってよかったと私は思っているんです。

 イワンは怒りに全身をふるわせながら、立ちあがり、外套を着ると、それ以上スメルジャコフに返事をせず、見ようともしないで、足早に小屋を出た。すがすがしい夜気が気分をさわやかにしてくれた。空に月が明るくかがやいていた。さまざまな思いと感覚の恐ろしい悪夢が、心の中でたぎり返っていた。『今すぐスメルジャコフを訴えに行こうか? しかし、何と言って訴えよう。あいつはとにかく無実なんだからな。あべこべに、あいつが俺を訴えることになるだろう。実際、何のためにあのときチェルマーシニャへ行ったりなんかしたんだ? なぜ、何のために?』イワンは自分に問いかけた。『そう、もちろん、俺は何事か期待していたんだ。あいつの言うとおりだ……』と、これでもう百遍目にもなるのだが、またしても、あの最後の夜、階段の上から父の様子にきき耳をたてたことが思い起された。だが今はそれを思いだすなり、ひどい苦痛をおぼえたため、突き刺されたようにその場に立ちすくんだほどだった。『そうだ、俺はあのときあの事態を期待していたんだ、たしかにそうだ! 俺は望んでいた、殺人を望んでいたんだ! 俺が殺人を望んでいたって? ほんとに望んでいたのだろうか? ……スメルジャコフのやつを殺さなけりゃいけない! もし今スメルジャコフを殺す勇気もないんなら、これから生きゆく値打ちもないんだ!』イワンはそのとき、自分の家へ寄らずに、まっすぐカテリーナのところへ行き、その姿で彼女をびっくりさせた。まるで狂人のようだったのである。彼はスメルジャコフとの話を、細かい点にいたるまで残らず伝えた。どんなに彼女が説得しても、イワンは気を鎮めることができず、のべつ部屋の中を歩きまわって、きれぎれに異様なことを口走っていた。やっと腰をおろしたものの、テーブルに肘をつき、両手で頭を支えて、奇妙な警句めいた言葉をつぶやいた。
「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると、もちろんそのときは僕も共犯だ。なぜって僕はたきつけたんだからね。僕がたきつけたのかどうか、まだわからんな。しかし、殺したのがドミートリイでなく、あいつだとしたら、もちろん僕も人殺しなんだ」

(同)
(傍線は私・木下による)


 右の引用部分について、私は以前にこういいました。

 いいですか、「あいつはとにかく無実なんだからな」なんていうのはイワンのごまかしですよ。そうして、先にもいいましたが、「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると」という条件づけは、まだイワンが自分を正視していないということを示します。しかし、それよりも、彼がそう考えながらも、「狂人のよう」になってしまったことの方に注目してください。この動揺がイワンです。イワン・カラマーゾフなんです。
 ……(中略)……
 イワンはまたしても、ただ表面的事実に頼っただけですよ。またしても自分を正視するのを避けた・ごまかしたんです。しかし、彼の内心はこの間もずっと自分が人殺しだと知っていたんですよ。だから、ついにそれが身体の変調として現われてきたんです。とはいえ、語り手はここでイワンが表面的事実に頼っていることそのままに自身も表面的事実を語りつづけるんです。


 それでも、まだこのスメルジャコフとの二度めの対面の後の方が、三度めよりもイワンにとってよかった、まだ彼が「真実」に向き合おうとしていただろうと私は思うわけです。
 三度めの対面の後のイワンの「幸福な気持」も、実はやはりスメルジャコフこそが犯人だったという表面的事実に頼った結果にすぎないだろうと私は思うんです。表面的事実として、単にミーチャからスメルジャコフへと犯人が移動したにすぎません。いまだに彼は「真実」に、フョードルの「人間の顔」に、あるいはミーチャの、スメルジャコフの「人間の顔」に、また、ありとあらゆる「人間の顔」に向き合うことをしていません。イワンはただ表面的事実の処理を行なっただけです。そう私には思えてならないんですね。

 引用を繰り返しますが、

「ことによると、俺にも罪があるかもしれないし、ことによると俺は本当に、親父が……死んでくれることを、ひそかに望んでいたかもしれない。しかし、誓って言うが、俺にはお前が考えているほどの罪はないし、ことによると、全然お前をそそのかしたことにならぬかもしれないんだぞ! そう、そうだとも、俺はそそのかしたりしなかった! しかし、いずれにせよ、俺は明日、法廷で自分のことを証言する。決心したんだ! 何もかも話すんだ、何もかもな」


 ── やれやれ。イワンがここでいっている「罪」が何であるかといえば、最先端=亀山郁夫のいう通りの「罪」ですね。つまり、法的にどうか ── 他人の目から見てどうか ── ということでしかありません。しかし、もちろん読者はここでイワンの認識が甘すぎること、彼がこの期に及んでまだこんなことをいうのか、と首を振るのでなければなりません。間違っても、この二か月間のイワンが狂気に陥るほど苦しんできたのが、法的にどうかなどという視点での「罪」だなんて考えてはなりません。このイワンの台詞は、単純に相手がスメルジャコフだから口にされたものであって、しかも法廷で云々できる「罪」を問題にしているだけです。表面的事実に沿ったことを口にしているだけ、彼がまだこの程度の(甘い)認識にすがろうとしていたことの表現にすぎません。これを、「何だ、やっぱりイワンは自分の行為が法に触れるかどうかを気にかけていたんじゃないか」なんて考えたひとがいるなら、そのひとも「最先端」ですよ。

 イワンはまだ「真実」を回避しつづけます。しかし、「真実」の方で彼を追い立てます。イワンはそれに耐え切ることができません。これを表現するのに、語り手は彼を「部分部分ばらばら」にするんです。

 イワンの「幸福な気持」とミーチャのこれと比べてみてください。


「なぜあのとき、あんな瞬間に、俺が《童》(わらし)の夢を見たんだ?『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。すべての《童》に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、《童》なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。だって、だれかがみんなの代りに行かなけりゃならないじゃないか。俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも!

(同)
(傍線は私・木下による)


 もう私は後でいおうとしていたことをいってしまっているだろうと思いますが、ここはとぼけて、まだしゃべりつづけます。

 イワンの「幸福な気持」は、まだしばらくの間持続します。

『明日に向けてこれほど固い決心ができていなかったとしたら』ふいに快感をおぼえて彼は思った。『あの百姓を助けるのにまる一時間も費やしたりせず、そのまま素通りして、あいつが凍死しようと唾でも吐きすてるだけだったにちがいない……それにしても、これほど自分を観察することができるとはな!』その瞬間、いっそう強い快感とともに彼は思った。『ところがあの連中は、俺が気違いになりかけていると、決めてかかったんだからな!』

(同)


 イワンはアリョーシャにこう問いかけたばかりでした。

「おい、アレクセイ、人間がどんなふうに発狂してゆくか、知ってるか?」まったく突然にイワンが、もはやすっかり苛立たしさの消えた低い声でたずねた。その声には思いがけなく、きわめて素朴な好奇心がひびいていた。
「いいえ、知りません。狂気にもいろいろな種類がたくさんあると思うけど」
「じゃ、自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?」

(同)


 彼の「幸福な気持」は唐突に失われます。

 わが家に帰りつくと、彼は突然、唐突な疑問をいだいて立ちどまった。『今すぐ、これから検事のところへ行って、すべてを申し立てる必要はないだろうか?』彼はふたたびわが家の方に向きを変えて、この疑問を解決した。『明日、全部ひとまとめにしよう!』彼は心につぶやいた。と、奇妙なことに、ほとんどすべての喜びが、自分に対する満足が、一瞬のうちに消え去った。部屋に足を踏み入れたとき、ふいに何か氷のようなものが心に触れた。それは、まさしくこの部屋に現に存在し、また以前にも存在した、何かやりきれないほどうとましいものの思い出であり、もっと正確に言えば、警告であった。

(同)
(傍線は私・木下による)


 翌日の法廷ではイッポリート検事にこういわれましたね。

「最後に、イワン・カラマーゾフ氏は昨夜これほど重大な情報を真犯人から得たのに、落ち着きはらっていたのです。なぜ、すぐにそれを届けないのでしょうか? なぜ朝まで延ばしていたのでしょう?」

(同)


 しかし、検事のことはどうでもよくて、そんなことより、これを思い出しますね。

 倦むことなく実行するがよい、夜、眠りに入ろうとして、『やるべきことを果していなかった』と思い出したなら、すぐに起きて実行せよ。

(同)


 ゾシマ長老のそのことばにつづくのはこうでした。

 もし周囲の人々が敵意を持ち冷淡で、お前の言葉をきこうとしなかったら、彼らの前にひれ伏して、赦しを乞うがよい。なぜなら実際のところ、お前の言葉をきこうとしないのは、お前にも罪があるからである。相手がすっかり怒って話ができぬ場合でも、決して望みを棄てず、おのれを低くして黙々と仕えるがよい。もしすべての人に見棄てられ、むりやり追い払われたなら、一人きりになったあと、大地にひれ伏し、大地に接吻して、お前の涙で大地を濡らすがよい。そうすれば、たとえ孤独に追いこまれたお前をだれ一人見も聞きもしなくとも、大地はお前の涙から実りを生んでくれるであろう。たとえこの地上のあらゆる人が邪道に落ち、信仰を持つ者がお前だけになるといった事態が生じても、最後まで信ずるがよい。そのときでも、ただ一人残ったお前が、犠牲を捧げ、神をたたえるのだ。かりにそのような者が二人出会えば、それが全世界であり、生ある愛の世界なのだから、感動して抱擁し合い、主をたたえるがよい。たとえそれが二人であっても、主の真理は充たされたからだ。
 もし自分が罪を犯し、おのれの罪業や、ふと思いがけず犯した罪のことで死ぬまで苦しむようであれば、他の人のために喜ぶがよい。正しい人のために喜び、たとえお前が罪を犯したにせよ、その人が代りに行いを正しくし、罪を犯さずにいてくれたことを喜ぶがよい。

(同)


 どうでしょう? それらはイワンに最もできないことじゃないでしょうか?

 いや、いってしまいましょう。イワン・カラマーゾフに欠けているもの、それさえあれば彼が救われるはずのもの ── それはこれなんです。

「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにも楽園が生まれるにちがいないんです!」ああ、はたしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。ことによると本当に、わたしはすべての人に対して、世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばんわるい人間かもしれない!

(同)
(傍線は私・木下による)


 わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成をさまたげるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」などと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべてのものに対して罪ある身であることに気づくであろう

(同)
(傍線は私・木下による)


 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝らの喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うたのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた

(同)
(傍線は私・木下による)


 もう一度先ほどのミーチャ。

「なぜあのとき、あんな瞬間に、俺が《童》の夢を見たんだ?『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。すべての《童》に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、《童》なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。だって、だれかがみんなの代りに行かなけりゃならないじゃないか。俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも!

(同)
(傍線は私・木下による)


 イワンにはこの覚悟がありません。彼はミーチャの「讃歌」── 他の誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすること、ですね ── を頭では理解することができますが、心で感じること・信じることができないんです。いや、彼の「部分」はミーチャの「讃歌」に圧倒的な共感を覚えているはずです。このことの、底の底まで考え抜いている自分をさしおいて、愚かなミーチャなんぞが「讃歌」に酔いしれやがって、と彼は思っているに違いありません。「讃歌」を本当に歌うべきなのはミーチャではなく、この俺・イワンなのだ、と思ってもいるでしょう(同様に、彼は彼の「すべては許される」をろくに理解もせずに殺人を決行したスメルジャコフに憤ってもいたでしょう)。しかし、彼のべつの「部分」はそんな共感に大笑いし、嘲っているんです。おやおや、君は本気で馬鹿みたいに「讃歌」なんぞ歌うのかい? ── そんなふうに、彼の「部分部分」が互いに争います。

 イワンに欠けているのは、彼が「すべての人に対して罪がある」という自覚です。しかも、この自覚は必ず「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」がセットになっていなければなりません。これこそが ── 「謙遜な勇気」(キルケゴール)を持って ── 個々の「人間の顔」に向き合うことです。しかし、イワンは個々の「人間の顔」に向き合うことなしに「人類全体」の幸福などを考えつづけたあげく、フョードル殺害の後でもそれにしがみつこうとしたために自滅することになるんです。

 イワンが自滅する・狂気に陥っていく ── 分裂してはいるけれど、結局ひとりの人間であって、一個の身体でしかないイワンに生じたこと。そのことで、ちょっとわかりやすい例を提示してみます。これは十数年前の ── ほぼ一年間の ── 私自身の実際の話ですけれど、ある日、右耳の上部の毛髪がごっそりきれいに・つるつるになくなっていたんですね。そのしばらく前から洗髪していると、かなりの抜け毛のあることは認識していました。しかし、そんなことになっているとは思わなかった。もうそこからはどんどん毛が抜けていきました。頭にちょっとさわるだけで、抜け毛が手のひらいっぱいになるという毎日。風呂に入るたびに排水口の蓋から山盛りの毛髪を掬い上げなければならない毎日。結局、頭髪のほとんどが抜けてしまいました。円形脱毛症が群発したというわけです。医者にはストレスが原因だといわれました。私にはそんなストレスの自覚がありませんでしたし、周囲にもそういいつづけました。しかし、実のところ、もしかすると、と思い当たるふしがないでもありませんでした。しかし、たとえ、それがまさに当のストレスであったにせよ、そんなつまらない ── 私にはそう思われました ── もののためにこれほどの脱毛が起こるなどということは信じられませんでした。
 それで、私の思ったのはこういうことです。いくら自分が心でそのストレス(とおぼしきもの)に対して平気だ・大丈夫だ・どうってことないと考えているにせよ、身体の方でその心についてこれないことがあるのだ。人間にとって身体とはそのようなものなのだ。身体の方が心より正直なのだ。だから、逆に身体から心を推測・判断する方が、私自身の直面している現実の問題を正確に認識することになるのではないか?
 これをそのままイワン・カラマーゾフに適用することができると私は考えます。この原理で、イワンは狂気に陥っていくんです。

 しかも、イワン自身が、自分のこの「部分部分ばらばら」のからくりを承知してもいたでしょう。だから、なお始末が悪いんです。

「ついでに言うと、僕は君の言葉をきいて、いささかおどろいているんだ。だってさ、この前しきりに言い張っていたみたいに、僕を単なる君の幻想と見なしたりせず、少しずつ本当に僕を実在の何物かと受けとりはじめたみたいじゃないか」

(同)


「僕は君の幻覚でこそあるけれど、ちょうど悪夢の中のように、君がこれまで頭に思いうかべたこともないような、独創的なことを話しているだろう。だから、こうなるともう僕は君の考えを蒸し返しているわけじゃない。にもかかわらず、僕は君の悪夢でしかないし、それ以上の何物でもないんだからね
嘘をつけ。お前の目的は、ほかでもない、お前が一個の独立した存在で、俺の夢ではないってことを、俺に信じこませることじゃないか。だから今だってお前はわざと、自分が夢だってことを強調しているんだ」

(同)
(傍線は私・木下による)


「お前は夢だ、だから実在していないんだ!」
「そうむきになって僕を否定するところを見ると」ジェントルマンは笑いだした。「君はやっぱり僕の存在を信じていると思うよ」
「全然! 百分の一も信じていないさ!」
「でも、千分の一くらいは信じているね。そのごくわずかの分量が、ことによるといちばん強力かもしれないよ。信じてるって白状したまえよ、まあ一万分の一くらいは……」
「一瞬たりとも信ずるもんか!」イワンは憤然として叫んだ。「もっとも、お前の存在を信じたい気はするがね」ふいに奇妙な口調で彼は言い添えた。
「ほう! それでも、やっと白状したね! しかし、僕は親切だから、ここでも助けてあげよう。いいかい、僕が君の尻尾をつかまえたんで、君が僕をつかまえたわけじゃないんだよ! 僕はね、君がすでに忘れていた今の話をわざとしてあげたのさ、君が決定的に僕の存在を信じなくなるようにね
嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前が存在することを俺に信じこませるためじゃないか
「まさしくそうさ、しかし、動揺だの、不安だの、信と不信との戦いだの、そういったものは時によると、君のような人間にとっては、いっそ首をくくるほうがましだと思うくらいの苦しみになるからね。僕はね、君が少しは僕の存在を信じていることを承知していたから、今の話をして、決定的に不信を植えつけようとしたんだよ。僕は君に信と不信の間を行ったり来たりさせる。そこに僕の目的もあるんだからね。新しい方法じゃないか。現に君はまったく、すぐ面と向って僕に、僕が夢じゃなく本当に存在するんだと強調しはじめるんだからね。僕にはわかってるよ。それでこそ僕は目的を達するんだからね」

(同)
(傍線は私・木下による)


 どうですか?「僕は君に信と不信の間を行ったり来たりさせる」── イワンはこのからくりを自分ですっかり承知しています。しかし、これはいくら承知していようが、自力で脱出するのは不可能に近いからくりなんですよ。

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。」

(同)


 ゾシマ長老にイワンは真剣に問いました。ゾシマ長老はそのイワンを正確に見通していました。

 スメルジャコフがイワンの思想をを正確に ── そっくりそのまま、その成立過程をもまるごと含んで、つまりイワンががんじがらめになっているからくりごと ── 理解していたならば、絶対に殺人を決行することなどできませんでした。なぜなら、イワンの思想は「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されない」ものだからです。スメルジャコフはイワンの思想を自分のために利用しただけです。もっとも、それなしに彼には行動することができなかったでしょうけれど。
「すべては許される」というイワンの思想は、彼が「行ったり来たり」する「信と不信」の片側にすぎません。イワンがそのどちらかであるということではありません。その往復の運動こそがイワンなんです。そうである以上、本来イワンには何もできるはずがありませんでした。

 イワンは「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されない」はずだった自分の思想が、こうまで愚劣な形で現実化してしまったことに動揺してしまうんです。

 そういうイワンにさしのべられる手がアリョーシャの「あなたじゃない」なのだ、と私はいいます。これもおさらいですが、私は以前にこういいました。

 いくつか例を挙げましたが、「謙遜な勇気」を持てずにいる彼らに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめない人物たちがいるんですね。つまり、誰かが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめない人物たちです。この人物たちが、そうやっていられるのはどうしてなのか? どうしてそこまでできるのか? ── と、あなたが感じただろうと私は信じます。

 アリョーシャの「あなたじゃない」も、そのようにさしのべられた手のひとつです。「あなたじゃない」は、イワンの自分自身への「嫉視」・「悪意」の否定です。さらにいえば、実は、イワンだけでなく、この「あなたじゃない」を必要としていない登場人物が『カラマーゾフの兄弟』にいるでしょうか?

 アリョーシャは、イワンが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」=「殺したのは私だ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめないでいるんです。イワンに自分=アリョーシャとのつながりを信じること、自分=アリョーシャに対して気持ちを開くことを呼びかけているんです。アリョーシャはイワンの良心の証人になろうというんです。そうしてイワンに「離反」と「孤独」から、こちらに戻って来るように、と訴えているんです。自分自身をも信じないこと ── 自意識の堂々巡り ── から脱却してください、と懇願しているんですよ。「謙遜な勇気」を持ってください、といっているんです。こうして《ただ一人の罪なき人》からアリョーシャを通じてさしのべられている手が、ここで描かれているんです。これが『カラマーゾフの兄弟』で描かれている「罪」と「愛」なんです。


「イワンが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」=「殺したのは私だ」)」については、イワン自身のことばから、これらを引用しましょう。

「ただ、お前はもっぱら俺の醜悪な考えを取りあげるんだ、何よりも、愚劣な考えだけをな。お前は愚かで、卑俗だよ。ひどく愚かだ。だめだ、お前なんぞ面を見るのもいやだよ! どうすりゃいいんだ、どうすればいいんだろう!」イワンは歯ぎしりをした。


「お前は俺の本性にひそむいっさいの愚劣なものや、とうの昔に生命を失い、俺の頭の中で粉砕されて、腐肉のように棄て去られたものを、何か新しいものみたいに俺に捧げようとするんだからな!」

(同)




(つづく)