(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



(承前)

 さて、「彼(イワン)の前には誰もいません。束の間、アリョーシャやゾシマ長老が浮かび上がってはきますが、その他に彼の前に「人間の顔」を持った生身の人間の現れることがありません」といったばかりの私ですが、むろん、私はわざとカテリーナ・イワーノヴナに触れなかったんです。といって、イワンにとってのカテリーナがどれほどの存在であるかということが、私にわかっているのでもありません。しかし、私は次の文章を問題にしたいんです。

 もっとも、この当時彼は直接的な関係のまったくない、さる事情にすっかり気をとられていた。モスクワから帰って最初の数日のうちに、彼はカテリーナに対する炎のような狂おしい情熱に、もはや抜き差しならぬ勢いでのめりこんでしまったのだ。その後、全生涯に影響を与えたイワンのこの新しい情熱に関して語り起すには、ここはその場所ではない。それだけで、すでにほかの物語なり、別の長編なりの構想に十分使えるはずであるが、その長編にそのうち取りかかるのかどうか、わたしにもわかっていないのである。しかし、やはり黙っているわけにもいかないので、ここでは、すでに書いたように、あの夜イワンがアリョーシャといっしょにカテリーナのところから帰る途中、「俺は彼女に関心がないのさ」と言ったとき、あの瞬間ひどい嘘をついたのだ、ということだけ記しておこう。たしかにときには殺しかねないほど憎くなることも事実ではあったが、彼は狂おしいくらい彼女を愛していた。これには数多くの理由が重なっている。つまり、ミーチャの事件でショックを受けた彼女は、ふたたび戻ってきたイワンに、まるで救世主でも迎えたようにとびついた。彼女は感情を傷つけられ、侮辱され、卑しめられていた。ところがそこへ、以前から彼女を深く愛していた男が(そう、彼女にはそれがわかりすぎるくらい、よくわかっていた)、そして、その知性に対しても情操に対しても日頃から彼女が心からの敬意を払っていた男が、ふたたび現われたのである。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 この文章でだけは、語り手はイワンを総括しているんですね。ここでだけは「部分部分ばらばら」にしないで確定的なこととして語るんです。何だか強引に語って、そういうことなんだよ、と「まとめて」しまうわけです。言及しておかなくてはならない事情なんだけど、ここは簡単に「まとめて」おくよ、と彼はいうんです。これは、本来やってはならないことであるはずです。やってはならないことだと語り手自身が承知しているからこそ、傍線部の断わりを挿まざるをえないんですよ。
 なぜか? もしこの事情までを詳細に語っていたら、「部分部分ばらばら」というやりかたでこれまで語ってきたイワンのある部分が薄められてしまい、読者の忍耐の限界をも超えて、作品が複雑になってしまうからです。また、おそらくは、やはり語り手がこの作品の主人公をアリョーシャだとしたいからでもあるでしょう。つまり、アリョーシャから離れないようにしながらイワンを語ることだけが語り手にとって重要だということでしょう。
 しかし、どうですか? この文章の不自然さ ── もちろん語り手の意図したことです ── からいっても、イワンの「部分部分ばらばら」が逆に際立ってこないでしょうか?
 語り手は、「モスクワから帰って最初の数日のうちに、彼はカテリーナに対する炎のような狂おしい情熱に、もはや抜き差しならぬ勢いでのめりこんでしまった」という確定的な表現を、イワンについての自分のこれまでの語り ──「部分部分ばらばら」の集積 ── としては「例外」扱いしているわけです。もし語り手が「その後、全生涯に影響を与えたイワンのこの新しい情熱」について彼のいうべつの長編を完成させたとすれば、そのときもイワンのカテリーナに対する「炎のような狂おしい情熱」は『カラマーゾフの兄弟』におけるように不確定的な表現をされているはずです。
 また、逆に、この「例外」のやりかたで「部分部分ばらばら」なイワンを表現すると、どうなるかといえば、「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」になりますが、語り手は絶対にそんなことをしません。そんな「まとめ」は語り手が表現したいと思っているイワンを損ないます。イワンを損なうだけでなく、せっかく彼に「あなたじゃない」といったアリョーシャをも損なうことになるでしょう。「あなたじゃない」がいったいどのようなものに対して発せられたことばなのか、ということですね。「あなたじゃない」がひたと見つめ、対決しようとしていたものが、どんなに途方もない・複雑きわまりない・恐ろしい・醜い・深い・大きなもの ── というか、それは静止しているもの・「まとめ」の可能なものではなくて、いつまでもぐるぐる回りつづける「運動」なんですが ── だったのか。その複雑さ・恐ろしさ・醜さ・深さ、大きさの度合いが大きければ大きいほど「あなたじゃない」も大きくなるんです。むろん、イワンを救おうとしているアリョーシャからすれば、現実に生身の人間としての彼が現実に生身の人間としてのイワンにさしのべる手は「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」ということを切り口として出すしかないんです。で、これはイワンの「まとめる」ことのできない、不確定的に示される複雑さに対して非常に単純で簡潔で直截で確定的なものでなければなりませんでした。「あなたじゃない」に一切のあいまいさはありません。また、それによって「あなたじゃない」を突きつけられるイワンの「まとめる」ことのできない、不確定的に示される複雑さがここでさらにくっきりと読者の前に現われるはずでもあります。私もまたここでぐるぐると同じことの周りを回っていますが、「あなたじゃない」は決定的反応をイワンから引き出します。これは、同時に、読者からも決定的反応を引き出すでしょう。アリョーシャの「あなたじゃない」なしにイワンを表現することはできないんです。逆に、「あなたじゃない」なしにアリョーシャを表現することもできません。アリョーシャとイワンと読者との三者がここでひとつの運動に巻き込まれることになるんです。これが語り手の意図したことです。

 というわけで、先の「例外」を除くと、イワン・カラマーゾフは「部分部分ばらばら」に、彼の内心に生じた小さな ── 断片的な ──「部分」を積み重ねていき(ということは、それらをなんとか「まとめ」ようとする読者 ── 読者はどうしても「まとめ」ようとします ── に対しては非常に不確定的なものとして表現されることになります)、そこに、たとえばアリョーシャやミーチャやスメルジャコフや「悪魔」をぶつけることによって確定的に生じる ── 断片的な ── 反応を積み重ねていくことで表現されるんです。
カラマーゾフの兄弟』は、そういうつくりの作品なんです。

 いいですか、私はこれまでずっとこの作品のつくり・構造についてしゃべっているんです。私がこの作品の内容についてしゃべっていると思っていましたか? もちろん、私はわざとそういうんですが、作品のつくり・構造についてしゃべることが作品の内容についてしゃべることになってしまう、作品の内容についてしゃべることが作品のつくり・構造についてしゃべることになってしまう ──『カラマーゾフの兄弟』はそういう作品なんです。というか、こういうものこそが「作品」なんですよ。「作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが作品」だと私はもう口が酸っぱくなるほどいってきました(だからこそ、ロシア語をまったく解さない私にこの一連の文章が書けるわけです)。そうして、このように作品を読むことのできない者に翻訳などできるわけがないというんです。
 繰り返します。アリョーシャの「あなたじゃない」に一切のあいまいさはありません。作品のつくり・構造がそこにあいまいさを許しません。

 兄弟同士の信頼関係のなかで、あたりまえの「事実」をめぐってのどこか思わせぶりな言い方は、かなり違和感を与え、端的にいって、居心地がわるい。ここには、父を殺したのは「あなたかもしれない」「あなたである」と言っているのと同じぐらいの意味が、その曖昧さのなかに隠されているということだ。

亀山郁夫「解題」)


 アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 最先端=亀山郁夫の面目躍如です。誰かこの「最先端」を止めろよ、この「最先端」を何とかしろよ、と私は思いますが、どうも大多数のひとは逆のことをしているようです。
 そんなふうにしか作品を読み取ることのできない最先端=亀山郁夫の翻訳でも『カラマーゾフの兄弟』の本質が損なわれることがないだの、彼の誤訳が単に部分的・表層的な問題(あるいは部分的な解釈の違い)でしかないだの、自分にはロシア語がわからないから誤訳を云々する資格がないだのと考えるひとは、もう「文学」に手をつけたり、論じたりするのを一切やめろ、と私はいいます。なぜなら、これは構造的・深層的な問題だからです。『カラマーゾフの兄弟』のつくり・構造と内容とがばらばらだとでもいうんですか?「文学」を何だと思っているのか?

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)
(<『カンバセイション・ピース』(保坂和志 新潮文庫)>解説)


 最先端=亀山郁夫の翻訳が一見『カラマーゾフの兄弟』らしく思えるのは、彼が単に目の前にある原典のテキストの一文一文をその場しのぎに、ある程度にはなんとか追えているから ── 彼に一文一文のつながりや構造の意味がわからないままでも、とにかく目の前にあるロシア語を日本語に置き換える作業だけはしているから、なんとか格好がついてしまっている、ただそれだけのことです。一文一文をそれぞれ検討すれば間違いではないかもしれないけれど(しかし、膨大な誤訳がすでに専門家たちによって指摘されています)、文脈上・構造上では明らかに誤っているというわけです。私がずっと問題にしているのは、最先端=亀山郁夫の個々の表面的な誤訳だの改行だのなんかじゃありませんよ。また、私は原卓也の訳が完璧だなんていってもいません。原訳にも誤りはあるだろうといっています(先の専門家たちにもそれは指摘されています)し、さらによい訳を願うともいっているんです。それよりも、最先端=亀山郁夫がひどすぎるというんです。私が問題にしているのは、最先端=亀山郁夫のあまりの読解力のなさです。あまりに低レヴェルであるどころか、レヴェル云々以前の、いいかげんのでたらめだらけだというんです。『カラマーゾフの兄弟』の全体をこうまで読み取れていないひとにこの作品を訳せるわけがないといっているんですよ。いつまでたっても、これのわからないひとがいる。私が問題にしているのは、翻訳が原作の構造的な意味を汲み取ってなされているかどうかということです。極論すると原作の構造的な意味の汲み取りさえ正確にできていれば翻訳はもうそれだけでいいんです。表面的な個々の誤訳なんかいいんですよ(ない方がいいのはもちろんですけれどね。しかし、原作の構造的な意味の汲み取りが正確にできていればいるほど、表面的な誤訳も減るだろうと私は思います)。いいですか、原作の構造的な意味を汲み取らずに、その一文一文を追いかけたって無駄だというんです。原作の一文が長文であるなら、それは原作が自ら構造的に要請した長文であるはずだから、基本的には、それを細切れに訳しては ── いくら日本語として読みやすくなろうが ── 駄目なんですよ。ごく普通の日本語としてどんなに読みづらかろうが、構造をそのまま訳すことが第一です。構造をそのまま訳すことができるためには、原作をきちんと読み取ることが不可欠です。最先端=亀山郁夫はもうそのことだけでひどすぎるんです。原作の構造的な意味を解さず(また解そうともせず)に、原卓也訳と亀山郁夫訳のそれぞれの表面的な誤訳なんかを採りあげて「どっちもどっち」なんていうレヴェルの考察をいくらやったって無駄です。最先端=亀山郁夫の場合では、彼の訳した一文一文が作品の構造的な意味を理解せずになされたもの(だから、それらはべつに『カラマーゾフの兄弟』の一文一文でなくてもかまわないもの・『カラマーゾフの兄弟』の構造・文脈を離れて、『カラマーゾフの兄弟』とは無関係に、単にそこに書かれているロシア語の一文一文にすぎないものをばらばらに日本語にしただけ)であって、その一文一文は作品としての『カラマーゾフの兄弟』を構築している、それぞれに必然性のある、揺るがせない一文一文、相互につながって全体を支えている一文一文ではありえない、といっているんです。最先端=亀山郁夫の提出した「結果」としての訳なんかどうだっていいんです。だいたいが、私はそれを読んでもいない。私は、最先端=亀山郁夫の訳出の「過程」=読み取りが問題だといっているんです。「作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが作品」であるからには、でたらめだらけ・低レヴェルの読み取りしかできていない最先端=亀山郁夫には翻訳ができませんし、すでに提出されている訳を翻訳と呼ぶことはできません。少なくとも原卓也にはこの作品における「作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡」が正しく理解できています。それで、なおいいますが、私のここまで延々とつづいている一連の文章を読んで、「たしかに「あなたじゃない」の亀山解釈はおかしいなあ、たしかにジューチカ=ペレズヴォンのはずなのに亀山解釈はめちゃくちゃだなあ、たしかに「大審問官」の亀山解釈は的はずれもいいところだなあ、しかも、それらはみな構造的につながってもいるじゃないか」と認めつつ、「だからといって、亀山先生の訳が素晴らしいことに変わりはない」なんてことを考えているひとは最悪です。もう根本的に間違っている。作品の「なにが」が「どのように」に支えられていることがわかっていない。そんなひとの読書こそ「最先端=亀山郁夫的読書」だというんです。そんなひとはもう「文学」から足を洗え、そんなひとには「文学」の一切がわからない、と私はいいます。また、私がこうまで最先端=亀山郁夫を批判する理由が『カラマーゾフの兄弟』への敬意だということがわからないひとも、さようなら。そういうわけで、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は『カラマーゾフの兄弟』ではありません。だから、亀山郁夫への批判という意味を持たせずに、亀山訳を引いて『カラマーゾフの兄弟』について語る(「表面的にはこれでも間違いじゃないよね」などと考える)ということをするひとがいるとすれば、そのひとはもうそれだけで駄目ですね。

 これも引用しておきましょう。

 哲学においては、論拠がちがう同じ主張なんてものはそもそも存在しない。

永井均『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書



(つづく)