(二二)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一三



 もうずいぶん遅かったが、イワンはまだ眠れずに、考えごとをしていた。この夜、彼が床についたのは遅く、二時ごろだった。だが、今は彼の思考の流れをすべて伝えるのはやめておこう。それに、まだ彼の心に立ち入るべきときではない。いずれ彼の心を語る順番がくるのだ。また、かりに何かを伝えようとしたところで、それはいたってむずかしい。なぜなら、彼の心にあるのは、まだまとまった考えではなく、何かきわめて漠然とした、そして何より特に、あまりにも昂ぶりすぎたものだったからだ。彼自身、自分がすっかり常軌を逸しているのを感じていた。


 フョードル殺害の前夜、モスクワ行きの前夜 ── カテリーナに別れを告げ、アリョーシャに「大審問官」を語った日の夜 ── のイワンについての語り手のことばです。

 だが、今は彼の思考の流れをすべて伝えるのはやめておこう。それに、まだ彼の心に立ち入るべきときではない。いずれ彼の心を語る順番がくるのだ。

(同)


 その「彼の心を語る順番」が来たとき ──「第十一編 兄イワン」── の語り手の語りかたについて、私は以前にだいぶ長々としゃべりました。私はこういいました。アリョーシャの「あなたじゃない」を響かせた後の語りかたです。

 そこから、語り手は時間を遡って、殺人事件後のイワンの消息を語り始めます。そうして、スメルジャコフとの過去二回の対面の様子を含めた諸事情を語ることになります。つまり、これまでのところ、アリョーシャが見聞きしたことを通してだけ読者に伝えてきたイワンの消息を、またべつの角度から語り直すというやりかたです。語り手はそこで、イワンのある部分にはできるだけ踏み込まないような語りかたをします。そう私がいうのは、語り手が、まさにアリョーシャのいう通りの意味での「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」を直接に語らない、ということです。一度、イワンが自分を犯人だと口にするのは「もしスメルジャコフがやったのなら」という条件つきでです。アリョーシャが指摘したのは、そういうレヴェルのことではありません。そんな条件なしで、ずばりイワンの良心の問題としてアリョーシャは指摘しているんです。語り手は、ある意味でとぼけたようにアリョーシャの「あなたじゃない」の意味していることに直接踏み込まないんです。その周辺をぐるぐる回る語りかたをします。これは意図的なものです。つまり、語り手は、すでにアリョーシャに「あなたじゃない」といわせてしまっているから、もうそれ以上自分が踏み込む必要がないんですね。しかし、わざとのように(いや、わざとなんですが)踏み込まないここでの語りが全体としてどう読めるかというと、やはり「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないとイワンが思いつめていた」ということになるんです。

(傍線は私・木下による)


 語り手はけっしてイワンの心理を総括しません。イワンの心理の部分部分をばらばらに提出し、部分部分ばらばらなまま読者に伝えようとします。もちろん、それらは、アリョーシャのあまりにも強烈な「あなたじゃない」の残響のもとに語られるわけです。それでも、語り手はイワンの心理をこれこれだと確定しようとしません。むしろ、そういう確定を拒みます。イワンの心理を部分部分ばらばらなまま、その全体を読者に受け入れてほしいんです。というのも、この「部分部分ばらばら」の全体がイワン・カラマーゾフだからです。イワン・カラマーゾフは、この「部分部分ばらばら」によってしか、そのありようの表現できない人物なのだ、と私はいいましょう。もしあなたがイワン・カラマーゾフをしっかり読み取ろうと思うなら、アリョーシャの確定的な「あなたじゃない」という視点と、いま私のいった不確定的な「部分部分ばらばら」という視点との差異を踏まえたうえで、そのふたつの視点の並存する状態を想像できなくてはなりません。後でもいいますが、おそらくこのふたつの視点 ── 確定的な視点と不確定的な視点 ──の接触、応答の全体が、どちらか一方だけの視点をはるかに超える大きさと広がりを作品にもたらしているんですね。いいですか、まず確定的な「あなたじゃない」と、それに対するイワンの反応があって、その後に不確定的な ── この二か月間の ── 「部分部分ばらばら」が語られるんです。この語りの全体は非常に「動的」なものです。この作品は常に動き、脈打ち、姿をどんどん変えていくんです。その「運動」に参加することが、この作品の読書です。読者は作品に巻き込まれ、いつか私のいったように、アリョーシャのことばの通りに「かまいません、僕も苦しみたいんですから」といいつづける読書をすることになります。 ── と、私はいま先走って、「あなたじゃない」以降の確定的な視点と不確定的な視点の接触、応答についてをしゃべりましたが、むろん、それ以前でも語り手はイワンの「部分部分ばらばら」を提示していたんでした。ということは、以前に提示していたイワンの「部分部分ばらばら」に対して、語り手はアリョーシャの「あなたじゃない」をぶつけたことにもなるわけです。

 イワンの「心を語る順番」の来る以前 ── フョードル殺害以前 ── 今回の冒頭に私の掲げた場面で ── のイワンはこんなふうに語られていました。

『どけ、ろくでなしめ、俺はお前なんぞの仲間じゃない、ばか者!』こんな啖呵がほとばしりかけたがわれながらひどくおどろいたことに、口をついて出たのはまったく別の言葉だった。
「どうだ、親父さんは。眠ってるか、それとも目をさましたかい?」自分でも思いがけなく、彼は低い声で神妙にそう言うと、これもまったく思いがけなく、ひょいとベンチに腰をおろした。一瞬、恐怖に近い気持をおぼえたのを、彼は後日思いだした

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


「だったらお前はなぜ」突然スメルジャコフをさえぎって彼は言った。「そんなことを言ったあとで、俺にチェルマーシニャ行きをすすめたりするんだ? それでいったい何を言いたかったんだ? 俺が行ってしまったあと、ここでそんなたいへんなことが起るんじゃないか」イワンはやっとのことで息を継いだ
「まさにそのとおりでございます」スメルジャコフは静かに分別くさく言ったが、それでいて食い入るようにイワンを見守っていた。
「まさにそのとおりとは、どういうことだ?」イワンは自分を必死に抑え、恐ろしく目を光らせながら、きき返した
「あなたをお気の毒と思えばこそ、申しあげたんでございますよ。わたしが若旦那さまの立場に置かれたら、即座に何もかも放りだしてしまいますがね……こんな事件の巻添えをくうよりは……」ぎらぎら光るイワンの目をいたって率直な態度で見つめながら、スメルジャコフが答えた。二人ともちょっと沈黙した。
貴様はどうやらたいへんなばか者らしいな、それにもちろん……恐るべき卑劣漢だ!」イワンはだしぬけにベンチから立ちあがった。それからすぐに木戸をくぐろうとしかけたが、ふと立ちどまり、スメルジャコフの方に向き直った。何やら異様なことが起った。イワンが痙攣でも起したように突然、唇を噛み、拳を固めたのだ。あと一瞬したら、もちろんスメルジャコフに飛びかかったにちがいない。少なくとも相手はその瞬間それに気づいて、びくりと身をふるわせ、全身をうしろに引いた。だが、スメルジャコフにとってその一瞬は無事に過ぎ、イワンは無言のまま、しかし何かためらいがちに木戸の方に向き直った
知りたきゃ教えてやるが、俺は明日モスクワへ発つよ。明日の朝早くな。言うことはそれだけだ!」ふいに憎しみをこめて、一語一語はっきりと大声でイワンは言ったが、どうしてこのときスメルジャコフにこんなことを言う必要があったのか、後日われながらふしぎに思ったものだった

(同)
(傍線は私・木下による)


 そうして、右の赤色部分と実線部との対照(とその並存)が、次のように表現されます。

 だが、スメルジャコフのおどろいたことに、イワンはだしぬけに声をあげて笑いだし、笑いつづけながら、足早に木戸をくぐった。その顔を見た者があれば、彼が笑いだしたのは、決して愉快だったからではないと、確実に結論を出したにちがいない。それに彼自身も、このときこの瞬間、自分がどうなっているか、絶対に説明できなかったであろう。彼の動作も歩き方も、まるで痙攣を起しているかのようだった。

(同)
(傍線は私・木下による)


 どうですか?「彼自身も、このときこの瞬間、自分がどうなっているか、絶対に説明できなかったであろう」です。ところが、そういう心理的な「部分部分ばらばら」が彼の身体にどのように表われていたかといえば、「彼の動作も歩き方も、まるで痙攣を起しているかのようだった」なんです。

 これが殺人事件以前のイワンでした。再び殺人事件以後に話を戻すと、

「じゃ、またな。もっとも、仮病が得意だってことは、言わずにおくよ……お前も供述しないほうがいいだろう」突然、イワンはなぜかこう口走った
「よくわかっております。あなたがそれを証言なさらないのでしたら、わたしもあのとき門のわきでした話を、全部はいわずにおきましょう……」
 イワンはここでふいに部屋を出た形になったが、もう廊下を十歩ほど行きすぎたころになってやっと、スメルジャコフの最後の一句に何か無礼な意味が含まれていたことを、突然感じた。引き返す気になりかけたが、ちらとそう思っただけで、『ばかばかしい!』と言いすてるなり、いっそう足早に病院を出た。何より、彼は本当に気持ちが落ちついたのを、それも本来なら反対の結果になるのが当然という気がしそうなものなのに、犯人がスメルジャコフでなく、兄のミーチャであるという事態によって安心したのを、感じていた。なぜそうなったのかを、そのときの彼は分析しようと思わなかったし、自分の感じ方を掘りさげることに嫌悪さえおぼえていた。できるだけ早く、どうにかして何かを忘れたい気持だった

(同)
(傍線は私・木下による)


 どうですか?「何より、彼は本当に気持ちが落ちついたのを、それも本来なら反対の結果になるのが当然という気がしそうなものなのに、犯人がスメルジャコフでなく、兄のミーチャであるという事態によって安心した」です。

 しかし、語り手はこうも指摘していました。

 さらにもう一つ注目すべきことは、彼がミーチャへの憎悪が日ましに強まるのを感じながら、同時に一方では、自分が兄を憎んでいるのは、カテリーナの愛の《再発》のためではなく、まさに兄が父を殺したためであることを理解していた点であった。彼はそのことを自分でも感じ、十分意識していた。

(同)


 右の文章について、私は以前にこういいました。

まさに兄が父を殺したためである」というのは、「まさに、自分イワンではなく、兄ミーチャが父を殺したためである」ということです。つまり、イワンは、一方で父を殺したのが自分でなく、ミーチャであることに「安心」していながら、他方では「父を殺したのが、自分であればよかったのに」と考えているんです。兄に手柄を横取りされたとでもいい換えましょうか。


「すべては許される」という思想の現実的帰結からも、そういう思想を抱いている者が自らの男性性を愛する女性に誇るためにも、イワンは「父を殺したのが、自分であればよかったのに」と考えるんです。

「しかも、これでもまだ足りずに、この人は結論として力説したのですが、たとえば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変るべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべきなんだそうです」
 ……(中略)……
「失礼ですが」思いもかけず、ドミートリイがだしぬけに叫んだ。「聞き違いしたくないものですから。『悪業は許されるべきであるばかりか、あらゆる無神論者の立場からのもっとも必要な、もっとも賢明な出口として認められさえする』こうでしたね?」
「そのとおりです」パイーシイ神父が言った。
「おぼえておきましょう」


「どうやって避けるんです? 何によって避けるんですか? 兄さんのような思想をいだいていて、そんなことは不可能ですよ」
「これもまたカラマーゾフ流にやるのさ」
「それが《すべては許される》ということですか? すべては許される、そうですね、そうなんでしょう?」
 イワンは眉をひそめ、ふいに何か異様なほど青ざめた。
「ああ、お前はミウーソフがあんなに腹を立てた、昨日の俺の言葉を拾いだしてきたんだな……ドミートリイが無邪気にしゃしゃり出てきて、言い直したあの言葉を?」彼は皮肉な微笑をうかべた。「そう、たぶんな。すでにその言葉が発せられた以上、《すべては許される》のさ。俺も否定はしない。それにミーチェニカの表現もわるくないしな」

(同)


 さて、いま表面的事実に頼って、父を殺したのがミーチャだと思っているイワンが、本家たる自分の思想的帰結をミーチャ ── イワンは、ミーチャなんかに自分・イワンの思想などが理解できるわけもなく、ただミーチャ自身の都合のいいような低レヴェルの曲解をするのが関の山だと思っています ── に横取りされたことに憎しみをおぼえているわけです。いっそのこと自分が父を殺したのであればよかったのに! また、その方が彼には楽なんですよ。自分が実際に父を殺したのであれば、その事実に依拠しながら、はっきりした ── 確定的な ── 判断を自分に下すことができるんです。ところが、現実にはイワンは殺人を犯していません。だから、彼は宙ぶらりんの状態で苦しむことになります。

 俺は望んでいた、殺人を望んでいたんだ! 俺が殺人を望んでいたって? ほんとに望んでいたのだろうか?

(同)


 というわけで、ここでちょっと横道に逸れますが、最先端=亀山郁夫のいう、これは大間違いです。

 ゾシマ長老が残した「説教」のテーマは、ひとこと「傲慢を捨てよ」に尽きる。ゾシマは、傲慢が生みだす悲劇を身をもって体験した。決闘のエピソードが示すように、彼自身ジラールの「三角形的欲望」のとりこだったことは疑いようがない。「三角形的欲望」の源にあるものこそ、傲慢である。その彼が、「謎の訪問客」との出会いによって修道院への道を志すとき、もちろんそれは、みずからの「傲慢」を最終的に克服するための第一歩にすぎなかった。ともあれ、この小説での「傲慢」の罪のもっとも恐ろしい体現者とは、ほかでもない、「謎の訪問客」である

亀山郁夫「解題」)
(傍線は私・木下による)


 いいですか、「この小説での「傲慢」の罪の最も恐ろしい体現者」は「謎の訪問客」(原卓也訳では「神秘な客」)ではなくて、イワン・カラマーゾフですよ。なぜなら、彼は「謎の訪問客」と違って、実際に殺していないからです。殺していれば、その現実に依拠することができるんです。殺していれば、ただその自分の犯した殺人という現実の ── 自分にはっきり手応えのある ── 一点にすべてを帰すことができるわけです。それで、その一点の是非だけをはっきり問題にすることができる・しさえすればいいわけです。イワンにはそれができません。彼は殺していません。殺していないから「安心」できそうなものを、彼は「殺していればよかったのに」・「その役(殺人者)は本来自分であるべきだった」と考えてしまうんです。だから、イワンの苦しみは自分が殺した以上に、いっそう高度なものになるんです。しかも、「謎の訪問客」には殺人に自ら納得できる動機がありました。イワンには、そのようなレヴェルでの動機がありません。その点でも、彼の苦しみはいっそう高度なんですよ。

 これを引用しておきます。

 地獄の物質的な火を云々する人がいるが、わたしはその神秘を究めるつもりないし、また恐ろしくもある。しかし、わたしの考えでは、もし物質的な火だとしたら、実際のところ人々は喜ぶことだろう。なぜなら、物質的な苦痛にまぎれて、たとえ一瞬の間でもいちばん恐ろしい精神的苦痛を忘れられる、と思うからだ。


 べつのいいかたをしますが、「謎の訪問客」の向き合っている現実がひとつだとしたら、イワンの向き合っている現実はふたつ以上あるんです。いや、どうもいいかたがよくありません。どういえばいいのか、いくらか試してみますが、「謎の訪問客」が殺人を犯すとき、彼にとって相手はただひとり、彼が思いを寄せていた女性に限定されていました。彼が彼女以外の人間を殺すことなどありえません。ところが、イワンはそうじゃないんですよ。たしかに、ここで実際に彼が苦しんでいるのはフョードル殺害についてではありますが、彼は本来殺害の対象がフョードルであろうがなかろうがどうでもよかったはずなんです。彼の「すべては許される」という思想が対象にしているのは、具体的な誰彼ではなかったはずなんです。ただ、手近なところにフョードルという恰好の対象(とともに殺人者候補としてのミーチャとスメルジャコフ)があったにすぎず、イワンはおそらくとりあえず試験的に仮想対象としてフョードルを念頭に置いていたにすぎないんです。そうして、その先には対象として誰彼かまわぬ殺人が「すべては許される」という標語のもとに行なわれてしかるべきだったはずなんです。彼の思想の帰結としてはそうなんです。
 ここで思い出してほしいのが、以前に私のしゃべった、『カラマーゾフの兄弟』における「人類全体に対する愛」と「「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれとに対する愛」との区別です。この「愛」を「殺意」あるいは「憎しみ」に置き換えてみてほしいんですね。「謎の訪問客」の「殺意」は「人間の顔」を持った生身のただひとりの女性にだけ向けられていました。彼は「人間の顔」に向き合っていたんです。けれども、イワン・カラマーゾフの「殺意」は、ここでも「人間の顔」=フョードルの顔を回避するんです。イワンは「人間の顔」=フョードルの顔に向き合うこと、その顔を正視することができません。

 ミーチャはそうではありません。

 ミーチャは横から見つめ、身じろぎもしなかった。あれほど不快な老人の横顔、たれさがった咽喉仏、甘い期待にやにさがった鉤鼻、唇、これらすべてが部屋の左手からさすランプの斜光で明るく照らしだされた。おそろしい、もの狂おしい憎悪が、突然ミーチャの胸にたぎり返った。『こいつだ、こいつが俺のライバルなんだ、俺を苦しめ、俺の生活を苦しめる男なのだ!』これこそ、四日前にあずまやでアリョーシャと話したとき、「どうしてお父さんを殺すなんてことを、口にできるんです?」というアリョーシャの問いに対して、さながら予感していたかのように答えた、ほかならぬあの突発的な、復讐心にみちた、もの狂おしい憎悪であった。
「でも、わからんよ、わからんさ」あのとき、彼はこう言った。「ひょっとしたら、殺さんかもしれんし、あるいは殺すかもしれない。心配なのは、まさにその瞬間になって、ふいに親父の顔が憎らしくなりそうなことさ。俺はあの咽喉仏や、鼻や、目や、恥知らずな薄笑いが、憎くてならないんだ。個人的な嫌悪を感ずるんだよ。そいつが心配なのさ。どうにも我慢できそうもないからな……」
 その個人的な嫌悪がもはや堪えられぬまでにつのった。ミーチャはすでにわれを忘れ、突然ポケットから銅の杵をつかみだした……

(同)


 もちろん、イワンにもフョードルの顔への「個人的な嫌悪」がありはしただろうと思います。しかし、そのレヴェルはミーチャと同じではありません。

「お前に一つ告白しなけりゃならないことがあるんだ」イワンが話しはじめた。「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気に膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務感に命じられた愛情から、みずからに課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信してるよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなきゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」
「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」アリョーシャが口をはさんだ。「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん……」
「ところが今のところ俺はまだそんなことは知らないし、理解もできないね。それに数知れぬほど多くの人たちだって俺と同じことさ。ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起るのか、それとも人間の本性がそういうものだから起るのか、という点なんだ。俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな」

(同)


 イワン・カラマーゾフの「すべては許される」という思想は「人間の顔」を正視しない・できないことによって成り立つ思想なんです。

 イワンが最初に獄中のミーチャに面会したときはこうでした。ミーチャのいったことは完全に正しいです。

 しかもこの最初の面会のときに彼は《すべては許される》などと主張している手合いには、自分を疑ったり尋問したりする資格はないと語気鋭く言い放って、さっそくイワンを侮辱したものである。

(同)


 そのミーチャは後でアリョーシャにこういうんでした。

「イワンも讃歌のことは理解してくれるんだ、わかっているとも。ただ、それには返事をせずに、黙っているだけさ。讃歌なんぞ信じていないんだ」

(同)


 むろん、イワンにはミーチャの「讃歌」が恐ろしいほど理解できます。

「ああ、アリョーシャ、俺は神を冒涜してるわけじゃないんだよ! やがて天上のもの、地下のものすべてが一つの賞讃の声に融け合い、生あるもの、かつて生をうけたものすべてが『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ!』と叫ぶとき、この宇宙の感動がどんなものになるはずか、俺にはよくわかる。母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱き合って、三人が涙とともに声を揃えて『主よ、あなたは正しい』と讃えるとき、もちろん認識の栄光が訪れて、すべてが解明されることだろう」

(同)


 さらに、

「俺だって赦したい、抱擁したい……」

(同)


 そのうえ、

「さあ、その無頼漢を釈放してやってください……讃歌なんぞうたいはじめて。そうすりゃ気が楽になるからですよ! 酔いどれの悪党が『ワーニカはピーテルに行っちゃった』とわめき立てるのと同じことなんだ。僕は二秒間の喜びのためになら千兆キロの千兆倍だって捧げますよ」

(同)


 イワン・カラマーゾフは「讃歌」を理解しています。しかし、「信じていない」んです。

 また、これらも引用しておきましょう。

「俺は祝福を受けた正式の婚約者さ。万事はモスクワで、俺の到着後、聖像を前にして晴れがましく、最高の形でとり行われたんだ。将軍夫人が祝福してくれたうえ、本当の話、カーチャにまでお祝いを言っていたよ。お前はいい人を選んだ、この人ならわたしには何もかも見透しだ、と言ってね。ところが、お前には信じられないだろうが、夫人はイワンを毛ぎらいして、お祝いもしてやらないんだよ」

(同)


「イワンは何て言っとる? アリョーシャ、お前だけだよ、俺の息子は。俺はイワンがこわい。あっちより、イワンのほうがこわいんだ。こわくないのはお前一人だけだよ……」

(同)


「あら、あのね、アレクセイ・フョードロウィチ、ひょっとすると、ここがいちばん肝心の点かもしれませんわ」ホフラコワ夫人がふいに泣きだして、叫んだ。「神かけて申しますけれど、あたくしリーズは本心からあなたにお任せしていますのよ。ですから、あの子が母親に内緒であなたをおよびしたからといって、そんなこと何でもございません。でも、あなたのお兄さまのイワン・フョードロウィチには、失礼ですけれど、そう気軽に娘を任せるわけにはまいりませんのよ、そりゃ今でもあの方をこの上なく騎士的な青年と見なしておりますけれどね」

(同)


 これがイワン・カラマーゾフです。イワンに「人間の顔」を正視しない・できないことを直感的に見抜き、拒否するひとたちが確実にいるんです。

「その人はだれのことも軽蔑しません」アリョーシャはつづけた。「ただ、だれのことも信じていないだけです。しかし、信じないとすると、もちろん、軽蔑しているわけですね」

(同)


 それ以前に、アリョーシャはイワンに向って適切な問いを投げかけていました。

「じゃ、粘っこい若葉は、大切な墓は、青い空は、愛する女性はどうなるんです! どうやって兄さんは生きてゆけるんです? それらのものをどうやって愛するんですか?」アリョーシャが悲しそうに叫んだ。「心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか?」

(同)


 ゾシマ長老とイワンとのやりとりはこうでした。

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです」

(同)


 イワン・カラマーゾフは分裂しています。もちろん、それはあらゆる人間が、また『カラマーゾフの兄弟』の作中人物のみなが分裂しているのだといえば、それはそうなんですが、イワンの分裂は他の誰ともレヴェルが異なり、高度に先鋭化されています。だから、語り手はイワンを「部分部分ばらばら」としてしか表現できないんです。イワンは分裂した「部分部分ばらばら」のどれにも真剣なんです。しかし、どれをも信じることができない。
 アリョーシャのいう通り、人間は「心と頭にそんな地獄を抱いて」生きていくことはできないし、愛することもできないんです。しかしイワンには生身のひとりひとりの人間それぞれの「人間の顔」に向き合うこと ── つまりは愛すること、ひいては憎むこと ── ができません。だから、彼に接する多くの他人は、その事情を正確に理解するのではないけれども、彼が自分たちの顔を見ていないこと・自分たちの顔を軽蔑していることにたちまち気づき、「毛ぎらい」するんです。

 イワンはフョードルの顔を見ようとしません。

 先の「それに彼自身も、このときこの瞬間、自分がどうなっているか、絶対に説明できなかったであろう。彼の動作も歩き方も、まるで痙攣を起しているかのようだった」につづくのはこうでした。

 それに、口のきき方までそうだった。家に入るなり、広間でフョードルに出会うと、彼はだしぬけに両手をふりまわしながら「僕は二階の自分の部屋へ行くんです。お父さんのところへじゃありませんよ、さよなら」と叫び、父を見ぬようにさえ努めながら、わきを通りすぎた。

(同)


 この日の夜と翌朝については、後でこう語られていました。

 つまり、何のために俺はあのとき、出発前の最後の夜、フョードルの家で、泥棒のようにこっそり階段に出て行って、階下で父が何をしているか、きき耳をたてたのだろう、なぜそれをあとで思いだしたとき、嫌悪にかられたのだろう、なぜ翌朝、道中であんなに突然、気が滅入り、モスクワに列車が入る頃になって、「俺は卑劣な人間だ!」と自分自身に言ったのだろう、などとたえず自分に問いかけるようになった、とだけ言えば十分だろう。

(同)


 右の翌朝 ── 出発 ── の場面でのイワンの上機嫌が何によっているかというと、彼はフョードルの前に立ちながら、彼の顔を見ないでいることに成功したんですよ。彼はしょっちゅうこれに成功しています。逆に、相手が誰であろうが、彼が相手の「人間の顔」に向き合うことはほとんどないだろうと思います。

 それで、私はこうもいいましょう。

 イワンがフョードルの遺体(死に顔)を見ていないことも実は重要なのじゃないでしょうか?

 あのときイワンは父の死後五日目にやっと戻ってきたので、柩にも間に合わなかった。ちょうど帰郷の前日に葬儀が行われたからだ。イワンが遅れた理由は、こうだった。つまり、アリョーシャが兄のモスクワの住所を知らぬため、電報を打つのにカテリーナの助けをかりたところ、彼女もちゃんとした住所を正確に知らず、イワンがモスクワに上京すればすぐに寄るだろうと当てにして、自分の姉と伯母にあてて電報を打った。ところが彼はモスクワに上京して四日目にやっと寄り、電報を読むと、もちろんすぐさま大急ぎでとんで帰ってきた。

(同)


 そう私がわざわざいうのは、イワンがフョードルの顔を見ることをまたもや回避しただろうと疑っているからですね。「モスクワに列車が入る頃になって、「俺は卑劣な人間だ!」と自分自身に言った」イワンが、それから四日間、フョードルの顔を何とか忘れようとしていた・思い出さないようにしていただろう、と思っているんです。それはうまくいったろう、この四日間の彼はおそらく上機嫌でもあったろう、しかも、彼は必ず知らせのあることを承知していただろう、というんです。そうして、わざとその知らせの届くようなところを避けて歩いたろう、というんです。

 私がいおうとしているのは、もしイワンが父親の遺体(死に顔)を目にしていたら、彼のその後の二か月はだいぶ違ったものになっていたのじゃないか、ということです。最後の最後までフョードルの顔を見なかったことが、その後の二か月間を相当恐ろしいものに変えてしまったのではないか、ということですね。

 ここで ── 対照的に、という意味を込めて ── 、ミーチャについての言及をいくらか引用してみます。

 あのときは神さまが僕を守ってくださったんです、と後日ミーチャはみずから語った。

(同)


 ドミートリイは家にいなかった。家主の家族たち ── 家具職人の老人と、その老妻、それに息子とは、うさんくさそうなと言える目つきでアリョーシャを眺めた。「これでもう三日も家をあけてらっしゃいますからね、どっかへ出かけたんじゃねえですか」アリョーシャの執拗な問いに老人が答えた。アリョーシャは、老人が与えられた指示どおりに答えているのだとさとった。「グルーシェニカのところじゃないの、でなけりゃまたフォマーのところにでも隠れてるのかな」という彼の質問に(アリョーシャはわざとこんな単刀直入な言い方をしてみたのだが)、家主の家族たちは怯えたように彼を見つめた。『してみると、兄さんを好きなんで、肩をもっているんだな』アリョーシャは思った。『それは結構だ』

(同)


 フェーニャもまた、彼の血まみれの両手をびっくりしたように見つめていたものの、やはりふしぎなほど素直に要領よく一つ一つの質問に答えはじめ、《ありのままの事実》を急いで述べてしまおうとするかのようだった。あらゆる細かな事実を彼女は少しずつ、一種の喜びさえおぼえながら語りはじめたが、それとて相手を苦しめるつもりなどまったくなく、心底から精いっぱい彼につくそうとあせっているふうに見えた
 ……(中略)……
「旦那さま、何があったんでございます?」フェーニャがまた彼の両手を指さしながら、言った。悲しみに沈む今の彼にいちばん身近な存在であるかのような、同情のこもった口調だった

(同)
(傍線は私・木下による)


 そのミーチャは彼女に後でこういっていました。

「あ、そうそう、フェーニャ」もう座席についてから、彼は叫んだ。「さっきはお前にひどいことをしたけど、どうか赦しておくれ、この卑劣漢を哀れと思って赦してくれ……」

(同)


 そうして、また、

「どなたが枕を持ってきてくださったんです? どなたですか、そんな親切な方は!」まるでたいへんな好意にでも接したかのように、感激にみちた感謝の気持をこめて、彼は泣くような声で叫んだ。

(同)


「こうして二十三年たって、ある朝、もうすっかり白髪になったわたしが診察室に坐っていますと、ふいに溌剌とした青年が入ってきたのです。わたしがどうしても思いだせずにいると、その青年は指を一本立てて、笑いながらこういうじゃありませんか。『ゴット・デア・ファーター、ゴット・デア・ゾーン、ゴット・デア・ハイリゲ・ガイスト! 僕は今この町についたので、くるみ四百グラムのお礼を言いに伺ったのです。だって、あのころはだれも僕に四百グラムのくるみなんて決して買ってくれなかったのに、あなただけはくるみを四百グラムも買ってくだすったんですからね』そのときわたしは、自分の幸福な青年時代と、長靴もはかずに裏庭にいたかわいそうな少年のことを思いだしたのです。わたしは胸がつまる思いで、言いました。『君は感謝の気持の篤い青年だ。だって、あんな幼いころにわたしのあげた四百グラムのくるみを、今までずっとおぼえていてくれるなんて』わたしは青年を抱擁して、祝福しました。そして、私は泣きだしました。青年は笑っていましたけれど、やはり泣いていたのです……なぜなら、ロシア人は泣くべきところで、笑うことが非常に多いからです。でも、この人は泣いていました。わたしにはそれがわかったんです。それが今や、悲しいことだ!」
「今だって泣いていますよ、ドイツ人の先生、今も泣いているんです、あなたは神さまのような人だ!」突然ミーチャが自席から叫んだ。

(同)


 ミーチャにはいつも必ず彼にとっての味方 ── それがある瞬間だけにせよ ── が現れます。そうして、彼は必ずそのことに気づき、彼らに感謝するんですね。彼は生身のひとりひとりの人間それぞれの「人間の顔」に向き合うことができるんです。それがフョードルを相手にすると、憎悪になってしまうとしても。そこで、語り手はミーチャの内心と言動とを一致しているものとして語ることができるんです。

 そうしてミーチャは「讃歌」にまでまっしぐらに突き進みます。

 自己の運命にとって宿命的とも言えるこの女性に対して、これほどの愛が、これほど新しい、いまだかつて経験したことのない感情が、胸の奥から湧き起ったことは、これまでに一度としてなかった。それは自分自身でさえ思いがけぬ感情であり、彼女の前で消えてしまいたいほどの、祈りに近いやさしい感情だった。「そうだ、消えてしまうのだ!」突然、何かヒステリックな感情の発作にかられて、彼は口走った。

(同)
(傍線は私・木下による)


 監獄でアリョーシャと話したときは、こうもいっていました。

「ああ、人間は祈りの中で溶けてしまうがいい!」

(同)


 彼の見た夢ではこうでした。夢ではあるけれど、彼がこの夢の通りの人間であることが読者にはわかります。

「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童(わらし)はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」
 そして彼は、たしかにこれは気違いじみた、わけのわからぬきき方にはちがいないが、自分はぜひともこういうきき方をしたい、ぜひこうきかねばならないのだと、ひそかに感じている。さらにまた、いまだかつてなかったようなある種の感動が心に湧き起り、泣きたくなるのを感ずる。もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒けな童の母親が泣かなくてもすむよう、今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんなのために何かしてやりたくてならない。

(同)


 これらはそのまま読者に伝わります。ドミートリイ・カラマーゾフはこういうふうに表現しうる人物なんです。彼は開かれた人物であって、イワンのように閉鎖的で分裂した人物ではないんです。語り手がドミートリイを表現するためには、彼の周りのたくさんの人物たちをどんどん出してきて、彼と対話させることができるんです。ドミートリイは彼の周りのすべてのひとたちと「つながって」いるんです。しかも ── 強引ないいかたをしますが ── 、その「つながり」のなかへと、彼は自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりしてかまわないと思っているんです。それも、「カラマーゾフ流」にです。それに対して、イワンをドミートリイと同じように ── 同じレヴェルで ── 語ることはできません。イワンのために他の登場人物たちをどんどん出してくることなんかできません。
 イワンには、彼にとっての味方が現れることがありません。彼の前には誰もいません。彼は誰とも「つながって」いません。彼には誰かとの「つながり」のなかへと自分自身を投げ出し、自分がそこに「消え」たり、「溶け」たりすることなんかまっぴらごめんです(とはいえ、彼は自分自身を誰かとの「つながり」のなかへと投げ出すことの意味が恐ろしいほどわかってもいます)。彼は、他人がどんなことになろうが、自分があくまで自分であること自分がすべてを見届けること固執します。それも、「カラマーゾフ流」にです。束の間、アリョーシャやゾシマ長老が浮かび上がってはきますが、その他に彼の前に「人間の顔」を持った生身の人間の現れることがありません。「孤独」と「離反」のなかに彼はいます。そこで、彼の前に現れるのが、人間ではなくて「悪魔」(他人ではなくて、自分自身)なんですね。そういうわけで、「悪魔」(他人でなくて、自分自身)でないと、イワンを表現できないんです。イワンは誰にも感謝しません。彼は最初から味方を拒絶し、感謝を嘲笑しているんです。そんな人物を表現することがどれだけ難しいかを想像してください。

 分裂しているイワン・カラマーゾフは、その分裂した自分自身の「部分部分」どうしで対話せざるをえません。彼には自分以外の誰彼へ向けて ── くだらないいいかたをしますが ── 本心を語ることすらできません。それができるためには、彼が自分自身であるレヴェル ──「部分部分ばらばら」以上のレヴェル、せめてもうすこし他者へ向けて提出しうる程度にはまとまったレヴェル ── の結論を持っていなくてはならないんです。私がいまいいたいのは、イワンの分裂した部分部分どうしの対話からは絶対に結論なんかが出るわけがなく(彼は絶対に結論なんかが出てこないからくりのなかに閉じこめられています)、外に向けて自分自身を語ることなどできないということなんです。イワンには絶対に「この二か月の間ずっと、犯人は自分以外の誰でもないと思いつめていた」なんてふうに自分を「まとめる」ことができません。「悪魔」が出てくるのは、イワン自身の必然であり、また彼を語る語り手の語りかたの ── 作品のつくり・構造上の ── 必然でもありました。

 とはいえ、ミーチャを表現することが語り手にとって実に簡単なことだった、などということをいうつもりではないんです。私がここで問題にしているのは、イワンを表現することとの比較としてなのだ、とお断わりしておきます。

 ちょっと思い出したので、トーマス・マンを引用してみましょう。

さまよえるオランダ人』第二幕で、オランダ人はゼンタとの美しい二重唱で次のように歌います。

  暗い炎がこの胸に燃えているのを、私は感じる。
  不幸な身の私は、この炎を恋と呼んでよいのだろうか。
  いや、いや、これは救いを求める憧憬なのだ。
  ああ、このように愛らしい天使によって、
  救いが私に与えられるとよいが!

 この詩句はいかにも歌うことができる詩句ではあります。しかし、これほど複雑な思考の産物、心的にこれほどこみ入ったものが歌に歌われたこと、あるいは歌の言葉として指定されたことはかつて一度もありませんでした。呪われた男は、一目見てこの娘を愛します。しかし彼は、自分の愛は本来彼女に対するものではなく、救いに対するもの、救済に対するものだ、とわが身に言って聞かせるのです。とはいえ、一方では、彼の目の前にいる娘は、彼にとってやはり救いの可能性の化身にほかならないのですから、彼は宗教的な救済への憧憬から区別することはできないし、また区別したくもありません。なぜなら、彼の希望はここに彼女という姿をとっており、それが別の姿をとって現われることを、彼はもはや望むことができない。つまり、彼は救いということにおいてこの娘を愛している、ということになります。何と交錯した二重性でしょう。一つの感情の複雑な深淵が何と鋭く観察されていることでしょう。これは分析であります。

トーマス・マン『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』 青木順三訳 岩波文庫
(傍線は私・木下による)


 どうですか? 傍線部を私はイワン・カラマーゾフに当てはめてみたいんです。「これほど複雑な思考の産物、心的にこれほどこみ入ったもの」=イワン・カラマーゾフが小説に現れたことは ── ドストエフスキー自身の作品を除けば(しかし、私の頭にエミリ・ブロンテの『嵐が丘』がよぎりもしますが)──「かつて一度も」なかったのじゃないでしょうか? イワン・カラマーゾフを表現すること ── そのためにはかつてない表現方法が必要でした。ドストエフスキーは「人間」というものへの認識を、その認識のありかたを恐ろしいやりかたで切り開いてしまった作家だと私は思います。その切り開きかたを私は問題にしているわけです。


(つづく)