(一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九



   2

 さて、そういうわけで、次に私が問題にするのは、同じ視点から、今度は「愛」でなく、「罪」です。『カラマーゾフの兄弟』における個々の登場人物の「罪」というのが、キリストを前にした「罪」だ、ということでしゃべります。おわかりでしょうが、これは私がこの作品における「愛」を問題にしているうちに、次第に自覚されたことなんですね。私は、この「キリストを前にした」という条件が、これまで私の考え、感じていたこと ── 『カラマーゾフの兄弟』における「罪」について ── をしっかり裏づけ、補強すると思ったわけです。
 つまり、この作品における「罪」とは、「謙遜な勇気」を持たないこと・躓くことです。誰かと自分とのつながりを信じないこと、誰をも信じない(「しかし、信じないとすると、もちろん、軽蔑しているわけですね」)ことですね。開かれた気持ちになれないこと、自分で自分を決めつけてしまうこと、自分で自分を閉じてしまうことです。この状態の最も高度なものがイワンの「反逆」であり、「離反」と「孤独」ですね。それは結局自分自身をも信じない ── 自意識の堂々巡りに陥る ── ということです。それが《ただ一人の罪なき人》を前にした「罪」ということになるだろうと私はいうんです。
 いや、私はこうして「キリストを前にした」という視点を以前から持っていたわけじゃありませんよ。しかし、自覚はなかったにせよ、気づいていただろうと思うんです。これまでの私の読み取りに「キリストを前にした」という条件をつけるとしっくり来るんです。私は一層強く自分の読みの正しさを確信できたということです。

 ここでいっておきたいんですが、ある小説作品について、その読みかたというのは、その作品 ── 作者じゃありません ── 自体が決定し、読者を導くはずなんです。私はこれまで何度もいっていますが、作品というのは、作者の「何を描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・拮抗の軌跡そのものなんです。そのとき、作品が主で、作者は従の位置にあります。作者は作品に奉仕するんです。逆にいえば、作品においての「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」とがせめぎ合い、拮抗していればいるほど、読者によるその読みかたはますます作品に導かれます。繰り返しますが、そのとき作者なんかどうでもいいんです。作品の読み取りに作者の「自伝層」なんてものが必要なんだったら、そんな作品は駄目ですよ。作品と呼ぶことさえできません。また、作品と呼ぶことさえできないものは、それにおいての「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」との関係が破綻しているわけで、そんな低レヴェルのものに読みかたなんかありません。もはや、それは読みようがないんです。それでも、結果として、そんなものがたくさんの読者に読まれるとすれば ── 実情はこの世のなか、そんなものこそ読まれるんですが ── 、それは読者が作品の貧困を自分の勝手な想像で安易に補っているからですね。読者と作者とが低レヴェルの想像力で馴れ合っているんです。そんなものは読書ではありません。まあ、それはいいでしょう。
 ところが、ここで問題になっているのは、「何が描かれているか」と「どのように描かれているか」とのせめぎ合い・拮抗のはっきりした軌跡として成立している作品、それも最高レヴェルの作品です。『カラマーゾフの兄弟』をどう読むかということは、それは『カラマーゾフの兄弟』が自然に導いてくれるんです。この二十五年間、私はそれに従って読んできたわけですね。だから、亀山郁夫の読み取りがおかしい・でたらめだとすぐにわかりました。というのも、『カラマーゾフの兄弟』について絶対にできない・『カラマーゾフの兄弟』自体が絶対に導かない読みかたを亀山郁夫はしているんです。
 私がここで何がいいたいのかというと、亀山郁夫のでたらめは明白である ── それも、たちまちにわかる ── にもかかわらず、それを指摘し、論証するのにとんでもなく時間と手間とがかかるということなんです。間もなく書き始めて半年になろうとしている私の一連の文章ですら ── もちろん引用過多とはいえ ── 文庫本の字詰めに換算すると、すでに三〇〇ページを超えています。これは亀山郁夫の「解題」の分量をすでに凌駕しているんですね。しかも、まだ「解題」のごく一部をしか扱っていないんです。木下豊房らの「検証」にしても、あれだけのことをするのに、いったいどれほどの時間と手間とをかけているか。まったく、亀山郁夫は余計なことをしてくれたものです。
 いや、私がここで何がいいたいのかというと、この一連の文章を読んでくれているひとたちが、ひょっとすると、「こうまでしないと亀山郁夫のでたらめは証明されないのか」なんていうふうに大げさに受けとってしまうことへの懸念です。亀山郁夫のでたらめは、ふつうに亀山訳以外の『カラマーゾフの兄弟』を読んだことのあるひとにはたちまちにわかるものです。ただ、それを誰にもわかるようにしようとすると、私のやっているようになってしまうのだということです。

カラマーゾフの兄弟』をどう読むかということは、それは『カラマーゾフの兄弟』が自然に導いてくれる、ということ。『カラマーゾフの兄弟』について絶対にできない・『カラマーゾフの兄弟』自体が絶対に導かない読みかたを亀山郁夫はしている、ということ。それについて、ちょっと引用をしておきます。

 ちょっと考えてみればわかるが、だいたいそういう「裏読みキャラ」は、いつも読者の中にいるのではないか。日常的思考様式は、ほめるよりもけなすほうが得意だったりして、矮小化に働きやすく、その意味でも「裏読み」は意外性をもたらさない。
 ……(中略)……
 もうひとつ、先日、NHKの「日曜美術館」という番組を見ていたら、ある芸大教授が恐るべき裏読み講釈をしていた。
 その番組では、マチスピカソのこんな会話が紹介されていた。マチスピカソに「私は晩学のため、あなたのような技術がない」と言うと、ピカソは「それは幸せなことだ」と言ったという。ところが、この芸大教授は、ピカソの発言を「これからあなた(マチス)は、いろんな技術を身につけることができて幸せだ」という、いわば逆説的な意味に解釈(矮小化)したのだ。
 しかし、裏読みせずに言葉通りに解釈したらどうなるか。「既成の技術を身につけていないマチスよ、あなたは何て幸せ者なのだ」という意味になり、ピカソにとって既成の絵画技法から自由になることこそが関心の中心だったという、もっとずっとダイナミックなピカソ像が生まれてくるし、「それは幸せなことだ」も「技術がない」と言ったマチスをそのまま肯定する、正しく幸せな響きを持った言葉ともなる。

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』 中公文庫)


 もうひとつ。

 読むことも同じで「この小説はどう読めばいいのか?」「この小説はどういう困難を抱えながら書かれたのか?」と考えながら読むことが「小説とは何か?」という問いを追い越してゆく。私の場合には小説を読むということは、それを読みながらそこから刺激されたことをどれだけ多く考えることができるかに賭けられていると言ってもいい。
 もともと批判したくなるような小説は取り上げていないわけだが、批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出していくこと、だから考えるということというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。
 そんなことは誰も言っていないとしてもそうなのだ。非‐当事者的な態度を捨てれば、書かれていることを真に受けるしかない。言葉では「しかない」と、とても限定的な表現になるが、そこにこそ大海が広がっている。教養や知識としての通りいっぺんの小説なんかではない、生命の一環としての思考を拓く小説がそこに姿をあらわす。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 新潮社)


 私のしていることは「批判」なんですが、それは翻訳者亀山郁夫批判であって、ドストエフスキー批判ではありません。亀山郁夫とんちんかんな「裏読み」をしていて、『カラマーゾフの兄弟』を「真に受けて」いないことを批判しているんですね。それで、この一連の文章を書く作業の過程で、私は自分がこれまでにもまして『カラマーゾフの兄弟』を「真に受けて」いるだろうと信じます。

 引用をさらにもうひとつ。

 中村氏は、「ここではただ、僕の想像と氏の想像とが食違っただけであり、」としたり顔でまた断定する。中村氏の「想像」と私の「想像」とがその実ほとんど食い違っていないことは、如上のとおりに明らかである。ただし画然たる食い違いが、一つだけ存在する。すでに早く(つまり「いよいよ事が始ま」ったときから)「気をつけ」をしてきた武官たちがこのたび挙手の礼をするのに改めてもう一度「気をつけ」をして「拍車のついた長靴の踵を鳴ら」す、と中村氏は奇しくも「想像」したのであって、それに反して私は、そんなことは現実的にあり得ない、と正当に「想像」したのであった。
 そしてこのような場合においては、こういう現実的にあり得ぬことは、またただちに文学上の「嘘」でしかあり得ぬのであり、しかし別のある場合においては、ある現実的にあり得ぬこと(たとえば一人の男がある朝ベッドの上で一匹の毒虫に変身して目覚めること、またたとえば「白髪三千丈/愁ニ縁ッテ個ノ似ク長シ」ということ)も、かえっておのずから文学上の「真」であり得るのである。このことの十全な辮別なしには、いかなる作家も、到底まともな「仮構の真実」を創造することはできない。
 そういう大切な基本的区別を辮(わきま)え得ざる中村氏が私の批評を「つまらぬあらさがし」としか考え得ないのは、中村氏の是非なき不幸である。中村氏は、その種の文学的辮別を、それとはまったく異なる「事実に依拠することが表現の真実を保証する最上の、あるいは唯一の手段と信じ、その上にあぐらをかいてい」る類の「写実主義」と取り違えて、前者と後者とを完全に同一視している。私の批評にたいしてそういう誤解をする少数の低能があるかもしれぬことをおもんぱかって、前回私は、「観念小説」云云の「蛇足」を附しておいた。その際もちろん決して私は、私の念頭に中村氏を置いてはいなかったのであったが。

大西巨人「『写実と創造』をめぐって」 『大西巨人文選2 途上』みすず書房 所収)


 話が逸れました。戻ります。『カラマーゾフの兄弟』における「罪」について。

 繰り返しますが、そういう「罪」に対して、手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめない人物たちがいるんです。つまり、誰かが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめない人物たちです。その人物たちは「自分のためにも祈ってくれる人がいる」ということを信じています。そういう人物たちから発せられる「あなたじゃない」は、実は『カラマーゾフの兄弟』の全体に遍在しています。どういう形であれ、「あなたじゃない」の変奏 ── というか、最終的に「あなたじゃない」として完成されることになるものの変奏 ── を受け取るべきでない登場人物がこの作品にはいないでしょう。私は以前(「その二」)、アリョーシャの「あなたじゃない」が「第十一編 兄イワン」において「全然脈絡のないものでない、唐突でわけのわからぬものではない」といいましたが、実ははるかにその前から「あなたじゃない」はこの作品のそこかしこに響いていた音だったんですよ。それがイワンに向けたアリョーシャのことばによって最も高度な鋭い形で完成されたんです。というわけで私は、なおさら、アリョーシャの「あなたじゃない」が読み取れない ── しかも、それがイワンに図星だとわからない ── 読みかた(亀山郁夫)がいかにとんちんかんであるか、といいます。ふつうに『カラマーゾフの兄弟』を読んできた読者であれば、「あなたじゃない」が何を意味しているかがわかります。

 そこで、また長い引用をしますが、これを読んでもらいましょうか。

 兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはならない、罪あるがままの人間を愛するがよい、なぜならそのことはすでに神の愛に近く、地上の愛の極致だからである。神のあらゆる創造物を、全体たるとその一粒一粒たるとを問わず、愛するがよい。木の葉の一枚一枚、神の光の一条一条を愛することだ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる物を愛するがよい。あらゆる物を愛すれば、それらの物にひそむ神の秘密を理解できるだろう。ひとたび理解すれば、あとはもはや倦むことなく、日を追うごとに毎日いよいよ深くそれを認識できるようになる。そしてついには、もはや完璧な全世界的な愛情で全世界を愛するにいたるだろう。動物を愛するがよい。神は彼らに思考の初歩と穏やかな喜びとを与えているからである。動物を怒らせ、苦しめ、喜びを奪って、神の御心にそむいてはならない。人間よ、動物に威張りちらしてはいけない。動物は罪を知らぬが、人間は偉大な資質を持ちながら、その出現によって大地を腐敗させ、腐った足跡を残している。悲しいことに、われわれのほとんどすべてがそうなのだ! 特に子供を愛することだ。なぜなら、子供もまた天使のように無垢であり、われわれの感動のために、われわれの心の浄化のために生き、われわれにとってある種の教示にひとしいからである。幼な子を辱める者は嘆かわしい。
 ……(中略)……
 毎日、毎時、毎分、おのれを省みて、自分の姿が美しくあるよう注意するがよい。たとえば幼い子供のわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚ない言葉を吐きすてながら通りすぎたとしよう。お前は子供に気づかなかったかもしれぬが、子供はお前を見たし、お前の罰当りな醜い姿が無防御な幼い心に焼きついたかもしれない。お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによって子供の心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育ってゆくことだろう。これもみな、お前が子供の前で慎みを忘れたからであり、もとはと言えば注意深い実践的な愛を心にはぐくんでおかなかったためである。兄弟たちよ、愛は教師である。だが、それを獲得すべを知らなければいけない。なぜなら、愛を獲得するのはむずかしく、永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだからだ。必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するものならば、だれにでもできる。悪人でも愛するだろう。青年だったわたしの兄は小鳥たちに赦しを乞うたものだ。これは無意味なようでありながら、実は正しい。なぜなら、すべては大洋のようなもので、たえず流れながら触れ合っているのであり、一箇所に触れれば、世界の他の端にまでひびくからである。小鳥に赦しを乞うのが無意味であるにせよ、もし人がたとえほんのわずかでも現在の自分より美しくなれば、小鳥たちも、子供も、周囲のあらゆる生き物も、心が軽やかになるにちがいない。もう一度言っておくが、すべては大洋にひとしい。それを知ってこそ、小鳥たちに祈るようになるだろうし、歓喜に包まれたかのごとく、完璧な愛に苦悩しながら、小鳥たちが罪を赦してくれるよう、祈ることができるだろう。たとえ世間の人にはどんなに無意味に見えようと、この歓喜を大切にするがよい。
 わが友よ、神に楽しさを乞うがよい。幼な子のように、空の小鳥のように、心を明るく持つことだ。そうすれば、仕事にはげむ心を他人の罪が乱すこともあるまい。他人の罪が仕事を邪魔し、その完成を妨げるなどと案ずることはない。「罪の力は強い、不信心は強力だ、猥雑な環境の力は恐ろしい。それなのにわれわれは一人ぼっちで無力なので、猥雑な環境がわれわれの邪魔をし、善行をまっとうさせてくれない」などと言ってはならない。子らよ、こんな憂鬱は避けるがよい! この場合、救いは一つである。自己を抑えて、人々のいっさいの罪の責任者と見なすことだ。友よ、実際もそのとおりなのであり、誠実にすべての人すべてのものに対する責任者と自己を見なすやいなや、とたんに本当にそのとおりであり、自分がすべての人すべてのものに対して罪ある身であると気づくであろう。ところが、自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ。


 どうでしょうか?

 たとえば幼い子供のわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚ない言葉を吐きすてながら通りすぎたとしよう。お前は子供に気づかなかったかもしれぬが、子供はお前を見たし、お前の罰当りな醜い姿が無防御な幼い心に焼きついたかもしれない。お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによって子供の心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育ってゆくことだろう。

(同)


 ── もはやこういうことからして「罪」なんです。

 ちょっといい換えてみますか?


 たとえばスメルジャコフのわきを通るとき、腹立ちまぎれにこわい顔をして、汚ない言葉を吐きすてながら通りすぎたとしよう。もちろんお前はスメルジャコフに気づいていたし、スメルジャコフもお前を見た。お前の罰当りな醜い姿がスメルジャコフの心に焼きついただろう。お前は知らなかったかもしれぬが、もはやそのことによってスメルジャコフの心にわるい種子を投じたのであり、おそらくその種子は育ってゆくことだろう。

 どうでしょう?

 また、「自己の怠惰と無力を他人に転嫁すれば、結局はサタンの傲慢さに加担して、神に不平を言うことになるのだ」というのは、まさにイワン・カラマーゾフじゃないでしょうか?
 そうして、ゾシマ長老は、この「罪」に対して「愛」が何であるかをも述べているわけです。

 また、私はこうもいっておきます。「罪あるがままの人間を愛するがよい」とゾシマ長老がいうとき、それは、人間というものがそもそも罪あるものなんだということです。罪のある人間とない人間がいて、その罪ある方の人間を愛せといっているのじゃありません。人間=罪あるもの、です。罪のない人間なんていません。例外は《ただ一人の罪なき人》だけです。ゾシマ長老がいっている・前提にしているのはそういうことです。ちょうどこの箇所について亀山郁夫はこう書いています。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ」
 私はけっしてキリスト教の教えにくわしいわけではありませんが、「罪のある人間を愛しなさい」、それは「神の愛の似姿」だからだ、というところがとても好きです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 原卓也訳「罪あるがままの人間」と亀山郁夫訳「罪のある人間」との違いが気になるところですが、両者とも「人間=罪あるもの」ということがわかりにくくはありますね。しかし、亀山郁夫についていえば、ドストエフスキーの原典がどうあろうと、彼の頭にある「罪のある人間」がすべての人間を意味するように見せかけつつ、実は、窃盗や殺人をはたらいた人間などの方を向いているのではないかと私は疑っています。
 たとえば、以前に引用したように、亀山郁夫はこんなことをいっています。

 アリョーシャはじっさいに、子どもを猟犬に噛み殺させた元将軍の地主を、「銃殺にすべきだ」と言っているくらいですから。彼は、どんなことがあっても、原罪をまぬがれてはいない。アリョーシャのキスはまさに犯罪です。

亀山郁夫佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書)


 アリョーシャが「原罪をまぬがれていない」のはその通り ── 当然 ── ですが、ここで亀山郁夫はその「原罪」を理解できていません。「原罪」を本来の意味以上に何か特別な犯罪のようなものとして思い浮かべていますね。そうでなければ、わざわざこんなふうにはいいません。

 ここで ── しつこいですが ── あらためてアリョーシャの「あなたじゃない」について。以前にしゃべったことの繰り返しになりますが、今回は亀山郁夫の「解題」ではなくて、NHKテキストの文章を問題にしようと思うんです。というのも、こちらの文章では、さらに恥の上塗りのようなことを彼が書いているからですね。

 おそらくほとんどの読者が、アリョーシャのこのセリフの奥にある真意の読みとりに苦労するはずです。アリョーシャはイワンに対して、あなたは犯人ではない、と言っています。しかもそれを、イワンのなかば無意識の自責の念を見透かすかのように言うのです。法と、神の掟とのちがい ── 。
 答えは、おそらくひとつだと思います。
 イワンは犯人ではない、しかし、有罪である、と。
 問題は、「ぼくが神さまに遣わされたのは」という一節です。つまり、「あなたじゃない」という言葉は、アリョーシャの言葉であるというよりも、むしろ「神」の言葉だ、ということです。では、アリョーシャをとおして、イワンにたいして「あなたじゃない」と語りかけている神の意思とは何なのか。
 アリョーシャと神はどう関係づけられるのでしょうか。アリョーシャは、果たしてどのような神の担い手なのでしょうか。
 アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます。では、翻って、道義的な意味ではどうなのか。なにしろ、神が第一に問題とすべきは、道義的な意味のはずです。とすればアリョーシャは、イワンには道義的に罪がある、ということをむしろ思い知らせる立場にあるはずです。そこで考えられるのは、アリョーシャは、人をそそのかすという行為のもつ犯罪性に気づいていないのではないか、ということです。アリョーシャの発言は、若い恋人のリーザからさえたしなめられるほどの未熟さを示すこともありますが、反面、恐ろしいほどの人間観察力を示すことが多いのです。
 その観点からすると、「ぼくが神さまに遣わされたのは」という言葉を、ないがしろにするわけにはいきません。そこにはかならずや、ゾシマないしはドストエフスキー自身のといってよい宗教観が反映されていると考えれらるからです。
 私はこう考えるのです。
「あなたじゃない」という言葉は、「あなたである」という二重性を含みこむ言葉である、と。もしも「あなたじゃない」という言葉をアリョーシャが本気で語るつもりなら、「犯人はスメルジャコフです」と言ってしまえばそれで済むことです。しかしアリョーシャは犯人はスメルジャコフだということをさとらせるために、このような言い方をしたわけではなかったはずです。問題なのは、「あなたじゃない」という言葉には、そのイントネーションのアレンジによって、「あなたである」という意味も込めうるということです。では、「あなたである」と言うのがアリョーシャだとして、なぜそんなまわりくどい言い方をしなければならないのでしょうか。それは、「あなただけれども」神は赦してくださる、という意味を言外に含んでいたからだと考えたいのです。あるいは、イワンが、真犯人は自分かもしれない、という思いに達しつつあることを見越し、その認識に至る苦しみを見越して、赦しと励ましを与えようとしていたのかもしれません。事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 こんな読みかたしかできないから、亀山郁夫は翻訳者以前に読者として失格なんですよ。思わせぶりに「法と、神の掟とのちがい ──」なんていいますけれど、亀山郁夫は「神の掟」の意味が自分でわかっていませんね。なぜなら、彼にはこれまでもずっと『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置・意味がわかっていないからです。それに、いったい誰が法に抵触するか・法的に罰せられるかどうかなんてことを問題にしているんですか? アリョーシャはそんなレヴェルのことをいっているんじゃありません。イワンもそんなレヴェルの話としてアリョーシャのことばを聞いていたんじゃありません。

 答えは、おそらくひとつだと思います。
 イワンは犯人ではない、しかし、有罪である、と。

(同)


 全然違います。アリョーシャは「あなたは自分が殺したと思っているけれども、そうではない」といっただけです。

 アリョーシャの「あなたじゃない」という言葉は、イワンは法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい、という意味にとらえることができるように思えます。

(同)


 できません。できないという以前に、このひとは何をいっているのか?「法的な意味において裁かれることはない、だから、そう苦しまないでほしい」って何ですか? どうしてアリョーシャがそんなことをいうんですか? アリョーシャを馬鹿にしているんですか? いや、亀山郁夫は明らかにアリョーシャを馬鹿にしています。もちろん、イワンをも。

 では、翻って、道義的な意味ではどうなのか。なにしろ、神が第一に問題とすべきは、道義的な意味のはずです。とすればアリョーシャは、イワンには道義的に罪がある、ということをむしろ思い知らせる立場にあるはずです。そこで考えられるのは、アリョーシャは、人をそそのかすという行為のもつ犯罪性に気づいていないのではないか、ということです。

(同)


 何ですか、これは? 亀山郁夫のいうこの「犯罪性」は法的にどうかということですけれど、アリョーシャはこの場面でそんなことを問題にしているんじゃありません。いっておきますが、アリョーシャは、犯人はスメルジャコフだと思っていたし、そのうえ、イワンが彼に何をしていたかを承知していたでしょうから、そのことを「罪」だと思っていましたよ。だから、「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外の誰でもないと心の中で認めてきた」というんです。しかし、アリョーシャはここでそんな話をしているんじゃないんですよ。法的にどうかなんて、ここではどうでもいいんですよ。

 ここで余談ですが、私はまた自分の勤める書店で新刊の『直筆で読む「人間失格」』(集英社新書)をぱらぱらとめくっていたんですが、ちょうどこういう文章に行き当たり、なんというか、奇妙な偶然を感じました。

 「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
 と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。
 「法律さ」
 堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事のごとく威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆れかえり、
 「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
 罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に答えて、澄まして暮しているのかもしれません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。


 ── まさに亀山郁夫じゃないですか。

 しかし、NHKテキストに戻ります。

 アリョーシャの発言は、若い恋人のリーザからさえたしなめられるほどの未熟さを示すこともありますが……

(同)


 これについては、以前にいいました(「その二」)。何が「未熟さ」なもんですか。

 私はこう考えるのです。
「あなたじゃない」という言葉は、「あなたである」という二重性を含みこむ言葉である、と。もしも「あなたじゃない」という言葉をアリョーシャが本気で語るつもりなら、「犯人はスメルジャコフです」と言ってしまえばそれで済むことです。しかしアリョーシャは犯人はスメルジャコフだということをさとらせるために、このような言い方をしたわけではなかったはずです。問題なのは、「あなたじゃない」という言葉には、そのイントネーションのアレンジによって、「あなたである」という意味も込めうるということです。

(同)


 そんなことをアリョーシャはここで問題にしているんじゃないんです。ここでアリョーシャはイワンを咎めているんじゃなくて、救おうとしているんです。救おうというのは、もちろん法的な意味でなんかじゃありませんよ。いいですか、アリョーシャは「あなたは自分が殺したと思っているけれども、そうではない」といっただけです。ずばり核心に切り込んで、核心だけを問題にしているんです。なぜこれがわからないのか?
「あなたである」なんてことをアリョーシャがイワンにいう必要なんか全然ないんですよ。当のイワンが「自分である」 ── 法的になんかじゃないですよ ── と思っているんですから。イワンが「自分である」と思っているのを知っているから、アリョーシャが「あなたじゃない」というんじゃないですか。そのことが亀山郁夫にはまったくわかっていない。
 だいたい、これがアリョーシャとイワンとの会話だということすら、亀山郁夫にはわかっていないんですよ。彼はアリョーシャのことばだけしか問題にできていないんですから。ドストエフスキーがふたりのやりとりをここまで動的に描いてくれているのに、片方の主張だけにしか目が行っていない。中途半端な、平べったい止まったものにしか見えていないんです。

 ところが、このNHKテキストではわかっているふりをするんですね。最後の「あるいは、イワンが、真犯人は自分かもしれない、という思いに達しつつあること見越し、その認識に至る苦しみを見越して、赦しと励ましを与えようとしていたのかもしれません。事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました」という、とってつけたような部分は何でしょうか? 何が「あるいは」ですか? 何が「事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました」ですか? これがわかっているなら、それまで彼が長々としゃべってきたのは何だったんですか? おかしいじゃないですか。矛盾してしまいますよ。しかも、これでもまだ亀山郁夫にはこれがイワンとアリョーシャの会話だということがわかっていない。わかっているなら、必ずイワンの反応を問題にするはずです。そうなれば、アリョーシャが「あなたである」なんてことをいう必要のまったくないこと、それどころか、いうはずもないことがわかるはずです。亀山郁夫にそれがわかっているなら、彼の「あるいは」以前の文章は削除されたはずです。でも、彼には削除できないんですよ。なぜかというと、彼は『カラマーゾフの兄弟』の翻訳時にも、その「解題」執筆時にも、また、このNHK講座の録音時(これはおそらく今年の春に行なったカルチャーセンターでの講座の録音を使っているんですよね)にもまったく考えていなかったことを、このテキストを作成する段階ではじめて「とってつけた」からですよ。いや、私はこのNHK講座の放送をまったく聴いていないので、実際に彼がどうしゃべっているのか知りません。それでも、このテキストの文章がこんなふうに矛盾・不備を含んでいる以上、そうだとしか考えられないんですよ。彼が実際に「あるいは、イワンが、真犯人は自分かもしれない、という思いに達しつつあること見越し、その認識に至る苦しみを見越して、赦しと励ましを与えようとしていたのかもしれません。事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました」と放送でもしゃべっていたとしますね。それならそれで、それまでと同じくらいに長い補足説明(それまでの主張の否定)が必要じゃないんですか? つまり、アリョーシャの「あなたじゃない」を受けたイワンの反応の読み取りが、彼の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳時・その「解題」執筆時では間違っていたということへの言及が必要じゃないんですか? そのうえで、この場面の解釈が、イワンにはアリョーシャの「あなたじゃない」の意味が即座にわかったということに、聴取者・読者の前で変更されなければならないんじゃないんですか? 私には、亀山郁夫がそれをしないで、ただテキストにいいかげんな挿入をすることで、自分の無能を糊塗しているとしか思えないんです。

 犯人はスメルジャコフだと、この会話以前に ── 作品においては後に提示されますが ── アリョーシャはイワンにいっているんですよ。だから、この会話について「もしも「あなたじゃない」という言葉をアリョーシャが本気で語るつもりなら、「犯人はスメルジャコフです」と言ってしまえばそれで済むことです」なんていうのは、相当に低レヴェルの読者にしかなしえない発言ですね。しかも、アリョーシャのスメルジャコフ犯人説 ── 作品においては後に提示されている ── のないまま、ドストエフスキーが読者に「あなたじゃない」を提示するのは、このアリョーシャとイワンの会話だけで、読者にはこの場面がしっかり読み取られるはずだという認識があったからですね。そうして、ごくふつうの読者になら、それができるでしょう。
 しかし、読解力のない亀山郁夫にはそれができません。彼にはアリョーシャの「あなたじゃない」の意味が自分でわからないから ── 同時にイワン自身の認識も把握できていないから ── 、それをイワンにもわからなかったことにしなくてはならなくなったんですよ。

 では、アリョーシャの「あなたじゃない」の意味は何か?

 アリョーシャは、イワンが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」=「殺したのは私だ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめないでいるんです。イワンに自分=アリョーシャとのつながりを信じること、自分=アリョーシャに対して気持ちを開くことを呼びかけているんです。アリョーシャはイワンの良心の証人になろうというんです。そうしてイワンに「離反」と「孤独」から、こちらに戻って来るように、と訴えているんです。自分自身をも信じないこと ── 自意識の堂々巡り ── から脱却してください、と懇願しているんですよ。「謙遜な勇気」を持ってください、といっているんです。こうして《ただ一人の罪なき人》からアリョーシャを通じてさしのべられている手が、ここで描かれているんです。これが『カラマーゾフの兄弟』で描かれている「罪」と「愛」なんです。

 いいですか、そのようにイワンにいいつづける・いうのをやめないでいるアリョーシャの口に上ってきたのが ──

あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです。たとえ今の瞬間から、兄さんが永久に僕を憎むようになったとしても……」


 ── なんですよ。

 このときアリョーシャはアリョーシャで「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」と信じていたでしょう。そうして、彼は「謙遜な勇気」を持ちつつ発言できるんです。これがどれほど大変であることか! このアリョーシャがどれほどイワンのために、献身的に、勇気をふりしぼったか、ということが亀山郁夫には全然わかりません。

 だから、亀山郁夫が同じ箇所を訳すると、こんなふうになるんでした。

「〈あなたじゃない〉って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ」


 どうしようもない。「あなたが死ぬまで」です。それでは、アリョーシャは、イワンが死んだら、信じるのをやめるんですかね? 違うでしょう。かりにイワンが死んでも、アリョーシャは信じつづけますよ。アリョーシャはそれほどまでに懸命にイワンに呼びかけたんです。「一生をかけて」というのは、もちろん木下豊房のいうように「「永久に」という意味で、自分の発言への確信と責任を表明したもの」なんですよ。この恐ろしく感動的な場面を亀山郁夫はまったく理解していません。ひどすぎる。もうこれだけで彼の無能がわかります。これだけで、彼が『カラマーゾフの兄弟』を翻訳するということがどれほどとんでもないことか、ということがわかります。彼には無理なんですよ。彼自身がこの翻訳の仕事を「正直のところ、自分の能力の限界との戦いだったのである」(「訳者あとがき」)といっていますが、「限界との戦いだったのである」なんて、それじゃ、彼はその「戦い」に勝ったみたいじゃないですか。いや、それ以前に善戦でもしたようじゃないですか。とんでもない。単にこの作品を読むことすら彼の限界をはるかに超えていたんですよ。

 さて、それで、

 問題は、「ぼくが神さまに遣わされたのは」という一節です。つまり、「あなたじゃない」という言葉は、アリョーシャの言葉であるというよりも、むしろ「神」の言葉だ、ということです。では、アリョーシャをとおして、イワンにたいして「あなたじゃない」と語りかけている神の意思とは何なのか。
 アリョーシャと神はどう関係づけられるのでしょうか。アリョーシャは、果たしてどのような神の担い手なのでしょうか。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


 アリョーシャのことばですよ。アリョーシャを何だと思っているのか? アリョーシャが作者ドストエフスキーの思いのままになる道具だとでも思っているのか? 「解題」では、「あなたじゃない」が「ドストエフスキーがわざわざアリョーシャに語らせている層とでもいうべき部分であり、その意味では、根本のところで、登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理にさからうセリフ、といえるかもしれない」なんて書いていましたっけ。それで「自伝層」がどうのこうのというんでした。
 作品のなかで、それまでのつくり・流れを無視して、いきなり作者の「自伝層」とやらのせいで登場人物がそれまでの自立性を失って、作者自身の思想なんかをしゃべり始めるようなことがあれば、そんなものはそもそも作品なんかじゃないんですよ。いったん作品が動き始めたら、作者には作品を自分の思い通りに、都合よく動かすことなんかできないんですよ。それができているなんてものは作品じゃありません。作品が主で、作者は従の位置なんですよ。何が「自伝層」ですか? そんなことをいう亀山郁夫には文学 ── というより芸術全般 ── がまったくわかっていません。
 しかも、亀山郁夫は『カラマーゾフの兄弟』における最も重要な場面、最も高度に完成されている場面についてそんなことをいっているんです。