(一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九



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 さて、「その四」・「その六」で、私は『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置・意味を問題にしました。「その人自身、あらゆる人、あらゆるものたちのために、罪なき自己の血を捧げた」がゆえに「すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができる」存在、「人類全体」ではなく、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛することのできるキリストという存在ですね。それは、この作品における「愛」にふた通りある ── 「人類全体」を愛するもの(大審問官に代表される)と、「人間の顔」を持った生身のひとりひとりの人間それぞれを愛するもの(キリスト) ── ということから導き出されました。私は、キリストの愛 ── 人間に「自由」を与える ── がどれほど大きいものであって、人間にそれを受け入れることがどれほど困難であるかを、キルケゴールの『死に至る病』を引用しながらしゃべりました。そうして、『カラマーゾフの兄弟』におけるキリストの位置・意味をまったく理解できていない亀山郁夫の「キリスト僭称者説」を否定し、キリストのキスが大審問官への「承認・祝福」だという説をも否定しました。

 もう一度キルケゴールを引用しておきます。

 さてキリスト教は如何! キリスト教は、この個体的な人間が(したがってすべての個体的な人間、彼が日常どんな人間であろうと問題ではない、── 男・女・下女・大臣・商人・床屋・学生等々)、この個性的な人間が神の前に現存していることを教える。彼がその生涯にたった一度でも帝王と話したことでもあるとすればおそらくそれを誇りとするであろうところのこの個体的な人間、もしも彼が少しばかり高貴な地位にある誰彼と親しい関係にあるとすればそれを少なからずも得意とするであろうところのこの人間、── この人間が神の前に現存していて、彼の欲するいかなる瞬間にも神と語ることができ、そして確実に神から聞かれることができるのである、要するにこの人間に神と最も親しい関係に生きるように申し出られているのである! そればかりではない、この人間のために、ほかならぬこの人間のために神は世に来り、人の子として生れ、苦しみを受け、そして死んだのである、── この受難の神がこの人間に向って、彼に申し出られている救助を受け入れてくれるようにと乞うている、いなほとんど嘆願しているのである! 実に、もし世に気が変になるほどの何物かがあるとすれば、これこそまさにそれである! それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? 彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。その故に彼はそれを取り除き、破壊して、それを気狂いじみた無意味なものであるということにしてしまわなければならない。それはあたかも彼を窒息せしめるものであるかのように思われるのである。
 一体躓きとは何であるか? 躓きとは不幸なる驚嘆である。それ故にそれは嫉視に似ている。けれどもそれは嫉視している者それ自身に向けられたる嫉視である、── そこでひとは(もっと厳密にいうならば)自己自身に対して最も悪意を抱いているのである。自然人は神が彼に与えようとした並はずれたものを自己の狭量の故に受け入れることができない、そこで彼は躓くのである。


 それで、私は上の引用を受けてこういいました(「その六」)。

 ある意味で、これが『カラマーゾフの兄弟』の全体です。この小説に「躓き」を抱えていない人物がいますか? 自分を「嫉視」していない人物がいますか?「自己自身に対して最も悪意を抱いている」のでない人物がいますか? 全登場人物がそれぞれに「躓き」を抱えています。そうして、この小説の全体に、彼らへさしのべられた《ただ一人の罪なき人》の手が描かれていないでしょうか? さしのべられたその手にそれぞれの登場人物がどのように反応するか、その応答が『カラマーゾフの兄弟』ではないですか? そういう「応答の小説」として『カラマーゾフの兄弟』を読むことを私はあなたに薦めます。


 アリョーシャの「あなたじゃない」も、そのようにさしのべられた手のひとつです。「あなたじゃない」は、イワンの自分自身への「嫉視」・「悪意」の否定です。さらにいえば、実は、イワンだけでなく、この「あなたじゃない」を必要としていない登場人物が『カラマーゾフの兄弟』にいるでしょうか?


 あなたは『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、登場人物の誰かが ── ものすごくおおざっぱにいいますが ── 、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えることによって、自分自身と他人とを傷つける言動をしてしまう、そうしてそれがやがて取り返しのつかないことになっていく、というのをさんざん見てきたのじゃないでしょうか?
「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」 ── それが、その人物の自分自身に対する「嫉視」であり、「悪意」なんですよ。その人物が ── いろんな事情もあるでしょうが ── 自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を抱え込んで離さないでいること、ですね。この態度が、せっかくさしのべられた《ただ一人の罪なき人》とそれに準ずるひととの手を拒みます。単純にいえば、「どうせ自分はこういう人間なんだから」・「どうせあんたたちは私をそんなふうにしか見ていないんだろう?」というふうに考えるひとが、他人の好意を否定し、極端な場合には、それを踏みにじって自分と他人とをひどく傷つけるということです。こういってしまうと、この世のなかのほとんどの小説がそうだよ、といわれてしまいそうでもありますが、しかし、『カラマーゾフの兄弟』は、おそらく執拗に登場人物たちと《ただ一人の罪なき人》との「応答」を描いて、ものすごく動的な作品として成立していると思うんです。

 いくつか引用をします。

 まずスネギリョフ。

「まあお聞きください、あなた、お聞きくださいまし、もしこれを受けとったら、手前は卑劣漢になりはしないでしょうか? あなたからごらんになって、卑劣漢になりはしないでしょうか、卑劣漢に、アレクセイ・フョードロウィチ? いけませんよ、アレクセイ・フョードロウィチ、まあお聞きください、お聞きくださいまし」のべつ両手でアリョーシャにさわりながら、彼はあせって言った。「あなたさまは、《妹》がよこした金だからと言って、ぜひ受けとるようよう手前を説得なすっておられますが、内心ひそかに軽蔑をお感じになるのじゃござりませんか?」


 この後で ── 直後ではありませんが ── スネギリョフは自分が「卑劣漢」ではないことを納得して ── アリョーシャが彼に「謙遜な勇気」を与えたんですね ── 金を受け取ることになります。

 そうして「神秘な客」。

「それに、そんな必要があるでしょうか?」彼は叫んだ。「必要ですかね? だってだれひとり有罪になったわけじゃなし、わたしの代りに流刑になった者もいないんですよ。召使は病気で死んだのです。流した血に対して、わたしは苦しむことによって罰せられたのです。それに、わたしの話なぞ全然信じてもらえませんよ、わたしのどんな証拠だって信じてくれるものですか。それでも告白する必要があるでしょうか、必要なんですか? 流した血に対してわたしはこれからも一生苦しむ覚悟です、ただ妻や子供たちにショックを与えたくないのですよ。妻子を道連れにするのが、はたして正しいことでしょうか? われわれは間違ってやしませんか? それならどこに真理があるのです? それに、世間の人たちにその真理がわかるでしょうか、その真理を正しく評価し、尊敬してくれるでしょうか?」

(同)


 この「神秘な客」にはゾシマが、妻子や世間のひとたちの前でなく、神の前に立つことを説きます。これまた直後ではありませんが、「神秘な客」は「謙遜な勇気」を持ってその通りにします。

 ここで思い出しておきたいのが、スメルジャコフのこれですね。

「何もかも自白なさったりすれば、あなたはあまりにも恥さらしなことになりますよ。何より、まるきりむだですよ。なぜって、わたしははっきりこう言いますからね。あなたにそんな話をしたおぼえはない、あなたはご病気のせいか(たしかにそうらしいですしね)、でなけりゃお兄さまを気の毒に思って、ご自分を犠牲になさったうえ、わたしにでっち上げの罪を着せたんだ、それというのも今まであなたはずっと、わたしを人間とは見なさず、どうせ蠅くらいにしか見ていないからなんだ、とね。それに、あなたの話をいったいだれが信用しますか、あなたにたとえ一つでも何か証拠がありますか?」

(同)


 これも引用しておきましょう。

 アリョーシャは枕をかかえて、服を着たまま、ソファに横になった。うとうとしながら、ミーチャとイワンのことを神に祈った。イワンの病気が彼にはわかってきた。『傲慢な決心の苦悩なのだ、深い良心の呵責だ!』兄の信じていなかった神と、真実とが、いまだに服従を望まぬ心を征服しようとしているのだ。『そう』すでに枕に横たえたアリョーシャの頭の中をこんな思いがよぎった。『そう、スメルジャコフが死んでしまった以上、もはやイワンの証言なぞ、誰も信じないだろう。でも兄はきっと行って、証言してくれる!』アリョーシャは静かに微笑した。『神さまはきっと勝つ!』彼は思った。『真実の光の中に立ちあがるか、それとも、自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中で滅びるかだ』アリョーシャは悲痛に付け加えると、またイワンのために祈った。

(同)


 さて、またべつの例 ── 必ずしも適切ではありませんが、けして無関係ではない例 ── を挙げておきますが、

「いいえ、お嬢さま、あたし何一つ約束しませんでしたわ」相変らず朗らかな無邪気な表情をうかべたまま、低い声で淀みなく、グルーシェニカがさえぎった。「今こそおわかりになったでしょう、お立派なお嬢さま、あなたにくらべてあたしがどんなにいやらしい、自分勝手な女かってことが。あたし、何かしたくなると、すぐそのとおり実行するんですの。さっきは何かお約束したかもしれませんけど、今こうしてまた考えると、ふいにあの人が好きになるかもしれませんわ、ミーチャが。だって一度はとっても気に入った人ですもの、ほとんどまる一時間も気に入ってましたわ。だから、ことによると、あたし、今すぐ出かけて行ってあの人に、今日からずっとあたしのところにいたらって言うかもしれませんわよ……あたしって、ほんとに気が変りやすくて……」

(同)


 それから、これですね。

 彼女は席を立とうとしかけたが、突然、甲高い悲鳴をあげて、あとずさった。ごく静かにではあったが、ふいに部屋にグルーシェニカが入ってきたのだ。だれも予期せぬことだった。カーチャはすばやく戸口に向ったが、グルーシェニカとすれ違うときになって、ふいに立ちどまり、白墨のように顔を青ざめさせて、ほとんどささやきにひとしい小声で呻くように言った。
「あたくしを赦して!」
 相手はひたと彼女の顔を見つめ、一瞬待ってから、憎悪のこもった毒のある声で答えた。
「憎み合っている仲じゃないの! どっちも憎しみに燃えてるのよ! あんたも、あたしも、赦す余裕なんかあって? 彼を救ってくれたら、一生あんたのことを神さまに祈ってあげるわ」
「赦そうと思わないのか!」はげしい非難をこめて、ミーチャがグルーシェニカをどなりつけた。
「安心なさい、あなたのために救ってあげるから!」カーチャは早口にささやくと、部屋を走りでた。
「よく赦さずにいられたもんだな、あの人のほうから『赦して』と言ったのに」ミーチャがまた大声で叫んだ。
「兄さん、その人を責めちゃいけない、そんな権利はないはずです!」アリョーシャがむきになって兄に叫んだ。

(同)


 いくつか例を挙げましたが、「謙遜な勇気」を持てずにいる彼らに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめない人物たちがいるんですね。つまり、誰かが自分でも醜いと考えているもの(「それこそが私なんだ」)を離さないでいるのに向かって、「それはあなたじゃない」といいつづけ、いうのをやめない人物たちです。この人物たちが、そうやっていられるのはどうしてなのか? どうしてそこまでできるのか? ── と、あなたが感じただろうと私は信じます。

 たとえば、他人の自己申告について向けられた「あなたじゃない」。

「信じてくれるか、イワン、このことが俺の気持をかきむしるんだよ。いや、お前は信じてやしない、なぜってお前の目を見りゃわかるよ。お前は世間のやつらの言葉を信じて、俺がただの道化だと思っているんだ。アリョーシカ、俺がただの道化じゃないってことを、お前は信じてくれるかい?」
「ただの道化じゃないと信じています」
「お前がそう信じて、誠実に言ってくれてることは、俺も信ずるよ。目つきも話し方も誠実だからな。ところが、イワンは違う。イワンは傲慢だよ……」

(同)


 あるいは、他人と、そして自分自身にまで向けられた「あなたじゃない」。

「この人をもっとよく見てごらん。この人がどんなに僕を憐れんでくれたか、君も見ただろう? 僕はよこしまな魂を見いだそうとしてここへやってきたんだ。僕が卑劣な、よこしまな人間だったから、そういうものに強く惹かれたんだね。ところが僕は誠実な姉を見いだした。宝を、愛にみちた魂を見いだしたんだよ……この人はたった今、僕を憐れんでくれた……僕はあなたのことを言ってるんですよ、グルーシェニカ。あなたは今、僕の魂をよみがえらせてくれたんです」
 アリョーシャの唇がふるえ、涙がこみあげてきた。彼は絶句した。
「まるで彼女が君を救ったみたいだな!」ラキーチンが憎々しげに笑いだした。「ところが、彼女は君を一呑みにしちまうつもりだったんだぜ、そのことを知ってるのか?」
「やめてよ、ラキートカ!」ふいにグルーシェニカが跳ね起きた。「二人とも黙ってちょうだい。今こそあたし何もかも言うわ。アリョーシャ、黙って。だって、あなたのそんな言葉をきくと、あたし恥ずかしくなるもの。それというのも、あたしはいい人間じゃなく、よこしまな女だからよ。あたしはそういう人間。ラキートカ、あんたも黙って。なぜって、あんたは嘘を言ってるからよ。そりゃ、この人を一呑みにしちまおうという卑しい考えはあったけれど、今あんたの言ってることは嘘だわ。今は全然違うもの……あんたの声なんぞこれ以上まるきりききたくないわ、ラキートカ」これらすべてをグルーシェニカは、異常なほど興奮して言い放った。
「まったく二人とも気違いだな!」びっくりして二人を見くらべながら、ラキーチンがつぶやいた。「まるで気違いだ。精神病院へ舞いこんだみたいだぜ。二人ともしおらしくなっちまって、今にも泣きだしそうじゃないか!」
「あたし泣きだすわ、本当に泣きだしそう!」グルーシェニカが口走った。「この人はあたしを、姉と呼んでくれたのよ、あたしこのことは一生忘れない!」

(同)


 さて、アリョーシャは「第七編 アリョーシャ」中の「ガリラヤのカナ」でこう描かれます。

 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝らの喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うたのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天上のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想と言うべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠につづくものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった……

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


 私は「その二」で ── アリョーシャの「あなたじゃない」をめぐって ── こういいました。

 彼(アリョーシャ)は、いわばイワンの良心 ── の番人、いや、証人なんですね。彼はイワンの良心の存在をいつでも証言する用意があります。イワンには「自分のために祈ってくれる」人間がいるんです ── なんですね。


 そこでの、「自分のために祈ってくれる」を、私は上の「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」を想起しながらいったんでした。

 そして、もうひとつ、もちろんこれをも想起していました。

 青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。また、このこともおぼえておくがよい。毎日、できるときでよいから、『主よ、今日御前に召されたすべての人を憐れみたまえ』と、たえず心の内でくりかえすのだ。それというのも、毎時毎分、何千という人がこの地上の生を棄て、その魂が主の御前に召されてゆくのだが、そのうちのきわめて多くの人が、だれにも知られず、悲しみと愁いのうちに一人淋しくこの世に別れてゆくのであり、だれも彼らを憐れむ者はなく、そんな人たちがこの世に生きていたかどうか、それさえまったく知らないからなのだ。と、そのとき、地球の反対の端からお前の祈りが、たとえお前がその人をまったく知らず、先方もお前を知らぬにしても、その人の安らぎをねがって主の御許にのぼってゆくにちがいない。恐れおののきながら主の前に立ったその人の魂にとって、その瞬間、自分のためにも祈ってくれる人がいる、地上にもまだ自分を愛してくれる人間が残されていると感ずることが、どんなに感動的であろうか。そして神もまたお前たち二人を、いっそう慈悲深く眺められることだろう。なぜなら、お前でさえそんなに彼を憐れんでやった以上、お前より慈悲深く愛情豊かな神は、なおさらのことだからだ。そしてお前に免じてその者を赦してくださるにちがいない。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫
(傍線は私・木下による)


「その一」では、私はこうもいいました。

 そうして、イワンが「絶交」とまでいいだした事情まで、アリョーシャにはすっかりわかっているんです。そうやって、イワンの窮状をすっかり理解して、なお、彼に「赦し」の希望をもたらすことのできる唯一の存在がアリョーシャです。他の誰にも、それはできません。イワンには、それがわかっています。
 さらにいえば、このアリョーシャの背後には、以前にイワン自身が口にしたことのある、「ただ一人の罪なき人」がいるんですね。


「背後に」ということばを私が使ったのは、イワンからアリョーシャを見るとそうなるということだったんですが、ここではその視点を切り替えます ── アリョーシャが誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるのには、彼の前に・彼と並んで・彼のなかに《ただ一人の罪なき人》=イエス・キリストがいるからです。アリョーシャ自身にキリストと同じことができるわけじゃありません。「その六」で触れましたが、アリョーシャはイワンとの会話で「銃殺です!」といい、「ばかなことを言ってしまいましたけど、でも……」といい、「いいえ、承諾しないでしょうね」、「いいえ、認めることはできません」というわけです。それはそうなんですが、それでも彼は、自身にはなしえないことでも、かつてなしえたし、いまもなしつつある《ただ一人の罪なき人》を信じているんです。彼の前に・彼と並んで・彼のなかに《ただ一人の罪なき人》はいます。アリョーシャは自身の限界を承知しているでしょうが、それでも《ただ一人の罪なき人》がいる ── 自分の前に・自分と並んで・自分のなかに ── と感じるので、誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。そうして彼には、この世界のどこかに、たとえ彼がその人をまったく知らず、先方も彼を知らぬにしても、彼のために祈ってくれる・彼を愛してくれるひとがいることを信じているんです。彼はそうしたつながりを信じています。だから、彼も誰かに手をさしのべつづける・手をさしのべるのをやめないでいられるんです。どうでしょう? これはすごいことじゃないでしょうか? アリョーシャにはそういう「謙遜な勇気」があると私はいいます。

「つながり」ということでいえば、これも引用しておきましょうか。ミーチャのこれです。

「どなたが枕を持ってきてくださったんです? どなたですか、そんな親切な方は!」まるでたいへんな好意にでも接したかのように、感激にみちた感謝の気持をこめて、彼は泣くような声で叫んだ。


 イワンはどうかというと、彼には、この世界のどこかに、たとえ彼がその人をまったく知らず、先方も彼を知らぬにしても、彼のために祈ってくれる・彼を愛してくれるひとがいることなど信じられません。彼にあるのは「離反」と「孤独」です。

「俺はね、ここを去るにあたって、世界じゅうでせめてお前くらいは味方かと思っていたんだよ」思いがけぬ感情をこめて、ふいにイワンが言った。「だが、今こうして見ていると、お前の心の中にも俺の入りこむ場所はなさそうだな、隠遁者の坊や。《すべては許される》という公式を俺は否定しない。だからどうだと言うんだね、そのためにお前は俺を否定するのか、そうなのかい、そうだろう?」

(同)


 もちろん、上の引用の直後はこうです。

 アリョーシャは立ちあがり、兄に歩みよると、無言のままそっと兄の唇にキスした。

(同)


 イワンは「大審問官」で《ただ一人の罪なき人》の愛が人間にはあまりにも大きすぎ、高すぎたと主張したんでした。イワンは《ただ一人の罪なき人》から「離反」し、「孤独」のなかへと進み・沈みます。彼は誰に対しても自身を閉じます。

 それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? 彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。その故に彼はそれを取り除き、破壊して、それを気狂いじみた無意味なものであるということにしてしまわなければならない。それはあたかも彼を窒息せしめるものであるかのように思われるのである。


 私はイワンがキリストを信じているといいました。しかし、それは単に理解しているというだけで、信じているということにならないかもしれません。

「その人はだれのことも軽蔑しません」アリョーシャはつづけた。「ただ、だれのことも信じないだけです。しかし、信じないとすると、もちろん、軽蔑しているわけですね」


 しかし、こういう会話もありましたね。

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさりませ。『高きを思い、高きを求めよ、われらの住み家は天上にあればこそ』です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!」

(同)


 そうして、また ──

「俺は望んでいた、殺人を望んでいたんだ! 俺が殺人を望んでいたって? ほんとに望んでいたのだろうか?」

(同)


 あるいは、

「なぜって僕はたきつけたんだからね。僕がたきつけたのかどうか、まだわからんな」

(同)


 イワンはキリストを信じていた、と私は繰り返しましょう。ただ、彼には「謙遜な勇気」がないんです。彼は躓きます。しかし、「こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心」は実は信仰に最も近いところにあるでしょう。もうあと一歩なんです。そういうイワンだからこそ、アリョーシャの「あなたじゃない」に反応できるんです。
「そのあいまいさにすべての文学的真実が含まれている」(亀山郁夫)なんてことをいうのなら、こういうところでいってほしいものです。