(一七)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その九



   3

 つづけます。亀山郁夫はNHKテキストでこう書いています。

「親父を殺したのはおまえか!」とのイワンの問いに、スメルジャコフは「殺したのはぼくじゃありません、それは、あなたがちゃんとご存知のはずです」と答えています。つまり、主犯はイワン、あなただと仄めかすのです。父親が殺されるかもしれないとの予感については、「何か卑劣なまねをしでかしそうな予感までしていた」というイワンに対し、スメルジャコフは「嘲るように」笑って、「ぼくに対してそういう予感を持ちながら、そのままご出発なさったとすれば、つまりそれでもってぼくに、親父を殺してもいい、おれは邪魔はしないから、とおっしゃったも同然じゃございませんか」としてイワンに迫ります。このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです。つまり、「未必の故意」(自分の行為によって害が発生しても構わないという心理状態)です。
 スメルジャコフと二度目の面会から一ヶ月後に、三度目の面談がなされるのですが、この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです。
「要するにこのまるひと月、彼の誇り高さは恐ろしいほどの苦しみをなめていたのである」

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです。」その亀山郁夫が「解題」で何と書いていたか?

 イワンとスメルジャコフの最初の対面で、スメルジャコフは彼に「私は殺してない」と語った。しかし、二回目では、同じく殺害の事実を認めないながら、スメルジャコフは「チェルマーシニャーに行ってください」とイワンに言った自分の言葉を、イワンがどういう意味で受け取ったか知ろうとして躍起になる。イワンの理解力、意思を探ろうとして、彼は「殺したのはぼくじゃありません。それは、あなたがちゃんとご存じのはずです」と主張するのである。
 実行犯であるはずのスメルジャコフが、なぜここまで自信をもって、殺害の事実を否定できるのか。正確には、主犯でないとの認識を盾にとれるのか、なかなか理解できない部分である。そのセリフは、スメルジャコフよりもむしろ作者が言わせている言葉といっていいほど、バイアスがかかっていそうである。
 ……(中略)……
 三度目の、最後の対面 ── 。これは『カラマーゾフの兄弟』全体のなかでも、存在論的な観点に照らした最高のクライマックスである。その対面の前に、ひそかにドミートリーを脱走させる計画が進んでいると書かれている。その目的でイワンは三万ルーブルものお金を出すというのだが、ここでは彼の複雑な心情が説明される。
「彼はふと、自分が逃亡を助けたいと思っているのは、たんにこの三万ルーブルを犠牲にして傷を癒やすばかりでなく、なぜかほかにも理由があるような気がしてきたのだった。《心のなかでは、おれも同じような人殺しだからじゃないのか?》」
 まさしくフロイト的である。
 ……(中略)……
 二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」が、いったい何を意味し、どのような経緯によって生じたか、イワンはこの時点で気づいている。「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者への死の願望であり、それは兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見がイワンのなかにあったことになる。

亀山郁夫「解題」)


 スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)と、「二度目の面談のあとでも曖昧な形でしか意識されなかった「父殺し」」(「解題」)との関係をどうか説明してください。どうなっているんですか? スメルジャコフの「ひとこと」によって「イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくる」のに「一ヶ月」がかかったといっているんでしょうか?

「解題」で、彼はこう書きさえしていました。アリョーシャの「あなたじゃない」の直後、スメルジャコフとの「三度目の面会」についてです。

 二行の俗謡にも暗示されていたように、三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である。絶対的な安全を確保しようとするイワンの地位は、すでに完全にゆらぎかけていた。
 イワンは、確実に父親の死に対する願望があったことを、今はっきりと覚った。翌朝のモスクワ行きを決意した夜、得体の知れぬすさまじい好奇心にかられた彼が、階下にいる父親の一挙一動に耳を傾け、その様子を盗み聞きしたその行為の「卑劣さ」の意味を、イワンは完全に理解したのである。
 イワンに狂気が訪れてくる。まず、その最初の兆しが正確に書きとめられている。「じつはだね、おまえが夢なんじゃないかと、気がかりでな。そこにいるおまえが、幻じゃないかって?」

(同)


 どうなっているんですか? スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」なんですか? それとも、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」なんですか? また、「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」なんですか? それとも、「イワンに狂気が訪れてくる。まず、その最初の兆しが正確に書きとめられている」なんですか? 答えてほしいですね。まあ、それでも亀山郁夫はこう書いてもいましたっけ。

 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。
 だが、アリョーシャのこの暗示に満ちた言葉を聞いたイワンは、逆に悪魔と自分が一体かもしれないという自覚にはまり込むことになった。その意味で、きわめてドラマティックな転換点といえる。すでに悪魔と一体でありたくないという願望が、彼のなかに兆していることを暗示しているともいえる。
 アリョーシャのこのひとことは絶大な意味を持つにいたった。こののち、イワンにとっては、悪魔との戦いが最大の課題としてのしかかり、彼の存在を根源から揺るがすような発見へと、彼自身を導いていくからである。

(同)


 一応「悪魔」云々に触れてはいましたね。とはいえ、この文章でいきなり「悪魔」を持ち出すことのおかしさについては、「その一」でいいました。しかし、それでも亀山郁夫にとっては、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンに図星ではなかったわけですし、「あなたじゃない」が「あなたである」という意味だなどということになっているわけで、そんなひとに「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間」だなんていえるはずがないんですよ。いえますか? それで「解題」の文章になるんですか? それで、そもそもの自分の読み取り ── それによって『カラマーゾフの兄弟』を訳したんです ── を保持したまま、なんとかその誤りを取り繕うことができないだろうかということで、このNHKテキストに「とってつけた」のが「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」なんですよ。そう考えないとおかしいでしょう(ここでまた、実際のNHK講座で彼がどうしゃべっていたかという話になるわけですが、これについては「2」でいいました)。

 いや、しかし、ちょっと私は混乱しています。ここで私は亀山郁夫の「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」だけをNHKテキスト作成時に「とってつけた」ものだとしてしゃべるつもりだったんですよ。つまり、以前(「その五」)に触れた「それこそは、ゾシマが修道院にはいる最初のきっかけとなった経験でした」や、今回指摘した「あるいは、イワンが、真犯人は自分かもしれない、という思いに達しつつあることを見越し、その認識に至る苦しみを見越して、赦しと励ましを与えようとしていたのかもしれません。事実、この時点でイワンは恐ろしい不安にかられ、悪魔の来訪すら受けていました」と同じように、「この一ヶ月という期間がきわめて重要です。イワンの狂気が徐々に成長していく期間だからです」だけを問題にしようと思っていたんです。ところが、「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」に絡んで、このNHKテキストと「解題」との「とってつけた」くらいでは収まりきらない大きさの違いを見つけてしまったんです。「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」云々を実際に亀山郁夫はNHK講座でしゃべっているのじゃないでしょうか? 「未必の故意」云々を彼はしゃべっているのじゃないでしょうか? いや、このテキストが実際の放送と恐ろしくかけ離れた内容に修正されているのなら、それでいいんですが、しかし、規模が大きすぎるのじゃないかと思うんです。スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)なんですか? それとも、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」(「解題」)なんですか?
 混乱した私は、自分で腰が抜けそうな ── いわば亀山郁夫ばりの ── 想像をせざるをえないんです。しかし、それをいう前にまだ少しつづけます。

 亀山郁夫はNHKテキストでこう書いています。

「あなたじゃない」とは、どういう意味でしょうか。そして最後にアリョーシャは、「あなたじゃない」という言葉は、神さまが自分に、イワンにそう言いなさいと命令した言葉だとまで言い切ります。
 そしてこの、アリョーシャのセリフを聞いたイワンは、アリョーシャに絶交を宣言し、自宅に戻りかけたところでふと思い直し、そこから二キロばかり離れたスメルジャコフの家に向かうのです。
「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》彼はそう自問した。すると、何か遠い、しかし焼けつくような感覚に、ちくりと心を刺されたような気がした」
 そして今回の冒頭に引用したテクストの場面となるのです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


「今回の冒頭に引用したテクストの場面」とは、イワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」です。

 それで、ついさっきに引用したものをもう一度。

 三度目の、最後の対面 ── 。これは『カラマーゾフの兄弟』全体のなかでも、存在論的な観点に照らした最高のクライマックスである。その対面の前に、ひそかにドミートリーを脱走させる計画が進んでいると書かれている。その目的でイワンは三万ルーブルものお金を出すというのだが、ここでは彼の複雑な心情が説明される。
「彼はふと、自分が逃亡を助けたいと思っているのは、たんに三万ルーブルの金を犠牲にして傷を癒やすばかりでなく、なぜかほかにも理由があるような気がしてきたのだった。《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」
 まさしくフロイト的である。

亀山郁夫「解題」)


 亀山郁夫の頭のなかでは、どうやらイワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」と「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」とがセットになっているようなんですね。これではまるで、アリョーシャの「あなたじゃない」を聞いた後、スメルジャコフの家に向かう間に「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」という自問があったみたいじゃないですか。

 私は原卓也訳を引用しますが、

 ミーチャに対するカテリーナの愛の、束の間ではあるが、はげしい再発は、もはやイワンを完全な狂乱におとしいれた。奇妙なことに、すでに記した、アリョーシャがミーチャとの面会の帰りに寄ったときに、カテリーナの家で起ったあの最後の一幕まで、イワンは、自分があれほど憎んでいる兄に対して彼女の愛が《再発》したにもかかわらず、まるひと月の間にただの一度として彼女の口から、ミーチャの有罪に対する疑念をきいたことがなかった。さらにもう一つ注目すべきことは、彼がミーチャへの憎悪が日ましに強まるのを感じながら、同時に一方では、自分が兄を憎んでいるのは、カテリーナの愛の《再発》のためではなく、まさに兄が父を殺したためであることを理解していた点であった。彼はそのことを自分でも感じ、十分意識していた。それにもかかわらず、彼は公判の十日ほど前にミーチャを訪ね、脱走の計画を、それも明らかにだいぶ前から考えぬいた計画を提案したのだった。この場合、彼に行動をとらせた主要な原因のほかに、兄を有罪にするほうが得だ、そうなれば父の遺産の額が彼とアリョーシャにとって、四万から六万にはねあがるからだ、と言ったスメルジャコフのあの一言によって、心に癒えることなく残された爪痕も、責任があった。彼はミーチャの脱走をお膳立てするため、自分が三万ルーブル提供しようと決心した。が、その日、兄のところから帰る途中、彼はひどく心が滅入り、乱れていた。突然、自分が脱走させようと望んでいるのは、それに三万ルーブル出して爪痕を癒やすためばかりではなく、ほかにも何か理由があるような感じがしはじめたからだった。『心の中では、俺も同じ人殺しだからではないだろうか?』彼は自分にたずねてみた。何か間接的ではあるが、焼きつくようなものが心を刺した。何よりも、このまるひと月の間、彼のプライドはひどく苦しみつづけていた、だが、その話はあとにしよう……さて、アリョーシャの話のあと、自分の下宿の呼鈴をつかんでから、突然スメルジャコフを訪ねる決心をすると、イワンはふいに心の中に煮え返った一種特別な憤りに屈した。たった今カテリーナが、アリョーシャのいる前で、「あの人(つまり、ミーチャ)が犯人だと、あたしに言い張ったのは、あんたよ、あんただけよ!」と叫んだことをふいに思いだしたからだ。それを思いだして、イワンは呆然とさえなった。犯人はミーチャだなどと、これまで彼はただの一度も彼女に主張したことはなかったし、それどころか、スメルジャコフのところから帰ってきたあのときなぞ、彼女の前で自分自身に嫌疑をかけたほどだった。それなのに突然今になって、「あたしスメルジャコフのところに自分で行ってみたのよ!」などと叫ぶとは! いつ行ったのだろう? イワンはそのことを全然知らなかった。つまり、彼女はミーチャの有罪をすっかり信じているわけではないのだ! それに、スメルジャコフが彼女に何を言うかわかったものではない。いったい何を、何をあの男は彼女に言ったのだろう? 恐ろしい怒りが彼の心に燃えあがった。どうして三十分ほど前に彼女のそんな言葉をきき流し、その場でどなりつけずにいられたのか、わからなかった。彼は呼鈴を放りだすと、スメルジャコフの家に向って走りだした。『今度ばかりは、ことによると、あいつを殺すかもしれない』道々、彼は思った。


「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》彼はそう自問した。すると、何か遠い、しかし焼けつくような感覚に、ちくりと心を刺されたような気がした」(亀山郁夫訳)と「『心の中では、俺も同じ人殺しだからではないだろうか?』彼は自分にたずねてみた。何か間接的ではあるが、焼きつくようなものが心を刺した」(原卓也訳)との違いも気になりますが、それはともかく、いったい亀山郁夫には、「三度目の対面」と「《心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?》」との時間差が理解できているんでしょうか?

 それとともに、「三度目の対面」への言及のなかでのこの文章。

 スメルジャコフの「殺したのはあなたですよ」は、アリョーシャが以前にはなった暗示的な言葉、「殺したのはあなたじゃない」と、化学反応にも似た強烈な相乗作用をひき起こしながら、イワンを狂気へと駆り立てはじめた。

亀山郁夫「解題」)


「アリョーシャが以前にはなった暗示的な言葉」の「以前に」というのは何でしょう? アリョーシャの「あなたじゃない」は作品内時間では「ついさっき」の言葉なんですよ。亀山郁夫自身、先に引用したようにNHKテキストでこう書いていました。

「あなたじゃない」とは、どういう意味でしょうか。そして最後にアリョーシャは、「あなたじゃない」という言葉は、神さまが自分に、イワンにそう言いなさいと命令した言葉だとまで言い切ります。
 そしてこの、アリョーシャのセリフを聞いたイワンは、アリョーシャに絶交を宣言し、自宅に戻りかけたところでふと思い直し、そこから二キロばかり離れたスメルジャコフの家に向かうのです。

亀山郁夫「新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む」 NHK出版)


「解題」でのこの「以前に」については、私は最初から ── つまり、この七月から ── 気にはなっていたんですが、『カラマーゾフの兄弟』において「あなたじゃない」の記述と「三度目の対面」との記述との間に比較的長い文章が入るために、読者 ── おそらくは初読の ── に配慮した亀山郁夫がそうしたのだと考えていたんです。しかし、ですね、いま、私はこれが実はやはり亀山郁夫自身の認識だったのじゃないかと考え始めているんです。

 私は何をいおうとしているでしょうか? 先に私のいった「自分で腰が抜けそうな想像」とはどういうものでしょうか?

 いいましょう。


 亀山郁夫には、そもそも「解題」執筆時 ── ということは『カラマーゾフの兄弟』訳出時 ── で、アリョーシャの「あなたじゃない」がイワンとスメルジャコフとの「三度目の対面」の直前のことだというのがわかっていなかったのじゃないでしょうか? いや、これがどんなに「自分で腰が抜けそうな想像」かは承知しています。しかし、そうだとしか思えないんです。つまり、「第十一編 兄イワン」における記述に、「あなたじゃない」以降、作品内時間を遡ってイワンとスメルジャコフとの二度の対面があり、さらに「あなたじゃない」を追い抜いて三度目の対面があるということが、亀山郁夫には理解できていなかったのじゃないか、と私はいっているんです。「解題」がめちゃくちゃなのは、そのためじゃないでしょうか? それで、『カラマーゾフの兄弟』全五巻を出版した後で、いろいろな場所で講演などをするうち ── 聴衆に向かってあらためて解説をしようとして当該部分を読み返すうち ── に、亀山郁夫に「第十一編 兄イワン」の本当の時系列がはじめて明らかになり、「三度目の面談で、彼はついに事件の「本質」の認知へといたる。つまり、主犯はイワン、実行犯がスメルジャコフ、という本質的な構図である」(「解題」)が、スメルジャコフとの「二度目の面会」での「このひとことによって、父殺しの下手人が明らかになるとともに、イワンのなかに、この父親殺しの事件の核心がはっきりと浮かびあがってくるのです」(NHKテキスト)へと変更されたということなんじゃないでしょうか?

 いやはや、私は自分で腰が抜けそうです。

 もし私の「自分で腰が抜けそうな想像」が正しいなら、私はなんという低能をここまで相手にしてきたんでしょうか。