『そば屋 翁』

(高橋邦弘 文春文庫)

 僕は自分のそばにそれなりの自信はありました。僕自身が食べておいしいと思うそばを、多少は他の人もおいしいと思ってくれるに違いない。



 おそらくこの本は聞き書きの形でつくられています(「本文構成」に西脇さんという名前があります)。そば屋「翁」の主人高橋邦弘さんの話を西脇さんが書きつづる──このやりかたがとてもうまくいっていると思います。高橋さんの声がよくきこえてくるように書かれています。読んでもらえばすぐわかるでしょうが、とても腰の低い、丁寧な語り口です。書き手の西脇さんはとても大変な仕事をやりとげられたのだと思います。そばのつくりかたにしても、単純につくりかたを理解するのでなく、高橋さんのつくりかたを理解しなくてはならないんです。高橋さんがどうしてそういうつくりかたをするようになったか、それが一般的なものとはどう違うのか、高橋さんのめざしているものがどういうそばなのか、それらを理解しなくてはなりません。そうして、理解するだけでは書けないんですよね。まだまだたくさんの要素がある。西脇さん、とてもよいです。

「翁」というそば屋、そうして、主人の高橋邦弘さんというのは、ずいぶん有名なひとらしいんですが、私は知りませんでした。彼は昭和十九年の末に生まれ、商業高校を出て空調の会社に勤めます。四年足らずでそこを辞め、しばらくは友人のつてで仕事をしていました。昭和四十七年、新聞記事で「一茶庵」の片倉さんがそば教室を開いているのを知り、受講します。

 そばを打つのは楽しかった。家でもよく打つようになりました。しかし、だからと言ってすぐそば屋になろうと思ったわけではない。ただ、なれればいいなとなんとなく考え始めていたのだろうけれど、親兄弟にもそんなことは話さなかったです。この時二十代も後半になっていましたから、このくらいの歳からそばの修業を始めていいのかという迷いがあったのも確かです。



 昭和四十八年、片倉さんの「一茶庵」宇都宮店で働きはじめます。二十八歳でした。
 昭和五十年、目白で自分の店「翁」開店。
 昭和六十年、目白の店を閉め、山梨で「翁」開店。

 まず目白の「翁」で出していたのは、

 手打ちそばと手打ちのうどん、多少のつまみと酒があるそば屋です。しかし、これは、結構画期的なことだったんです。世間的に見れば。
 特別立地もよくなく、名前が通っているのでもない小さいそば屋で、いわゆるパパママ店(業界では、個人経営のこうした店をいいます)で、それが、ご飯ものをいっさい置かず、出前もなし。


 高橋さんの考えでは、

 僕は自分のそばにそれなりの自信はありました。僕自身が食べておいしいと思うそばを、多少は他の人もおいしいと思ってくれるに違いない。これが支えだったかもしれません。


 この目白の「翁」はすこしずつ知られるようになっていきました。わざわざ高橋さんのそばを食べに来てくれるひとが増えていきました。

 けれども、先ほど掲げたように、この店は昭和六十年に閉店します。高橋さんは山梨に移り、あらためて「翁」を開店するんです。

 目白時代から彼は材料にこだわって、長野でそばを栽培してみたり、いろいろな産地をまわってみたり、いくつもの製粉所をあたったりと、試行錯誤をつづけていたんですが、たどりついた結論は、もちろんそば自体も大事なのですが、決め手になるのが「製粉」だということなのでした。

 自分で畑を作って、そばを栽培してみたことによって、結局は自分でそばの実の皮をむくところからやらなければだめだということに、ようやく気がついたんです。それまでは製粉すると言ってもまだはっきりした形を抱いていなかった。それが、ここへきて、実際に皮をむいたり石臼で碾いたりしてみて、やっと形として描けてきたのです。ちゃんとした製粉の施設を作って自分で全部やりたい、と。

 自家製粉をしたい。製粉のことを試行錯誤していくうちに、そのためには充分なスペースが必要だということがわかった。玄そばの保管場所も確保しなければならない。とにかく自家製粉したくて、したくて。そのための場所が欲しかったんです。


 というわけで山梨へ移ることにしたんです。

 目白の店を閉めるにあたって、

 僕だって東京の常連さんたちには申し訳ないとは思いました。思うけれども、しかしお客さんの都合で僕はそば屋をやっているわけではない。僕は僕が思うとおりのそばをつくりたい。その気持ちの方が強かったですね。


 山梨での店づくりは

 建物に関しては、知り合いの設計家にお願いして、シンプルで風景に溶け込むような、そば屋らしからぬ店にしてもらいました。


 しかし、それもすんなりとうまくいったのではなく、

 当初、地元と付き合わなければと考え、長坂の工務店と話を進めたのですが、どうしてもこちらの意向をとりあってくれない。そばだけのこぢんまりした店をと言っているのに、宴会もできる、バスも入れるドライブインみたいな建物を作ろうとしてくるんです。そのうえ建物の図面も決まらないうちに、土地の木を全部切り倒して造成しようとしてきた。さすがに僕も怒って、中止してしまいました。とにかく乱暴なんです。これには参りました。


 私の想像では、この穏やかな高橋さんが自分の信念をつらぬくためには、上のような無理解とずいぶん戦わなくてはならなかったはずだと思います。この本の全体にしみわたっている謙虚なのびやかなトーンの下には実にわずらわしいたくさんの戦いがあるにちがいありません。

 そうして、山梨の「翁」の品書きは目白よりもさらに少なくなって、

 ……もりそばだけです。二種類あって、白めの標準的なもりそばの「ざる」、黒めで太い「田舎」があります。田舎は作れる量に限りがあるので、早めになくなることもあります。
 あとは飲み物です。ビール、日本酒。
 これが翁でお出ししているものです。


 営業時間は四時間(午前十一時から午後三時)。……ですが、

 朝四時から仕込みを始めて、製粉と手打ちと準備、営業時間は僕が釜をやって閉店後は店の掃除と翌日のための製粉作業。それでも一日十二時間は最低かかります。


 いかがでしょう。とにかく実際に手にとってお読みください。


 さて、私がこの本で惹かれたのは高橋さんのこういう考えかたでした。

 僕が食べておいしいと思うそばを出せば、ある程度お客さんはついてくれるのではないかと。

 僕は自分のそばにそれなりの自信はありました。僕自身が食べておいしいと思うそばを、多少は他の人もおいしいと思ってくれるに違いない。


 そうして、

 これはいつも言ってることですが、百人が食べて、百人がおいしいということはあり得ないんです。食べた人間がすべて翁が一番、他のそばは食べられないなんてことになったら、むしろ疲れちゃいます。そのうちの三十人が気に入って、残ってくれれば、充分じゃないか。


 あるいは、

 商売をしていると、よく「お客さまのためにやっている」というようなことを言います。あるいは、聞きます。お客さまに育てられて自分の味が研鑚されるというようなことも。けれども、僕はそう考えたことはないんです。誰のためでもない、僕は自分のためにそば屋という商売をしている。まず、自分が大事なんです。もちろん、おいしいそばをお客さんに出そう、あるいは、今日のそばを喜んでもらえるかな、などとは考えます。おいしいものを提供して喜んでもらいたい、というのは食べもの屋の主人としては当然の願いです。しかしそれは結果であって、僕は自分の仕事、自分のそばをやりたいようにやる。なんだか傲慢に聞こえるかもしれませんが。手打ちが人気だから、手打ちをするのではない。自分が食べておいしい、そばは手打ちのほうが適している、と考えるから手打ちをしている。そういうことです。


 すばらしい。

(二〇〇三年四月の文章に加修正)