『トニオ・クレーガー』

トーマス・マン 野島正城訳 講談社文庫)

(五)

 いや、ここまででも十分に長いと思っていたんですが、自分でもあきれたことにまだつづけます。しかし、これから私がこのホームページで企てる「読書案内」のどの文章もがこんなふうに長いもののはずはありません。

 さて、これはいわば補足のようなものです。ここで私のいいたいことは、芸術家に選択の自由はないということなんです。自分がどのように芸術家であるかを彼は選ぶことができないし、彼の作品も彼の自由にはならないということです。私がここで芸術家といっているのは、ほんものの芸術家のことなので、それ以外の自称・他称の芸術家のことは知りません。これはあらかじめお断わりしておきます。

 私は、『トニオ・クレーガー』が自分の前に相貌をあらためたといいました。その前には、

『トニオ・クレーガー』の文章は必要なことを過不足なくきっぱりと口にするというやりかたで書かれています。主人公が誰にどんなふうな軽蔑を抱いているのか、誰のどういう考えかたを非難するのか、そういうことがずばり口にされます。


 といいました。さらにその前には、

 これは、私がずっと考えていたような、不幸な孤独なトニオ・クレーガーの諦観的な生などでは全然なく、芸術家として敢然と自分の立ち位置を宣言したトニオ・クレーガー──とはいえ、彼は「行かねばならぬ道」を行かざるをえなかったということです。彼には選択の余地もなかったんですが、しかし、それゆえにこそ彼は自分の立ち位置にゆるぎない確信を抱いているんです──の生なのじゃないでしょうか。


 といっています。

 それをもうすこし補足したいんですね。

「文学そのものが人生にたいする優しい復讐であるような人たち」がいますね。つまり、「いつも悩んでいる人たち、あこがれをいだいている人たち、気の毒な人たち」ですね。こういうひとたちだって、こんなふうに思うことはあるはずなんです。

 どうしてぼくはこれほど風変わりなんだろう。みんなと衝突し、先生とも折りあわず、ほかの少年たちとなじめないんだろう。あの連中を見るがいい。模範生で、平凡で、まじめだ。あの連中は先生を滑稽だとおもうようなことはないのだ。詩などもつくらないし、ふつう誰でも考えることだけ、口に出していえることだけしか考えないのだ。あの連中はきっと、自分はまともで、なにごとでも誰とでも折りあっていけるとおもっているにちがいない。さぞ具合のいいことだろう。……ところが、ぼくはどうだろう。こんなぐあいでは、このさき、いったいどうなることか。

(『トニオ・クレーガー』 野島正城訳 講談社文庫)


 そうして、トニオ・クレーガー同様に詩を書くことだってあるかもしれません。ここが微妙なところです。十五歳くらいのこの作品の読者(「青春の書」の読者)がいたとしますね。彼はいま引用した部分を読んで、トニオに共感する・トニオと自分とが同じだと思うかもしれません。むろんヘッセに夢中になるくらいの読者ならそう思うでしょう。ところが、そういう読者を、トニオ・クレーガーがそのまま自分と同じだと考えているかというと、全然そうではないんですね。彼の読者にはなれるかもしれません。しかし、彼と同等の芸術家になるわけではない。この切断はぜひとも押さえておきたいところです。
 というか、この作品は、主人公が芸術家になる・ならない(なれる・なれない)──人生の成功・不成功(「勝ち組・負け組み」式の)という観点での──の話じゃないんです。

 この作品の「展開部」では、すでにトニオ・クレーガーは作家になっています。もうなっちゃっているんです。すでにいくつかの作品は発表している。しかも、おそらく優れたものです。ということは、自分が他のひととはちがっている、文学を愛している、というだけの自覚の段階をはるかに超えて、ほんものの芸術家になっちゃっているわけです。
 それで、今度は「文学そのものが人生にたいする優しい復讐であるような人たち」以外のタイプ──世のなかの大多数のひとたち──について、こんなふうにいいます。

 芸術という月桂樹からは、たとえただ一枚の葉でも、自分の生命を投げだすつもりがなければ摘み取ってはならないのですからね。


 それというのも、結局──芸術でもやってみようとするときの人生ほど、みじめなものはないでしょうからね。ぼくたち芸術家が徹底的に軽蔑するのは、ほかならぬ、自身は生きのいい人間でいながら、機会があれば手軽に芸術家になれるとおもいこんでいるディレッタントですよ。


 自分を他のひとたちとはちがう人間だと思うひとたちがいる。そのなかで、文学を愛するひとはいる。しかし、それだからといって、そのひとたちがそのまま芸術家になれるわけではない。そこにはある覚悟が必要だ。しかし、芸術家になるならないということはそのひと自身の選択によるものじゃない、ということがいわれていないでしょうか。
 トニオ・クレーガーはただ「行かねばならぬ道」を行ったにすぎません。繰り返しますが、行ったにすぎないんですよ。その道を彼は選んだわけじゃありません。彼は行かなきゃならなかったんです。どうしようもなかった。ただそのときに彼はこうしました。

 無意識の沈黙の生のうえにほほえみながら君臨する精神と言葉の力に、彼は全身をささげた。若い情熱をあげてこの力に身をささげた。そうすると、この精神と言葉の力は、贈りうるすべてをおくって、彼にむくいてくれた。そのかわり、代償として取りあげるものはすべて、情け容赦なく、彼から取りあげた。


 道の選択はできませんが、行かざるをえなかったそこで「全身をささげ」るかどうかは、彼の選択ですね。しかし、選択はそこまでです。

 さらに、トニオ・クレーガーの突き当たらざるをえなかった問題は、自分が他の──おそらく同時代の──芸術家とは違っているということですね。

「ほかの芸術家について、でしょう、トニオ・クレーガーさん。──こんなことをいってごめんなさい。──それとも、ほかの芸術家に限らないのでしょうか」


「あなたはちがいます──」


 と、聞き手のリザヴェータのいうことには意味があります。

 自分の芸術のありようというのは、芸術家自身には選択できないものだと思うんです。これは、選択できるという方がおかしい。とにかく彼は自分がやらなければならないことを「全身をささげ」ながらやるしかないんです。その結果、他の──大多数の──芸術家のものとは違う・独特な・異色の作品(既成のカテゴリーにおさまりきらない作品)作品ができあがってしまう。この時代の主流とはかけ離れたものが、ぽつんとできあがる。この違いはなにか、ということをトニオ・クレーガーは考えるんです。彼には他の芸術家たちと同じようにやることはできません。それは選択できないことなんです。彼は彼のやらなければならないことをするだけ──それしかできないということです。そうして、彼は自分の仕事に誇りをもってもいます。

 こうして、トニオ・クレーガーは自分の現在位置から逆算して芸術ということを考えているんです。先に芸術とはこれこれだという規定があって、というのではなく。だからこれは──非常に善良な読みかたをする読者を想定すれば──、ある意味で非常に挑戦的な、傲慢な、ずうずうしい、ともいわれかねない作品です。しかし、ほんとうのことをいう、という厳しい作品でもある。

 また繰り返しですが、そういう作品だからこそ、彼の誇りと裏表のようにして、彼が金輪際なりえないもの・それへのあこがれが切実なものになるんです。

 これがトーマス・マンにとって『ブデンブローク家の人々』を書きあげた直後といってもいい時期の作品だということは非常に興味深いです。

 なんだ、そんなことか、と思われたでしょうか。しかし、私はこの二十五年以上もの間、こんなふうにこの作品を読んでこなかったんですね。だいたいが小林信彦のいう「青春の書」のような印象で読んできたわけで、こうなってみると、この作品は「青春の書」として読めるものなのか、という気もしてきます。それとも、私はそもそも「青春」ということをバカにしてきたんでしょうか。