『トニオ・クレーガー』

トーマス・マン 野島正城訳 講談社文庫)

(四)

 ここまでのところで、私自身の文章をまったく意に介さずに、単に私の引用した箇所だけでこの作品を読もうと思ってくれるひとのいることを私は願いもします。そうであるべきなんですよ。なにしろすでに作品の最初の三分の一についてかなりしゃべってしまいました。
『トニオ・クレーガー』を何度も読み返しているうちに二十五歳以上も歳をとってしまった私のような者の陥りがちな読みかたが、この作品の「展開部」(ミュンヘンでの女流画家との会話──というかほとんどトニオの信条告白)ばかりを読んでしまうということなんですが、これはやっぱりよくないと私は思います。しかし、ここまでこの作品についていいつづけてきて、どうやら引っ込みがつかなくなってきたので、まだ先をつづけますが、故郷を離れて十三年後、すでに作家となっているトニオ・クレーガーは画家にこういうことをいいます。

『天職』なんていわないでくださいよ、リザヴェータ・イヴァーノヴナさん。文学はけっして天職じゃありません。これは呪いですよ。──そうですとも。これが、この呪いが、いつ頃から感じられるようになるか。早いのですね。おそろしく早いのです。神と世界にたいして、まだ十分協力して平和に生きているときからなのですよ。自分に特別の刻印がつけられているのを感じはじめ、ほかの人にたいして、普通の人たちや、まともな人たちにたいして、謎めいた対立を感じはじめます。皮肉と、不信と、対立と、認識の深淵、それから、普通の人たちからはへだてられているという感情の深淵、これがますます口をひらいてきて、あなたは孤独になり、そうなるともう、意志の疎通というものはなくなってしまいます。なんという宿命でしょう!

トーマス・マン 野島正城訳 講談社文庫)


 感情というもの、このあたたかい誠実な感情というものは、いつも陳腐で、使いものになりはしません。われわれの退廃した職人的な神経組織の興奮と、冷ややかな恍惚だけが、芸術に役にたつのです。人間的なものを演じたり、相手にしたり、効果的に趣味ゆたかに表現したりするためには、いや、そもそもそういう気になるためには、われわれはなにか人間をこえた、人間でない存在になる、つまり、人間的なものにたいして、奇妙にかけはなれた、無関心の関係にたつことが必要なのです。様式や表現などを生みだす才能というものは、人間的なものにたいするこの冷ややかで気むずかしい関係、それどころか、人間としてのある種の貧困と退廃をすでに前提としているのですよ。なぜなら、健全でつよい感情というものは没趣味なものにきまっていますからね。芸術家が人間になって感じはじめたら、もうその芸術家はおしまいですよ。


 ……いいですか、リザヴェータさん、ぼくはこころの底では──精神的な意味でいうのですけれど──芸術家というタイプについて、ひどい不信感をいだいているのですよ。


 もっとも典型的な、したがってもっとも力強い芸術家の、もっともおどろくべき作品を考えてごらんなさい。たとえば『トリスタンとイゾルデ』のような、きわめて病的であいまいな作品を考えてごらんなさい。そしてこの作品が、ごく普通の感受力をもつ健全な若い人たちにどんな影響をあたえるかを観察してごらんなさい。彼らは高められ、鼓舞され、暖かいほんものの感激にひたって、ことによると、自分も『芸術的』創作をやってみようという気をおこすかもしれません。……善良なものですよ、ディレッタントというのは!──われわれ芸術家のこころのなかは、こういう人たちがその『暖かい心』や『ほんものの感激』でもって夢想するものとは、まるきりちがった様相を呈しているのです。


「恋」と「詩作」とは相容れない──ですね。「恋」と「詩」と、ではなく。

 こんなふうに彼は芸術家のいわば楽屋裏について話し、そのいかがわしさを強調します。

(ひと昔前に、『一杯のかけそば』という非常に短い、ひとを泣かせる話がありまして、これが事実でなく創作だ、作家は詐欺師だったということで世のなかが憤慨したことがありましたが、私はそういう世のなかをばかだなあと思っていましたっけ。トーマス・マンを読めよ、と思っていました。)

 引用を繰り返しますが、

 感情というもの、このあたたかい誠実な感情というものは、いつも陳腐で、使いものになりはしません。


 健全でつよい感情というものは没趣味なものにきまっていますからね。


 ……善良なものですよ、ディレッタントというのは!


 それで、「感情というもの、このあたたかい誠実な感情というものは、いつも陳腐で、使いものになりはしません」についてですが、これは「芸術作品」として使いものにならなくても、出版はされて、しかも「売れ」はするんですね。そして、「売れ」るものが「芸術作品」としてまかり通りもするんですよ。その当のつくり手がそもそも「高められ、鼓舞され、暖かいほんものの感激にひたって、ことによると、自分も『芸術的』創作をやってみようという気」を起こしてしまったひとたちなのかもしれませんが。しかし、そういうセンチメンタルなだけのものをほんとうは「作品」と呼ぶことはできないし、そんなものに騙されて涙を流すようではだめなんです。

 ええと、いまでも私には、ときおり、こんなふうに本などを読んでこなかったら、自分はもっとましな人生を送れていたのじゃないかという気のするときがあります。あるテレビの取材で、「あなたにとって読書とは何ですか」と訊かれて、返事に困っていると、「では、本というものがなかったら、あなたはどうなっていますか」と質問が切り替わって、私のこたえたのが、いまいったようなことで、この部分は放送されませんでした。どうも、このへんの私の考えかたには、少なからず『トニオ・クレーガー』の影響が大きいのだという気がします。

 ときおり、ぼくは演壇にあがって、ぼくの話を聞きにきた人たちと、広いホールのなかで向きあうことがあります。すると、つぎのようなことがおこるのですよ。ぼくは自分が、聴衆をぐるりと見わたしているのに気づきます。ぼくのところに来てくれたのはどういう人たちなのか? 喝采と感謝をぼくによせてくれるのはどういう人たちなのか? ぼくの芸術がここで理想の和合をつくりだす相手はどういう人たちか? それをこころに問いながら、ひそかに聴衆をのぞいているみている自分のすがたを、ふいに意識するのです。……けれども、ぼくが探しているものは見つかりません、リザヴェータさん。ぼくの目のまえにいるのは、ぼくがよく知っているおなじ宗旨の群れ、いってみれば、初期キリスト教徒の集団のようなものなのです。無器用なからだと繊細なこころをもった人たち、よくころぶ人たち、もうおわかりでしょうが、文学そのものが人生にたいする優しい復讐であるような人たちなのです。──つまり、いつも悩んでいる人たち、あこがれをいだいている人たち、気の毒な人たちが来るばかりで、これと反対の、精神を必要としない青い目の人たちはひとりもやって来ないのですよ、リザヴェータさん! ……


 どうですか? 「文学そのものが人生にたいする優しい復讐であるような人たち」!
 これは、そのまま、『トニオ・クレーガー』を読んでいる読者自身(ずばり、あなたです)に向けられたことばでもあるはずです。「この作品に惹かれるようじゃ、あなたも駄目ですね」といっているわけです。それはあなたをバカにしているのか? しかし、私を含めてこの作品の読者は「いや、それはもっともだ。それは正しい」といって受け入れてしまうことになるんですね。私のように「小説ばかり読んでしまう駄目な自分」というふうに納得してしまうんです。トニオ・クレーガーのいうことは非常によくわかる、と。
 そうして、私はこういう負の要素を常に感じながら、二十五年以上にもわたって、他にもいろんな小説を読んできたわけです。得意になっていたわけじゃない。立派なことをしていると思っていたわけじゃない。他人に褒められると思っていたわけじゃない。私は読書を必ずしもいいことだとは思ってきませんでした。やましいことでもあって、どういう程度であるにせよ、服毒なんですよ、それは。耽溺なんて褒められた話じゃない。それはいかがわしいことなんです。そういうことを私はずっとつづけてきたことになります。で、そもそもの読書の経験のはじめに、『トニオ・クレーガー』がその感じを決定的に私に植えつけていたのだと思うんです。

 さてさて、この作品全体を私がどう読んできたかという話ですが、おそらく私は主人公トニオ・クレーガーをひどく不幸な人間だと思い、彼の報われなさに焦点を置いた読みかたをしつづけていただろうと思います。それは私が彼に感情移入して、駄目な彼に同情する(それがうまくいかなかったので、私は「感情的・情緒的な意味で夢中に」なれなかったのでもあるんですが)、という感じでしょうか。全体を諦観的に読む──「そういうものだ」というふうに読む──ばかりしてきたでしょう。それは、この作品に共感してしまう読者としての私自身(の未来)を占うという形が主だったようにも思うんです。で、これを、いわば──小林信彦のように──「青春の書」という形で理解しようとしてきたのでもあるでしょう。で、私がいま──またあらためてこれを読み返してみて──どう考えているか、というと、おおよそこんなふうです。

 この作品の全体はおそらく、作品を語り終えたトニオ・クレーガーの視点で語られています(一人称の語りではありませんが)。作品の最後はミュンヘンの画家リザヴェータに向けてのトニオ・クレーガーの手紙なんですが、それを書いているトニオ・クレーガー自身の視点で、この作品は描かれているんです。いまトニオが到達した場所から、ことの全体を眺めてみるとこんなふうだ、という視点です。だからこそ、計算し、きっちり配置を考え、「ソナタ形式」にも当てはめて語ることができる(こういうきっちりした形式が、まず私には抵抗があっただろうと、いまは思います。ちょっと窮屈な感じがするんですね)。
 で、それを押さえたうえで、私の考えたことはなにか。
 この作品の主題は「青春」にあるのでもなく、主人公の報われなさにあるのでもなく、もちろん彼の不幸を嘆くことにあるのでもなかったのではないか? というのが、やっと私の辿りついた考えなんですよ。そんなか細い、やわなことを描いた小説ではないのじゃないか? というわけです。
 やれやれ、おまえはやっといまになってそんなあたりまえのことを理解したのか、といわれそうです。その通りです、というしかありません。

 とにかく、説明してみようと思います。で、これから私のいうことは、実際に読んだひとにしかわからないことなのかもしれません。未読の方には申し訳ありません。

 それというのも、結局──芸術でもやってみようとするときの人生ほど、みじめなものはないでしょうからね。ぼくたち芸術家が徹底的に軽蔑するのは、ほかならぬ、自身は生きのいい人間でいながら、機会があれば手軽に芸術家になれるとおもいこんでいるディレッタントですよ。


 芸術という月桂樹からは、たとえただ一枚の葉でも、自分の生命を投げだすつもりがなければ摘み取ってはならないのですからね。


 トニオ・クレーガーはそんなふうに語るんですが、これは主として、芸術家とそうでないふつうの・平凡なひとたちとの対比としてなんですね。私がようやく理解したのは、自分がこの作品を「芸術家とそうでないふつうの・平凡なひとたちとの対比」としてしか読んでいなかったということなんです。これはまちがいだった。たしかに「芸術家とそうでないふつうの・平凡なひとたちとの対比」はあるんです。トニオ・クレーガーは「自分がふつうの・平凡なひとたちとは違っている、自分は芸術家であるからだ」というわけです。それで、「芸術家」というのは、こんなにも「ふつうの・平凡なひとたち」とは違うんだ、といいたてます。ところが、もうひとつべつのレヴェルがこの作品にはあったんですね。それは「トニオ・クレーガーと他の芸術家との対比」です。つまり、彼は自分が「他の芸術家とは違っている、自分は独自の・独特の芸術家であるからだ」ということです。これを私はずっと見落としていた。というか、それはもちろん承知していましたけれど、しかし、私はそれをなんというか、彼の弱さというか、負の部分として承知していたんですね。ある意味で彼が「自分はふつうの芸術家にもなりきれない、自分ははずれ者の芸術家だ」といっているのだと思っていたんです。しかし、それはそうではなかったのじゃないか、そういう読みとりは駄目だったのではないか、むしろ、もっと積極的に彼は自分を主張しているのじゃないか、ということです。「自分のやっていることこそが真の芸術であって、他の芸術家のやっていることはそうではないのではないか」というくらい、彼は自分を主張しているのではないか。

 彼は生活するために仕事をする人間ではなく、仕事のほかは何ももとめぬ人間として、仕事をつづけた。生きているだけの人間としての自分には一顧の価値もおかず、ひたすら、創造する人間として見られることを望み、ちょうど演技しないときは無にひとしい素顔の俳優のように、平生は目だたず、平凡にくらしていた。黙々としてとじこもり、人目をさけ、才能を社交の飾りものにするつまらぬ連中を軽蔑しきって、仕事をしていた。この連中は貧乏であろうと、とにかく、すり切れた服をきこんで粗野な態度でのし歩いたり、気のきいたネクタイでぜいたくをしてみたり、なによりもまず幸福に、愛想よく、芸術的に見せようとするだけで、よい作品は苦しい生活の圧迫のもとにのみ生まれるものであることを知らず、生活するだけの人間は労作をする人間ではないこと、完全に創作者になりきるためには死んでいなければならないことを、この連中は知らないのである。


 チェザーレ・ボルジアとか、彼をあがめる、どこかの酔っぱらい哲学のことなどを考えてはいけません。チェザーレ・ボルジアなんか、ぼくにとってはものの数ではありませんよ。だいいち、ぼくはこの男をてんで問題にしていないのですから。どうして人間は法外なものや悪魔的なものを理想としてあがめるのか、ぼくにはさっぱり合点がいきませんね。実際、精神と芸術にたいして永遠に対立しているこの『人生』というものは──ぼくたち異分子の目には、血なまぐさい偉大さとか、荒々しい美の幻影とか、または、なにか異常なものとしてうつっているのではありません。平常なもの、礼儀正しいもの、愛すべきものがぼくらのあこがれる国で、それはつまり、魅惑的な平凡さをもった人生なのですよ。洗練されたものや、常軌を逸したものや、悪魔的なものに窮極の情熱をかたむけていて、罪のないものや、単純なものや、生きいきとしたもの、わずかであっても、友情や献身や信頼や人間的幸福などへのあこがれを知らない人間──平凡なもののもつよろこびにたいする、ひそかな、身を焼くようなあのあこがれですが──こういうあこがれを知らない人間は、いいですか、リザヴェータさん、まだとても芸術家とはいわれませんね。……


 これは、私がずっと考えていたような、不幸な孤独なトニオ・クレーガーの諦観的な生などでは全然なく、芸術家として敢然と自分の立ち位置を宣言したトニオ・クレーガー──とはいえ、彼は「行かねばならぬ道」を行かざるをえなかったということです。彼には選択の余地もなかったんですが、しかし、それゆえにこそ彼は自分の立ち位置にゆるぎない確信を抱いているんです──の生なのじゃないでしょうか。
 おそらく作者トーマス・マン(トニオ・クレーガーとトーマス・マンとを混同しているじゃないかという指摘のあろうことは承知です)はこの作品を通じて、彼の同時代の芸術と芸術観に対して「おれは違うぞ・おれのやっていることこそが芸術なんだぞ」と強く挑戦的に宣言したんです(自分にないものを無理やり捏造して吠えているのじゃないんですよ)。これはそういう作品だと思います。諦めに満ちた、弱々しい、繊細な「青春の書」なんかじゃ全然なかった。

『トニオ・クレーガー』の文章は必要なことを過不足なくきっぱりと口にするというやりかたで書かれています。主人公が誰にどんなふうな軽蔑を抱いているのか、誰のどういう考えかたを非難するのか、そういうことがずばり口にされます。
「健全でつよい感情というものは没趣味」だといいきり、「ふつうの・平凡なひとたち」と芸術家とを分けるトニオ・クレーガーは、その一方で、おそらく彼以外の芸術家の「法外なものや悪魔的なものを理想としてあがめる」ことを非難します。トニオ・クレーガーは芸術家として一見、自分の弱点──「平凡なもののもつよろこびにたいする、ひそかな、身を焼くようなあのあこがれ」──であるかのようなものが、実は強みであることを主張します。こうして、彼は自分の立ち位置を非常に狭く、きっちりと定義し、独自なものとして、これまでにないものとして考えているんです。そうして、それでこそこの作品の「展開部」を挟む「提示部」と「再現部」でいわれていることが切実な表現としてわかるのじゃないでしょうか。

(いま私はニーチェが当時──二十世紀初頭──どのように受け入れられていたか、それがその後どのようになっていったか、をいいたくもあるんですが、これはいずれということにします。)

 初読から二十五年以上も経て、ようやくこういうことに気づくとは! いや、私の前に、この作品はすっかり相貌をあらためました。しかし、これがどれだけ私にとって大きいことかを伝えることは、まだできそうもありません。まあ、ゆっくり行きましょう。

 それにしても、私がこういうふうに考えるに至ったのには、ここしばらくの私の読書からの影響があるでしょう。いま雑誌「新潮」に連載されている『小説をめぐって』(保坂和志)──これは単行本としてまず最初の部分が『小説の自由』(新潮社)として出ています──を私はずっと読んできているんですが、これが保坂さんにとっての、いわば「芸術家として敢然と自分の立ち位置を宣言した」作品なんですね。これを読んでいなかったら、つまり、保坂さんのたたかいを見ていなかったら、私はいまだに『トニオ・クレーガー』についての認識をあらためていなかっただろうと思います。

 そして、もうひとつさらにべつの作家の「芸術家として敢然と自分の立ち位置を宣言」した文章として、こういうものも思い浮かべています。

 のちのちになってから、ぼくはその名前を学ぶことになる──「文体」だ。そして、ぼくは言葉の軽業師たちの空虚な営みをこの名前で呼ぶなどということを、決して認めはしないだろう。

アンドレイ・マキーヌ『フランスの遺言書』 星埜守之訳 水声社



たぶん、これからも『トニオ・クレーガー』については、いろんなところで引合いにも出すでしょうから、今回はこのへんでやめておきます。まだまだたくさんのことをしゃべりたくはあるんですが。

…………………………


 一九〇三年(明治三十六年)に発表されたこの小説にはいくつもの訳が出ていまして、私が読んだのは、まず「トニオ・クレーゲル」(高橋義孝新潮文庫『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』)、次いでこの「トニオ・クレーガー」(野島正城訳 講談社文庫『トニオ・クレーガー/ヴェニスに死す』)、それから『トニオ・クレエゲル』実吉捷郎訳 岩波文庫)なんですが、ここでは主に「トニオ・クレーガー」(野島正城訳)を採りあげました。この三つの翻訳の三つともを私は読みましたが、いちばんよかったのが野島訳なんですね。(ついでにいえば、部分的には『神聖喜劇』における大西巨人訳というのがあるんです)。
 邦題の表記のこの差は、まあ、しかたありません。ショーペンハウアーショーペンハウエル、シラーとシルレル、ワーグナーとワグネルというように、単語末尾のerを日本語としてどう読むかということなんです。もう少しいえば、ほんとうは「トニオ」というより「トーニオ」なんですけれど。とはいえ、いまのところ、この作品に関しては「トニオ・クレーゲル」が最も一般的な表記でしょう。