『トニオ・クレーガー』

トーマス・マン 野島正城 訳 講談社文庫)

(二)

 私自身の経験でいうと、私はまずこの『トニオ・クレーガー』を高校のはじめくらい(もしかしたら中学の終わりかもしれません)で読むのじゃなかった、といまは思うんです。といってもしかたのないことなんですが。では、いつ読めばよかったのかというと、どうやらそれにも答えられないんです。
 私はこのホームページの「はじめに」で、「背伸びする読書」といい、またこういました。

……そうやって、いろんな「チューニング」を経験としてたくさん蓄積していけばいくほど、読者は腕を上げていくことになります。そうすることで次第に読書の質が変化していくはず。そうなるまでに、たしかに量は必要になるでしょうが、いったんこの質の変化が起こりはじめたなら、そのあとは量なんか大した意味をもたなくなる。で、それまでの量も、だから必ず「チューニング」に苦しまなくてはならないような作品での量だけが問題になるでしょう。


 いまの自分の力に合わせた読書でなく、自分を作品に合わせて──自分を作品に「チューニング」して──「背伸び」をする読書をすべきだ、その積み重ねが大事だといったんです。これは、読書の初心者にとって大きな関門で、もしこれをつづけられるひとがいたにしても、こういう問題を抱えるはずなんです。というのは、経験の浅いうちにした読書は、どうしても浅くしか読めない──もっと後ならばちがうふうに読めたはずのものなんです。でも、それなしに「もっと後」ということもないわけで、初心者の読書ではそういった、いわば捨て石が出てしまうわけです。かといって、初心者の読書がたとえ浅かろうと、彼にとってその後の原動力となるはずの大きななにかは、そこで生じているはずでもあるんです。これ、わかりますか?

 こんなふうにいって、ますます混乱させてしまうかもしれないんですが、この作品を初めて読んだとき、私はおそらくこの作品を、ちょっといかめしいもの・権威のあるもの・恭しく接しなければならないもの・ありがたいものとして考えていたのかもしれません(これは誇張していってもいます)。それとともに、読書の初心者として、小説というものにどんなすごいことができるのかということへの想像力がなくて、非常につまらない型にはめての期待感しか持てていなかったんですね。つまり、小説というのはこういうものだ、と私の考えているその枠があまりに小さかった。うぶで素朴なものだった。だから、大げさにいえば、この作品はある意味ちんぷんかんぷんでもあり、感情的な意味でいうと、ほとんど共感できなかったんですよ(だいたいが恋などというものさえわからなかった)。なんだか弾き返されるような感じでもありました。それにもかかわらず、私はこの作品を無理やり「よい」ということにしてしまったようです。いや、無理やりでもないな、やっぱりなにかがあって、「よい」と思ったはずです。ともあれ、「よい」としたのは、結果的によかったんですけれどね。以来二十五年以上も繰り返し読んできたわけですから。

 さて、いよいよ『トニオ・クレーガー』本文からの引用をしますが、まず私のいう高校生くらいの読者でも感心したふりのできそうなことばに、こういうものがあります。

 それでも、やはり彼は幸福であった。なぜなら、幸福とは愛されることではないからだ、と彼はわれとわが身にいってきかせた。愛されるとは、嫌悪のまじった、虚栄心の満足なのだ。幸福とは、愛することなのだ。愛する相手に、うわべだけでも、なんとかしてすこしても近づく機会をとらえることなのだ。

トーマス・マン 野島正城 訳 講談社文庫)


 どうですか?

 あるいは、

 どうしてぼくはこれほど風変わりなんだろう。みんなと衝突し、先生とも折りあわず、ほかの少年たちとなじめないんだろう。あの連中を見るがいい。模範生で、平凡で、まじめだ。あの連中は先生を滑稽だとおもうようなことはないのだ。詩などもつくらないし、ふつう誰でも考えることだけ、口に出していえることだけしか考えないのだ。あの連中はきっと、自分はまともで、なにごとでも誰とでも折りあっていけるとおもっているにちがいない。さぞ具合のいいことだろう。……ところが、ぼくはどうだろう。こんなぐあいでは、このさき、いったいどうなることか。


 しかし、これはどうですか?

 彼がこの世でもっとも崇高であるとおもう力、それに奉仕するのが自分の天職であると感じている力、自分に高貴と名誉を約束してくれる力、すなわち、無意識の沈黙の生のうえにほほえみながら君臨する精神と言葉の力に、彼は全身をささげた。若い情熱をあげてこの力に身をささげた。そうすると、この精神と言葉の力は、贈りうるすべてをおくって、彼にむくいてくれた。そのかわり、代償として取りあげるものはすべて、情け容赦なく、彼から取りあげた。
 この力は彼の目をするどくし、人々の胸をふくらませる大言壮語を見抜くようにさせた。この力は人のこころのなかを、また、彼自身のこころのなかもひらいてみせ、それを見通す力を彼にあたえて、世間の内側や、言葉と行為の裏にひそむいっさいの究極のものを、彼にしめしてくれた。
 しかし、彼がそこで見たものは滑稽と悲惨──まさに滑稽と悲惨であった。
 すると、認識の苦悩と自負とともに、孤独がやってきた。快活で愚かな感覚をもった無害な連中とのつきあいは彼には我慢がならなかったし、その連中のほうでも、彼の額におされた芸術家の刻印をけむたがったからである。しかし、言葉や形式にたいしていだくよろこびは、彼にはしだいに甘美なものになってきた。なぜなら、彼はいつもこういっていたからである(また、すでに書きとめてもいた)。表現することへのよろこびが強く生きいきとたもたれていなければ、たましいの認識だけでは、どうしても陰うつにならざるをえないだろう、と。……


 ヘッセに夢中になる高校生なら、前半はすぐになんのことか理解できるだろうと思います。しかし、問題は「しかし、言葉や形式にたいして……」以降、とくに──

 表現することへのよろこびが強く生きいきとたもたれていなければ、たましいの認識だけでは、どうしても陰うつにならざるをえないだろう。


 ──です。私はずいぶん長いことこれがなにをいっているのかわかりませんでした。はっとしたのは、おそらく三十歳前後でのことじゃないでしょうか。もう少しいい直しますが、私は三十歳あたりまでいまの部分をずっと考えていたというのじゃないんですよ、そうではなくて、格別意識してはいなかったということです。それが、あるとき「あ、こんなことが書いてあったんだ」と驚いたんです。見落としていたというのでもありません。そのとき、初めて、その部分の重量に気がついたということなんです。こういう経験は、ひとつの作品を繰り返し読むということを習慣にしていると、たくさんあるものなんです。
 しかし、「ヘッセに夢中になる高校生なら前半はすぐになんのことか理解できるだろうと思います」というのも実はまちがいで、その高校生は単に頭で理解したにすぎないんですね。というのも、たとえば「滑稽と悲惨」の意味が彼にわかるでしょうか? 私はもし高校生が「わかる」と答えたとしても、「それはちがうんだよ、きみにはわかっていない」というつもりでいるんです。これは私自身の経験に照らしていっています。この「認識の苦悩」を文字通りに理解するためには、彼はまだまだ先を生きて、いろんな経験を重ねていかなくてはならないんです。若さゆえの直感で理解するということは大事なことだろうと思いはします。でも、それだけではだめだと、もっと後になってわかります。で、わかった頃には、大事な直感は失われてもいるんじゃないでしょうか。とはいえ、私の想定しているのは、現代の日本に生きている高校生から、私までの年代が高校生だったころ、という限定つきでですけれど。
 いや、私はこれからこの作品を読もうとしている高校生に読むなといっているのでは全然ないんです。むしろ読めといいたい。そして、彼の読みとりをばかになどしません。彼は自信をもって、ゆっくり進んでいけばいいんです。けれども、進むのをやめてはいけない。ちょうど、こんなふうに──

 トニオは行かねばならぬ道を、いくぶん投げやりで気まぐれに、口笛を吹きふき、頭をかしげて遠方をながめながら歩いていった。道に迷うこともあったけれども、それは、彼のような人間にとっては、もともと正しい道などというものはありえなかったからである。将来はいったい何になるつもりなのかと訊ねられると、彼はそのときどきにいろいろな返事をした。なぜなら、自分のうちにはほとんど無限の生活様式への可能性がある、とはよくいっていたが、同時に、そのどれも結局は実現不可能なのだ、とひそかに意識していたからである。(また、これを彼は実際に書きしるしていた)……


 それにしても、読書をしながら、「あ、よくわからないけれども、これは自分にとってなにか大事なことが書かれているな・これについてはきっと後々までも、べつの作品の読書でも自分につきまとうことになるな」というひっかかりは重要です。
 この作品にはこうもあります。

 奇妙ですね。ひとつの考えに支配されると、どこへ行っても同じ考えがあらわれているのにぶつかって、風のにおいにも、それを嗅ぎとるのですからね。


 ここで私が以前にいったことを思い出してほしいんです。私はこういいました。「もし自分に関係のあるはずの本をどうにかして自力で探して読むことができたなら、あなたは次に読む本をほとんど自動的に探し当てることになるでしょう。」



(三)

 さて、

 冬の太陽は、狭い町のうえにひろがる雲の層をとおして、乳色に弱々しく、ただわずかな光をはなっていた。破風づくりの家並みがたちならぶ小路は、しめっぽくて、風があった。そして、氷ともつかぬ、雪ともつかぬ、みぞれのようなものが、ときおり空からおちてきた。


 これが出だしの文章です。生徒たちが下校していきます。トニオ少年は、いっしょに帰る約束をしていたハンスを待っています。しかし、そこでトニオに出くわすまで、ハンスは約束を忘れています。

 トニオは何もいわなかったが、その目はくもった。ふたりが今日の昼、いっしょにすこし散歩しようと約束したのを、ハンスは忘れていたのだろうか。それを今になって思い出したのだろうか。ぼくのほうはこの約束をしてからは、ほとんど片時も忘れずに楽しみにしていたというのに。


 実情をいえば、トニオはハンス・ハンゼンを愛していて、すでに彼のためにいくども悩んできたのである。もっとも多く愛する者は敗者であり、悩まねばならぬ。──この単純できびしい教訓を、トニオの十四歳のたましいはすでに人生から学びとっていた。しかも彼は、このような体験をよくおぼえておき、いわば心のなかに書きとめて、むしろ、それにある種のよろこびを感じているという気味もあった。とはいっても、もちろん彼自身としては、その教訓にしたがってわが身を律したり、そこからなにか実際的な利益を引きだしたりすることはなかった。それにトニオとしては、このような教訓のほうが学校でつめこまれる知識よりもずっと重要であり、興味があるとおもっていたし、そればかりか、ゴシック式の円天井の教室での授業時間中でも、このような洞察を底のそこまで味わって、徹底的に考えぬくというふうであった。


 ハンスについてトニオ・クレーゲルはこう思うんです。

 きみのような青い目をしているものはどこにもいない、と彼は考えた。きみのように万事秩序ただしく、世間とうまく協調して暮らせるものはほかにはいない。何をするにもきちんとしていて、みんなの尊敬をうけている。宿題を片づけると、乗馬の練習をしたり、鋸細工をしたりする。そして、休みに海へ行っても、きみはせっせとボートを漕いだり、ヨットを浮かべたり、泳いだりでいそがしい。それなのに、ぼくは無精で、ぼんやり砂のうえに寝そべったまま、海面をかすめる千変万化の神秘な波のたわむれを見つめているだけなのだ。それだからこそ、きみの目はそんなに澄んでいるのだ。きみのようになれたら。……


 そして、金髪の少女インゲボルク・ホルムがいます。トニオは十六歳になっています。

 どうしてそういうことになったのだろう。トニオは彼女を、これまで、それこそ何度も見ていたのである。ところがある晩、ある照明のもとでながめた。女友達と話をしている彼女が、一種独特のあかるい表情で笑いながら、首を横にかしげ、一種独特なしぐさでその手を、それほどほそくもなく、格別きれいでもない小娘らしい手を、頭のうしろにもっていった拍子に、白いレースの袖がひじから肩のほうへずり落ちるのをながめた。彼女があることば、なんでもないことばを、一種独特のアクセントで口に出したとき、その声に暖かいひびきがこもっているのをトニオは耳にした。すると、彼ははげしいよろこびを感じた。それは、彼がまだ小さい愚かな少年であったころ、ハンス・ハンゼンを観察したときにどきどき感じた、あの歓喜よりもずっと強烈なものであった。


 これが恋なのだ、と経験が彼に教えた。恋というものは、多くの苦痛と不幸と屈辱をもたらすばかりでなく、そのうえ平和を破壊し、こころのなかをさまざまな旋律でみたすので、ものごとを完成したり、おちついてなにかまとまったものを作りあげたりする平静さは、到底得られないのだ。それはトニオにはよくわかっていた。わかっていながら、彼はこの恋をよろこんで受けいれ、恋にまったく身をゆだね、心情のいっさいの力をあげてこの恋をはぐくんだ。恋は人間を豊かに生きいきとさせることを知っていたからであり、そして彼自身、おちついてなにかまとまったものを作りだすよりも、豊かで生きいきとありたいとあこがれていたからである。……


 すでに、この小説の最初から、トニオ・クレーゲルは詩を書いています。「ものごとを完成したり、おちついてなにかまとまったものを作りあげたりする」というのは、それに結んでいます。後になって、これははっきり「芸術」ということばに移行していくんです。
 恋をしていたら、詩は書けないということなんですね。「人間を豊かに生きいきとさせる」ものが「おちついてなにかまとまったものを作りだす」ことをできなくさせるということです。「恋」と「詩作」とは相容れない。「恋」と「詩」と、でありませんよ。

 というふうで、「豊かで生きいきとありたいとあこがれていた」トニオ・クレーガーでしたが、やがて、

 誠実がだいじだ、とトニオ・クレーゲルは考えた。ぼくは誠実でありたい。そしてインゲボルクよ、この命のあるかぎり、きみを愛したい。それほど、彼は善意をもっていたのである。それにもかかわらず、彼の心のうちでは、ハンス・ハンゼンとは毎日顔を合わせているくせに、いまでは彼のことをきれいに忘れてしまったではないかと、恐れと悲しみをまじえてひそかにささやくものがあった。すこしく意地の悪い、このささやく声のいうことはやはり正しかった。やがて、日が移り時が流れると、トニオ・クレーガーは、もう以前ほど夢中になって快活なインゲのためなら死んでもいいとはおもわなくなったが、それというのも、自分なりにこの世で注目すべきことを仕遂げたい欲求と力を感じたからであった。それはいとわしい、情けないことであった。
 そしてトニオは、彼の恋の清らかで純粋な焔がもえる祭壇のまわりを慎重にめぐり歩いて、そのまえにひざまずき、焔をあらゆる手だてをつくしてかきおこして、だいじにまもった。誠実でありたいと望んだからである。それでも、しばらくすると、その焔は目だたず、音もなく、ひそかに消えてしまった。
 しかしトニオ・クレーガーは、この世では誠実ということが不可能であるのを知って、ひどくおどろき、失望して、なおしばらくのあいだ、冷たくなった祭壇のまえに立ちつくしていた。それから、肩をすぼめて、自分の道を歩いていった。


 ──というわけです。

 この作品は大きく三つの部分に分かれています。これを「ソナタ形式」──提示部から展開部へ、そこから再現部へと移行し、結ぶ──であると考えるひともいます。その最初の部分(提示部)をざっと紹介してみました。ついでにいえば、最後の引用のあとにつづくのが「トニオは行かねばならぬ道を、いくぶん投げやりで気まぐれに、口笛を吹きふき、頭をかしげて遠方をながめながら歩いていった。道に迷うこともあったけれども、……」なんですね。

 しかし、こんな調子ではほとんど全文を引用しなくてはならないような気がします。というか、この作品にはほんとうに無駄がないので、紹介などといって適当に端折るのには不向きなんですよ。まったく抜かりがない。先に引用しましたように、北杜夫が「校庭に寝そべってはいい加減な箇所をぱらりと開き、どこを開いてもあまりに周知な数ページをよみ、……」と書いている体験は、単に彼がこの作品にあらゆる箇所に惚れたということだけでなく、実はこの作品のつくりがそうさせてもいるはずなんです。そこで、さっき私が「恋」と「詩作」との相容れなさに触れたように、この作品における「平凡なひとたちと芸術家たち」「北と南」「高貴さといかがわしさ」「実直さとだらしなさ」「暖かさと冷たさ」「こころの生と死」などなどの組み合わせをパズルのように読み解くことにやりがいを感じる読者もたくさんあることでしょう。そういう読者に向けても非常に親切な、周到な書きかたをトーマス・マンはしているんです。そうして、もっと深入りしていけば、この作品でいわれる「市民」が日本語での「市民」とは同義なのではなくて、十九世紀のドイツ社会における身分としての「市民」を指しているのだ云々ということにまで考えなくてはならなくなるわけです。「身分」の上下はあります。トニオ・クレーガーが「緑の馬車に乗ったジプシー」を軽蔑しているのは、ほんとうに軽蔑しているんです。比喩なんかじゃありません。しかし、そんなふうにこの作品を解体していくのは、それはそれでかまわないけれども、そのときにも問われるのは、その解体作業の先に見えてくるはずのものをちゃんと見ようとしつづけているかということです。解体のための解体ではしかたがない。そんなのは表層の作業でしかありません。トーマス・マンは表層のパズルをつくりたくてこの作品を書いたのじゃありません(ところで、表層のパズルをつくりたくて小説を書く・小説は表層のパズルだと思っている・読者の望みも表層のパズルだと思っている作家──作家と呼びたくないんですが──もいると私は思っています)。
 ともあれ、この作品のこういうつくりが「一見、理屈がやたらに多いので閉口しかかったが、結局その難しい言いまわしを舐めるように読んでしまったのだから、よほど身に沁みたわけだ」(吉行淳之介)や、「ちょっと冷たすぎて、かたいところがある」「決心して読まないと、軽く読めないところがある」(北杜夫)に結んでもいるでしょう。

 だったら、読まない──ですか?