『トニオ・クレーガー』

トーマス・マン 野島正城訳 講談社文庫)

(一)

 まず私はこういうことをお断わりしておかなくてはなりません。私はこの作品を、おそらく十四歳か十五歳で読んで以来今日まで──二十五年以上が経過しています──、作品のある箇所だけ・ある部分だけという読書も含めて、いったい何度読み返したかわからないんですが、たぶん感情的・情緒的な意味で夢中になったというようなことは一度もないだろうと思うんです。
 たとえば、「あなたが読んだ小説のベストテンを教えてください」なんていう問いがあったとします。『トニオ・クレーガー』は頭にも浮かばないでしょう。『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『魔の山』『ファウストゥス博士』『八月の光』『アンナ・カレーニナ』『神聖喜劇』……などが真っ先に浮かんでくるはずで、仮にそのときこの作品を思い出したとしても、リストに加えはしないだろうと思います(『魔の山』と『ファウストゥス博士』はトーマス・マンです)。
 にもかかわらず、私が一九八八年、最初の勤め先を二年で辞め、わずかの期間ながら海外をうろうろしたときに持って行ったのは『カラマーゾフの兄弟』『ペスト』とともにこの『トニオ・クレーガー』だったんですね。常にそばに置いておきたい作品ということなんでしょうか。
 私は自信なくこう思っているんです。二十五年以上もの間、これだけ私が読み返してきた──それも無性に読みたくなって──からには、私はこの作品を好きなんじゃないか、というように。
 おそらく私はこの作品を読むと、そのたびに「真面目になる」ような気がします。ちょっと我に返るというか、姿勢を正すというか、そんな感じ。なにか日々の、場の雰囲気とか勢いにのまれていたものから目をさますという感じ。はっとして、「おいおい、おれは何をしているんだ?」と自問する感じ。ときには逆にそれが疎ましく感じられることがあるほどの。

 べつのいいかたをしてみましょうか。初めてこの作品を読んだ当時、私が感情的・情緒的な意味で夢中になっていたのはへルマン・ヘッセの作品だったんですね。『車輪の下』とか『デミアン』とか。ヘッセをその当時たしかに何度も読み返しましたね。しかし、その「夢中」がいつまでつづいたか、それはいまもなおつづいているかというと、そうではないんです。ヘッセの作品をよいとも思っていて、この場所でもいずれ紹介するつもりではあるんですが、たかだか中学生か高校生くらいで、初めていわゆる文学作品を読むようになった・いわゆる文学作品を実は面白いのだと認識しはじめたあの頃、そうしてそれは、つまり、ある角度からヘッセに夢中になっていたあの頃の私では、トーマス・マンはすんなりとなじめる作家ではなかったんですね。ヘッセには、ろくに読書経験を積んでもいないティーンエイジャーを魅了する性質(大事なことなんですが、浅く読んでも楽しめる、しかも、大事なことへの回路だけは読者の自覚のあるなしにかかわらず開かれる、というようなことです)があるんですよ。で、マンはどうか。マンにはヘッセほどのそれはないんじゃないか。──と、一九六〇年代生まれの私は思いますが、しかし、もっと上の世代にとってはそうではなかったのかもしれない。

 ここで吉行淳之介を引用しますが、

 トマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に出てくるものの考え方は、今の時代ではもはや時代遅れと見做されているムキがあるようだ。自分はトニオ・クレーゲルを卒業した、と昂然として言う作家もあるようだ。
 ところが私はそうは考えないし、初心を取戻すために、時折この書物を読み返す。引用した文章は作家ムキのものだが、作家としての初心ばかりでなく、人間としての初心を取戻そうとして読み返し、その企みはいつもかなりの程度達成される。したがって、「忘れ得ぬ断章」は、この書物のあちこちにあり、引用したのはそのうちの一つにすぎない。そして、これは「感じすぎる」人間の言葉であることに注意しなくてはなるまい。
 この作品を最初に読んだのは、旧制高校の二年生のときだったとおもう。冷たい残酷なところのある、そのくせ人間的な、トマス・マンの短篇が好きで読みあさっているうち、この作品に突当った。一見、理屈がやたらに多いので閉口しかかったが、結局その難しい言いまわしを舐めるように読んでしまったのだから、よほど身に沁みたわけだ。ほとんどの書物で、私は理屈と風景描写が出てくると、そこは飛ばして読むことにしている。

吉行淳之介『私の文学放浪』講談社文芸文庫


 小林信彦からの引用。

 もっと大きな驚き、読書をめぐる状況の大きな変化を教えられたのは、八一年十一月に教育テレビ(「若い広場」)の「マイ・ブック」というコーナーに出た時である。
 それは自分が若いころに影響を受けた本について短く語る番組であって、ぼくは(まことに恥ずかしながら)、「晩年」「落語鑑賞」「トニオ・クレーゲル」について喋りたいと言った。
 打合せに拙宅に見えた女性は、大学ノートをひろげて、「トニオ・クレーゲル」は畑正憲さんが喋っているけれど、だいぶ時間が経っているから、いいでしょう、と言う。「それにしても、『トニオ・クレーゲル』をあげる作家の方が多いですねえ」
 録画の当日、また、その話が出た。テレビ局のスタッフやホステス役の女優さんは、「晩年」を読んでいるかどうかはともかく、太宰治のどの作品かは読んでいた。「落語鑑賞」も──ぼくのは昭和二十四年の苦楽社版だが──「わが落語鑑賞」と名乗って筑摩叢書のドル箱であり、某文庫の安藤鶴夫シリーズによっても知られていた。
 だが、「トニオ・クレーゲル」は──だれひとり知らないのである! 当日、ぼくが持って行ったのは、実吉捷郎訳の岩波文庫(昭和二十七年五月の第一刷)であったが、「古びた感じがカンロクがあっていい」とカメラマンが呟いただけだった。
 そのうちに、スタッフの一人が、それは「ベニスに死す」に入ってるやつではないですか、と言いだした。ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」が輸入されたとき、原作の文庫本を買ったら付いていたというのである。その文庫版をぼくは知らなかったのだが、「ベニスに死す」と「トニオ・クレーゲル」を一冊にしてあるという。「トニオ・クレーゲル」は遂に、レコードでいうところのB面になったのか、というのが、ぼくの想いであった。
「そうすると……」
〈青春〉という言葉がギャグの一つになっているのを知っているぼくは、おそるおそる、たずねた。
「いわゆる〈青春の書〉というのは何なのですか、いま?」

小林信彦『面白い小説を見つけるために』 光文社 知恵の森文庫)


 そして、北杜夫

 ──当時、私がもっとも愛好し、尊敬した作家はトーマス・マンであった。なかでも私の年齢のせいもあって、その初期の短篇「トニオ・クレーゲル」に魅せられてしまった。いや、憑かれてしまった。

北杜夫『どくとるマンボウ青春記』 新潮文庫


 それにしても、私は一体、どのくらいこの作品を読み返したことだろう。それはもともと古本で買って、はじめから汚れていた岩波文庫だったが、そいつをほとんど常にポケットに突っこんでいて、何回も何回も読み返したあとになっても、校庭に寝そべってはいい加減な箇所をぱらりと開き、どこを開いてもあまりに周知な数ページをよみ、喫茶店の一隅に坐っては、一杯のコーヒーを前にして、自分の名前よりもよりよく暗記している特別に好きな箇所(またそれが一杯あって、私は百の名を持つ怪盗の気分もした)の数行をぼんやりと見やり、じっと小一時間も考えこんだりした。そういうときの私の顔は、おそらくこのうえなく憂鬱げで、同時にこのうえなく白痴みたいであったろう。


 そんなふうにトーマス・マンに熱狂していた北杜夫は、

 マンの名前ついでになおその話をつづけると、この名ほど本を集めるという感激を私に呼び起させたものはない。ほんの偶然に寄った小さな古本屋で、まだ所有していないその訳本を見つけたときなど、どんなにか発熱するほど私の心はおののいたことか。私はそれを恋愛にたとえたこともあるが、本に対するそれは、こちらの意向ひとつで惚れつづけもでき、あっさり捨て去ることもできるから、異性に対するそれよりも安全といえる。
 あるときは、仙台の東一番丁の大通りを歩いていて、だしぬけにぎくりとして立止った。なぜ自分がぎくりとしたのか、瞬間わからなかったが、周囲を見まわしてみて、その理由が判明した。すぐ前の店に、こういう貼紙か看板が出ていたのである──「トマトソース」


 北杜夫ついでに辻邦生も引用しますか。ちょうど辻・北対談の『若き日と文学と』というのがあるんです。いま本棚から取り出してきました。

 『トニオ・クレーゲル』は、マンにとって、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』みたいなもんだけど、ただ、もっと日本の若い読者のあいだでポピュラーになるには、ちょっと冷たすぎて、かたいところがある。だから、たいていヘッセのほうを読んじゃう。

(〈対談〉辻邦生北杜夫『若き日と文学と』 中公文庫)


 あれ、北杜夫のいっているのは、さっき私がいったのと同じじゃありませんか。

 それの前のページには、

 トーマス・マンの小説は、少しマンにいかれた人間か、決心して読まないと、軽く読めないところがある。これが、日本の若い読者から、ヘルマン・ヘッセと違って、マンをちょっと隔てているのだろう。ぼくもヘッセのほうを先に読んだが、マンで最初に惹かれたのは、やはり『トニオ・クレーゲル』で、これも、はっきり言うと大学に入ってから熱中したと思うな。


 いや、そこを引用しようと思ったんじゃないんです。引用しようと思ったのはこちら。かなり長いですけれど、読んでみてください。ふたりの掛け合いが非常にすばらしいんです。これを省略する手はないと思うんです。

 昨年(昭和四十四年)の夏、君がパリのぼくのところへ来たのは七月三十一日で、たいへん暑い日だった。非常な躁状態で現われて、これからスペインへ連れて行けと喚く。ものすごく暑いんで、スペインに行ったら四十度を越してしまう。そんなのに付き合っちゃたまらないから、スイスへ行こう、かねがね行きたいと思っていたトーマス・マンの墓に詣でようじゃないか、とぼくが言ったら、それはいいアイデアだ、というわけで翌日の八月一日に……。
 すごいね、日にちまで覚えてるの。
 TEEという特急列車に乗ってチューリヒに行き、その晩は、駅前のシュヴァイツェル・ホテルに泊まった。翌日、ホテルを出て、チューリヒ湖畔のキュスナハトという村でマンが晩年を送ったということを聞いていたので、ともかくそこまで行けばお墓もわかるだろうというわけで出かけていった。キュスナハトは、チューリヒから郊外電車に乗って二十分ばかり。
 ところが、キュスナハトに行って訊いたら、墓はここにはない、湖の対岸のキルヒベルクという村だ、と言われた。キルヒベルクへ行くには、もう一度チューリヒに戻って、対岸を走っている汽車に乗るか、あるいは、ここで待って対岸に行く遊覧船で行きなさい、と言われた。
 そうだ、思い出した。桟橋に行ったら、すぐ遊覧船が来たんだ。
 天気のいい日だったね。湖の水が蒼くて……。
 おや、描写まで入った。
 キルヒベルクに着くと、そこは非常に静かな、急斜面にある村で、ほとんど人がいなくて、船着き場で訊いたら、すぐ丘の上の、プロテスタント教会付属の墓地に埋められているという。
 相当な急坂だったね。急斜面を曲りくねりながら登って行く。ようやく教会が見えたと思ったら、鐘が鳴りだした。
 それでぼくらは、はるばる東洋からトーマス・マンを慕う人物が来たんで教会も鐘を鳴らして迎えてくれるのか、あるいは、怪しげな二人の男が現われたので、急遽、村人たちを集めるために鐘を鳴らすのか、などと言っていた。ところがじつは、結婚式をやっていたんだ。
 そのため、外には墓番一人いない。とにかく裏手へまわった。墓が相当の数あるから、一つ一つ捜したらずいぶんの時間を食っちゃう。すると、上品なおばあさんがぼくらのすぐ後ろから来た。
 ……お花をたずさえて。まるでそこに隠れていたように現われた。そのおばあさんは、アルデフラウという変な名前の夫人だったが、その人が、マンの墓へ連れて行ってくれた。
 三十年間も有名な哲学者のクラーゲスの秘書を勤めていた人で、クラーゲスの墓詣でに来たわけだ。
 クラーゲスの墓から三メートルぐらい向こうにマンの墓があった。それは、高さ一メートル・幅一メートルの、真四角な、重い砂岩みたいな感じの石だった。
 けばけばしいところのぜんぜんない墓なんですね。白いといっても輝くような白さではなく、落着いた白さで、ふつうに「トーマス・マン」と書いてあるだけ。生年と没年とがラテン数字の、何気ない墓ですね。
 ただ、非常にどっしりとしていた。あまり背の高くない木立に囲まれて四角い墓があり、まわりは公園のような花ざかりだった。
 ほんとに、花でいっぱいでしたね。
 墓の向こうにすぐチューリヒ湖が蒼く見えている。裏手には、それこそ『トニオ・クレーゲル』の庭みたいに、泉がひたひたと音をたてていた。君は墓の前に歩み寄って、じっと見つめている。ぼくはふと目を湖に向けていた。そのとき、君は突如として、嗚咽しはじめた。
 それ、やめてくれ。それ、ちょっとやめろよ。
 君は涙滂沱としてトーマス・マンの墓に跪いて……。
 それ、ぜんぜん大げさすぎる描写だ。


 これ、北杜夫はともかく、辻邦生はまったく辻邦生らしいなあと思います。ちゃんと第三者にも理解できるように筋道立てて、しかも「おや、描写まで入った」と指摘されるふうに、こうすらすらとしゃべることのできるのは、まったく彼らしい。

 ふたりの詣でた昭和四十四年というのが、西暦になおすと、一九六九年。それで、さらに時は流れて一九九〇年、いま引用した対談を読んだ記憶だけを頼りに「キルヒベルク」をめざして二十七歳の私はチューリヒからとぼとぼと歩きましたっけ。マンの墓の前にも立ちました。マンの「どっしりとした」墓石には、辻・北両名が訪れたときにはまだ存命だった奥さんの名も刻まれていました。「君は突如として、嗚咽しはじめた」と「それ、やめてくれ。それ、ちょっとやめろよ」を思いながら立っていたのでもありました。(しかし、それからもすでに十六年がたとうとしているわけです。あの夏とその前々年の夏、私はリューベックへも行っていますから、マンの始点と終点を見てきたことになります。)

 さて、そんなわけで、『トニオ・クレーガー』は「一見、理屈がやたらに多いので閉口しかかったが、結局その難しい言いまわしを舐めるように読んでしまったのだから、よほど身に沁みたわけだ」(吉行淳之介)でもあるし、「ちょっと冷たすぎて、かたいところがある」「決心して読まないと、軽く読めないところがある」(北杜夫)といわれてしまうような作品なんですね。

 だったら、読まない──ですか?