(一三)全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていて、しかも、偏向を旗印にしている者の読書案内

 自己紹介のつづきでもあるかと思いますが、ここでまた引用を ──

 けれども私は、人生に何か注文を出すという考えになじめませんでした。むしろ、偶然に自分の人生の選択をゆだねるというギリシャ流の考えが気に入っていました。

(ロバートソン・デイヴィス『五番目の男』 行方昭夫訳 福武書店

 私は運命の協力者でして、「運命」の頭にピストルを突きつけてあれこれ要求するような者ではないのです。私にできることは、現在やっていることをやり続け、自分の気まぐれを信用し、聖人と同じく私にとっても、光が見えてくることがあるにしても、それは予期せぬところからさしてくるのだと覚えておくぐらいしかありませんでした。

(同)

(文中の「聖人」ですが、語り手は ── 本業ではないんですが ──「聖人」について研究しているんですね。いずれこの作品の紹介もするつもりではいます。)

 ── というのは、初読(一九九一年七月読了)でも、再読(二〇〇二年二月読了)でもやはり惹かれた箇所なんですが、そっくり同じというのでないにせよ、私にはこういうところがあります。私はしばらく前にこういいました。「とにかく、私がこうしているのはしかたがないんです。この場所に、私は押し出されてしまったんだと思っているんです。」

 まったく私は自分の職業のせいで、こうしてホームページを立ち上げて主張することが「二重生活」に直結するような具合になってしまっています。わざわざ「二重生活」などと考えてしまう私は素朴にすぎるのかもしれません。「二重」なんていうことに拘泥してしまうのをなさけないというべきなんでしょうか?

 またべつの引用。

「あんたは日本の国が戦争に負けてもかなしくないのか?」
 旦那はすこし出っ歯で、その出っ歯を、はじめて見るように、ぼくは見ていた。
「負けてうれしい、ってことはない」
「そうだろ。それなのに、なぜ、あんたはハッピイなんだ」
 旦那が手首をはなしてくれたので、ぼくはうしろにさがった。
「いや、これはコトバの問題だよ。うれしけりゃ、負けたってことにならない。悲しいから、負けたんだ。しかし、ぼくは戦争がおわったとき、ほっとした。うれしかったんじゃないかな。内地にかえれるしさ。軍隊はきらいだしね」
「ふん。いつか、あんたは、妹が爆撃で死んだって言ってたな」
 ぼくの妹は広島のミッション・スクールの生徒で、陸軍の被服廠に勤労動員にいっていて、原子爆弾で死んだ。
「妹がバクダンでやられて、口惜しくないのかい?」
「妹のことはカンケイない」
「いや、関係がある。敵に爆撃されて死んだんだ、それでもあんたはハッピイなのか?」
 旦那の出っ歯がひっこみ、ぼくが返事をしないと、ため息をついた。「あんた、祖国ってものを考えたことがあるのかい?」ツバをはくかわりのため息みたいだった。「考えてないんだなあ」

田中小実昌「ミミのこと」 河出文庫香具師の旅』所収)


 この「ぼく」が「祖国ってものを考えたことがあるのかい?」という問い自体を疑っていること、しかし、その問いにも理のあることは承知していること、を私は考えます。

 それとともに、

「戦争の行なわれる最中にも戦争のために戸惑いをすることなく永遠の問題を考えつづける精神が存在するのを、私は望んでいる。そのような人々がいまはあまりに少ないのではないか、と私は恐れる。戦争が世界に充満している時代ゆえに、われわれの日常の思考も、戦争と切り離されないが、それに眩惑されて事物の本質を見あやまってはならない、と私は思う。」


 まさかこのホームページでの「読書案内」の指針をここまでしゃべりつづけるとは思っていなかったんですが、こうなってしまいました。

 しかし、

「だが真実を全部、みんなにぶちまける権利だってないよ」
「きみがそんなことを言うのかね? きみはたえず真実を要求しているじゃないか! なによりも真実を愛すると言っているじゃないか!」
「そうだ、ぼくにとっては、また、真実の重荷に耐えるだけの強い腰を持った人間にとっては、それでいいのだ。だが、そのほかの人間にとっては、それは残酷なことであり、愚かしいことだ。ぼくには今それがはっきりわかってきた。ぼくが国にいたら、こんなことは考えもしなかっただろう。あっちでは、ドイツでは、きみたちのように、真実にとりつかれてはいない。彼らは生きることばかりを考えているのだ。用心深く、見たいものしか見ないのだ。ぼくは、きみたちがそうでないので、きみたちが好きなのだ。きみたちは勇敢だ、正々堂々と進んでいく。だが、きみたちは非情だ。一つの真実を見つけだしたかと思うと、それを世界に放りだしてしまう。聖書に出てくる、尻尾に火のついた狐のように、それが世界じゅうに火をつけることになるかも考えずにね。きみたちが、自分の幸福よりも真実を重んじていることは、ぼくも尊敬する。だが、他人の幸福よりも……ということはよしてもらいたい! それは勝手すぎるというものだ。自分自身よりも真実を愛さねばならぬ。だが、真実よりも他人を愛さねばならぬ」
「では、隣人をだまさなくちゃならないのか?」
 クリストフはゲーテの言葉で答えた。
「われわれは、もろもろの最高の真理のうちで、世の幸福に役立つものしか口にしてはいけない。その他のものは、自分の胸の中にしまいこんでおくべきである。そうすれば、それらは隠れた太陽のおだやかな光のように、われわれのすべての行為のうちに照りわたるであろう」


 それでも、

 なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えははっきりしている。「重荷になる可能性も考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」── だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
 世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
 だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分の悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人はまずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重荷になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。


 あるいは、べつの箇所を引用すると、

 これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。同志を募るような種類の「思想」ではないのだ。

(同)



 ── 大げさなことになってしまいました。先に私は、「これは、受けた恩恵に対する深い感謝の表現であり、自分が読んで慰められたものをすべて読者に言葉どおり押しつけようという子供っぽい衝動の表現であって……」というトーマス・マンのことばを挙げて、自分のする引用の動機づけを強化しましたが、いま私のここでやっていることは度を越している ── 「一種の芸術的な節度と趣味」が欠如している ── だろうと承知しています。私がこうして「度を越している」と自分で思うのは、いまここの直前のものだけでなく、「(十一)どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない」でもそうでした。ともに、私自身の立場を、いわば弁明する形での引用です。そういうところでの過剰な引用が自分で不愉快に思われ、醜さを感じもしています。けれども、こうして増やした引用をもう一度削ろうとして、いろいろ考えたんですが、そのままにすることにしました。

 引用した文章は、私の主張といっしょに最初から自然に頭のなかに浮かんでいたもの ── それで、その文章のある本を本棚から取り出すわけです ── なんですね。自然に頭に浮かんでいたというのは、一語にいたるまで正確に浮かんでいた・暗誦できるというのじゃありません(あのとき読んだ、あの本の、だいたいあの箇所にあった、あの文章だ、ということが自分でわかっているというだけです)。

 とはいえ、こういうことがあります。たとえば、ここまでも繰り返し引用してきた『罪と罰』をべつの翻訳で目の前に出されれば、即座に、これは違う、これは私のなかにあるその文章とは違う、と私には指摘することができるでしょう。

「でも、来世には、蜘蛛とか、そんなものしかいないとしたら、どうですかね」


これが、

「来世には蜘蛛かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」

(同 工藤精一郎訳 新潮文庫


 ── じゃ、私には全然駄目なんです。

 私が「度を越している」と考えたのは、もちろん引用の長さと量のことでもありますが、それとはべつに、それらがそもそも私のいおうとしていることをかなりはみ出る内容の文章であるからです。私の主張と釣り合っていないだろうと思うんですね。
 それでも、敢えてそれらを残すのは、私がほぼこの二十数年、自分が文学に限らず、音楽でも、また映像でもいいですが、そういったものの単なる受容器に過ぎないのじゃないか ── 私がそれら文学・音楽・映像との関係において、主であるというより、従の立場でしかありえないのじゃないか ── と疑っていることをいっておきたいという気持ちがあるからです。ふだんから、あまりにもそれらが次々に頭のなかに浮かんでくるので、現実に私の生活に起きているあれこれに対処するとき、私はただそれらの引用によって自分を動かしているかもしれないとすら思うことがあります。つまり、実は私の主張なんてものはなくて、ただただ夥しい数の引用文(映像・音楽)があるだけなんじゃないかとさえ、考えることがあるんです。さらにいえば、私なんてものはなくて、ただそれら引用のフォルダ・受容器だけがあるんじゃないのか、ということです。
 もっとも、しばらく前よりは、私はそんな考えからかなり遠ざかってきているとは思いますけれど。これは、私がかつてがんじがらめになっていた、ある種「実存主義」的な考えかた ── キルケゴールニーチェドストエフスキーカミュなどに代表される ── いわば人間を試す思想 ── から脱け出しつつあるだろう・いまはかつてほど「あれかこれか」で考えることがだいぶ少なくなっているだろう ── 質的にも ── という現在の目測からいうわけですけれど(これに絡めての私の立ち位置については、いずれ長々としゃべることになるでしょう)。

 ともあれ、私が引用を重ねるのは、私の主張と引用文とが ── 釣り合ってみえなくても ── 私のなかでは、不可分だといいたいんです。

 引用をすることによって、ある飛躍 ── そもそも私のいおうとしていることをかなりはみ出る、はずの ── が可能になるとは思っています。飛躍と、その飛躍の方向が、またその距離が示されもするでしょう。それは単なる遊びにしかならないのかもしれませんし、わずらわしいだけの脇道をつくりだすことでしかないのかもしれません。しかし、いま、私はそうした脇道に逸れることを恐れないようにしよう、行けるものなら脇道へ進んでしまおう、とも考えているんです。私は自分の頭のなかで展開するこの現象をなるべく抑制せずにいいたててみたいと思うんですね。ある作品からの引用とべつの作品からの引用との呼応・共鳴。そういうことの乱れるように多い表現というのもあっていいのじゃないかと思うんです。そういう記述がネットにも雑誌にも新聞にもテレヴィにも書籍にも、どこにも見当たらない(あるいは、ごくわずかでしかない)のはよくないのじゃないか、と思うんです。これはやはり引用の多用ということについて前にいいました「手がかりをできるだけ多く残す」ということに結んでもいます。このへんのことはまだ自分にもわかっていないんです。
 それにしても、ここまでの引用で、私の読んでいるものの偏向ぶりや小ささが露呈してもいるだろうな ── ある程度の読書をつづけてきたひとには、うすうすこの企て全体の輪郭が察せられただろうな ── とも思います。しかし、こういう偏向ぶりや小ささでいいんだ、ということをも私はいいたいと思います。偏向がとても大事だということも私の主題のひとつであるでしょう。

 ……年をとるにつれて、ますます自分は意味ある存在だと確信するようになる人たちがいる。それほど確信を持てない人もいる。僕のような人間の場合、自分の人生に何らかの意味があるのだろうか? こういう平々凡々たる人生など、いくらかましな他の人の人生によって、大体の意味がかわって示され、取りこまれ、つまりは無意味なのではあるまいか? いや、もう少しましな人生を送った人たちを前にして自分自身を否定しなければならぬなどと言っているのではない。ただ、この点、人生はいくらか読書と似ているのではあるまいか。先の章で言ったように、一冊の本に対して自分の抱く感想意見などがすべて、専門の批評家によってすでに書かれ、さらに詳しく述べられていることの単なる繰りかえしにすぎないとしたら、読書になんの意味があるのだろう? 意味があるとすれば、現に「この自分自身」が読んだからというしかない。同じように、人生に何の意味があるのかと問われれば、「この自分自身」が現に生きたのだからと答えるしかないだろう。そうだとしても、そういう答えにしだいしだい自信がもてなくなってきたときはどうすればいいのだろう?

ジュリアン・バーンズフロベールの鸚鵡』 斎藤昌三訳 白水社uブックス)


 しかし、それよりも問題なのは、私が「引用」をすることによって、自分がその「引用」の先を考えなくていいという(あとはその「引用」に任せた、とでもいうような)気のしてくることですね。これは警戒しなくてはならないことです。「引用」は、自分がなにかを考えるときのひとつの足場にすぎないということをもっと自覚していなくてはなりません。


 さて、こうしてここまでいいつづけてきて、ようやく、私は「自分のいいたいことをいう」という ── 伝える・理解してもらう、ということももちろんそうですが、まったくそれ以前に、まず「いう」── たったそれだけのことについての困難・苦痛をあらためて認識したということですね。どうも、私は自分が想像するよりはるかに世間の常識にとらわれているようで、自分のひと言ひと言にまず「こんなことをいってしまってもいいんだろうか?」というような抵抗がついてまわり、それらをいちいち取り除けながら ── 逆にその方が、「敢えていう」という確信になるはずですが ── いいつづけなくちゃならないんですね。これは笑っちゃうほどしんどいことかもしれません。私は肩をすくめなくちゃなりません。

(七一)なつかしいアンクよ ── おれがたしかに知っていることは、たいてい、おれがアンテナからの痛みと戦って見つけたものだ、とアンクへの手紙には書かれていた。おれが首をまわしてなにかを見つけようとするたびに痛みがやってきたが、いつもおれはがんばって、とにかく首をまわしつづけた。そうすれば、おれの見てはならないはずのものが見えることを知っていたからだ。おれが質問をしたときに痛みがやってきたら、それはおれがほんとうによい質問をしたからだ、ということもわかった。そこでおれはその質問を小さないくつかのかけらに分け、そのかけらをひとつずつ質問した。そうやって、おれは小さなかけらの答を手に入れ、その答をぜんぶひとまとめにして、大きな質問への答を手に入れた。
(七二)痛みをがまんできるように、自分をきたえていくにつれて、おれはたくさんのことを知った。アンク、おまえはいま痛みをこわがっているが、痛みを自分で求めなければ、なにも知ることはできない。そして、おまえがたくさんのことを知るほど、痛みをがまんするのがたのしくなっていくのだ。


 ── というわけで、「痛み」を感じつつ、少しおさらいみたいなこともいってみましょうか。
 私はこういいました。

 いまの世のなかの読書というのは、「新刊」と「速読」と「多読」、これらがひとつになっているといっていいくらいの事態になっているでしょう。それに連動しての「短く簡潔に」。そうして、いま私の頭に次々に浮かんでくることばには、「情報」とか「娯楽」とか「消費」、あるいは、「涙」とか「感動」とか「お手軽」とか「暇つぶし」とか「その場だけ」などなどですね。


 私は、そういう読書が駄目だといいました。
 で、こうもいっています。

 そのうちに、次第に読書の質が変化していくことになるはずです。そうなるまでに、たしかに量は必要になるでしょうが、いったんこの質の変化が起こりはじめたなら、そのあとは量なんか大した意味をもたなくなるんですね。で、それまでの量も、だから必ず「チューニング」に苦しまなくてはならないような作品での量だけが問題になるでしょう。


 さて、続々と出版される作品の全部 ── と、「みんな」に思われるような量 ── を網羅する読書量のあるひとは「文芸評論家」をはじめ、たくさんいますね。その読書量を信頼して、彼の薦める作品を読もう、などというひともあるでしょう。全部の作品を読んでこそ、それぞれの優劣を語ることができるのだ・どうして全部を読まないでいて「いい・悪い」がいえるのか、という考えかたですよね。そんなひとたちに私のいいたいのは、こうです。
 全部の作品を押さえることなしに特定の作品だけを「よい」と評価することは可能です。全部の作品を押さえるというやりかたがそもそも無駄であるし、詭弁なんですよ。ある作品を読んで、これほど素晴らしい作品が書かれているいま、これほどの達成が同時期にそうそうあるとはとても思えない、それどころか、これほどの達成ならば、同時期には他にありえない、と評価するのが正しいやりかたです。いいですか、全部の作品を押さえる、そうすることによって、ある種の信頼を得る・ある種の非難をかわすことができる・やることはやっているんだというふうに見られることができる、という考えかたを私は否定しましょう。そもそも全部を読もうなどと考えること自体がばかげているんですよ。全部を読もうとするその読みかたが、すでにある特定の文脈においての読解 ── 「情報処理」といっておきますか? ── をするつもりでしかないといっているも同じなんです。
 それに、ひとりの人間になしうる読書ということを考えてみてもほしいですね。彼個人に必要でない、彼個人に「その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか」と思わせないようなものをいくら読んだって、彼にそれらが響くわけもないでしょう。自分に響いてきた作品のことだけを語る者のことばだけを信頼すべきたと私はいいます。また、繰り返しますが、「他の誰かにできることなら自分はできなくていい」んです。私は、私の「読書案内」をするよりほかありません。「読書案内」をするというのが、この私しか世のなかにはいないというのじゃないんです。もっとも、私がここでやろうとしているやりかたでやるひとが他にも大勢いればいいとは思いますけれどね。でも、いない。
 読者というのは、自分だけの読みかたというものを ── 他の誰がなんといおうが ── 確立しなくてはならないんですよ。きょろきょろする・自分に自信がないからということで「新刊チェック」に走る、のをやめて、自分の・自分だけの読書をしなくちゃなりません。全部を押さえなくては公正とはいえない、なんていっていては駄目です。全部を押さえる・それが公正だ(それでなければ公正でない)という考えかたは、自分ひとりの読書を大いに妨げることになるでしょう。しかし、「文芸評論家」たちと・彼らの追随者たちは、常に「最新情報」として新刊・新刊・新刊といいつづけます。その彼ら自身の読書はどこにあるんでしょうか? 当の彼ら自身の読書の示されていないような書きかたをする「文芸評論家」のいうことなど、ひと言すら耳を傾けてはいけません。これは、自分の弱点をさらさないひとのいうことなど信用してはいけないということです。「新刊チェック」のための読書なんかやめてしまえ、それをやめることが不公正になるなんていう考えかたも放擲してしまえ、と私はいいます。もし、誰の「読書案内」が最も信頼できるかということになれば、それはもちろん、全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていてしかも偏向を旗印にしている者の読書案内ですよ。

 繰り返します。

 もし、誰の「読書案内」が最も信頼できるかということになれば、それはもちろん、全部の作品を押さえるなんてことをばかにしていてしかも偏向を旗印にしている者の読書案内ですよ。

 さて、最後にまた私自身のことばを引用しましょうか。

「他の誰にもわかってもらえない、それどころか嫌な顔をされたりするような、そういうあなただけの疑問や考えというのは、もちろんあっていい」


 ── というわけで、それでは、今度こそ始めます。まあ、愚鈍に、のんびりだらだら行きましょう。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)