(一二)「何を読んだらいいかわからない」などと思ったことは一度もない

 いま考えているのは、ひとつには作品ごとの「読書案内」ですが、もうひとつ、べつの、ある意味身辺雑記ふうの文章のなかに「読書案内」を織り込む形です。この両面からホームページを作り上げていきたいんですね。
 原稿は、私の勤める書店のホームページのために二〇〇〇年の八月から毎月書いてきたものがすでに七十作品分くらいはあるんですが、それをそのままこちらに持ち込もうとも思っていないんです。当の作品の読み直しもしたいし、文章も書き直したい。
 私がそれほど多読家でないことも断わっておきましょう。私はたとえば『吾輩は猫である』も『ハックルベリー・フィンの冒険』も『星の王子さま』も『銀河鉄道の夜』も読んでいません(いずれ読むことになるでしょうが)。この数年の間にずいぶんいろんなメディアの取材も受けて、必ずといっていいほど訊かれたのが、「ひと月に何冊くらい読むんですか」というものなんですけれど、まあ、一冊か二冊か、そんなものですね。ひょっとしてゼロの月もあるんじゃないでしょうか。ゼロだとしても、まったく本を手に取らないというのではないんですが。

 私の本選びの基準は、ひとつには、再読可能かどうか、ということです。一度読めばたくさん、と予想できるような本を私は読みません。ぱらぱらページをめくって、一度では理解できない、あるいは、何度でも読める、と自分に感じられるような本だけを読むことにしています。ずっとそういうことをつづけてきた、と思います。
 また、その作品が、どういう形にせよ、自分とつながっているはずだ、と思えないようなものも読まないですね。
 のんびりとしたものです。そんな読書でいいんだ、というのがこの企てで私のいいたいことでもあります。
 で、「何を読んだらいいかわからない」などと思ったことは一度もないのじゃないか、と思います。「何を読んだらいいかわからない」というたくさんのひとに向けての、書店での「手書きPOP」などといいますが、でたらめな話です(対象のそういう絞り込みが、「手書きPOP」のつけられる本をひどく狭い範囲のもの ── 誰にでも簡単に読める、簡単に感動できる ── に限定してしまうことにもなっているでしょう)。もしあなたが「何を読んだらいいかわからない」と思っているとしたら、それは単にあなたの怠慢にすぎません。これまでちゃんと本を読んでいなかったからこそ、そんなことになるんです。自分自身で本を選ぶということをしてこなかったから、そうなんです。「みんなが読んでいるから」なんていう理由で本を選ぶから、いつまでたっても自分に関係のあるはずの本に出会うことがないんです。自分に関係のあるはずの本をどうにかして自力で探して読まない限りは、きっと死ぬまで「何を読んだらいいかわからない」といいつづけることになりますよ。べつにそれでもいいんですけれど。でも、もし自分に関係のあるはずの本をどうにかして自力で探して読むことができたなら、あなたは次に読む本をほとんど自動的に探し当てることになるでしょう。
 そうして、私がここでいくらかの本を薦めるというのは、あなたにいわば「寄り道」を提示するということになるでしょう。いいですか、これは寄り道でしかありません。もちろん、私の薦める本を読んでもらえれば、私はうれしいに違いないですが、それでも、あなたが私の薦める本しか読まないとなったら、これは駄目です。そんなひとのために私はこの企てを起こしたんじゃないです。あなたは私を卒業あるいは否定して、自力で進んでいかなくてはなりません。私を疑うことを放棄してはいけません。

「背伸び」ということを私はいいつづけていますけれど、そのときに大事なのは、自分がいま読んでいる本・これから読もうとしている本に自分が挑んでいる、というそのことに自信を持つことでもあるだろう、と私は思います。自分の読書のレヴェルをあまりに低すぎる位置に考えるのはとても邪魔になります。謙遜は結構ですけれど、卑下はいけません。「これしか読めないのだからしかたがないじゃないか」と開き直るとき、それでも「背伸び」をあきらめないでいられるひとに私は希望をかけます。しかも ── 繰り返しますが ── そのひとは性急になってはいけません。「のんびり・だらだら」進むのがよいでしょう。

 これもまた余談ですけれど、私は少し前(二〇〇五年)の夏に、あるラジオ番組に電話出演をしました。そこである作品(田中小実昌『ポロポロ』 河出文庫)を薦めたわけですが、その前ふりでのアナウンサーのことばに私は困ってしまいました。彼はこういったんです。「みなさん、何を読んだらいいのかわかりませんよね ── でも、ベストセラーを読んでおけば間違いない」。その後で私がしゃべらなくてはならなかったんですね。もっとも、私は結局、「自力で選べ」という話をしたんですが。

 さらに、

 一九九四年、大江健三郎ノーベル文学賞受賞の報道がなされたときのことを私は忘れませんが、あのとき、私の勤めている書店から大江作品がすべてなくなりました(おそらく日本全国で同じことが起きていたでしょう)。大江健三郎の作品であれば、なんでもいい、という客(実際にそう口にしていました)が一斉に押しかけてきて、買って行ったんです。売り切れた後に来た客(またも、「大江健三郎の作品であれば、なんでもいい」)は、もうこちらには在庫が一冊もないというと、怒りだしもしました。
大江健三郎の作品であれば、なんでもいい」とはなにか、と私はあきれもし、怒りも覚えましたっけ。ノーベル賞がなんだ(このとき、私は大江健三郎が受賞を辞退するだろうとも思っていたんですね)、そんなものをもらったからということで、これまで見向きもしていなかった作家の作品が突然ありがたいものに思えたというわけか、ということです。大江健三郎の小説のほとんどとかなりのエッセイを読んでいた ── このおよそ十年前から私は、彼の過去の作品を遡って読んでいましたし、並行して、新作が雑誌に発表されるたびに買って読んでもいて(出版された講演の録音もたぶんすべて聞き、しかも、テレヴィ出演のほとんどをチェックしてもいて)、日本の現役の作家としては、彼だけを読んでいればよいというほどに考えていました ── 私があのとき思っていたのは、そうやって大江作品を買って行ったひとたちは、読みはじめるやいなや、まったく理解できないまま、なんだこれは、と投げ出してしまうことになるだろう、ということでした。

 どうか、自分で選ぶこと選ばざるをえないことを理解してください。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)