(一一)どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない

 それにしても、こうやって書き手や読み手のレヴェルの低さをいいつづけてきた私に向けての、「そういうことはいうものじゃない、そういうことをいうのは下品だ、賢明なひとはそういうことはいわない、思っていてもいったりはしない」という意見も想像されます。つまり、私は最初からただ自分の薦めたい作品の紹介だけをしていればよかったのだということですよね。そうすれば誰も私に腹を立てたりしない。もちろん私もそれは考えていました。しかし、敢えてここまで長々といいつづけてきました。

『白い犬とワルツを』のことがなかったら、私もこうはしなかっただろうと思います。とはいえ、もう誰もあの作品のああいう事情などなどおぼえていないかもしれない。

「聞こえた?」ヴァネッサはその手を私の手にそっと触れた。「いまではみんな、一日中ああやっているの。……あの人たちは私を無罪放免にしてくれるわ。もう私を必要としなくなったんですもの。私を必要とした覚えなんか一度もなかったんですもの。何かがやって来た、それだけだわ ── 私には何の関係もないのよ。風が吹いて、たまたま花粉を花へ運んだだけ。実がなってしまえば、風のことなんか問題にならないのよ。風なんてものがこの世にあったのかというような、びくともしない信念が生まれるのよ。なぜって、実がそこになっているんですもの。あの人たちは一度だって私を必要としなかった。私も一度だってあなたを必要としなかったわ、アルドー。ほんとうにそんなぐあいなのよ」彼女は一種の深い安堵をこめて言葉をついだ。「一度でも何かがほんとうに生れてきてしまえば、それはもう《たまたま起きた》ことではなくなるんだわ。その瞬間から、もうほかの見方はできなくなってしまうの。それが存在しなかったかも知れないなどということは、問題にならなくなってしまうの。それでいいのよ」

ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』 安藤元雄訳 ちくま文庫


 あるいは、これでもまだまったく上品な方だ、もっと徹底的にひどいものをひどいといわなくてはならないのではないか、ということも考えられますね。
 私がこの先もまだこれをいいつづけるのかどうか、自分でもわかりません。とにかく、私がここまでいってきたことは、私の選んだことだということです。いうべきだ、いわなくてはならないと思ったんです。そうしないと、始められない、と。もっとも、「始めることになってしまった」とは、やはり思っているわけですが。

 もうひとつ。現役の書店員でありながら、それをいうのはどうか、という疑問ですよね。現実に自分の勤めている店では、私のいう「主流の」読者向けの品揃えをしているにもかかわらず、こんなことをいっていていいのか、ということです。
 まず、とても単純な回答をします。ちょっと前に『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(マルク・ローテムント監督)という映画を観たんです。これは、第二次世界大戦中にドイツ国内で反ヒトラーのビラを撒いた学生たち(そのうちのひとりがゾフィーです)を描いた作品なんですが、彼らを逮捕した側が彼らに突きつける理屈が「おまえたちは誰に食わせてもらっているんだ? おまえたちにいまのような暮らしができるのはヒトラーのおかげじゃないか」というものなんですね。もちろん学生たちはそれに抗うわけですが、私がこの映画を観て思った、あるいは再確認したことは、どんな立場であろうが、いうべきことはいわなくてはならない、ということでした。

 あるいは、

 ……私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むにちがいなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数数の愚劣、非合理の一つに過ぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。……だが、違う、これは無条件に不条理ではないか。……虚無主義者に、犬に、条理と不条理の区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声吠えろ。それがいい。 ── 私は、「忘れました」と口に出すのを私自身に許すことができなかった。顔中の皮膚が白壁色に乾上がるような気持ちで、しかし私は相手の目元をまっすぐに見つめ、一語一語を、明瞭に落着いて、発音した。
「東堂は、それを、知らないのであります。東堂たちは、そのことを、まだ教えられていません。」
( ── それが当日私が思ったより以上の事故であり、そのような言明は現場の誰しもの想像を超えていたろうことを、のちのち私は知ったのであるが、その朝も)、言い終わった私は、私の躰が俎板に載ったと感じた。四人の偽証者を、私は必ずしも憎みもさげすみもしなかった。午前半ばの光の中で進行しているこの些事が、あるいは私の人生の一つの象徴なのではあるまいか。


 また、

 エーガーステッターの意思はゆるぎのないもので不屈だった。教会に迫害を加え教義を破壊するナチ政権のために戦うことなど、彼には考えられないことだった。このような状況下であっても、数百万人ものほかのカトリック教徒が、民族のために義務を果たすことが可能だと思っていることをこの弁護士が指摘すると、エーガーステッターは簡潔に答えた。<彼らには神の恩寵がないのです。> 弁護士はまた、教書のかたちにせよ説教によるにせよ、カトリック教徒に戦争を支持するなとか兵役を拒否せよとか呼びかけた司教がほかにいたかどうかを考えてみるように彼に強く求めた。エーガーステッターはほかの例は思い当たらないことを認めたが、同時に彼は、これは彼らもまた<恩寵にあずかっていない>ことを示す事実以外の何物でもないとつけ加えた。そこで弁護士は、<シーザーのものはシーザーへ>という聖書の戒告を引き合いに出し、エーガーステッターが何をよりどころとして、神学上の判断を下す責任をもつ牧師や司教よりもより<カトリック的な>境地に達したのかとたずねた。エーガーステッターは、個人の良心によってのみ得られる道徳的判断を下したのだと答えた。対話の最後に、弁護士が家族に対するエーガーステッターの責任に言及すると、彼はこの良心はもっとも切実な個人的問題にも優先すべきものであると答えた。

ジョージ・クライン「父なし子」 小野克彦訳 紀伊國屋書店ピエタ』所収)


 それとも、私のいいぶんに腹を立てているひとに向けて、これはどうですか? 

「君は覚えてるかね」と彼は話し続けた。「君は自分の日記にこう書き込んでいる。『自由とは二足す二が四になると言える自由だ』と」
「はい」
 オブライエンは左手を挙げて、その甲をウィンストンの方に向けながら、親指を折り曲げ、四本の指を広げて見せた。
「私は何本、指を広げているかね、ウィンストン?」
「四本です」
「で、もし党がそれは四本じゃない、五本だといったら ── 何本かね?」
「四本です」
 答えは激痛を訴える呻き声で終わった。ダイヤルの針は五十五度に跳ね上がっていた。脂汗がウィンストンの体中から吹き出した、いくら歯を食いしばっても、その唸り声を押し殺すことは出来なかった。オブライエンは彼をじいっと眺め入った。四本の指はまだ広げたままである。彼はレバーを手前に引いた。今度は苦痛がいくらか柔らいだだけであった。
「指は何本かね、ウィンストン?」
「四本です」
 ダイヤルは六十度に上昇した。
「指は何本かね、ウィンストン?」
「四本! 四本だ! 他にどういえばいいんです? 四本だ!」
 針はまたもや上昇したに違いない、が、彼はもうダイヤルの方を見向きもしなかった。陰気で冷酷な顔と四本の指がウィンストンの視界をふさいで行った。指は彼の眼前に列柱となってたちはだかった、途方もないほど大きく、輪郭がぼやけて、しかも揺れ動くように見えたが、その数はやはり四本であった。
「指は何本かね、ウィンストン?」
「四本だ! 止めろ、止めてくれ! どうしてこんなことが続けられるんです? 四本だ! 四本!」
「指は何本かね、ウィンストン?」
「五本だ! 五本! 五本!」
「そうじゃない、ウィンストン、ごまかそうとしたって無駄だぞ。君は嘘をついているんだ。君はまだ四本だと信じている。指は何本あるのかね?」
「四本! 五本です! 四本だ! どっちだっていいんです。ただこいつだけは止めてくれ! 痛いのだけはやめてくれ!」

ジョージ・オーウェル『一九八四年』 新庄哲夫訳 早川文庫)


「二足す二が四」が出てきたついでに、「二二が四」にも登場してもらいましょうか?

<とんでもない>と、たちまちどやしつけられるだろう。<反抗はむだですよ。なぜって、これは二二が四なんだから! 自然がいちいちきみにお伺いをたてるもんですか。自然は、きみの希望がどうだろうと、その法則がきみの気にいろうと、いるまいと、知ったことじゃないんですよ。きみは、自然をあるがままに受けいれるべきで、当然、その結果もすべて認めるべきなんですな。壁はとりもなおさず壁なんだから……云々>これはしたり、いったいその自然の法則だの数学だのが、ぼくになんの関わりがあるというのか? なぜかは知らぬが、ぼくにはそんな法則だの二二が四だのは、さっぱり気にくわないというのに。むろん、ぼくにはそんな壁を額でぶち抜くことはできないだろう。もともとぼくにはぶち抜くだけの力もないのだから。しかし、だからといってぼくは、そこに石の壁があり、ぼくには力がたりない、というそれだけの理由から、この壁と妥協したりすることはしないつもりだ。

 いや、諸君、問題が一覧表だの、算術だのというところまで行ってしまって、二二が四だけが幅をきかすようになったら、もう自分の意志も糞もないじゃないか? 二掛ける二は、ぼくの意志なんかなくたって、やはり四だ。自分の意志がそんなものであってたまるものか!

(同)

 しかし、それにしても、二二が四というのは鼻もちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくに言わせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などいうやつが、おつに気どって、両手を腰に、諸君の行く手に立ちふさがって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、ほめるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。

(同)


 で、またもちょっと前の引用を繰り返して、

「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもぜひそうしたいんですよ!」スヴィドリガイロフは、曖昧な微笑をうかべながら答えた。


 さらに、もう一度『神聖喜劇』に戻って、

 ……こういうことに私が血眼になっても、それにどんな意味があるのか、あり得るのか。相手が「チチョウ」と読め、と命じるのなら、また上官上級者にはいつでも敬称を付けよ、と求めるのなら、そのとおりに私がしたら、よいではないか(……そうすることが私にできさえしたら……)。要するにあれもこれも蝸角の争いではないのか。本来は味方でなければならぬ(?)わが同年兵たちも、私がしつこく粘って事を長びかせるのに、往生して、嫌気が差しているにちがいなかろう。……私はこんな所でこんなことを言ったり行なったりするのにふさわしい人種ではなく、そういう言行を好き好む人間でもない。……「チチョウ」か「シチョウ」か、敬称付きか敬称なしか、それがどっちに転んでも、広大な客観的現実は右にも左にもかたぶきはしないであろうに。また私が向こうに転んでも、誰も私を責めはしないであろうに。……



 必要以上と思われるほど引用ばかり並べてきましたが、

 現役の書店員でありながら、それをいうのはどうか ── でした。しかし、では、誰がこれをいうんでしょう? そうして、おそらく、「『白い犬とワルツを』以降」と呼びうるかもしれないものを刻んでしまった書店員(つい最近 ── 二〇〇六年十二月 ──、「それはあなたの十字架ですよ。ずっと背負っていってください」とあるひとにいわれました。「あれをやった以上、変なことはできないでしょう?」と。このひとは、私がなにもいわないうちに、さっとそういったんですね。驚きました。)がこれをいうのが、特に意味のあることじゃないでしょうか?

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)