(一〇)作品は読者のためにあるのではない

 少し前に私は『夏の砦』(辻邦生)を例にあげながら、こういいました。「こういう描写のある作品ならば当然本も厚くなるでしょうしページも文字で埋め尽くされたようなものになるでしょう」。
 もう一度その「こういう描写」を引用しますが、

 ……私はよく母とともに、中のお蔵に、夜、のぼっていったことあるが、母が手燭をかかげて捜しものをするあいだ、私は私で、別の手燭をもって、土蔵の二階の四隅に置いてある大きな鉄製の甕の上に、身をのりだしてみるのだった。竜の浮彫りのある鉄甕のなかには、口まで、なみなみと水が張ってあって、手燭のうえでゆれている蝋燭の暗い焔の、ゆらゆらと照らしだす私の顔が、その鏡になった水面にうつっていた。水の底は暗く、沼のように深い感じで、その鏡になった水面の下に、何か別の世界があるようだった。で、私は手燭をかかげて、自分の顔をその水面に近づけたとき、一滴の蝋がかすかな音をたてて、水のなかに沈み、白い花びら模様にひろがって、まるで暗い池に浮かぶ睡蓮のように、また夜の運河に散り漂う桜の花びらのように、ひらりと、浮かび上がってくるのだった。私は思わず息をのんで、この妖しい花の白さを見つめていたが、やがて、手燭をかたむけると、もう一度、一滴、蝋を水面に落としてみた。と、蝋はぽとりと暗い水面に沈み、やがて、同じ白い花びらに軽やかに開くと、まるで重さのないものが暗い空間をただよってでもいるように、夢のように、ゆらりと浮かびあがってくるのだった。蝋燭の暗い焔に照らされた水面は、鏡になって光っていて、白い花びらは、そこに映る私の顔の奥から、遠近感をうしなったはかない透明なゆらめきで漂いのぼってくるように見えた。

辻邦生『夏の砦』 文春文庫)


 この部分だけを読んで、作品の全体を想像してみてください。
 ちょっと考えてみてほしいのは、こういう描きかたをする作品に描けないものはなにか、ということです。あるいは、こういう描きかたをする作品が描かないものはなにか。

 ── と、そのように問いかける私は、基本的に「ある描きかたを選んだならば、全体がその描きかたで統一されていなくてはならない」と考えているわけです。そうして、「ある描きかたを選んだならば、その描きかたで描けないものは描いてはいけない」とも考えているんですね。で、「あることを描こうと思ったら、最もそれにふさわしい描きかたをしなくてはならない」と考えている。ということは、「あることを描こうとして、それにふさわしい描きかたを始めたならば、その描きかたのせいで、べつのあることは描くことができなくなる」ということです。(それゆえ、ある作品を紹介するときに作品本文からの引用をすることは非常に有効である、と私は考えます。つまり、部分を取りあげることが、全体を逆に照射することになるからです)。

 作家にとっては、「なにを描くか」と「どのように描くか」がそのように拘束しあうわけです。ところが、世のなかで「作品」として流通しているものの多くがこの拘束を全然理解しない書き手によって書かれています。そういうものをもてはやしている読者も、この拘束を全然理解していません。実状はこうです。世のなかの大多数の書き手も読み手も「なにを描くか」「なにが描かれているか」だけを問題にしようとします(「短く簡潔に」、あるいは「〈みんなが読む本〉を読む」を思い出してください)。それは端的に、両者に力がないからです。

 作品にとって大事なのは「なにが描かれているか」よりも「どのように描かれているか」です。「どのように」を横着して「なにが」だけを追うようなものを作品とは呼べません。これは最低ラインですが、クリアしているだけで大変なものです。少なくとも、これをクリアしているものを私は「よい」というでしょう(「嫌い」だとしても)。

 繰り返します。作品は読者のためにあるのではありません。読者に合わせません。読者が作品に合わせなければなりません。さらに進んで、こういいましょう。作品は作家のためにあるのでもないです。作家に合わせません。作家こそ作品に合わせなければなりません。作品は読者にも作家にも奉仕を要求します。作品は、読者からも作家からも自立したものです。作品は、作家にコントロールしおおせるものではありません。作品の方が作家に過大な要求を突きつけます。それに耐え切れずに自滅する作家も当然たくさんあるでしょう。

 また、作品は作家の格闘の到達点ではなくて、過程です。彼の格闘の軌跡が作品です。彼が自分の描こうとしているものと組み合ってゴロゴロゴロゴロと地面を転がっていったとすると、そのゴロゴロゴロゴロが作品なんです。だから、作品はきっと作者の思ってもみなかった形で完成するでしょう。

 私自身の文章から引用しますが、

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。そういう読者にだけ照準を合わせて「なにが」だけを提示しているにすぎない自称「作品」がどれだけ売れているかを考えるとくらくらします。私が疑うのは、単に「なにが」だけしか提示していないものを読むときに、多くの読者が勝手に作家の非力を、いかにもありがちなイメージで ── すぐにわかる、わかって安心できる、すでに自分のなかにある安手なあれ・それを当てはめながら ── 補ってやっているのではないか、最近の傾向でいえば、読んで泣こうとして、泣く方向にねじまげて読むから、だめなものでも泣かずにはいないということがあるのではないか、ということですね。しかし、ちゃんとした作品、「どのように」のきちんとできている作品はもっと自立したものであるはずです。泣くことが目的の読者のごまかしに手伝ってもらう必要など全然ありません。
 しっかりした「どのように」がともなってはじめて可能になる「なにが」の表現ということを考えてほしいんです。つまり、読者がいまだ知らないなにか、名前をつけようと考えたこともないなにか、自分のすでにもっている(そしてすぐに取り出せる)どの観念にも落とし込むことのできないなにか、それが、作品の「どのように」に支えられてのみ、その作品一回きりの「なにが」として立ち上がってくるということがあるはずなんです。そういうことの実現こそがほんものの作家の仕事じゃないでしょうか? そして、そういう作品を読むことこそがほんとうの読書なのでは?

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)


「なにを描くか」と「どのように描くか」が拘束しあわなくてはならない、と私は考えています。これは単に両者がぴったり合っている、というだけでは足りません。
 しかし、こういう問いも出てくるかもしれません。その「拘束」によって、逆に、簡単に、安楽に、作家は仕事を進めることができるはずじゃないか、それというのも、作家はその「拘束」に守られているわけだから。
 でも、私はそう考えているのでもないんです。「拘束」はなくてはならないんですが、作家はそれに従順になっていては駄目で、なんとか「拘束」の隙を突いて、出し抜いたり、とにかく可能な限りの抵抗をしていなくてはならないんです。「拘束」は「拘束」なんだけれども、だからといって、そのなかだけでやっていくつもりはないぞ、というあらん限りの抵抗、ですね。そう簡単に頭を下げてたまるか、ということです。いいかえれば、作家の志の高さです。これがあってこそ、彼の格闘するものが「作品」として自立しようと動きはじめます。それが「作品」として自立しようとしはじめる以前に引き返してきてしまう作家も少なくないでしょう。また、先にもいったように、その時点で自滅してしまう作家も。「作品」とは、そういうものです。
「拘束」とそれへの「抵抗」とによって、「作品」は作家が当初考えていた軌道からどんどん逸れていくことになる。「作品」が、作家のコントロールの利かないところへ逸れていく。それは、「作品」が作家からも自立しようとするからです。その自立のために、作家が力をふりしぼって奉仕する形になる……。

 しかし、私がここで「作家」というのは、世のなかにたくさんいる作家のすべてなのではありません。これは逆で、いま私のいったような奉仕のできるひとだけが「作家」なんですね。それのできない自称「作家」── いくら売れていようが ── がたくさんいる。そういうひとたちがどんどん新作を発表していく。それを片っ端から読んでありがたがる読者が非常にたくさんいて、これが現在の読書の主流になっている、そんなことでは駄目だ、というのを私はここまでずっといってきたわけです。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)