(九)「作品にすらなっていない」もの

 ある作品を「よい」と評価するひとは、必ずそうでない作品を知っています。そのひとは作品を評価するなにがしかの基準をもっています。それで、その基準が埒外にはじき出すものが必ずあります。ここでの「そうでない作品」というのがまだ十分に譲歩した表現だということも断わっておいた方がいいでしょう。なぜなら、それらのほとんどは「作品」にすらなっていないからです。そうして、世のなかには「作品にすらなっていない」ものがゴマンと流通しています。
 そこでまたいいますが、書店員が「手書きPOP」で店頭に並ぶもののなかでのどれかを推すという行為は、べつのどれかを「そうでない」作品であると認識したうえでいっているわけです。そういう認識 ── あれとこれとは確実に違うという認識 ── なしに「手書きPOP」を書いているような無邪気な書店員がもしいるとすれば、そのひとの書くものはまったく信用に値しません。まさか、その店頭に並んでいるものの全部が素晴らしくて、なかでも特に素晴らしいものにPOPをつけているのだなどと思っている書き手はいないでしょうが。

「じゃ、訊くが、親爺さん、どうしていい悪いがわかるというんだ?」と、ダークは、もう真っ赤になって腹を立てて訊いた。
「そりゃもう、たった一つ ── 売れるってことでございますよ」
「ちっ、俗物が!」とダークは叫んだ。
「考えてもごらんなさいましよ、昔の偉い画家はどうです? ── ラファエルにしたところで、ミケランジェロにしたところで、アングル、ドラクロア ── みんなりっぱに売れましたからな」
「さあ、行こう」と、ストルーヴは僕に言った。「さもないと、こいつを叩き殺したくなるから」

モーム『月と六ペンス』 中野好夫訳 新潮文庫


 また、もちろんずっと以前からそうではあったんですが、特にこの数年というもの、うんざりするほど氾濫していることば、読者が作品に求めている「感動」についても触れておきます。いまは「感動」ということばが非常に狭い意味でしか使われていない、それは誤りだ、とまず私は思いますし、「感動する」というのは、実は「傷つく」ということだ、と思っています。それは、読者の心の襞を傷つけたり、抉ったりしているはずだと思うんです。痛いけれど、気持がいいということのありうるのを、承知しているひとは多いはずではないのか、と私は不審に思います。相手の乱暴だけれども、それがこちらの快感に直結することがある、とか、大きすぎて自分には受け入れられないと思っていたものを、結局自分が非常なよろこびとともに受け入れてしまえている、ということがあるのじゃないでしょうか? 不愉快な感動、冷たい感動、恐ろしい感動、嫌悪に満ちた感動というものがあるんです。感動というのは、そうした「受傷体験」の総称なんですよ。だから、いわゆる心の癒され、暖まる、── そうして涙の止まらない(しかし、実はそのとき、まさにあなたは大いに傷ついているんです)── ものだけを感動というのじゃありません。

 たとえば、次の引用を読んで、どう思いますか?

「ぼくは来世なんか信じちゃいません」ラスコーリニコフは言った。
 スヴィドリガイロフはすわったまま、じっと考えこんでいた。
「でも、来世には、蜘蛛とか、そんなものしかいないとしたら、どうですかね」突然彼が言った。
『この男は気違いだ』とラスコーリニコフは思った。
「たとえば、私たちは永遠というものを理解を絶した観念、なにか途方もなく大きなもの、巨大なものとして考えていますね。しかし、どうしてそう大きなものと決めこまなくちゃならんのです? それよりひとつ、そんな考えはさっぱり捨ててですね、そこにちっぽけな部屋でも考えてみたらどうです。田舎の風呂場みたいな煤だらけの部屋で、四方の隅には蜘蛛が巣を張っている。で、これこそが永遠だ、というわけです。私はね、よくそんなものを目にうかべるんですよ」
「いったいもうすこしはましなものを想像できないんですか、いくらかでも救いのある、まっとうなものを!」病的な感情につき動かされて、ラスコーリニコフは声を高めた。
「まっとうなもの? だって、これこそまっとうそのものかもしれんじゃないですか、それに、私はわざとでもぜひそうしたいんですよ!」スヴィドリガイロフは、曖昧な微笑をうかべながら答えた。


 こういうものに私は激しく感動します。これを読んだとき(だいぶ以前にべつの訳で読んでいたんですが)私は、突き上がってきた強烈な喜びに声を出して笑ってしまったんですね。

 私はこうも書きました。「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけないというのが私の考えです」。
 作品の「よい・悪い」と自分の「好き・嫌い」とをごっちゃにして、「いや、そんなのはひとそれぞれだよ」というひとが(ものすごくたくさん)います。はっきりいいますが、この点に関してその常套句「ひとそれぞれ」を用いることは罪悪ですらあるだろうと私は考えています。それは「すり替え」です。いいですか、作品はあなたのためにあるのじゃありません作品はあなたに合わせませんあなたが作品に合わせるんです。それでこそ「感動」が生じるはずなんです。作品があなたのところに降りてきてしまったら、「感動」は生じないでしょう。作品があなたのところに降りてきてしまっているにもかかわらず、あなたが「感動」したなどと思うなら、あなたは「すり替え」を行なってしまっているんです。あなたが作品のところにまで上がっていってこそ「感動」することができるんです。つまり、ここでは、あなたが変化するということが大事なんです。

 さらに、べつの引用。

 いい車、悪い車があるか否かとの討論において、問題とすべきは、加速、燃費、丈夫さ、使いやすさ、足回りといった客観的事実である。「いい車・悪い車」が存在しているとしても、最終的にどんな車を選択しようが趣味の問題として文句はつけられまい。しかし、私が問題にしているのは、趣味や好み以前に、客観的機能として、いい車、悪い車があるのかどうかだ。そして、この判断ができるのは、乗ったことがあるのは1種か2種、しかも、いい悪いなど判断できやしない欠陥車、故障車であるような人物よりも、様々な車に乗った体験のある人、メカに強くて冷静な判断ができる人、あるいは実際に乗ったことがなくても様々なデータを持っている人といった類いの人だろう。
 これらを検討した上で初めて、趣味の判断へと入る。いくら速く走っても燃費の悪いのはイヤだという人がいれば、一方には機能ではなく、見た目のよさに尽きるという人もいる。そういった要素をすべて無視して、車は走ればいいというのもいよう。それぞれの勝手だ。勝手だが、「車なんて走ればいいんだから、燃費のいい悪いなんて存在しない。それは車マニアの錯覚だ」と、自分の体験不足、知識不足、分析不足を棚に上げて、自己の趣味を一般論にすり替えるべきではない。

松沢呉一『魔羅の肖像』 新潮OH!文庫)


 ほんとうにくだらない作品(それは実は「作品」とは呼べない・「作品」以前のものなんですが)に「こんなに素晴らしい本をいままで読んだことがない!」なんていうひとがいる ── 確実にいます。私はある出版社でそういう「読書カード」(出版社が本に挿みこんでおいて、読者からの郵送を期待する。それの期待通りの返信)を山ほど読みました ── んですが、あなたはこれまでいったいなにを読んできたのか? といいたくなるわけです。好みというのはしかたがありません。それはもちろん「ひとそれぞれ」なんです。しかし、それとはまったくべつのところに作品の「よい・悪い」の基準があるんです。
 ということは、つまり、この作品を自分はまったく好かないどころか大嫌いなんだけれど、非常に高いレヴェルのものであることは認める、ということはある。また ── これはかなり譲歩した表現になりますが ──、ほんとうにばかばかしいもの(「作品」とは呼べない・「作品」以前のもの)だとわかっているのだけれど、もう涙が止まらなくて止まらなくて……ということだってあるわけです。

 そういうわけで、私がなにをもって作品の「よい・悪い」を測っているか、いくらかでもいってみることにしますが、その前に、またまた以前の記述から引用をしてみます。

 まず、私の考えかたを先に示しておきたいのですが、小説作品において重要なのは、「なにが描かれているか」ではなくて「どのように描かれているか」なのだと思っています。この「どのように」をクリアしていない作品は結局「なに」がいくらすばらしくても作品として失格なのです。「どのように」が「なに」を生かしも殺しもします。


 もうひとつ、

 ここには作者自身にとっての予想外の要素や展開というものが一切ありません。こんなふうにいうのは、作者自身にとっても不可解で驚きであるようななにか、登場人物たちが作者の手を離れて勝手に動きだすというようななにかが非常に大事だと思っているからなのです。そうして、この作品は単に「成功哲学」普及のためのお話・宣伝・お説教にすぎません。あらかじめそのことが決まっていますから、作品内で「成功哲学」が激しく動揺するということもない。極端ないいかたをすると、「成功哲学」を描こうとして書きはじめた作品が、いざ書き進めていくと「反・成功哲学」の作品に仕上がってしまった、というようなものが「文学」だと思います。しかし、ここでは作者にはなんの試練もない。彼はただうまく書いただけです。うまくということだけを考えていればよかったわけです。



(二〇〇七年二月二十七日 改稿)