『黄金の眼に映るもの』

(カースン・マッカラーズ 田辺五十鈴訳 講談社文庫)




 作者にはカーソン・マッカラーズという表記(カースンではなく)もありますね。その方が一般的なんでしょうか。

 マッカラーズを読むのはこれが二作めで、最初に私は『心は孤独な狩人』(河野一郎訳 新潮文庫)を二年前(二〇〇四年)に読んでいますが、それはようやく古書店で見つけたもので、七千円くらいで買ったわけです(そもそもは三二〇円の文庫でした。消費税なんか全然ないときの値段です)。二十年以上前にはマッカラーズの作品はいくつも文庫があったんですけれどね。『心は孤独な狩人』にしても、私はその昔何度も書店で手に取っては、買うのを後まわしにしつづけてしまったために、四十になって初めて入手して読むということになってしまったんです。『針のない時計』と『黄金の眼に映るもの』は講談社から出ていて、こちらもいずれ買おうと思っているうちに絶版になってしまいました。『針のない時計』はいまだに持っていません。
 しかし、この『黄金の眼に映るもの』だけは何年か前に再び増刷され、一時的に購入可能になったんです。というのは、NHKのラジオ番組「原書で読む名作」に採りあげられたかららしいんですね(そういう帯がついています)。そのときに買っておいたものを、やっとこの数日で読んだんです。それも、なにげなく書棚から取り出して、そのまま引き込まれて、という読書でした。ひょっとしたら、死ぬまで読まなかったかもしれない作品を読んだということなのかもしれません。で、読み終えて、そうならなくてほんとによかったと思っています。
(私は購入した本をすぐ読むということがあまりないんです。ただ、いまでは、迷うくらいなら即購入と決めています。それというのも、本の寿命があまりにも短いということを書店員として痛感しているからです。)

 書き出しは──

 平時の陸軍駐屯地というのは退屈なところだ。いろいろなことが起こる。だがそういったことはすべて、何度でも繰返されていることにすぎない。実のところ、駐屯地全体の作り方そのものが、この単調さを深めている──巨大なコンクリート造りの兵舎群、一軒一軒がそっくり同じに建てられ、きちんと並んだ将校用住宅、体育館、ゴルフ場、プール等々──すべてが、きちんとした型に従って作られているのだ。とはいえ、駐屯地の単調さというのは、だいたいのところ、閉鎖的であってしかも暇と安全とがあり余っているということによるらしい。というのは、ひとたび軍隊に入ると、人はひたすら先人の例にならうことのみを期待されるからなのだ。また、どこかの駐屯地に、もう二度と起こりそうもない事件が時に起こることがある。南部のある駐屯地で、数年前に一つの殺人事件があった。この悲劇に関係したのは、二人の士官と一人の兵士、二人の婦人と一人のフィリッピン人、それに馬一頭とであった。


 ──です。ここではその「殺人事件」の加害者が誰で、被害者が誰ということは全然触れられません。いまの文章のつづけて最初に紹介されるのが「一人の兵士」で、どんな男であるかというところから、もうおもしろいと思いました。この兵士が「二人の士官」のうちの片方に呼ばれ、それからその士官の夫人(「二人の婦人」のうちの片方)が登場し、彼女の愛人がもうひとりの士官で、残ったのはその愛人の妻とその召使いである「フィリッピン人」なんですね。あ、それと「馬一頭」。

 この事件の中の兵士はエルジー・ウィリアムズ一等兵である。午後も遅くなると、よく彼が兵舎の前の歩道に並んでいるベンチの一つに、一人ぽつねんと坐っている姿が見られたものだ。そこは気持のいい場所だった。楓の若木が二列にずっと並んでいて、歩道と芝生の上に、風でゆれる涼しくてデリケートな影をつくっているからである。その葉は春には輝くような緑色で、だんだん暑い季節になってくると、もっと暗い、落着いた色に変って行く。晩秋には燃えるような黄金色になるのだ。ウィリアムズ一等兵はいつもここに坐って、夕食を知らせるベルが鳴るのを待っているのだった。


 そして、この作品に描かれているのは、ある年の晩秋です。

 なおも引用をつづけますが、

 彼は無口な若い兵隊で、兵営では敵もいないし友人もいなかった。日に焼けたまるい顔には、一種の用心深さを秘めた純真さとでもいったものが目立っていた。はれぼったい唇は赤く、茶色の前髪はもつれて額に垂れ下がっていた。琥珀色と茶色が微妙にいりまじった目には、動物などによく見られるような表情があった。ちらりと見ただけでは、ウィリアムズ一等兵は動きが鈍くて無器用そうに見える。だがこれは誤った印象である。彼は野性の動物か泥棒のように、静かに敏捷に動くのだ。ときおり兵士たちは、傍に誰もいないと思っていたのに、いつの間にか、どこからともなく現われた彼が傍にいるのを発見してびっくりすることがあった。手は小さく骨細だったが、とても頑丈だった。


 いや、これで冒頭二ページをほとんど引用してしまっているんですが、このままどんどんやってしまいたいくらいです。しかし、私はここで主に「一人のフィリッピン人」についてしゃべってみようと思います。これは、かりになにかの席で、この作品が話題になったときに(そんな席はありそうもないですが)、「彼はいいねえ、おもしろいねえ」と意気投合してくれるひとがありそうな(席も考えづらいのに、さらにそういう相手がいてくれそうもないんですが)、奇妙な人物なんです。

 アナクレトというのがこの「フィリッピン人」の名前です。彼はラングドン少佐が夫人とともに赴任していた「フィリッピン」からアメリカ本土に連れてきたんです。

 ラングドン夫人がこんなことを考えます。

 彼女は、七年前にフィリッピンで、アナクレトが初めて彼女の家に来た時のことを思い出した。彼はなんと悲しげで、奇妙な小動物だったことだろう! 彼は他の召使いの少年たちにひどくいじめられてばかりいたので、一日中彼女の後ばかりついて歩いていた。もしも誰かが彼を見つめるなんていうぐらいのことをしても、彼はわっと泣きだして両手をもみしだくのだった。彼は十七歳だったが、弱々しげで、利口そうな、おびえたその顔は、十歳の子供のような無邪気な表情をしていた。一家がアメリカに帰る準備をしていた時、彼は一緒に連れて行ってくれと彼女に頼みこみ、彼女はそれを聞き入れてやったのだった。


 で、彼女の夫ラングドン少佐は、

 彼は星を見上げながら、人生というものも時には厄介なものだと考えていたのだった。彼はだしぬけに、死んだ赤ん坊のことを思い出した。あれは何という騒ぎだったことだろう! 陣痛の間中アリソンはアナクレトにしがみついて(なぜなら、少佐はそれに耐えられなかったのである)まるまる三十三時間わめき続けたのだ。そして医者が、「まだ頑張りが足りませんよ、力んで下さい」──といった時、ああ、あの小柄なフィリッピン人は、膝を曲げ、顔に汗をぽたぽたたらし、アリソンと声を合わせてうめきながら、一緒になって力んだのだった。


 どうですか?

 さらに、ラングドン少佐はアナクレトに対してこういうことをします。アナクレトが夫妻のいる部屋を出て(その前に彼は夫妻の前で奇妙な踊りを披露し、それが夫人には大うけで、少佐にはうんざりされています)、

 彼等の耳に、彼がゆっくりと階段を降りて行き、次いで早足にとんでおりるのが聞こえた。最後の段のところで何かとてつもなく無茶なことをしたらしく、突然どしんという音が聞こえた。少佐が階段の上までとんで行ったとき、アナクレトは無理に威厳を作って立ち上がろうとしていた。
「怪我はなかったかしら?」アリソンが心配そうな声でいった。
 アナクレトは目に怒りの涙を浮かべて少佐を見上げた。「わたしは大丈夫です、アリソン奥さま」と彼は呼びかけた。
 少佐は前かがみになって、声は出さず、アナクレトが読みとれるようにゆっくり口を動かして、「お前が──首の骨を──折れば──よかったのに」といった。


 アナクレトはラングドン夫人を、いわば崇拝しています。あ、いっときますけど、このふたりに肉体関係はありませんよ。

 小柄なフィリッピン人は肩をすくめた。彼自身とアリソン奥さま以外のすべての人間を作る時に、神様はひどいへまをやらかした──そして例外は、フットライトの後の人間、小人とか、偉大な芸術家とか、そういったすばらしい人たちだけなのだ──と彼が考えていることはよく知られていた。


 それで、こういうジョークができあがるんですね。

 一般のおしゃべりよりは低い声で、しかもラングドン少佐がその辺りにいないことを素早く目で確かめてから、ある冗談がパーティーの中を広がっていった──それはあの小柄なフィリッピン人が、アリソン・ラングドンの尿を検尿のために病院に持参する前に、思いやり深くもそれに香水をかけたという話だった。


 すばらしい。

 もっと笑ってしまう煉瓦のエピソード(これはジョークではなく、彼がほんとうにしたことです)は引用しないことにしますが、とにかくこの人物はおもしろいんです。彼のことを読むためにだけ、この作品を読んだっていいと思いますよ。

 
とはいえ、こんなにも周囲から卑しめられているアナクレトの立場が、小説の進むにつれて逆転し、なにか超人的なすばらしいことをしてヒーローになる、それで読者が感激して拍手し、涙を流すことになる、とかそんなことはありません。私はこんなことをわざといってみたわけですが、この作品の登場人物の誰もが、そんな劇的な大立ち回りを演じることがありません。私がいおうとしているのは、登場人物が「劇的な大立ち回りを演じる」ことで読者の歓心をかおうとするような小説は安易なものだし、読者にとっても作者にとっても楽な作品だということです。──と、お説教でした。

 私は以前(二〇〇四年九月)に、私の勤めている書店のホームページで同じ作者の『心は孤独な狩人』についてこんなふうに書いています。「これを書き進めながら作者は常に一定の距離を置くということを怠らなかったんだろうと思います。登場人物たちの心理にせよ、あるライン以上は立ち入らない。作者は彼らをじっと見つめています。彼らがなにをするか、どうなっていくかをじっと追っていきます。彼らを動かしているのは作者じゃないという感じです。ある人物に深入りしないことが、他の人物たちを常に同じ視野におさめながらに進むことを可能にしています。この作品はあるひとりの人物だけのためのものではなく、彼ら何人かの全体の動きのためのものです。これを淡々と語っていきます。すると、読者が読み終えるときには、なんともいえない印象がひろがることになるんですね。そういう作品です。」同じことをこの『黄金の眼に映るもの』にも感じています。いま、さらにつけ加えるとすれば、登場人物たちを動かしているのは、なにか彼らに必然のもので、彼らはここに描かれているように動かざるをえなかったのだということ。そうして、そうである以上、彼らは自分のしていることに名前をつけることすら思いつかなかった、自分の感じていることにどう対処していいかもわからなかっただろうということです。「いつの間にかこうなってしまった」としか彼らにはいいようがないんです。彼らにある種啓示のようなものの訪れる瞬間がありはするんですが、それで彼らが積極的にそれをその後の自分のために増幅したり、利用したりすることがないんです。

 それに結びもすることですが、私は巻末の訳者による解説のなかで、ある登場人物が「覗き屋」と表現されているのに驚いて、そういえば彼は「覗き屋」だったなと思い直し、そこから「ストーカー」ということばを思いもしました。ところが、私はこの作品を読んでいる間、この人物を「ストーカー」という括りで考えたことがなかったんです。そんなことは思い浮かびもしませんでした。彼はただそうせざるをえなかったからそうしているだけだとしか読んでいなかったんです。そうして、マッカラーズは私にそう読ませるように描いているんです。
 この人物を「覗き屋」とか「ストーカー」というふうに名づける読みかたをするのはよくないと思うんです。ついでにまたお説教ですが、世のなかには自分の描く登場人物を「覗き屋」とか「ストーカー」として読んでほしい・読者のすでに持っているイメージどおりの「覗き屋」とか「ストーカー」として読んでほしいという書き手がたくさんいるでしょう。そんな書き手の書くものなど読むだけ無駄だといっておきます。マッカラーズはそんな書き手ではありません。彼女がここでした仕事ははるかに困難なことなんです。

 また、これも『心は孤独な狩人』を読んだときと同じ印象ですが、この『黄金の眼に映るもの』についても、私が思い浮かべたのはドストエフスキーとフォークナーというふたりの作家でした。で、アナクレトについては、ちょっとスメルジャコフ(ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の)を思い出していました。

 さて、最後にもう一度アナクレトに登場してもらいます。彼のこのことばから作品のタイトルは来ています。

 赤々と燃える炎と、ちかちかゆれ動く灰色の影とが、部屋いっぱいにみちていた。掛時計が小さくぶーんと鳴り、それから三時を打った。
「聞いてください!」アナクレトがだしぬけに言った。彼は今まで絵を描いていた紙をくしゃくしゃにまるめて脇に投げ捨てた。それから両手であごを支え、物思いにふけっているように、じっと薪の燃えさしをみつめた。「ぞっとするような緑色の孔雀なんです。深い深い金色の目が一つあって、そしてその目に映っているんです。なにかちっぽけで、そして──」
 それにぴったりな言葉を探そうとして、彼は片手をあげて親指と人差指をこすり合せた。その手が彼の背後の壁に大きな影を投げていた。「ちっぽけで、そして──」
「グロテスクなんでしょ」アリソンが代って言葉を見つけてやった。
 彼はすぐにうなずいた。「そのとおりです」