なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?(4)

── 再び「連絡船」の一読者へのメール

(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


 また、あなたの「肥大した自尊心がどういうものかを理解しつつ、自分がどうなのかを検討し、自分はとり憑かれていないと結論を出し公言しているものの、他人からみればとり憑かれていると見える人がいます。なぜなのだろう、とずっと疑問だった」が私を批判していることはわからなくはないですが、あなたは、私が以前に引用した萩原俊治氏の文章をまったく理解していません。これです。

 しかし、その後、マルケルと同じようにドストエフスキーは回心する。なぜ、回心したのか。これも既に述べたように、それは自分の存在が無であることに気づき、自分が自分を創り出した神のものであることが明らかになったからだ。私たちは死んだときはもちろん、生きているときも常に、無になって神のもとに還っていかなければならない。これが謙遜というものだった。従って、回心した者にとっては、不完全な私たちが、お互い助け合いながら謙遜のうちに生きなければならないということは明白な真理なのである。このとき回心した者にとっては絶対的平等が実現する。なぜなら、百歳を越えて生きる人も生まれてすぐ死ぬ人も、障害をもって生まれた人も健康な人も、醜い人も美しい人も、赤貧の中で生きた人も安穏な生活を送った人も、頭の良い人も悪い人も、平和の中で生きた人も戦争の中で生きた人も、すべて無に還るという意味で平等なのであるから。
 しかし、このような平等観に立つということは、回心していない人々が引き起こす争いに苦しむということに他ならない。なぜなら、回心した者は自分の神中心主義な立場を捨て、特定の誰かの味方になるということができないからだ。たとえば、そのような者は農奴制を容認する圧制者を殺し、農奴制に苦しむ農奴たちを解放することはできない。なぜなら、神の前ではその圧制者も農奴と同じように私たちの隣人であり、農奴と同じように無にすぎないからだ。私たちは隣人を殺すことはできないし、無である私たちに誰かを殺す権利もない。そのような権利を持つのは神だけだ。従って、絶対的平等の立場に立つ者は、暴力革命を否定しなければならない。ということになれば、謙遜を明白な真理とする回心した者こそ、圧制者にとってもっとも都合のよい存在になる。
 こうして二つの明白な真理、すなわち、革命と謙遜とが対立する。革命を明白な真理とする者にとって、謙遜を明白な真理とする者とは、打ち倒すべき敵に味方する者に他ならない。一方、謙遜を明白な真理とする者にとって、革命を明白な真理とする者とは、神を恐れぬ人間中心主義に陥った者に他ならない。従って、以上二つの明白な真理を容認する者は、その二つの真理によって実現される二つの平等を同時に実現することができない。そして、いつもこの二つの明白な真理によって引き裂かれてしまう。
 このような解決不可能なジレンマに捉えられたのがマルケルであり、ドストエフスキーなのだ。

(萩原俊治「ドストエフスキーと二つの不平等」)


 そうしてまた、私は『カラマーゾフの兄弟』から引用しましょう。

「アリョーシャ、あなたは将来あたしの言いなりになってくださる? このことも前もって決めておく必要があるの」
「喜んで、リーズ、必ずそうしますよ、ただいちばん大切な問題は別ですけどね。いちばん大切な問題に関しては、もしあなたが同意なさらなくとも、僕は義務の命ずるとおりに行います」


 さらに、これも引用します。

 エーガーステッターの意思はゆるぎのないもので不屈だった。教会に迫害を加え教義を破壊するナチ政権のために戦うことなど、彼には考えられないことだった。このような状況下であっても、数百万人ものほかのカトリック教徒が、民族のために義務を果たすことが可能だと思っていることをこの弁護士が指摘すると、エーガーステッターは簡潔に答えた。〈彼らには神の恩寵がないのです。〉弁護士はまた、教書のかたちにせよ説教によるにせよ、カトリック教徒に戦争を支持するなとか兵役を拒否せよとか呼びかけた司教がほかにいたかどうかを考えてみるように彼に強く求めた。エーガーステッターはほかの例は思い当たらないことを認めたが、同時に彼は、これは彼らもまた〈恩寵にあずかっていない〉ことを示す事実以外の何物でもないとつけ加えた。そこで弁護士は、〈シーザーのものはシーザーへ〉という聖書の戒告を引き合いに出し、エーガーステッターが何をよりどころとして、神学上の判断を下す責任をもつ牧師や司教よりもより〈カトリック的な〉境地に達したのかとたずねた。エーガーステッターは、個人の良心によってのみ得られる道徳的判断を下したのだと答えた。対話の最後に、弁護士が家族に対するエーガーステッターの責任に言及すると、彼はこの良心はもっとも切実な個人的問題にも優先すべきものであると答えた。

ジョージ・クライン「父なし子」 小野克彦訳 紀伊國屋書店ピエタ』所収)


 エーガーステッターは処刑されました。

 さらにこれも引用しましょう。あなたもお読みになった『神聖喜劇』(大西巨人)からです。

 ……こういうことに私が血眼になっても、それにどんな意味があるのか、あり得るのか。相手が「チチョウ」と読め、と命じるのなら、また上官上級者にはいつでも敬称を付けよ、と求めるのなら、そのとおりに私がしたら、よいではないか(……そうすることが私にできさえしたら……)。要するにあれもこれも蝸角の争いではないのか。本来は味方でなければならぬ(?)わが同年兵たちも、私がしつこく粘って事を長びかせるのに、往生して、嫌気が差しているにちがいなかろう。……私はこんな所でこんなことを言ったり行なったりするのにふさわしい人種ではなく、そういう言行を好き好む人間でもない。……「チチョウ」か「シチョウ」か、敬称付きか敬称なしか、それがどっちに転んでも、広大な客観的現実は右にも左にもかたぶきはしないであろうに。また私が向こうに転んでも、誰も私を責めはしないであろうに。……


 あなたの「正しいことは尊重されるべきだ。それはそうだ。ではなぜその正しいことは尊重されていないのか ── 相手が間違っていることに気づかない愚かな人間だからだ ── 本気でそう思うの?」とか、あなたの引用する「あなたには問題がある。そのことは職場の人たちも知っているし、奥さんも知っているし、義理のお母さんも知っている。そしてご近所の人たちも知っている。問題は、君自身が知らないということだ」 ( 『箱 ── GETTING OUT OF THE BOX 』)は、右の『神聖喜劇』における主人公東堂太郎の葛藤にどう答えるのでしょうか? もちろん、「問題」のあるひとがいて、そのことを「職場の人たち」も「奥さん」も「義理のお母さん」も「近所の人たち」も知っていて、たしかにその通りだというケースは私にもわかります。そういうひとはたしかにいます。でも、私は自分がそうだとは思いません。私のケースでは「職場の人たち」も「奥さん」も「義理のお母さん」も「近所の人たち」も間違っているのです。「一緒にするな」と私はいうわけです。これがあなたにはわかりません。そこで、あなたの「もう少し突き詰めると、気がついていないのではなく「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった。「あれと一緒にするな」と。私からすると「それ」と「あれ」と何が違うのか、そこを区別するのは何なのかと、更に考えた。傍目に見て同じようなものを区別するものは何か」ですが、どうしてそんなこともわからずに『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの「あなたじゃない」の意味がわかるでしょうか? あなたには全然わかっていません。あなたには『カラマーゾフの兄弟』がまったく読めていません。そのあなたが私の最先端=亀山郁夫批判を悪しざまにいうわけです。しかし、無理もありません ── そのことも私にはわかります。

── 大西さんが話されたことに関連して、もう一つ重要なことがあると思います。それは、何というか、「口先だけなら何とでもいえる」とも言えるし、「似て非なるものの区別がどの程度できるかが批評だ」とも言える問題です。

大西巨人 聞き手・鎌田哲哉『未完結の問い』 作品社)


「「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった」とか「傍目に見て同じようなものを区別するものは何か」と、いまさらに ── いや、本当にあなたはこれまでの人生でこのことを考えてみたことがなかったのか? ── 書くあなたが、読書においても実人生においても自分の「主観の砦」に立てこもるひとだということが私にはよくわかります。 ── と、私はいま「読書においても実人生においても」と書くことによって、あなたの「人格」を否定したことになるでしょうか? もちろん、あなたはそう思うに違いありません。しかし、そうではないのです。いまのあなたには詭弁としか思われないでしょうが、そうではないのです。私のいうことが詭弁としか思われないあなたに問題があるのです。そうして、もしあなたが私を追い払おうと思うなら、あなたは私にこういえばいいのです ── 「この神がかり行者め!」。

(つづく)