なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?(3)

── 再び「連絡船」の一読者へのメール

(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


 さて、あなたは私について「人を踏みにじるのはいけない、人に悪意をぶつけてはいけない、それをわかっている人」であり、「人の悲しみや思い込みによる呪縛やその害悪を憎み、それをなくそうと心を砕いている人」だと評価しつつ、その私がなぜ「「特定の条件下では人を罵り悪意をぶつけることが許される」と考えるのか」と問うておられます。つまり、この最先端=亀山郁夫批判を咎めておられる。私の答えはこうです。非常に簡単です。最先端=亀山郁夫の仕事が「人を踏みにじる」ものであり、「人に悪意をぶつける」ものであり、「人の悲しみや思い込みによる呪縛」をもたらすものであり、「害悪」なのです。私のやっていることは、最先端=亀山郁夫を罵るためのものなんかじゃありません。そうではなくて、あなたのいわれる「人」 ── 私の右に述べた「人間」 ── を守るためのものです。そうして、私は最先端=亀山郁夫に「悪意」など持ちません。私信でも書いたと思いますが、私には最先端=亀山郁夫なんかどうだっていいんです。私は彼が消えてなくなればいいと思っています。しかし、これは最先端=亀山郁夫の、いまの位置からの撤退 ── 謝罪および一連の仕事の撤回、著作の絶版・回収等 ── を望んでいるだけのことです。その先の最先端=亀山郁夫の具体的な人生のことなど知りません。私が自分の勤める書店での万引犯に望むこと ── 謝れ、これまでに盗んだものの料金を払え、もう二度と店に来るな ── と同じです。ただし、万引犯と最先端=亀山郁夫とで異なるのは、万引犯が自分のしたことを理解している ── 謝罪の意図があるかないかにかかわらず、たしかに自分の行為を理解している ── のに対して、最先端=亀山郁夫には自分が何をしたのかがまるで理解できないでいるということです。今後も理解できないでしょう。最先端=亀山郁夫を説得しようとしても無駄なのです。ついでに、万引犯の話もしますが、私は万引犯と関わり合うたびに自分がひどく傷つくのを自覚しています。捕まえて「どうだ、ざまあみろ」などと得意がったりなどまったくできません。万引犯を捕まえて問いつめていくほどに、自分にそんな偉そうなことをいえるはずもないという意識がどんどん強くなっていくんです。この苦痛をあなたに理解することができますか? できません。

 おそらくあなたは私のいう、最先端=亀山郁夫の仕事が「人を踏みにじる」ものであり、「人に悪意をぶつける」ものであり、「人の悲しみや思い込みによる呪縛」をもたらすものであり、「害悪」なのだ、ということが理解できないだろうと思います。たかが『カラマーゾフの兄弟』を誤訳だらけに翻訳しただけで、なぜその翻訳者の仕事が「人を踏みにじる」ものであり、「人に悪意をぶつける」ものであり、「人の悲しみや思い込みによる呪縛」をもたらすものであり、「害悪」ということになるのか? 何だ、それは? いったい何をいっているのか?  ── というふうだと思います。だから、私の批判が最先端=亀山郁夫を「罵り悪意をぶつける」ものにしか見えないのです。

 あなたには、ある作品を読んで、こういう作品は世のなかのすべての作家がどんなに力を尽くしても書きえないものだ、世界じゅうの十年、二十年単位、いや五十年、百年単位で考えても、こういう作品はそうそう生まれえないものだ、いや、こういう作品の生まれたのはまさに奇跡だ、とあなたが絶対的確信をもっていいうるような作品を読んだことがないのです。そうして、そのとき、そのあなたの確信が、あなたの主観なんかによるものじゃないということまでがあなたにわかっている ── そういう経験がないんです。だから、私の批判が最先端=亀山郁夫を「罵り悪意をぶつける」ものにしか見えません。

 この世界のなかで「文学」がどのようなものであるのか? それをあなたはまだ知りません。「文学」は「娯楽」でもなければ「教養」でも「知識」でもありません。あなたの「自分」=「私」を高める「手段」でもありません。「文学」は、あなたの「自分」=「私」の外にあるものではなく、あなたが「他者」とか「モノ」などというように客観的に見ることができるようなものなどではないのです。「文学」とは、「人間」であり、「あなた」なのです。

 しかし、私がこういっても、あなたにはわかりません。

 さて、ここで引用します。

 音楽は耳の勉強だ。だからききかたがわるければだめ。三味線はツボあたりがわるければ、いい音が出ない。あのながい棹だ、ツボがどこというところがない。
 ピアノは誰がひいてもそこの音は一応出る。三味線はそういかない。耳にはずれがあるものは、いい音をさがせない。耳がわるいひとはまちがっても、それがいい音だと思っている。いい音がどうして出るかの研究がないとそれだけの音しか出ない。
 いい耳になる勉強は、いい音をきくしかない。いいものをきくといいなと、その音に心がむくが、いまの人はまちがいなくひいたかどうかばかりみて、音色や気持のことはあまり思わない。

高橋竹山津軽三味線ひとり旅』 中公文庫)


 音色のことをかんがえれば三味線は今日一曲覚えて、明日別な曲をというふうにはやれないはずだ。耳について神経のない人はなんでもすぐ変った曲を覚えたがる。一ヵ月に二曲も三曲も覚えたといって自慢している人もいるが、それは数を覚えただけだ。そんなもの舞台でやったってだれもきく人がない。
 一つの曲をじっくりやって新しい曲になかなかすすまない人もある。しかし結局上達するのはその人のほうが早いし、なによりも人がきく。人がきける仕事をするもんだ。

(同)


 何年やったって、完璧にやれるということはない。やれることを一生懸命やって、やれないことはやれないとはっきり自覚すればいいんだ。
 やれないといったところで罰金とられるわけでない。やれる人にやってもらえばいい。ところがなにもやれないくせに、はっきりやれないというのが好きでない人がいる。そういうのに限って自分の仕事でも無責任きわまる、勉強もしない、それほど自分をみる眼がないんだ。
 自分はやれないと思えばこそ、勉強するもんだ。恥ずかしいといいながら、あまり本気で勉強もしない。

(同)


 右三つの高橋竹山のことばを、あなたと最先端=亀山郁夫とに捧げます。あなたも最先端=亀山郁夫も「まちがいなくひいたかどうかばかりみて、音色や気持のことはあまり思わない」ひとだと思います。最先端=亀山郁夫は「まちがいなくひいたかどうかばかり」みつつ、「まちがい」しかひけないひとだと私は思っています。真面目にいいますが、最先端=亀山郁夫というひとは、本当に「まちがい」を気にするひとです。にもかかわらず、なぜ最先端=亀山郁夫が「まちがい」しかできないか? 「まちがい」を気にするからです。あなたも同じです。最先端=亀山郁夫にもあなたにも「いい悪いっていう評価が …… 学校の教師の権限の行使ぐらいにしか思えていない」のです。

 あなたのお書きになった「相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ── 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ」というのは、まったく間違いです。「人を踏みにじるのはいけない、人に悪意をぶつけてはいけない、それをわかっている人」であり、「人の悲しみや思い込みによる呪縛やその害悪を憎み、それをなくそうと心を砕いている人」が、「人を踏みにじる」ことを自分の「真実」と「正義」とし、「人に悪意をぶつける」ことを自分の「真実」と「正義」とし、「人の悲しみや思い込みによる呪縛」をもたらすことを自分の「真実」と「正義」だとする相手を前にしたとき、どうすればいいとあなたは考えているのでしょうか? そのときでも、あなたは両者の対立を「どっちもどっち」という相対的視点でしか考えないのでしょうか? これを「大切なものの優先順位が違うだけ」などとしか考えないのでしょうか? しかし、しかたがありません。あなたのようなひとは実にたくさんいるでしょう。さらに「正しいことは尊重されるべきだ。それはそうだ。ではなぜその正しいことは尊重されていないのか ── 相手が間違っていることに気づかない愚かな人間だからだ ── 本気でそう思うの? 私にはそんな状況が「有り得ない」と思うから、その考え自体に驚愕する」とあなたの書かれたのに私は「驚愕する」 ── というより「やれやれ」と思う、「ああ、やっぱりそうか」と思う ── のです。

(つづく)