なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?(2)

── 再び「連絡船」の一読者へのメール

(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


 さて、右のようなひとたちのことを、あるいは、こういってもいいでしょう。修練を積んでいないひとたち、未熟なひとたち、初心者たち …… 。 ── と、こういうだけで、あなたは私のこのいいかたを傲慢だといって、非難するかもしれません。

 ちょっと、これを引用します。

「そんな簡単なことではないんだよな」と私は言った。「絵でも音楽でも、すべての人が共通に感動するものなんてないだろ? 『ここに窓がある』とか『いま音が鳴っている』みたいな物理的な次元だったらすべての人に共通にわかるけど、絵や音楽による感動はそういうものではない。だけど、いい音楽とダメな音楽という違いは厳然とあって、それは受け手の側の主観の問題だけでは片づけられない」
 ゆかりはちょっと警戒したような顔で頷いた。というか、言いたいことがあるみたいだったけれど、「聞いている」という意味でいちおう頷いた。
「それと同じことで、家にたいする記憶とか思いとか、そういうことが前提となって、それを基盤にして生まれてくる独特な感受性が醸成されている人にだけ見える現象っていうのも、全然ありえないわけじゃないんじゃないか ── ていうこと」
「え、 ── でもそれって、やっぱり主観ていうか、一人の人の心の中でしか起こらないことなんじゃないの?」
「だから、そんな単純なことじゃないんだよ」
 と言ったところで、台所からジョジョが「アーン」とも「オーン」とも聞こえるカン高い声で鳴いて私を呼んだので立ち上がると、私の動きに「待った」をかけるようなタイミングで、ゆかりが、
「でも、いい音楽とダメな音楽なんて、そんなこと誰も決められないんじゃないの?」と言った。
「おれも十九の頃はそういう言い方をする人のことを嫌いだったよ」
 と言って、私はジョジョが待っている台所へ歩いていき、ゆかりも、それからゆかりにつられてミケも、私のうしろからぞろぞろついてきた。
  …… (中略) ……
「さっきの叔父ちゃんの言い方って、ズルいんじゃないですか?」
 と、ゆかりが言い出した。
「『おれも十九の頃はそういう言い方をする人が嫌いだった』っていうやつか?」
 ゆかりがずうっと言いたそうにしていたので、私もそれを忘れていなかった。
「うん、だって、そういう言い方されたら、十九から先のことを経験していないあたしは何も言えなくなっちゃうじゃないですか」
「だから、そういうつもりで言ったんだよ」と、私は言った。
「『黙ってろ』っていうことですか?」
「『いまの自分が感じていることや考えていることがすべてではない』っていうことだよ」
「同じじゃないですか」
「そんなことはないさ」私は言った。
  …… (中略) ……
「十年後二十年後に自分がどういう風に変わっているのかという具体的なことはわからないけど、そのときもいまと少しも変わっていないとは、ゆかり自身だって思ってないだろ?」
 と言った。
「でも変わっていないかも知れないでしょ?」
 こういうバカバカしい反論は苛々するが、我慢して言った。
「さっきおれが『いい音楽とダメな音楽』って言ったときに、ゆかりが『違う』と思ったのは、いい悪いっていう評価がゆかりの中ではまだ、学校の教師の権限の行使ぐらいにしか思えていないからなんだよ」
「だって、いいとか悪いとかなんて、誰かが決めなかったら、そんなものどこにもないんじゃないですか?」
「それがあるんだよ」私は言った。
「だって、一人の人にはいい音楽だけどもう一人の人にはダメとか、そういうことしか言えないはずじゃないですか」
 私は理恵に替わってほしくなっていた。理恵と私が同じことを言うはずはないが、いまここにいる自分ばかりが大事だと思う気持ちを強引にどこかに連れていこうとする力では理恵の方が私よりずっと上だ。もっとも理恵とゆかりはそういうやりとりをもうさんざんやっているはずで、一面的な論理の使い方を覚えた十代の精神というのは結局言葉だけでは変えられないということなんだろうと思いながら言った。
「実際に自分の目で確かめられないところにも世界があるっていうことを、ゆかりは実感できないだろ」
「それとこれとは関係ないんじゃないですか?」
「関係あるんだよ。
 実感する?」


 あなたも右のゆかりと同じ ── あなたはゆかりよりもひと回りほど年長ですが ── です。「いまここにいる自分ばかりが大事だと思う気持ち」に憑かれたひとです。私はといえば、すでに右の「私」よりも年を取ってしまっています。そうして ── あなたのおっしゃるように ── 私はもうほとんどこの私がどんなことになろうが放っておけ、という気持ちです(あなたはこれをよくないことだとおっしゃる)。しかし、あなたの考えているのとは違って、この私というのは、私のためにあるわけではないんです。これは、私が私を大事にしないということではないんです。私に私がないということでもありません。私が私について無責任だということでも、もちろんありません。何度でもいいますが、私はこの最先端=亀山郁夫批判を好きでやっているのではないんです。私は私がこれにどれだけうんざりしているか、何度も書いてきました(それを信じてもらえないのでしょうか?)。ですから、もちろんこれは、私のなかにある「欲求」なんかのためでもありません。私は自分を偉く見せようとしているのではありません。そんなことに私の関心はありません。そんなことはどうでもいいんです。私は、しかたなく、他にどうしようもなくやっているんです。やらざるをえないんです。いいですか、私が執拗につづけているこの亀山郁夫批判は、私が自分のために ── 私の自尊心の満足のために ── やっているのじゃないんです。そうして、これはまた、やらなくてはならないことなんです。私はこれをやめるわけにはいかないんです。どうしてこれがあなたにわからないのでしょうか?

 ここから亀山郁夫にいつもの冠をつけることにします。

 これをいうのはつらいけれども、いいましょう。現在のあなたには、私の書いている最先端=亀山郁夫批判にあれこれいう力なんかないんです。あなたはまったく勘違いしています。最先端=亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』 にどれだけひどいこと、危険なことをしているか、その読者にどれだけひどいこと、危険なことをしているか、あなたはまったく理解していません。しかし、これは、修練を積んでいないひとたち、未熟なひとたち、初心者たちに恥ずかしいことではありません。しかたのないことなんです。 ── というと、さらにあなたは怒るかもしれません。しかし、私はあなたを上から押さえつけよう、あなたの意見を無理やりねじ伏せようとしているのではないんです。とはいえ、あなたにどう思えようと、これはどうしようもありません。

 いいですか、いまの『カンバセイション・ピース』の話でいえば、あなたと私との主観がどうであろうが、それとはべつに「いい音楽とダメな音楽という違いは厳然と」あるんです。そうして、私はそのことを知っています。あなたはまだ知らないんです。

 右の「いい音楽とダメな音楽」というのを、「いい作品とダメな作品」というふうにいい換えることにします。「音楽」に限らずに「芸術作品」全般というふうに考えてもいいんですが、いまここでは、「文学作品」ということで考えることにします。「芸術作品」とか「文学作品」などの定義を私はしませんが、こう考えてください。それを損なうことが、「人間」を損なうことになるものなのだ、と。人間はそれを必ず守らなくてはなりません。それは人間が「人間」であるからこそ生まれたものであり、「人間」の証であり、それなくして人間は「人間」でいられない。もちろん、それなくしては、あなたも「人間」でいられません。あなたも、あなたの周囲のすべてのひとも、あなたの次の世代、またその次の世代のひとたちも、です。しかし、当然のことながら、これもあなたには理解することができません。

 ずっと長いこと、私が周囲の誰彼からうんざりするほど聞かされつづけていることばが「ひとぞれぞれ」という返事なんですね。これとセットになっているのが「あなたは自分の価値観をひとに押しつけ過ぎる」ということばです。しかし、私は私の価値観=主観をそのひとたちに訴えているのではなくて、その主観とはべつに「作品」の「よい・悪い」が存在するのだといっているだけなんですが、そのひとたちにはどうしてもそのことがわかりません。わかろうという気すらありません。あなたはこの「連絡船」の初期からの読者でもありますから、私が作品の「よい・悪い」と「好き・嫌い」をごっちゃにしてはいけない、と口を酸っぱくしていいつづけているのをご存知のはずです(この稿を書くために、あの頃の文章 ── 「航行記(1)・(2)」 ── を斜めに読み直してみると、われながら驚くほどいまと同じです。まるで当時からこの亀山郁夫批判をしていたかのようです)。ともあれ、「ひとそれぞれ」という返答を受けるたびに私は毎回小さくないダメージを受けています(ダメージを受けるということは、私の馬鹿馬鹿しい自尊心がダメージを受けているということです。しかし、そんなことはどうでもいいんです)。で、私にそう返答するひとたちは、自分の主観の砦のなかに閉じこもるわけです。あなたも同じです。

 いい作品とダメな作品という違いは、あなたや私の主観にかかわらず、厳然としてあります。そうして、私は「作品」というのが、作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡だ、と、これも口を酸っぱくしていいつづけてきています。作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡でないものを「作品」などと呼んではなりません。

 さて、あなたがた「ひとそれぞれ」のひとたち、自分の主観の砦を大事にするひとたちは、ここまでを読んですら怒りと不快に包まれることになります。自分たちが馬鹿にされているように感じ、私を傲慢だと感じるわけです。そんなふうにあなたがたが感じるのは、あなたがたの読書が甘っちょろく、薄っぺらいからです。あなたがたが自分のために読書しているからです。あなたがたが読書しながら、その読書している自分というものを大事にしすぎているからです。自分が当の作品をきちんと読めているかどうか、いつも自信を持てないからです。あなたがたの読書が「好きだ」、「気に入った」などであり、そのとき必ず「自分が」となるような読書だからです。あなたがたの「自分」なんかどうだっていいんです。それがわからないから、私のことばに怒りと不快とを感じるんです。いいですか、読書するときに、あなたがたのちっぽけな「自分」なんかどうでもいいんです。べつのいいかたをすれば、あなたがたの「自分」がちっぽけにしか思えない ── しかも、そんなことすら気に留まらない ── ような読書をしなくてはならないんです。そういう作品をどんどん読むべきなんです。「自分にはこの作品を理解できていないかもしれない」なんて不安すら忘れさせるような圧倒的な作品こそを読むべきなんです。そういう読書経験がないから、いつまでたっても、自分可愛さで、読者の主観とはべつのところでいい作品とダメな作品という違いが厳然としてあることを認められないんです。いいですか、読者としての「自分」のことなんか放ってしまえばいいんです。読者は作品に奉仕しなくてはならないんです。そして、いいですか、読者が奉仕すべきものだけを「作品」だと私はいうので、世のなかで「作品」という名目で流通しているもののすべてについていっているのではありません。つまり、いい作品とダメな作品ということでいえば、読者が奉仕すべきなのは「いい作品」にだけだということです。そうして、「ダメな作品」は実は「作品」ですらありません。

(つづく)