なぜあるひとたちの目には最先端=亀山郁夫批判が醜悪に見えるのか?(5)

── 再び「連絡船」の一読者へのメール

(この章は一昨年、二〇一二年八月十四日に書き上げていたものです)


 やや話がそれますが、右の事情がまさに『カラマーゾフの兄弟』読解ということで私の書くことの今後の重要な主題になります。あなたの「もう少し突き詰めると、気がついていないのではなく「これは、あれとは、違う」という考え方があることがわかった」とか、「相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ── 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ」という態度がどれだけあなた自身の「自尊心の病」ゆえのものであるのか、どれだけアリョーシャがそれに抗していたか、ということで書くことになります。

「読書」というものは、あなたがいま考えておられるものとは違うのです。「文学」というものは、あなたがいま考えておられるものとは違うのです。「世界」というものは、あなたがいま考えておられるものとは違うのです。「人間」というものは、あなたがいま考えておられるものとは違うのです。「あなた」というものは、あなたがいま考えておられるものとは違うのです。しかし、いまのあなたにはわかりません。

 だいぶ以前に私はこう書きましたね。覚えていらっしゃいますか?

 そんなふうにしか作品を読み取ることのできない最先端=亀山郁夫の翻訳でも『カラマーゾフの兄弟』の本質が損なわれることがないだの、彼の誤訳が単に部分的・表層的な問題(あるいは部分的な解釈の違い)でしかないだの、自分にはロシア語がわからないから誤訳を云々する資格がないだのと考えるひとは、もう「文学」に手をつけたり、論じたりするのを一切やめろ、と私はいいます。なぜなら、これは構造的・深層的な問題だからです。『カラマーゾフの兄弟』のつくり・構造と内容とがばらばらだとでもいうんですか?「文学」を何だと思っているのか?

 ……小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。

(「わからないときにすぐにわかろうとしないで、わからないという場所に……」)
(〈『カンバセイション・ピース』(保坂和志 新潮文庫)〉解説)


 最先端=亀山郁夫の翻訳が一見『カラマーゾフの兄弟』らしく思えるのは、彼が単に目の前にある原典のテキストの一文一文をその場しのぎに、ある程度にはなんとか追えているから ── 彼に一文一文のつながりや構造の意味がわからないままでも、とにかく目の前にあるロシア語を日本語に置き換える作業だけはしているから、なんとか格好がついてしまっている、ただそれだけのことです。一文一文をそれぞれ検討すれば間違いではないかもしれないけれど(しかし、膨大な誤訳がすでに専門家たちによって指摘されています)、文脈上・構造上では明らかに誤っているというわけです。私がずっと問題にしているのは、最先端=亀山郁夫の個々の表面的な誤訳だの改行だのなんかじゃありませんよ。また、私は原卓也の訳が完璧だなんていってもいません。原訳にも誤りはあるだろうといっています(先の専門家たちにもそれは指摘されています)し、さらによい訳を願うともいっているんです。それよりも、最先端=亀山郁夫がひどすぎるというんです。私が問題にしているのは、最先端=亀山郁夫のあまりの読解力のなさです。あまりに低レヴェルであるどころか、レヴェル云々以前の、いいかげんのでたらめだらけだというんです。『カラマーゾフの兄弟』の全体をこうまで読み取れていないひとにこの作品を訳せるわけがないといっているんですよ。いつまでたっても、これのわからないひとがいる。私が問題にしているのは、翻訳が原作の構造的な意味を汲み取ってなされているかどうかということです。極論すると原作の構造的な意味の汲み取りさえ正確にできていれば翻訳はもうそれだけでいいんです。表面的な個々の誤訳なんかいいんですよ(ない方がいいのはもちろんですけれどね。しかし、原作の構造的な意味の汲み取りが正確にできていればいるほど、表面的な誤訳も減るだろうと私は思います)。いいですか、原作の構造的な意味を汲み取らずに、その一文一文を追いかけたって無駄だというんです。原作の一文が長文であるなら、それは原作が自ら構造的に要請した長文であるはずだから、基本的には、それを細切れに訳しては ── いくら日本語として読みやすくなろうが ── 駄目なんですよ。ごく普通の日本語としてどんなに読みづらかろうが、構造をそのまま訳すことが第一です。構造をそのまま訳すことができるためには、原作をきちんと読み取ることが不可欠です。最先端=亀山郁夫はもうそのことだけでひどすぎるんです。原作の構造的な意味を解さず(また解そうともせず)に、原卓也訳と亀山郁夫訳のそれぞれの表面的な誤訳なんかを採りあげて「どっちもどっち」なんていうレヴェルの考察をいくらやったって無駄です。最先端=亀山郁夫の場合では、彼の訳した一文一文が作品の構造的な意味を理解せずになされたもの(だから、それらはべつに『カラマーゾフの兄弟』の一文一文でなくてもかまわないもの・『カラマーゾフの兄弟』の構造・文脈を離れて、『カラマーゾフの兄弟』とは無関係に、単にそこに書かれているロシア語の一文一文にすぎないものをばらばらに日本語にしただけ)であって、その一文一文は作品としての『カラマーゾフの兄弟』を構築している、それぞれに必然性のある、揺るがせない一文一文、相互につながって全体を支えている一文一文ではありえない、といっているんです。最先端=亀山郁夫の提出した「結果」としての訳なんかどうだっていいんです。だいたいが、私はそれを読んでもいない。私は、最先端=亀山郁夫の訳出の「過程」=読み取りが問題だといっているんです。「作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡こそが作品」であるからには、でたらめだらけ・低レヴェルの読み取りしかできていない最先端=亀山郁夫には翻訳ができませんし、すでに提出されている訳を翻訳と呼ぶことはできません。少なくとも原卓也にはこの作品における「作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡」が正しく理解できています。それで、なおいいますが、私のここまで延々とつづいている一連の文章を読んで、「たしかに「あなたじゃない」の亀山解釈はおかしいなあ、たしかにジューチカ=ペレズヴォンのはずなのに亀山解釈はめちゃくちゃだなあ、たしかに「大審問官」の亀山解釈は的はずれもいいところだなあ、しかも、それらはみな構造的につながってもいるじゃないか」と認めつつ、「だからといって、亀山先生の訳が素晴らしいことに変わりはない」なんてことを考えているひとは最悪です。もう根本的に間違っている。作品の「なにが」が「どのように」に支えられていることがわかっていない。そんなひとの読書こそ「最先端=亀山郁夫的読書」だというんです。そんなひとはもう「文学」から足を洗え、そんなひとには「文学」の一切がわからない、と私はいいます。また、私がこうまで最先端=亀山郁夫を批判する理由が『カラマーゾフの兄弟』への敬意だということがわからないひとも、さようなら。そういうわけで、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は『カラマーゾフの兄弟』ではありません。だから、亀山郁夫への批判という意味を持たせずに、亀山訳を引いて『カラマーゾフの兄弟』について語る(「表面的にはこれでも間違いじゃないよね」などと考える)ということをするひとがいるとすれば、そのひとはもうそれだけで駄目ですね。


 私のやっているこの最先端=亀山郁夫批判が「暴力的」であり、「人格を踏みにじる行為」であり、実は批判などではなく「誹謗中傷」に過ぎない、というように考えているあなたのようなひとたちには、右の私の文章が私個人の強い自尊心の表明 ── 「俺のいうことをきけ! 俺は正しいのだから!」 ── だとしか読めないのでしょう。何度でもいいますが、私にはこの私なんかどうでもいいんです。私はこの私の正しさを主張したいのではないんです。私は私の外にある正しさに従っているだけです。ところが、あなたがたはそうは読みません。「相手には相手の真実があり正義があり、その正義が、「相手の正義と自分の正義と相容れない」状況は当たり前に生じる。違うだけ ── 相手と自分が大切にしているものが、大切なものの優先順位が違うだけ」 ── というふうに、問題を最先端=亀山郁夫と私とのそれぞれの個人的な自尊心の問題にすり替えてしまうのです。そのすり替えの上に立って、自分たちの「ひとそれぞれ」の「読書」を検討することすらせず、さらにはあなたのように、まるでこの私の身を案じるかのような口調で私を諌めにかかるひとがいるわけです。違うんですよ、私は私のためにこの批判をつづけているのではないんです。逆にいえば、あなたがたこそが自分たちの自尊心 ── 「主観の砦」 ── を守るために、私の批判を正視できないのです。
 この「最先端=亀山郁夫現象」批判を正視するためには勇気が必要なのです。目先の安心にしか心が向かない ── 単に目の前の争いが嫌い・「批判」というだけで嫌いだ・自分で考えるということができない ── ひとには正視できません。それゆえ、「最先端=亀山郁夫現象」がどれだけ危険なものであるか、あなたがたにはわかりもしません。いつの日か、あなたがたの周囲がどれほど悲惨なことになってしまっても、まさかそれがこの「最先端=亀山郁夫現象」をかつてあなたがたが放置したためだなんてことには思いも及ばないでいられるのです。

 覚えておられるでしょうか? 私はこれもだいぶ以前に引用しました。

Books are burning
In the main square, and I saw there
The fire eating the text
Books are burning
In the still air
And you know where they burn books
People are next

(Andy Partridge (XTC) 《 Books Are Burning 》)


 書物が焼かれる=ドストエフスキーが歪曲される ── のならば、次に焼かれるのはあなたがたです。

 誰が書物を焼くのか? 誰が「人を踏みにじる」のか? 誰が「人に悪意をぶつける」のか? 誰が「人の悲しみや思い込みによる呪縛」をもたらすのか? 誰が「害悪」なのか?

 前回の「「連絡船」の一読者へのメール」で書いたように、私がこの一連の記述を通して批判しているのは、

 一 亀山郁夫自身
 二 亀山郁夫と仕事をした編集者たち
 三 その編集者たちを抱える出版社・放送局
 四 書評、インタヴュー等で亀山郁夫を称揚するひとたち
 五 そうした書評、インタヴューを載せる出版社、放送局、新聞社等
 六 亀山郁夫の仕事の実質も知らずに安易に対談する作家、タレント等
 七 亀山郁夫を批判できずにいるロシア文学界の面々
 八 上記のことをまったく理解せぬまま、亀山郁夫をありがたがる一般読者たち
 九 その他

 ── でした。

 私は最先端=亀山郁夫よりもはるかに罪の重いのが「二」から「七」のひとたちだと思っています。それで、「二」から「七」のひとたちを批判するためにどうしたらよいか? 「一」を批判することしかありません。つまり、最先端=亀山郁夫を批判することです。最先端=亀山郁夫の仕事がどれほどひどいものであるのか、どれほど低レヴェルのものであるのか、どれほど「素っ頓狂」なものであるのか、どれほど狂っているものであるのか、どれほど滑稽なものであるのか、どれほど悲惨なものであるのか、どれほど罪深いものであるのか、どれほど無能な人間の仕事であるのか、を訴えることしかありません。

「二」から「七」のひとたちと比較するなら、最先端=亀山郁夫の罪など大したことはありません。最先端=亀山郁夫は単に無能であるだけです。もし、最先端=亀山郁夫が無能でないのならば、当然、彼の罪はそれだけ重くなる理屈です。最先端=亀山郁夫のように無能でないはずの「二」から「七」のひとたちは、少なくとも自らの過ちを認める能力があります。しかし、仮に「二」から「七」のひとたちが過ちを認めたとしても、最先端=亀山郁夫にはその正しさを理解することができません。いきなり梯子を外されたようにしか思うことができないでしょう。自分の仕事が純粋にそれ自体でこれまで「評価」されてきたとしか彼には理解できないのです。もちろん、そうではありません。彼の「評価」は、「二」から「七」のひとたちが持ち上げようとしたために持ち上がったにすぎません。そのことが彼には到底理解できないでしょう。あなたには、最先端=亀山郁夫にこの理屈が理解できると思われるのでしょう? しかし、まさにあなたがこの問題の大きさを理解できないように、彼にも理解することはできないのです。もし彼に理解できていたなら、『カラマーゾフの兄弟』につづいて『罪と罰』、『悪霊』などへと手を出すことなどできませんから。

 以上はほぼ昨年のうちに書きあげていた文章ですが、今年もすでに七か月が過ぎようとしています。私はさらに何をいえばいいでしょうか? あなたはこの問題を当事者としてでなく、離れた ── 安全な ── 場所から公平に眺めることができるとお考えです。そうして、問題を最先端=亀山郁夫とその反対者 ── 両者の自尊心の衝突 ── という構図にすり替えてしまっているのです。ここであなた自身の読書 ── そしてあなたの「人間」 ── が問われているなどとは思いもよりません。読書するにも勇気や信念は必要なのです。

(つづく)

http://http://www.youtube.com/watch?v=2Rx55LfTRLs