さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!(5)



(この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)


 この「亀山郁夫現象」といわれるもののなかでいちばん性質(たち)の悪いのが、沼野充義のような「専門家」です。

 なぜ一般の読者が最先端=亀山郁夫の仕事に騙されるのか? その読者に読書の力がない ── いくつもの批判を知りつつ、いまだに最先端=亀山郁夫を称揚する一般読者たちに向けて私はもう何かを主張したいとも思いません(私が何かを訴えたいのはべつのひとたちにです) ── からでもありますが、新聞やテレビや雑誌などのマスコミが最先端=亀山郁夫を称揚しているからです。マスコミが余計なことをしなければ、最先端=亀山郁夫の流した「害悪」も最小限で食い止められたでしょう。そのマスコミが最先端=亀山郁夫を称揚しつづけるのはなぜか? 「専門家」たちが真実をいわないからです。「専門家」たちの沈黙と、そうして嘘がマスコミの動きを止めないんです。もちろん、敢然と最先端=亀山郁夫批判をしつづけている「専門家」たちは少数ながらいます。しかし、マスコミは、彼らにとってより「権威」のある ── 以前からコネクションのある ── 「専門家」たちに従おうとしているんでしょう。自分で考えてみれば、すぐにわかることをわかろうとせず、そうするんですね。つまり、マスコミは自らの仕事の責任を右の「専門家」たちに帰すんです。「だって、一部の「専門家」たちは批判しているかもしれないけれど、おおかたの「専門家」たちが亀山先生を褒めているじゃないか=批判していないじゃないか」というわけです。また、同時にこうもいうことになります。「だって、これだけたくさんの読者が亀山先生の翻訳を褒めているじゃないか」。この醜さはどうですか? 最先端=亀山郁夫の翻訳を褒めてしまったたくさんの読者というのは、実は騙されてしまっているという自覚のない被害者たちなんですけどね。マスコミは、自らその被害拡大に加担している ── つまり「加害者」である ── にもかかわらず、その責任を「専門家」たちと「読者」たち、すなわち、「加害者」たちと「被害者」たちとに押しつけるわけです。

 ともあれ、最も罪の重いのは、真実を口にしない「専門家」たちです。「専門家」であるにもかかわらず、彼らは自分がこの問題に関係がないと思っているでしょう。いろいろな言い訳があるでしょう。自分はドストエフスキーの専門家ではないから。自分はドストエフスキーの専門家ではあるけれど、最先端=亀山郁夫の扱っているテーマの専門家ではないから。他人の仕事の批判をしている時間などないから。 …… 等々。
 そうして ── まだましな例では ── 、もし自分が最先端=亀山郁夫を批判することがあるとしても、それは自分の専門の範囲内でしかしない=それ以上のことをすれば、それは最先端=亀山郁夫への「人格攻撃」になるから。この言い分はわからなくはない ── こういうひとが百人出てくれればよいと思います ── ですが、私がこういうひとたちにいいたいのは、それではこの問題全体を矮小化をすることになるだろうということです。私はあなたがたにいいます。この最先端=亀山郁夫現象は、もはやあなたがたがいま上品に ── あるいは下品にならずに ── 自分の批判の範囲内に留まっていてよいほど小さな問題ではないのです。あなたがたは、 ── いまのあなたがたの認識では ── 自分の手が汚れてしまうというほどのところへまで深入りしなくてはならないのじゃないですか? 最先端=亀山郁夫の誤りをあなたがただけがわかっていても駄目なんです。あなたがたはそれを他のひとたちに伝えなくてはなりません。伝えているよ、自分の専門の範囲内で。いいえ、いまや、それだけでは足りないんです。「読者」たちのことをあなたがたは本気で心配していますか? ことに、若い「読者」たちのことを。最先端=亀山郁夫の仕事が彼らにとってのスタンダードになってしまって、それでもあなたがたは平気なんですか? あなたがたはもっと踏み込まなくてはならないのじゃないですか? そのことによって自分の手が汚れてしまう ── とあなたがたが感じる ── ことになろうとも。あなたがたがそうしていれば、素人の私なんかがここまであれこれしゃべらなくてもよかったんですけれどね。自分は「専門」の「範囲内」で手を汚さずにいて、私のおしゃべりを「人格攻撃」呼ばわりしますか? なぜ素人の私がここまでしゃべらなくてはならなかったんですか? 素人の私がどれだけこのことにうんざりしているか、あなたがたにはわかりもしない。このいまに至っても、まだ私たち ── あなたがたの「範囲内」なんかでは収まらない現状を直視している ── の批判を「人格攻撃」呼ばわりできるあなたがたの神経を私は疑います。いや、この「人格攻撃」ということばが曲者で、あなたがたはこれを隠れ蓑にしさえすればいいわけなんですよね。そうすれば、誰からも嫌われない。波風も立たない。「読者」のことなんかどうでもいい。

 さて、「専門家」たちのなかで最も性質(たち)の悪いのが沼野充義です。なぜなら、沼野充義は「専門家」であり、なおかつ、一般読者に ── ということは、一般読者たち向けの本の出版社の編集者たちにも、ということはマスコミにも ── 名の知られた人物だからです。さらに、日本ロシア文学会の会長だからです。

 しかし、もういいかげん、このおしゃべりにもうんざりしてきました。予定より短く切り上げることにしましょう。

沼野 ところが、私が見ていて思うのは、『カラマーゾフの兄弟』が非常に売れて社会現象となって以来、亀山さんの存在そのものが、いまの日本の読書界の中で非常に重要な位置を占めることになった。その結果、自然と現代の作家たちとのつきあいが増え、対談や批評の場にもしばしば引っ張り出されるようになった。このところ、加賀さんや高村薫さんと対談をしたりとか、村上春樹について本格的な評論を書いたり、大江さんの書評をしたりとか、目覚しい勢いで活躍されています。面白いのはどんな日本文学作家を論じても、やっぱりすべて『カラマーゾフの兄弟』を訳し、ドストエフスキーにとり憑かれた人間の立場からの読みになっていることですね。その意味では、亀山さんは日本文学の風景の中に『カラマーゾフの兄弟』を引き入れたという功績があると言ってもいい。どうでしょう、そんなふうに現代の日本作家と接してみて、ドストエフスキーとの関わりにおいて何か共通するものがありましたか?

沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)


 これはだいぶ以前にも書いたことですが、それとまったく同じで、右の発言でも沼野充義は「やけくそ」です。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。


 さて、ここからは「おまけ」です。

 問題 次の三つの引用を読んで、私がなぜそれらを引用したのか、考えよ。

 引用その一。

ロシア文学 : 音楽と密接な関わり 『カラマーゾフ』は「第九」を意識
亀山郁夫東京外語大学長に聞く

 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の新訳などで高い評価を受ける亀山郁夫東京外国語大学長(ロシア文学)が新著『チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽』(PHP新書)を刊行した。ロシアにおける文学と音楽の関わりについて、亀山さんに聞いた。【梅津時比古】
ドストエフスキーはベートーベンの『第九』を意識して『カラマーゾフの兄弟』を書いたと信じています」と、著書にも書かれていない新説をまず語ってくれた。「第九」は言うまでもなく、シラーの詩をテキストにした「歓喜の歌」を終楽章に持つ交響曲である。
「『カラマーゾフの兄弟』では頻繁にシラーの詩が引用され、全体に音楽的感興に満ちています。ドストエフスキーは若い頃にシラーの理想主義から強い影響を受け、フーリエ主義(ユートピアを求める社会主義)にも近づきますが、シベリア流刑で理想と民衆の現実との乖離(かいり)を知る体験を経て、理想主義から離れます。しかし『カラマーゾフ』で再びシラーに戻り、異端も何もかも取り込んで、現実と理想との融合を図ろうとしている。『カラマーゾフ』はユートピア的な社会主義へのシンパシーを表すと同時に、キリスト教の礼賛でもある二重構造になっています」
 空虚5度の和音で始まる「第九」の神秘的な冒頭は、小説ではどこにあたるのだろうか。

毎日新聞 二〇一二年四月十二日 東京夕刊)


 引用その二。

 最後に、亀山先生はこう語ってくれた。「人間の体験や心情、内面的なものを深く詳細に表現できるのは、やはり言語によってです。そして、映画や演劇など様々な芸術表現がありますが、文学というのは何よりもダイレクト、かつ強いインパクトを私たちに与えてくれるものです。一方で、音楽というのは非言語的なものですが、これは文学や言語をさらに豊かにしてくれるものではないかと私は考えています。『カラマーゾフの兄弟』のラストシーンを訳しているとき、なぜか体中をベートーベンの『交響曲第9番』が流れ、私は何とも言えない高揚感に包まれたのです。音楽のような非言語的なものというのは、言葉に広がりを持たせてくれます。言語と非言語が共に積み重なり、何か素晴らしいものを生み出すのです。言語的感性を磨きたければ、非言語的なものにも触れること。これは、英語を学ぶうえでも大切なことなのではないか、そんなふうに私は考えています」

(「『自分には必要ない』と扉を閉ざさないで。世界はきっと、喜びに満ちている。」
http://www.eiken.or.jp/eikentimes/lounge/201201.html


 引用その三。

亀山カラマーゾフの兄弟』のフィナーレは、希望の提示ではありません。「カラマーゾフ、万歳!」は、一瞬の興奮であり、酔いであり、永遠と運命の圧倒的な力の前でのつかのまの酔歌です。それでいいのだと思います。カタルシスでよいのです。フィクションそのものに、人間の情動を根源的に揺り動かす何かがあれば、それ自体が希望です。生命の蠢きを瞬間的に可能にする何かの力があれば、上っ面な希望は要らない。文学の使命はもはやそんなところにはないと思うんですよ。

沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)


 ああ、馬鹿馬鹿しい。

(二〇一二年八月十四日)


(つづく)