さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!(4)



(この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)


 そうして、沼野充義がこれに乗っかります。

沼野 それはさておき、亀山さんが取り上げた『罪と罰』で「ラザロの復活」が読まれる場面に、話題を戻しましょうか。
 これはとても大事な、『罪と罰』を読んだ人なら誰でも覚えているに違いない場面ですが、そこに亀山さんは、権力を意識したドストエフスキーによる一種のカムフラージュを読み取ろうとしています。これはかなり大胆な推測であって、そう読める可能性があるかもしれませんけれども、そういう読みをするのはドストエフスキーに対する冒瀆であると感じる愛読者も多いのではないでしょうか。端的に言ってしまえば、もしそうだとすれば、作家が権力の目を気にして、小説の中で一種の偽装工作をしたということになるからですね。私は個人的にはそういう推測は「あり」だと思いますが、そんなふうには考えたくない、そんなことを考えること自体作家に対する侮辱ではないか、と思う愛読者たちの心情も理解できます。いまそのことはあえて置いておきましょう。

沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)


 さらには、次のような補足も。

沼野 まあ、この「続編」構想問題はさておくとして、亀山さんが自説として展開しているドストエフスキー「二枚舌」説の議論は、大いに傾聴すべきものだと思います。先ほど出た「ラザロの復活」の読みもその一例と言えるのですが、ドストエフスキーが「二枚舌」であったなどという主張は、いろいろと差しさわりがある、というか、要するに、ドストエフスキーを尊敬している人たちの気持ちを逆なでするようなところがあるわけですよ。しかし、私自身はドストエフスキーは常人をはるかに超えた恐るべき天才だったと思いますが、権力や金や女性といったさまざまな誘惑に無縁であった人ではけっしてなかったとも思うので、彼が百パーセント清廉潔白な聖人だったなどとは思いません。「二枚舌」的なことは、彼にも当然あったでしょう。
 ただし、「二枚舌」という言葉は人聞きが悪いというか、感じがよくないのですね。それで私なりにこの問題についてもう少し慎重な言い方をすれば、ドストエフスキーという人には、皇帝を中心とした権力に惹かれ、忠誠を示す志向性を一方で持ちながら、その反面、皇帝を暗殺しようとする革命家たちの暗く危険な心情も ── けっして明言したわけじゃありませんけれども ── 理解していた。そういう二重性があったということじゃないでしょうか。
  …… (中略) ……
 ラジンスキーの仮説は小説家的な空想力のなせる業で、ちょっと無理がありそうですが、いずれにせよ、皇帝権力側から見た場合、ドストエフスキーはシベリア流刑以後、「改心」して保守派の論客になったとはいえ、どこか信用しきれない危ないものを抱えた要注意人物でありつづけたのではないでしょうか。いくら彼が表面的には民族主義者であり従順な皇帝の臣民であるようにふるまっていても、権力者の側からすれば、やはり「この男は危ない、信用できない」という疑いが払拭できなかったのではないか。そして、ドストエフスキーの側も、自分が権力側に百パーセント信用されていないということはうすうす感じていたのではないか。と、まあ、私自身、そんなことを考えていましたから、私にとって亀山さんの「二枚舌」説は驚くべきものではなく、基本的には支持できるものです。

(同)


 もちろん、この公開対談のはじめから沼野充義は何かを恐れているわけです。恐れているから、なんとかそれを封じ込めようとします。ここでもその工作を行なっているんですね。最先端=亀山郁夫の愚かしい読み取りを正当化すると同時に、その愚かしい読み取りへの批判を矮小化し、封じ込めるわけです。どうやって、そうするか? 笑っちゃいますが、「愛読者」、あるいは「ドストエフスキーを尊敬している人たち」という括りを設けることによって! つまり、沼野充義はまたしても翻訳の「質」に触れずに、それを「愛読者」、あるいは「ドストエフスキーを尊敬している人たち」の読みかた、「ひとぞれぞれ」の「趣味」だとか「嗜好」だとか「思い入れ」の問題にすり替えるんです。

 では、沼野充義はすでに自ら知っているはずのこのことについてどう考えているのか答えてみるがいい。最先端=亀山郁夫のいうドストエフスキーにおける「二枚舌」(左の文章での「イソップ言語」 ── なぜ「イソップ言語」なのかということについても、左の出典元に書かれています)について。

 なるほど、亀山のいう「そういう、ごくあたりまえに思えるような研究」、すなわち、ドストエフスキーの小説におけるイソップ言語の研究はこれまで行われてこなかった。しかし、繰り返すが、それはドストエフスキーがイソップ言語を使って作品を書いていないからにすぎない。もしドストエフスキーがイソップ言語を使ってロシア帝国ロシア正教会の批判をしていたとすれば、ソ連の研究者たちはソ連への忠誠を示すために、サルトィコーフ=シチェドリーンだけではなく、ここぞとばかりにドストエフスキーをも「先進的な作家」として礼賛していただろう。しかし、そんな風にはならなかった。ソ連ドストエフスキーは危険な作家というレッテルを貼られたままだった。当たり前の話だが、ロシア語を母語とするソ連ドストエフスキー研究者は、日本人の亀山など足もとにも及ばないほどロシア語ができる。また彼らの目は節穴ではない。

(萩原俊治「亀山郁夫とイソップ言語」 ── 「こころなきみにも」
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20100612/1276307504


 さらに、

 繰り返すが、亀山が言うようにドストエフスキーの作品に「反体制的な言説が、作品の内部に」織り込まれているとすれば、ソ連の研究者たちはドストエフスキーを「先進的な作家」として賛美しただろう。また、ドストエフスキーの同時代人たちもドストエフスキーを保守反動と呼んだりはしなかっただろう。
 私がドストエフスキーの読者に言いたいのは、どうか、こんな、少し考えれば誰にでも分かるような亀山の嘘に欺されないでほしいということだ。

(同)


 もちろん、沼野充義はきわめて常識的に「ドストエフスキーの作品に「反体制的な言説が、作品の内部に」織り込まれているとすれば、ソ連の研究者たちはドストエフスキーを「先進的な作家」として賛美しただろう」ということを知っているはずです。なぜそれをいわないのか? それをいわないで、沼野充義は何といったのか?

沼野 私は個人的にはそういう推測は「あり」だと思いますが、そんなふうには考えたくない、そんなことを考えること自体作家に対する侮辱ではないか、と思う愛読者たちの心情も理解できます。いまそのことはあえて置いておきましょう。

沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)


沼野 そして、ドストエフスキーの側も、自分が権力側に百パーセント信用されていないということはうすうす感じていたのではないか。と、まあ、私自身、そんなことを考えていましたから、私にとって亀山さんの「二枚舌」説は驚くべきものではなく、基本的には支持できるものです。

(同)


 沼野充義はこんなに簡単に最先端=亀山郁夫の説を「支持」なんかしてはいけないんです。沼野充義の「私自身、そんなことを考えていましたから」の「そんなこと」程度が最先端=亀山郁夫の「二枚舌」説にどこまで関われるものなのか? それが問題なんです。いいですか、あるひとが他人の説を「支持」するというなら、彼がその他人の説にどこまで深入りしていけるかが問題になります。かりにその説に対してどこかから批判が加えられたとして、彼がその他人の代わりに、その説の一定の深部についてまでであれば、答えうるというのでなければなりません。そういう覚悟が沼野充義にあるのか? ないと思いますよ。ほんの入口やきっかけ程度にしか同意できない説などを「支持」などできないし、また、「支持」しているなどと口にしてはなりません。そうして、沼野充義はこの最先端=亀山郁夫の「二枚舌」説を検討しだせば、たちまち萩原俊治の指摘したことに突き当たらざるをえないことを自分で承知しているでしょう。

 いやいや、沼野充義は「支持する」と口にしたのではありません。「基本的には支持できるもの」といったのでした。何ですか、この「基本的には支持できるもの」というのは? これは、誰が「支持」するというんでしょう? なぜ沼野充義は「私は支持します」といわなかったんでしょう? 沼野充義は「支持」するんですか、しないんですか? 何ですか、この「基本的には」というのは? どういうつもりで沼野充義はこんなことをいうのか?

 つまり、沼野充義には自分でひとつも責任を負うつもりがないんです。最先端=亀山郁夫の「二枚舌」説なんかに関わりたくないんです。できれば、知らなかったことにしたい。そういうわけで、沼野充義は「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を発揮します。いったい何のために? 「ドストエフスキーを筆頭とするロシア文学の魅力再発見の機運」の広告塔である最先端=亀山郁夫を損なわないために、です。沼野充義はもうひたすら、どうしたら自分が責任を負わなくてすむか、ということでしかしゃべっていません。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。

 ここで、最近に私が読んだ本からこの沼野充義にぴったりな引用をしてみます。

 東大の人が得意とするのは、ある問題について書かれたものを大量に読み、それを幾つかのグループに分けて「○○論者」として分類し、その意見をまとめてしまうことです。そして、それぞれの「代表的論者」を二、三とりあげて、主張を整理します。そして自分の意見はというと、そのどれにも属さないものなので、全体を相対化するものだ、というスタンスを取ります。そうすると、どれかに属する人は、その外側に立って「冷静に観察」している人よりもレベルが低いことになります。これが傍観者的態度です。
 じつを言うと、これこそが現代のアカデミズムにおいて正統的とされる論文の書き方、というものであって、普通の人はそう簡単に、こういうものは書けません。ですから、普通の人がこういう正統的手法で論文を書こうとすると、途中で挫折したような、中途半端な情けないものができ上がります。
 ところが、東大の人は、さすがに頭がよく回転するので、こういうことがうまいのです。ですから、東大ではこういう論文やレポートが、次々と生産されています。私が東大に赴任して驚いたのは、こういう手際のよいものがどんどん出てくることでした。
 もちろん、東大以外にも、こういうものをうまく書く人はたくさんいます。ですから、学術関係のもので、こういう論文や著作を私はたくさん読んだように思います。そして、こういうことがうまくできているものは、その手際のよさに感心するのですが、結局のところどれも、つまらなかったのです。

(安富歩『原発危機と「東大話法」』 明石書店


 そうして、こうつづきます。

 なぜつまらなかったのか。それは、この学術論文の正統的書き方というものが、「客観性」を志向するフリをしつつも、結局のところは事態を「傍観」することになっていたからだ、と思います。
 このやり方の本質的問題は、「問題が事前に切り取られる」という点にあります。しかし議論というものの大切な点は、「問題の切り取り方を変更する」こと、より正確には、「自分の物の見方を変える」ことにあります。物の見方を変えることが、学習の本質であり、自分なりの新しい見方に到達することが、創造性の本質です。
 ところが、事前に設定された地平に沿って「意見」を求め、それを集計して全体像を描き出し、分類して代表的見解を取り出す、という整理の方法をすると、地平そのものが内在的に変化することはなくなります。こうして、何らの学習も創造も生じなくなり、読んでもつまらないものができ上がります。それゆえ、頭のよい人ほど、つまらない論文を書く、ということになるのです。
 そしてこれは、単に「つまらない」ということでは済みません。なぜなら、これが「学術的」で「客観的」な方法だ、ということになると、こういうつまらないものを書ける「傍観者」こそが「専門家」であって、それができない者は「素人」ということになり、後者が発言する資格を奪われるのです。これは第1章で見た大橋教授が小出氏に対して使った手口ですが、明らかに、強い破壊性のある「暴力」です。
「傍観者」という性質は、学術一般の性質に見られるのです。「傍観者」が「客観性」のフリをしていると言ってもよいかもしれません。それは、東京大学に限られることではないのですが、自他共に認める「学問の中心」において、それは最高度に発揮され、最高度に害悪を流しているのです。

(同)


 沼野充義の発言が「「客観性」のフリ」をした「傍観者」の発言だと私はいいます。沼野充義の発言のうちのどこに沼野充義はいるのか? 沼野充義の発言のうちに、必ず沼野充義はいなくてはならないんです。しかし、いない。いないふりをする。こういうことを沼野充義は聴衆の前でするし、その記録であるこの本の読者の前でもするわけです。沼野充義は絶対に責任を負おうとしません。自分は目の前にある情報を整理してみせただけだ、というわけです。自分の流している「害悪」などまるでないかのように。
 しかし、一方で、この聴衆とこの本の読者とが当の「害悪」を喜んで受け入れるし、これからもずっとそうだということを、沼野充義は承知しています。彼らの喜びようを前にして、沼野充義はいまさら「真実」を口にできないと感じているかもしれない。彼らがこのようにも喜んでくれるからには、「真実」を口にしないこと ── 嘘をつき通すこと ── が自分の責務だとも感じているかもしれません。いやいや、彼らの喜びようを前にして、沼野充義はいまやほとんど完全に自分の責任を忘れ去ることに成功しているかもしれません。彼らの喜びようを前にして、もしかすると最先端=亀山郁夫の仕事が本当に立派なものであるかのように錯覚しているのかもしれません。自分が嘘をついているということすら忘れてしまっているのかもしれません。自分が「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を駆使しているという自覚すらとっくにないのかもしれません。ということは、自分の嘘に騙されたひとたちの騙されっぷりに、今度は自分がうかうかと騙されたとでもいうようにして、自分の責任をまったく感じないでいられるようになったのかもしれない、ということです。自分の責任を、自分に騙された読者たちのせいにして気楽になっているということでしょうか。ともあれ、実際には、沼野充義はこれからも「ドストエフスキーを筆頭とするロシア文学の魅力再発見の機運」に乗っかった「読者市場」を維持するために、「害悪」によって読者を喜ばせつづけるでしょう。

 ここで私が考えるのは、もし新訳『カラマーゾフの兄弟』が最先端=亀山郁夫による ── いいかげんのでたらめだらけの ── ものでなく、きちんとしたまっとうなものであったなら、沼野充義はこんなふうに「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を駆使する必要もなかったかもしれない、ということです。そうであればよかったのに、と沼野充義自身が思っているでしょう。しかし、たとえそうであっても、沼野充義はやはり「「客観性」のフリ」をした「傍観者」」でありつづけるのじゃないでしょうか? 沼野充義にとっては、新訳がいいかげんのでたらめだらけであろうが、きちんとしたまっとうなものであろうが、どちらでもいいのじゃないでしょうか? 売れさえすれば大歓迎なのじゃないでしょうか? こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。

(つづく)