さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!(3)



(この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)


沼野 亀山さんには、ドストエフスキーの話を始めるといくらでも話すことがあるはずですが、きょうは他の場所であまり話していないことにむしろ焦点を当てていただきたいとお願いしてあります。というのも、亀山さんはもともとロシア・アヴァンギャルドという文学と芸術の総合的な前衛運動の研究からスタートしていて、じつはその分野での記念碑的な業績をたくさんお持ちの研究者で、私に言わせるとそちらの業績のほうが大きいのではないか。しかし、最近は「ドストエフスキーの亀山」という面があまりに脚光を浴びている反面、ロシア・アヴァンギャルドに関する業績が一般にはあまり知られていないのではないでしょうか。そこで、ロシア・アヴァンギャルドからドストエフスキーにいたる、長いロシア研究者としての道のりについて語っていただきたいと思った次第です。これは誰よりもおそらく私自身が一番聞いてみたい話なんですね。それでは亀山さん、よろしくお願いします。(拍手)

沼野充義『世界は文学でできている』 光文社)


 そうして、最先端=亀山郁夫登場。例によって例のごとくの話を始めるわけですが、途中から引用すれば、

亀山 いずれにしても、『罪と罰』を原書で読んで以降、ドストエフスキーを言語で読むという作業をはじめるわけです。まず、『白痴』をロシア語と日本語交互に交えながら読むことになります。卒業論文は『悪霊』論です。タイトルは「悪の系譜について」というものでした。ゼミの指導教官であった原卓也先生から、おほめの言葉をいただけるものと期待していたのですが、評価はとても厳しいものでした。文章が生硬である。誤字脱字が目立つということで、内容にまで踏み込んだ批評をいただくことはできませんでした。
 私は自分なりにドストエフスキーを経験しつくした上でその論文を書きあげたと自負していましたから、そんな評価が下されようとは考えもしなかったのですが、そういうほとんど妄想に近い自己評価の一方で、冷徹な日本語の使い手である原先生が言うのだから自分は本当にだめなのかもしれないと真剣に悩みはじめました。誇大妄想と自信喪失の間ですっかり混乱していたと思います。

(同)


「間違っていると知っていても、間違ったことをやってのける能力」を縦横に駆使する沼野充義と違って、こちら「間違っていると知る能力すらない」最先端=亀山郁夫は実に正直に話をしています。
 自らもこれまでに多数の学生たちの論文を指導してきたはずであるにもかかわらず、最先端=亀山郁夫は六十歳を過ぎてなお、かつての自分の卒業論文が「冷徹な日本語の使い手である」原卓也によって評価されなかったことの理由を「文章が生硬である。誤字脱字が目立つ」という点に帰してしまえるんです。「内容にまで踏み込んだ批評をいただくこと」ができなかったことの意味をいまだに理解できないわけです。私はその最先端=亀山郁夫の論文を読んでなんかいませんよ。でも、現在の最先端=亀山郁夫の読解能力からすれば、それがどんなものだったか、いや、どんなにひどいものだったか、容易に想像がつきます。
 そうして、原卓也を形容するのに「冷徹な日本語の使い手である」というのは、もちろん最先端=亀山郁夫自身が「冷徹な日本語の使い手」ではないことを意味していますが、ここにはちょっとした打算があって、最先端=亀山郁夫は会場の聴衆と、この本の読者ともを自身と同レヴェルだといっているわけです。つまり、みなさんだって、『カラマーゾフの兄弟』を読むのなら、あんな「冷徹な日本語の使い手」の翻訳じゃなくて、むしろその「冷徹な日本語の使い手」に一蹴されるくらいの私の翻訳を読みますよねえ。みなさん、私の翻訳を「読みやすい」といってくださるわけですものねえ。いやはや、「冷徹な日本語の使い手」の翻訳なんか、みなさん、ものすごく読みづらいですよねえ。やっぱり、翻訳は「いま、息をしている言葉で」のものじゃなくてはねえ。

 さて、先に進みましょう。

亀山 先ほどのマヤコフスキーは、小説家ではなく詩人でしたが、たとえば『カラマーゾフの兄弟』を翻訳しているとき、キリスト教という信仰を持たずしてこの小説をどこまで深く味わうことができるのか、信じない者には読めないのではないかという疑問に悩まされました。しかし、ないものねだりはできないもので、実際はそんなに悩む必要はなくて、現に周りにいる多くの人たちが、キリスト教信仰とはまったく関係のない場で、自分なりに『カラマーゾフの兄弟』を読み、その世界と裸で向き合っている、しかも大きな喜びをそこから得ているという現実をもっと素直に受け入れるべきだと思うようになりました。
 私自身は、神を信じてはおりません。そして、ドストエフスキーが自らをそう呼んだ不信と懐疑の読者として、ドストエフスキーの文学を味わい、読む姿勢をずっと貫きつづけているつもりでいます。キリスト教という一つの大きな世界観をもってドストエフスキーを読もうとする人の目から見ると、受け入れがたいものだということはあるでしょう。
 私がいまこんなことを言うのは、加賀乙彦さんの存在が念頭にあるからです。数年前に加賀さんと対談したときに、加賀さんは、『罪と罰』の中心的なテーマとして、ラスコーリニコフがソーニャのアパートを訪ね、「ラザロの復活」の話をする第四部第四章を持ちだしたわけです。ボリュームの側面から言っても、小説のど真ん中にこのエピソードを据えたことにすべてを解くカギがあると主張しておられました。
 つまり、この死者が甦るというモチーフにラスコーリニコフ自身を重ねてみると、『罪と罰』は、いったん死者となった青年がもう一度甦るという構図になる。
 この筋立ては、信じる者の立場から言うと、まさによくできた物語ということになるのでしょう。加賀さんにしてみれば、彼は後半生で一人の信仰者として小説を書きつづけている作家ですから、そういう『罪と罰』の読解は必然的な意味をおびてきますが、私のように信じない者の立場から言うと、この復活のエピソードの挿入は、当時の帝政権力の動向を意識した作者の二枚舌なのではないか、と思えてしまうのです。悲しいことですが。

(同)


 自分が「間違っていると知る能力すらない」最先端=亀山郁夫の右の発言の実質は、先の「ゼミの指導教官であった原卓也先生」が「加賀乙彦さん」に代わっただけですね。実に最先端=亀山郁夫らしい発言です。
 ところで、最先端=亀山郁夫がここで「加賀乙彦さん」の名前を持ち出したのには、姑息な理由があります。「加賀乙彦さん」という名前が ── 「原卓也先生」同様に ── 最先端=亀山郁夫にとって、さらにこの公開対談を観客にとっての「権威」なんですね。最先端=亀山郁夫は、その「権威」と自分との対立を口にすることによって、自分の「権威」を観客にアピールしたいんです。
 そうして、この場合の「権威」というのは、常に最先端=亀山郁夫の考えている路線上での「権威」だということに注意しておきたいものです。つまり、最先端=亀山郁夫が自身のセールス・プロモーション路線上で「公認」する「権威」です。この路線上にない「権威」は「公認」されません。「ゼミの指導教官であった原卓也先生」は先行訳『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者でもあり、最先端=亀山郁夫の経歴から消すことができません。「加賀乙彦さん」は、最先端=亀山郁夫の考えている路線上で対談もしていますから、これも「公認」せざるをえません。ただ、おそらく最先端=亀山郁夫は「加賀乙彦さん」からもひたすら「おほめの言葉をいただけるものと期待していた」のだと思います。一部であれ、批判が加えられるとは思ってもいなかったでしょう。しかし、とにかく批判は加えられてしまったので、これは消すことができません。だから、この対談の席でもそのことには触れるんです。触れたうえで、「でもねえ、あのひとはキリスト教徒で、私は神を信じていないから」と問題をごまかすわけです。
 しかし、繰り返しますが、最先端=亀山郁夫は自ら「公認」しない「権威」にはけっして触れません。私が何をいいたいのかというと、こうです。最先端=亀山郁夫はここで「木下豊房」と「萩原俊治」の名前を出すべきだったのじゃないか? 最先端=亀山郁夫はかつて、せっかくその二人が彼と「公開討論」をしたいと申し出てくれたことがあったにもかかわらず、逃げ出していました。

 実は萩原氏と私は三月十五日付で、日本ロシア文学会の理事、各種委員の役員六十名に宛てて、今年秋の全国大会で、亀山氏の仕事をめぐる公開討論会を企画するように申しいれた。しかし五月末の理事会で、この要請は却下された。議事録の公開を要求したが、無回答のままである。

(木下豊房「亀山問題の現在」http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm


 その二人がネット上でずっと自分を批判しつづけていることを、最先端=亀山郁夫は口にすべきだったのじゃないか? もちろん、最先端=亀山郁夫にそんなことはできません。また、もし最先端=亀山郁夫がそんなことをしていたら、さすがの沼野充義も助けを出すことができません。最先端=亀山郁夫にとって「権威」とはテレビやラジオや雑誌上 ── それも、あくまで自分が望んだ路線でのものに限り、不意打ちのように「誤訳問題」を扱ったものではありません ── で公開されるような類のものです。ネット上でだけ展開されているようなものは「権威」ではないんですね。いま最先端=亀山郁夫が「加賀乙彦さん」の名前を持ち出したのは、そうすることで公平を装いながら自分のネット上での評判を黙殺することが可能になるからです。
 それはさておき、「私自身は、神を信じてはおりません。そして、ドストエフスキーが自らをそう呼んだ不信と懐疑の読者として、ドストエフスキーの文学を味わい、読む姿勢をずっと貫きつづけているつもりでいます」というのはひどい。「ドストエフスキーが自らをそう呼んだ不信と懐疑」と最先端=亀山郁夫自身の「不信と懐疑」とを同一のものなどとどうしていいうるのか? 両者はまったくべつのものです。最先端=亀山郁夫にはドストエフスキーの「不信と懐疑」がどこへ向おうとしていたか、どれほど苦しいものであったか、がまったく理解できていません。だから、最先端=亀山郁夫にはアリョーシャが見えないんです。そんなひとが『カラマーゾフの兄弟』を訳してはいけないんです。これについて私はずっと書きつづけてきました。

 さらに、「キリスト教信仰とはまったく関係のない場で、自分なりに『カラマーゾフの兄弟』を読み、その世界と裸で向き合っている、しかも大きな喜びをそこから得ているという現実」と「信仰者」としての「加賀乙彦さん」を対立させるのもおかしいと私は思います。最先端=亀山郁夫はそういう対立の構図を作り出すことによって「加賀乙彦さん」の自分への批判を封じ込めているでしょう。「信仰者」でなくても「加賀乙彦さん」の主張は十分に理解できるものです。

(つづく)