さあ、東大・沼野教授と新しい「読み」の冒険に出かけよう!(6)



(この章は一昨年、二〇一二年九月三十日に書き上げていたものです)



(追記)

「立場」が人間よりも上にあるような社会なので、「立場」を守るということが何よりも優先され、「立場」を守るためには何をしても許されます。
 その代表的な例が、福島第一原子力発電所の事故でした。
 事故直後からテレビや新聞などには連日のように「専門家」が登場しましたが、その多くは、私たち国民の疑問や不安を払拭するようなことは言ってくれませんでした。
 なかには、まったく根拠のない「安全性」ばかりを繰り返し述べたあげく、そのウソが露呈してしまって「御用学者」と攻撃をされてしまった方たちもいました。
 なぜ専門家を名乗る方たちがこんな体たらくになってしまったのかというと、すべては「立場」を守るためです。
 学問の世界はみなさんが思っている以上に、はるかに複雑に「絆」が張り巡らされています。たとえ本当のことでも、そのなかで生きている人たちにとって、自分ともちつもたれつで生きている方たちの「立場」を危うくするような発言をしたら、自分の「立場」も危うくなります。そこで、みんな「立場」を守るとしたら、当たり障りのない発言でごまかすか、適当にウソをつくしかないのです。
 そうして編み出されたものが、私が「東大話法」と呼ぶ独特の話法です。彼らはこの話法をつかって、ウソをつき、責任の所在を曖昧にし、国民をケムにまいてきました。

(安富歩『もう「東大話法」にはだまされない』(講談社+α 新書)


 ── というわけで、もうやけのやんぱちのようにして最先端=亀山郁夫の仕事の実質をごまかし、正反対の評価を公言する卑怯者=沼野充義の新たな文章をここに掲げておきます。沼野充義がどのように「ウソをついている」のかは、どうぞみなさんでお考えください(そのウソの見分けかたについて私はもう十分しゃべったと思います。引用した安富歩の文章は、いっそう説得力があります。そうして、沼野充義に新しいウソの手法はありません)。というわけで、読んでいただければわかりますが、もちろん「ウソ」だらけです。沼野充義にとっては、ドストエフスキーよりも、その作品の読者よりも、最先端=亀山郁夫を守ることの方が大事なんです。「文学」(=)「人間」よりも、自身の「立場」を守ることの方が大事なんです。よくもまあ、こんなことができるものだ! 
 人間としての当人不在という文章を書くひとのすべてを卑怯者と呼ぶべきです。そういうひとたちが、普通の意味でどんなに「いいひと」であるかは関係ありません。おそらく、沼野充義というひとも普通の意味ではきっと「いいひと」なんでしょう。

「専門家」が他の「専門家」を批判するとしたら、それはそれは膨大な労力を必要とするのかもしれません。自身の研究をそっちのけにしなくてはならないほどのことなのかもしれません。そうして、たとえば「ロシア文学」に関係する「専門家」たちには、それぞれ多様に細分化された「専門」の範囲というものがあって、自分の専門範囲はトルストイに限られる、だとか、ドストエフスキーだけれど、「ドストエフスキーの○○について」に限られる、とか、あるんでしょう。しかし、そうだからといって、ここまで愚劣な現象となってしまった最先端=亀山郁夫の仕事を批判しなくていい・批判する資格がないなどといってしまっていいわけがありません。「専門家」としてロシア文学に携わる誰もに、最先端=亀山郁夫の暴走を止める義務があるだろうと私は思います(このひとたちでなくて、他の誰がするのか?)。なのに、ほんの数名を除けば、彼らは「たとえ本当のことでも、そのなかで生きている人たちにとって、自分ともちつもたれつで生きている方たちの「立場」を危うくするような発言をしたら、自分の「立場」も危うく」なることを恐れて、口をつぐんでいるわけです。そんなひとたちが「文学」(=)「人間」の仕事をしているんだなどとよくもいえたものです。そういうわけで、沼野充義を会長とするような日本ロシア文学会というのは卑怯者の集まりだということです。いや、こんなひとたちでは、そもそもドストエフスキーの作品が読めないわけです。せめて、自分は卑怯者だという自覚には苦しんでいてほしいですね。しかし、その自覚に陶酔せずに。

 沼野充義を筆頭とする「専門家」たちの大きな誤算は、まさかここまで最先端=亀山郁夫がその最先端ぶりを発揮するなどと思いもしなかったことなんでしょう。しかし、たしかに最先端=亀山郁夫はその最先端を突っ走りました。その姿を見送りながら、沼野充義たちは唖然としつつ、「賽は投げられた」とか「毒食わば皿まで」などという心地で、その最先端を応援しつづけなければならないわけです。こんな大人にはなりたくない ── と来年には五十歳になる私はいいます。私だっていろんなウソをつきつづける卑怯者に違いありませんが、このことだけには絶対妥協できません。

 お待たせしました。それでは、「ウソつき」の卑怯者 ── 沼野充義の恥知らずの文章をいよいよ読んでいただきましょう。

今週の本棚:沼野充義・評 『謎とき「悪霊」』=亀山郁夫・著

 ◇原作と張り合う「偶像破壊」的な集大成

 『謎とき「悪霊」』は、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によって「古典新訳ブーム」に火を付けた亀山郁夫氏による、本格的な『悪霊』論である。ドストエフスキーのこの長篇については、本書と並行して、注目すべき仕事が二つ同氏によって行われていることにも言及しておく必要があるだろう。一つは、『悪霊』そのものの新訳(光文社古典新訳文庫、二〇一〇‐一一年)で、今年の二月に刊行されたその「別巻」には、「スタヴローギンの告白」と一般に呼ばれる章の三種類の異稿の翻訳が収められ、詳細に比較対照されている。
 さらに今年の四月にはロシアを代表する文学研究者の一人で、とりわけ『悪霊』研究の第一人者として知られるリュドミラ・サラスキナと亀山氏の対話と質疑応答をまとめた『ドストエフスキー「悪霊」の衝撃』(光文社新書)という本も刊行されている。日本のドストエフスキー読みが、本場ロシアの第一線の研究者とこれほどがっぷり四つに組み合ったのも、これがおそらく初めてではないか。
 今回出版された『謎とき「悪霊」』は、この小説に関する亀山氏の精力的な仕事の集大成といった性格を持つ。ただし、作家の伝記、時代背景から、小説の細部の分析、そしてテキストの表層の下に隠された謎に至るまで、あらゆる面を丹念に検討して、総合的にまとめた本としてはまったく新しい著作である。しかも、一冊の書物として、何よりも面白い。亀山氏の研究の特色は、文献の博捜、執拗とも言えるほど細部にこだわったテキストの読みと、慎重な研究者がその前で立ち止まるような一線を踏み越える偶像破壊的なヴィジョンの結びつきであって、この『悪霊』論もその結果、原作そのものに張り合えるくらい魅力的な、独自の価値を持つ著作になっている。
 『悪霊』は、当時のロシアの革命家グループの中で起こった「リンチ殺人事件」をモデルにした作品であり、日本の連合赤軍事件をはるか百年前に先取りした予言的小説として有名だが、それ以外にもリベラリスト、人神主義者、民族主義者などの様々な声がにぎやかに議論を闘わせる。そして小説は登場人物たちの夥しい死によって彩られながらも、秘められた性的欲望や陰惨なユーモアといった要素にも事欠かず、そのあまりに雑多な要素を取り込んだ構造を見ると果たして成功作なのか疑わしくなるほどだが、それだけに多くの起伏とそこに秘められた謎に満ちている。最大の謎はおそらくスタヴローギンというカリスマ的人物と、彼が犯した少女陵辱についての「告白」をどう読むかということだが、亀山氏はその謎に徹底的に分け入り、少女が犯される場面に秘められたマゾヒスティックな性的欲望の問題を大胆にえぐり出した。
 日本における「ドストエフスキー読み」の伝統は長くて深い。亀山氏の『謎とき』に直接先行するものとしては、江川卓による『謎とき「罪と罰」』『謎とき「白痴」』『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』という三冊(いずれも新潮選書)があった。江川卓こそは、形而上学ないし人生論のどんよりとしたぬかるみから、小説テキストとしてのドストエフスキーの豊かさと面白さを救い出した功績者であった。それを受け継ぐ亀山郁夫は、先行者に比べると自分の思い入れを好んで語る点がより「ロマンチスト」だが、その分読者を引き込むヴィジョンの強さでは勝っているとも言える。ドストエフスキーはこうして生き続ける。古い謎が解かれるとともに、新しい謎を生みだしながら。



(二〇一二年九月三十日)