「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」



 最先端=亀山郁夫の仕事がいかにひどいかを知っている者にとって、朝日新聞・近藤康太郎による「【カラマーゾフの兄弟】視界開けた、古典は新しい」(二〇一〇年六月十三日)ほど愚劣で悲惨な記事はありません。記事が誤訳問題にまったく触れないでいたなら、これほど愚劣で悲惨な印象はなかったでしょう。近藤康太郎は、のっけから「「知もて解し得」ないロシアの不可知と、生涯をかけて格闘してきた研究者」などと最先端=亀山郁夫を絶賛していて、誤訳問題をまともに採り上げる気なんかありはしません。最先端=亀山郁夫が「「知もて解し得」ないロシアの不可知と、生涯をかけて格闘してきた研究者」ですって? この冒頭だけで、近藤康太郎が誤訳問題どころか最先端=亀山郁夫についてもまったく理解のないことが明らかです。もちろん、私の送った「ゆうパック」の文書も読んでいない。そうして、いざ誤訳問題に触れると、「指摘の正否はおくとして」だ。よくもこんなことがいえたものだ。

 指摘の正否はおくとして、以下のような感想は、本と文化にたずさわるだれにとっても、重いのではないか。〈重厚で難解な印象のロシア文学が、驚くほど明快だった。初めて手にした巨匠の本。これ以後、私は今まで見向きもしなかった本に挑戦しているところだ〉(千葉県の石橋香織さん・39)

朝日新聞「【カラマーゾフの兄弟】視界開けた、古典は新しい」)


 いいか、近藤康太郎!「重厚で難解な印象のロシア文学が、驚くほど明快だった。初めて手にした巨匠の本。これ以後、私は今まで見向きもしなかった本に挑戦しているところだ」と書いた読者に最先端=亀山郁夫どれほどひどいことをしたのか、お前にわかっているのか? 全然わかっていない! いいか、「本と文化にたずさわるだれにとっても、重い」のは、お前が考えているのとは正反対の意味で「重い」んだよ! さらにいえば、お前は「本と文化にたずさわるだれ」の内に入らない!

 なぜ「指摘の正否はおくとして」なのか? これを思い出しますね。

本書の目的は、10代の人たちに書物の広大な世界を伝え、読書の楽しさを伝えることを主眼としています。その目的のために、個々の執筆者の視点による80タイトルの「翻訳作品」を紹介いたしました。

木下様のご意見は、作家論や解釈論ともいうべき、深遠な文学的視点からのご質問であるとうけたまわりましたが、本書の姿勢は、作家の姿勢や作品解釈を問うことではけっしてありません。ましてや、文学論争をのぞむものでもありません。

木下様のブログを拝読し、ひとつの精緻な論考としてたいへん参考になりました。

この度の木下様のご意見は、日本で翻訳された古今のドストエフスキー作品に精通されている研究者のご指摘として、真摯に受け止めさせていただきます。
貴重なご指摘をいただき、まことにありがとうございました。

(東京書籍から私へのメール)


 なぜこうもそっくりなのか? 朝日新聞記者も東京書籍編集者も会社員だからですよ。いや、さらにいえば、日本の会社員だからです。

 もちろん、もうひとつ。

 一方、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントした。

産経新聞 二〇〇八年六月八日)


 これが日本のマスメディアの実際です。ひどすぎる。

 なぜ朝日新聞は「誤訳問題」を自ら検証しようとしないのか? 怠惰だからです。最先端=亀山郁夫のでたらめは、過去に『カラマーゾフの兄弟』をきちんと読んだ者には即座にわかる程度のものです。

 これを引用しておきます。

 私の胸に去来したのは、

「ああ、やっぱりな」

 という思いだった。
 亀山郁夫という人物のドストエフスキー解釈が世間で話題になりはじめたのはいつごろからだったろうか。
 ニュースにとり上げられ、週刊誌の特集記事となり、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、書評家に褒めちぎられ、そしてNHKの特集で報じられたあたりで、私はようやく亀山郁夫氏という人の存在に気がついた。
 しかし、亀山郁夫氏の“ぺなぺなと安っぽいフロイト流解釈を土台とした解題”は私にはとうてい受けれがたいもので、こんなものがドストエフスキーの作品論決定版として認知されていることに遅ればせながらに仰天した覚えがある(過去に日記で書いた覚えがある)。
 感じたことを感じたままに言うしかない、という立場だが、ハッキリ言って、亀山郁夫氏のドストエフスキー諸作品解釈は出鱈目だ。
 しかし、この「亀山郁夫氏のドストエフスキー諸作品解釈は出鱈目」という理解を、私の弟を除いては、今日まで誰とも共有することができなかった。私にとって、もっとも戦慄すべき事実は、この点にある。

「ウンコはカレーではない」ということを説明するのが、なぜこれほど困難なのか。

 念を押すように繰り返すけれど、私は、彼の解釈が間違っていると胸を張って断言できる。なぜ断言できるかというと、それだけくっきりハッキリと、でたらめな解釈だからだ。
 どうデタメラかについては、何千語もの言葉や文字を必要とするだろうから、他批判検証サイトにおまかせするけれども、とにかく、ひとめで、パッと、瞬間的に、出鱈目であることはわかる。そういうたぐいのことだ。
 毎日出版文化賞特別賞を受賞してようが、NHKの番組で能書きを垂れようが、間違っているものは間違っている。しかし、周囲の人々とこの理解を共有することができない。
 ドストエフスキーの翻訳小説の字面だけを追いかけているのでないなら、作品の文脈や作者が込めた主張、道理や理路というものと亀山氏の解釈がとても相容れるものではないことくらい、私のようなものにでもわかる。
 こんな私でもわかるようなことを、書評家や、作家や、出版社や新聞社や国営テレビ局がわからない。
 わからないどころか、、書評家や、作家や、出版社や新聞社や国営テレビ局までが、やんやともてはやす。
 よりにもよって、どうしてこういうものがドストエフスキー解釈の決定版として、定着するにいたってしまったのか。
 ウンコをカレーと信じているなら、それもいい。たかがカレーの話だ。食べた私が体調を崩せばそれですむ。
 しかし、ドストエフスキーはだめだ。
 カレーの味を一生知らなくてもどうってこともないが、ドストエフスキーは違う。
 彼の諸作品は、人類全体への偉大な贈り物だ。
 カレーと信じてウンコを食ってるではとうていすまされない。

(「純の◆姫林檎◆日記」 http://www.yuubook.com/junnikki/junnikki_70.html


「とにかく、ひとめで、パッと、瞬間的に、出鱈目であることはわかる。そういうたぐいのこと」なんですよ。それほど簡単な検証すら朝日新聞は怠っているわけです。

 私も唱和しましょう。

「ウンコはカレーではない」ということを説明するのが、なぜこれほど困難なのか。

 それとともに、これを。

「なるほど」と、彼はいった。「あなたはそうお思いでしょう、それにはよっぽどの傲慢さが必要だ、と。しかし、僕は必要なだけの傲慢さをもっているにすぎないんですよ、まったく。この先、何が待っているか、こういうすべてのことのあとで何が起るか、僕は知りません。さしあたり、大勢の病人があり、それをなおしてやらねばならないんです。そのあとで、彼らも反省するでしょうし、僕もそうするでしょう。しかし、最も急を要することは、彼らをなおしてやることです。僕は自分としてできるだけ彼らを守ってやる、ただそれだけです」
「何ものに対して守るんです、それは?」
 リウーは窓のほうを振返った。遠くに海が、視界を限る線のひときわ濃い暗さによってそれと判じられた。彼はただ疲労だけを感じながら、しかも同時に、この風変りな、しかしまるで兄弟のような気のする人物に、もうちょっと心を打明けてみたいという、突然の、不条理な欲望と戦っていた。
「全然わからない、それは。まったく、僕には全然わからない。僕がこの職業にはいったときは、ただ抽象的にそうしたんです。ある意味からいえば。つまり、その必要があったから、これも世間並みの一つの地位で、若い連中が考えるうちの一つだからというわけです。あるいはまた、それが僕のような労働者の息子には特別困難な道だったからかもしれません。そうして、やがて、死ぬところを見なければならなかった。知っていますか、どうしても死にたがらない人たちのあることを? 聞いたことがありますか ── 一人の女が死のうとする瞬間に《いや、いや、死ぬのはいや!》と叫ぶ声を? 僕は聞いたんです。そうして、自分はそういうことに慣れっこにはなれないと、そのとき気がついたんです。僕は、そのころ若かったし、自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていました。その後、僕ももっと謙譲な気持になりました。ただしかし、僕は相変らず、死ぬところを見ることには慣れっこになれないんです。僕はそれ以上はなんにも知りません。しかし、結局……」
 リウーは口をつぐみ、ふたたび腰を下ろした。彼は口のなかがからからになっているのを感じた。
「結局?」とタルーが静かにいった。
「結局……」と、医師は言葉を続け、そして、なおためらいながら、じいっとタルーの顔を見つめた。「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうして、あらんかぎりの力で、死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
 リウーは暗い気持になったようであった。
「つねにね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」

カミュ『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮文庫