「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」



 東京書籍とのやりとりはとんだ寄り道でした。思い出しましたが、私は「現代思想」四月号増刊「総特集=ドストエフスキー」における最先端=亀山郁夫訳「チーホンの庵室で」のひどさを指摘していたんでしたっけ。
 しかし、もう少しだけ寄り道をしておきましょう。

 まずは、NHKによる「ホリデー・インタビュー」(四月二十九日)ですね。この日はたまたま午前七時前にテレヴィをつけたんです。そうしたら、画面に最先端=亀山郁夫が映っているじゃないですか。うわ、なんという一日の始まりなんだ、と思いましたよ。最悪です。私がテレヴィ画面で最先端=亀山郁夫を見たのは、これが初めてでした。まあ、そんなことはいいんですが、とにかく、私はこの三十分番組のほんの終わりだけを観たわけです。

心の支え“ドストエフスキー
        〜ロシア文学者・亀山郁夫さん〜

罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」ロシアの文豪・ドストエフスキーの作品が最近新たに出版され、人気です。翻訳にあたった亀山さんは、ロシアの文学・芸術を40年以上にわたって研究、現在は東京外国語大学の学長も務めています。13歳でドストエフスキーに出会い、60歳になった今でも学ぶことが多いという亀山さん。文学を始めた背景には、「喧嘩の絶えない家庭から目をそむけたい」という複雑な事情がありました。文学を志したきっかけや、私たち現代人はドストエフスキー作品から何を感じ、学び取ればいいのかを聞きました。

今回は、宇都宮放送局が制作しました。


 私が観た範囲でいえば、最先端=亀山郁夫は「五十歳を過ぎたら、それまではわからなかったドストエフスキーがわかるようになった」とかなんとか例によって例のごとくしゃべっていましたっけ。六十を過ぎた現在もまったく読めていないお前が何をいってるのか? で、聞き手の金井直己アナウンサー(たぶん五十代)が「私にも読めますかね?」てなことをいい、「読めますとも」と最先端。やれやれ。金井直己は知っておいた方がいいですね ── あなたの方が最先端=亀山郁夫なんかより断然深くドストエフスキーを読めるんですよ! むしろ、あなたの方がドストエフスキーについて最先端=亀山郁夫に講釈を垂れた方がいい!

 さて、次。
 朝日新聞「ニッポン人脈記」(二〇一〇年五月二十日 夕刊)。

カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』の翻訳を手がける。直訳調を、ひらがなの多い読みやすい表現にしてみせた。
「誤訳だらけだ」との批判に亀山はいう。「「細かな文法的なものを超えて、自然に読めるテクストをつくりたかった」

(関根和弘「ロシアへの虹 ── ニッポン人脈記」 朝日新聞


 右の記事を書いた関根和弘に問いたい。最先端=亀山郁夫が「『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』の翻訳を手がける」ということは事実ですね。しかし、最先端=亀山郁夫の翻訳が「直訳調を、ひらがなの多い読みやすい表現にしてみせた」とあなたが書いた根拠は何ですか?「直訳調」とは、どの翻訳のどんな部分を指しているんですか? あなたが「ひらがなの多い読みやすい表現」と書くのは、ひらがなが多いことで読みやすくなったということなのか、ひらがなの多いことも手伝って読みやすい表現が実現したということなのか? あなたが最先端=亀山郁夫訳がそれまでの訳よりも「読みやすい」というのは、具体的にどういうことなのか?
 さらに問いたい。あなたはいったいどこまで「「誤訳だらけだ」との批判」を知っているのか? その批判をあなたはどう考えているのか、正当なのか不当なのか? また、それに対する最先端=亀山郁夫の「細かな文法的なものを超えて、自然に読めるテクストをつくりたかった」をあなたはどう考えているのか?いったい、最先端=亀山郁夫の「細かな文法的なものを超えて」が何を意味するのか、あなたには答えられるのか? また、「細かな文法的なものを超え」たために訳文がどういうものになってしまっているのか、あなたは答えられるのか?「自然に読めるテクスト」とはどういうものなのか?
 はっきりいいますが、あなたにはどれひとつ満足に回答することができません。そういう状態であなたは右の記事を書いたんです。あなたはただただ「亀山郁夫万歳」の記事を書いたんです。「誤訳だらけ」という批判に触れたことも、当の批判を無力化する・その批判の存在に触れることによってかえって亀山訳に箔がつくという意味合いでしたまでのことですね。いったい、あなたにはでたらめな提灯記事を書くことしかできないんですか? あなたにはあなた自身というものがないのか?

 またこれを引用しますか?

 七月、舞鶴に着き、汽車で品川に帰ってきた。一四年ぶりの帰郷。多数の迎えにもかかわらず、日本がこんなに復興している驚きとは別の、大きなショックを受けた。
 迎えの人々のなかに、もと一緒に働いた軍医や看護婦もいた。敗戦後すぐ帰国していた、ある軍医はいった。
「湯浅さん、あんたなんで戦犯なんてことに。あの戦争は正しかったなんて、言い張ったんだろう。ごまかしゃいいのに」
「そうじゃないんだ。君とあれやっただろう」
「え、何を?」
 彼は戦後一一年にして初めて、湯浅さんに言われて生体解剖を思い出したのだった。過去を見つめてきた湯浅医師と、出迎えた医師との間には大きな隔たりがあった。

(野田正彰『戦争と罪責』 岩波書店


 これが現在の朝日新聞です。いつまでも「え、何を?」といっていればいい。もうどうしようもない。

 それでも、私は朝日新聞に投稿までしたんですね。「ゼロ年代の50冊」という企画記事で、あろうことか、そこに最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が選出されていて、明日(二〇一〇年六月十三日)、これについての識者や一般読者の感想などが掲載されるんですが、そこに投稿したんです。
 投稿するにあたって、私はこれまでの最先端=亀山郁夫批判全文(三十五字×二十八行×二段×三四六ページ)のプリントアウトをバインダーに綴じ、表紙に投稿原稿とコメントの紙を貼りつけて、「ゆうパック」(なぜか私は「ペリカン便」だと勘違いしていました)で送ったんですね。送料八百円。

 原稿とコメントは次の通り。

 原稿 ──

ゼロ年代の50冊」における
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』について

 登場する人物たちと彼らの関係、作品内の時系列や基本的諸事実などをまったく理解しないまま、原典のロシア語を、文脈を無視して誤解しつつ、稚拙な日本語に置き換えただけという、前代未聞のでたらめが、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』だ。亀山の誤訳を、どんな翻訳作品にもつきものの表層的な誤訳として考えてはいけない。読みやすい日本語を心がけたために生じた誤訳などという亀山の弁解にごまかされてはならない。そもそも亀山に原作をまったく読めていないことこそが、夥しい誤訳として現われているのだ。これは深層的・構造的なものだ。どんな読者も亀山より作品を深く理解するだろう。亀山ほど狂った、素っ頓狂な読解はありえない。
 なぜこんな翻訳が称揚されるのか? ロシア文学研究者たちの怠慢。さらにNHKをはじめ、もちろん朝日新聞を含むマスメディアの怠慢。追随する作家・書評家らの怠慢。それを鵜呑みにする読者たちの怠慢のためだ。

 コメント ──

 亀山訳への批判を、私はこのほぼ二年間にわたってネット上で書きつづけています。これは現在も継続中です。分量は、文庫本の字詰めにして一〇〇〇ページを超えています。それほどまでに亀山の翻訳はひどい、それは『カラマーゾフの兄弟』に対する冒涜です。
 「ゼロ年代の50冊」にこの ── どこに出しても恥ずかしい ── でたらめ訳が取りあげられたことに驚きます。いいですか、亀山は現在進行中の『悪霊』でも「あなたの前には、ほとんど越えがたい深い淵が立ちはだかっている」なんて訳文を出しているんですよ。亀山は日本語においてすら文章読解力ゼロ、作文能力ゼロ、ドストエフスキーの翻訳など論外です。
 御社は最近の「人脈記」においても亀山を登場させ、誤訳問題にも触れていました。しかし、あれでは「誤訳はあるが、亀山は素晴らしい仕事をした」としか読めません。そんな馬鹿な話もありません。御社はこの誤訳問題を正確に認識していません。検証を怠っています。なるほど誤訳問題という現象はある、しかし、それについて自分たちはいかなる判断もしない、などということは許されません。

 私は上の原稿の引用掲載を必ずしも望みません。なぜなら、またしても亀山訳が「毀誉褒貶だが、素晴らしい」などまとめられるようなたわけた記事の片棒をかつぎなくないからです。私が御社にこれを送るのは、御社の認識を改めてもらいたいからに他なりません。

 どうか、以下の文章をお読みください。『カラマーゾフの兄弟』を亀山訳以外で読んだことのある方なら、必ず私の主張に同意いただけると思います。


(二〇一〇年六月十二日)


(追記)右まで書いて、二〇一〇年六月十三日午前三時前、私は郵便受けまで行ってきましたよ。朝日新聞の朝刊が届いていました。

 カラマーゾフの兄弟】視界開けた、古典は新しい

 「知もて解し得」ないロシアの不可知と、生涯をかけて格闘してきた研究者が出したドストエフスキーの新訳が、爆発的なヒットとなって「文学界の事件」となった。亀山郁夫氏の訳したドストエフスキーの最後の大長編にして最高傑作『カラマーゾフの兄弟』は、読みやすくなった訳文で読者を獲得。編集部にも、幅広い年齢層から感想が寄せられた。
カラマーゾフの兄弟、読めた!〉と興奮気味に書いてきたのは、東京都の森由美子さん(66)。〈どんどん読めた。待ち時間やバスの中の読書だから「お客さん! 終点、降りてください!」と運転手のいらついた声に驚いたこともあった〉。また千葉県の須田健太さん(18)は〈再読させる強い魅力がある。特に「大審問官」へ至るイワンとアリョーシャの対話が圧巻〉と書いた。
 50冊アンケートでも「新訳で読みやすくなり、視界がさあっと開けた」(作家の高山文彦さん)、「古典は永遠で、21世紀でも“新しい”ことを教えてくれた」(東京芸大准教授の布施英利さん)と、訳業をたたえる声が集まった。
 飛躍的に分かりやすくなった同書には、しかし「誤訳」という批判もつきまとう。読者からの感想にも〈文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない〉(京都府の萩原俊治さん・62)といった厳しい指摘があった。
 指摘の正否はおくとして、以下のような感想は、本と文化にたずさわるだれにとっても、重いのではないか。〈重厚で難解な印象のロシア文学が、驚くほど明快だった。初めて手にした巨匠の本。これ以後、私は今まで見向きもしなかった本に挑戦しているところだ〉(千葉県の石橋香織さん・39)

(近藤康太郎)


 やれやれ、またこれだ。

「「知もて解し得」ないロシアの不可知と、生涯をかけて格闘してきた研究者」って、いったい誰のことなんだ? もう最初からこれか!
 東京都の森由美子さん(66)、千葉県の須田健太さん(18)、千葉県の石橋香織さん(39)、残念ながら、あなたがたは『カラマーゾフの兄弟』の偽物をつかまされました。ご愁傷様です。
 作家の高山文彦さん、東京芸大准教授の布施英利さん、大馬鹿です。金輪際、誰かに読書案内などしないでください。

 記事を書いた近藤康太郎は、もう記者を辞めろ!「京都府の萩原俊治さん・62」の「厳しい指摘」を一応引用はしながら、「指摘の正否はおくとして」とは何だ? どんなでたらめ訳でも、読者がこれまで手をつけてこなかったような本を手に取るきっかけになれば、それでいいなどと、卑劣なごまかしをやるようでは、話にならない。お前の責任を痛感しろよ! 何をやっているんだ!