「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 大西巨人の作品から引用。

 その夜そのあとの雑談の中で、また義人は、「各人の弱みや卑劣さをたがいに薄ぎたなくいたわり合って衆を恃むような消極的連帯」ではなく、「ひとりですっと立ってゆ」く各人の積極的連帯が出来上がらなければならない、とも語っていた。

大西巨人「雪の日」 『五里霧講談社学芸文庫 所収)


 もちろん、すぐに同じ作者のこれが想起されなければなりません。

── イプセン作戯曲『民衆の敵』最終第五幕の幕切れで、主人公の医師ストックマンは、「独り立つ者、最も強し。」と断言する。レーニンは、その『民衆の敵』あるいはイプセン作劇詩『ブラント』の「一切か無か。」というような考え方に、語の悪しき意味における『ニイチェ主義』を看取し、そういうイプセンを否定的に批判した。レーニンなりブレヒトなりの尊重・主唱したのが「〈連帯〉の重要性」であることは、疑いない。
 伊藤弁辯士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「〈連帯〉とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。

大西巨人『深淵』 光文社文庫


 私がこれから批判するのは、「各人の弱みや卑劣さをたがいに薄ぎたなくいたわり合って衆を恃むような消極的連帯」と「「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合う」ことについてです。これは「ベストセラー」批判であり、「世のなかの圧倒的大多数の=ふつうのひとたちの読書」批判でもあるはずです。当然にこれは最先端=亀山郁夫批判の一環でもあるわけです。