(一八)「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一〇



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 どうやら昨年十月のロシア文学会でこういうことがあったらしいです。


 今回は、二年前に岩波文庫で『戦争と平和』を訳された藤沼貴先生の特別講演があった他、「ロシア文学にとって翻訳とは何か」というワークショップ(シンポジウム)があった。この企画は、亀山さんの『カラマーゾフの兄弟』が一〇〇万部突破という不思議な現象と無関係ではあるまい。実際、ワークショップの終わりに、会場から「亀山訳カラマーゾフはでたらめな翻訳だ」という意見が出た。
 ゲスト・コメンテーターは柴田元幸さんであった。柴田さんとちゃんとお目にかかるのは、今回が初めてである。全然、初めてという感じはしないのであるが(柴田さんも「初めてでしたっけ?」と言っていた)。
 で、「亀山訳は・・・」という会場からの意見に対する柴田さんの答えは、「他人の訳を批判する最良の方法は、自分でもっといい訳を出すことだ」であった。
 柴田さんとしては当然のお答えであろう。
 亀山訳に対する批判はネット上でも盛んになされているようだ(私は興味がないので、読んでいないが)。最近では、野崎歓訳『赤と黒』もスタンダール学会を主催しているスタンダールの専門家から罵倒されたことが記憶に新しい。こういうのは「気持ちはわかる」が、非生産的だとも思う。
 ただ、あえて柴田さんの回答に反論するならば、ドストエフスキースタンダールなら自分で訳を出すこともできるが(簡単ではないが)、著作権のあるものは難しい。前にも書いたように、『ゲド戦記』が翻訳出版文化賞か何かを受賞したという知らせを聞いたときには耳を疑った。岩波書店にわずかでも良心というものがあるなら、改訳すべきしろものである。
 こういうのは、著作権の関係で、勝手に別の翻訳を出すということはできないのである。


 さて、「前にも書いたように、『ゲド戦記』が翻訳出版文化賞か何かを受賞したという知らせを聞いたときには耳を疑った。岩波書店にわずかでも良心というものがあるなら、改訳すべきしろものである」と書くひとが、『カラマーゾフの兄弟』や『赤と黒』の新訳への批判について「こういうのは「気持ちはわかる」が、非生産的だとも思う」というのが私には理解できないんですが、どうでしょう? つまり、このひとは『ゲド戦記』── 私はこれを読んだことがありません ── に対する自分の意見も「非生産的」だと思っているということなんでしょうか?「著作権」の縛りですか? 駄目なものは駄目なんじゃないですか?「著作権」の縛りがなければ、新訳を出すことができるはずだ、だから、正しい訳を出せばいい、とこのひとは考えているんでしょうか?「著作権」の縛りのない作品については、どんな訳が出ようといい、しかも全五巻累計一〇〇万部を超えるほどの受容があっていい、と考えているんですか? さらに、その翻訳者がマスメディアにどんどん露出し、「最先端」のでたらめをいくらでも振りまいていいと考えているんでしょうか?
 あるいは彼は、とにかく岩波書店から出されている『ゲド戦記』ほどひどい翻訳はないんだよ、他にこれほどひどい「しろもの」はありえないよ、と思っているだけのことで、まさか亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がそれに匹敵するどころか、軽々と凌駕するほどのひどさであることを知らないだけなのかもしれません。そうでなければ、右の文章を理解することができません。
 それはそれとして、柴田元幸の「他人の訳を批判する最良の方法は、自分でもっといい訳を出すことだ」は、なるほどある翻訳者が他の翻訳者の仕事を批判するなら、そういう回答もあるのかもしれません。しかし、これはともすれば、光文社駒井稔の「もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」にも通じてしまいます。ただし、両者は同じものではありませんが。つまり、柴田元幸と駒井稔とが同じことをいっても意味が異なるということです。柴田元幸には新訳『カラマーゾフの兄弟』についての責任がないのに対し、駒井稔は責任があります。
 それにしても、柴田元幸亀山郁夫が実際にどれほどひどい「最先端」を突っ走っているか知らないのじゃないでしょうか? 自分とは畑違いの学会 ── ロシア語・ロシア文学の専門家たちの集い=亀山訳を批判するのに新たな翻訳を提出しうるはずのひとたちの集い ── でのコメントとしては合格かもしれませんが、感心しません。というのも、鈴木晶柴田元幸も、読者および原作および原作者のことを考えていないのじゃないでしょうか? ふたりは自分が携わっている仕事としての翻訳について述べているにすぎないのじゃないですか? いいですか、でたらめな翻訳をそれと知らずに受け入れて、「感動」までしてしまう読者がどれほどたくさんいるか、考えたことがあるんですか? そういう読者の不幸、そうして、そんな翻訳をなされてしまった原作の不幸、原作者の不幸ということを考えたことがあるんですか? ふたりが実情を知れば、「ええっ、そんなことを亀山郁夫はやっているの?」と声を上げてしまうほどのことが光文社の『カラマーゾフの兄弟』では行なわれていると私はいっているんです。柴田元幸も、たとえばオースターやミルハウザーの作品翻訳をする他の翻訳者が「亀山郁夫的読書」していた場合に、同じ回答ですますことができないのじゃないでしょうか?

 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を批判することの難しさがここにもあります。私がこうして半年間書きつづけ、文庫本の字詰めにして四〇〇ページを上回る分量にまで膨れ上がってしまったこの一連の文章も、理解できるのは亀山訳以外 ── とくに原卓也訳 ── でこの作品を読んだことのあるひとのうちの、そのなかでもきちんと読みこなせたひと ── この作品の読書が生涯の経験のなかでも上位に位置することになってしまったひと ── に限られてしまうんです。世界文学史上の有名作品としてだけこの作品を理解しているようなひと、この作品を読んだことがあると話すと「すごいね」と他人にいわれるから読んだというようなひと、一般常識・教養・知識として一応押さえておこうなどということで読んで感動もおぼえなかったようなひとには、私の書きつづけていることの意味を理解することができないんですね。ところが、理解できるひとには私の文章なんか必要ないんじゃないでしょうか? せいぜいがすでに知っていることの確認にすぎないのじゃないでしょうか? あるいは、そのひとたちが亀山訳に抱いている不満を私が代弁することに快哉を叫ぶというにすぎないのじゃないでしょうか? いや、そのひとたちにとってもそれだけではない、また、そのひとたち以外にも、この文章を理解してくれるひとがあるに違いないと、私は自分にいいきかせます。

 批判・糾弾という行為が、何か負のイメージをたくさんのひとに与えるということは承知です。批判というだけでこの文章を読まないと決めるひとのいることも承知です。「「気持ちはわかる」が、非生産的」という考えがあるのもよく知っています。しかし、私はこれをやりつづけなくてはならないと思うんです。私は絶対に亀山郁夫のこの仕事を許しません。この「連絡船」は、ただよい作品をよいというだけにしておけばよかっただろうに、という考えのあることもわかっています。しかし、よい作品をよいということは、駄目な作品の存在を視野に入れてのものなんです。よい作品をよいというためには、駄目な作品を駄目といわなくてはならないんです。繰り返しますが、『カラマーゾフの兄弟』は私が「世界最高の小説」といいつづけてきた作品です。それが、亀山郁夫のおよそ理解しがたい「最先端」ぶりによって恐ろしく歪曲されてしまったわけです。それが私には許せない。

 ついでにいいますが、私のこの一連の文章を、他人事のように相対化し、冷やかすように読むひとたちのあるはずということをもちろん私は承知しています。自らが『カラマーゾフの兄弟』の読書を生涯の経験の上位に置いているにもかかわらず、私をラキーチンよろしく嘲笑するひとたちですね。そういうひとたちを私は軽蔑します。

 いたって落ちつきのない、嫉妬深い心の持主なのだ。すぐれた才能を十分自覚してはいるのだが、持ち前のうぬぼれから神経質なほどそれを誇張してみせるのである。やがて自分が何らかの面で活躍することを、当人はたしかに承知していたのだろうが、彼と非常に親しくしているアリョーシャを悩ませたのは、この親友ラキーチンが不正直なくせに自分ではまるきりそれを意識しておらず、むしろ逆に、自分はテーブルの上の金を盗むような人間ではないと自覚しているため、きわめて正直な人間とすっかり自分できめてかかっている点だった。こうなるともう、アリョーシャのみならず、だれであろうと、手の施しようがないのである。


 そこで、私の書く文章の冒頭には常にミーチャのこのことばを掲げてもいいのかもしれません。

「ラキーチンにはこんなことはわかりゃしないが」

(同)


 まあ、そんなひとたちのことはどうでもいい。そんなひとたちのことを考えるだけでも時間の無駄です。そんなひとたちはこのことばだけでも自分を意識してもらったということで得意になるでしょうが、ついでにいってみました。もっとも、この私の認識は後でラキーチンについて私が語る ── ということは、私はこの先まだまだ書きつづけるということです ── うえでずいぶん役に立つはずとも思っていますが。

 もうひとつ、ついでに。柴田元幸と、先に触れた豊崎由美とは、以前に書いた「翻訳の問題 ── その二『黄色い雨』」(http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20070904)で私とつながっているんですね。柴田元幸は『黄色い雨』の帯の文言を書いていました。また、豊崎由美はこの作品について『ダ・カーポ』誌上の「今年のベスト(いくつか)」── 馬鹿な企画 ── ということで、コメントを書いていました(『勝てる読書』でもこの作品を推しています)。その同じ誌面で、この私も同じ作品を推していたんですね(私はコメントなし。ともあれ、私と彼女だけが推していましたっけ)。
 それで、「翻訳の問題 ── その二『黄色い雨』」において私が問題にしたのが、柴田元幸とあの作品を推した文芸評論家たち(つまり豊崎由美を含んで)が、あの作品初版における誤植および疑問点(私の指摘で、訳者木村榮一が原作者フリオ・リャマサーレスに問い合わせることになった ── これはリャマサーレスの回答によって第二版以降もそのままですが)に気づいていたかどうか、また、指摘をしたかどうか、ということでした。

 私はこう書きました。

 ここに、ある作品を自分で選んで読むということと、依頼されて(仕事として)読むこととの差を考える余地があるのではないかと私は考えるんですね。
 たとえば、ある本の帯に署名入りで推薦の文句を書いているひとたち(作家・文芸評論家・その他有名人)は、それで報酬を受け取っていると思うんです。で、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、「この本を読んで、推薦文を書いてください」という依頼を受けるんでしょうか? 私の考えているのは、それで、作品が駄目だった場合、いったい彼らはどうするのか、ということなんです。これをいい換えると、彼らは推薦するために・つもりで・前提で読むのか、ということにもなります。それで、もちろん私は、推薦するために読んではいけない、と考えるわけです。読んだ作品が駄目ならば、仕事を断われ、ということです。それがどこまでできているのだろうか、と思うんですね。かなりの割合でできていないのではないか、と私は疑っているんですけれど。もし、これができているのだとすると、その推薦人の読み取りの力を疑わなくてはならないほどのものが多いと思っているんです(そうでなければ、彼らがいかに読者の読書レヴェルを低いところに考えているか、ということになりますね。馬鹿にするな、といいたい)。
 反対に、その「作家・文芸評論家・その他有名人」たちは、作品が不特定多数に推すべきほどのものだと感じるほどの読書をしたなら、誤植や誤訳なども見つけておいてほしいんですよ。見つけたなら、必ずすべてを編集者に伝えてほしいんです。それでこそ、出版後に読むことになる読者のためになるわけです。


 私の考えていたのは、ある作品を誰かに推すことの責任でした。私の疑っていたのは、公的にある作品を誰かに推すひとたちが、当の作品をきちんと読みもしないで推しているのではないか、ということでした。そこに「俗情との結託」があるのではないか、ということです。つまり、本心でないものの売文ということ、仕事上の人脈の軽々しい利用ということがあるのではないか、ということですね。

 たとえば、沼野充義のこれはどうでしょう?

 もちろん、これまで何度も日本語に翻訳されてきた。翻訳の巨人、米川正夫による初めての完訳(現在では岩波文庫に収録)以来、最近の原卓也訳(新潮文庫)、江川卓訳(集英社、現在絶版)にいたるまで、少なくとも歴代八名の名だたるロシア文学者たちが次々に邦訳を手がけてきたのだ。しかし柴田元幸も言うように、「翻訳には賞味期限がある」。時代とともに日本語は変わり、訳文に対する読者の要求も変わってくる。また研究や批評の積み重ねの結果、テキストの読みが深まり、それを反映した新しい解釈が翻訳に求められるという事情もある。今回の亀山氏による新訳はそういった現代的な必要に応える画期的なものだ。訳文は驚くほど読みやすくなり、まるで現代日本の小説を読んでいるようだが、その一方で、作品の構造全体に対する訳者の目配りが随所に生きていて、まるで古ぼけた昔の映画がニュープリントで鮮明に蘇ったような印象を受ける。
 ただし、読みやすければいい、というものではない。また従来の訳がそれほど読みにくかったわけでもなく、私は以前の訳を四種類ほど引っ張り出して比べてみたが、先人たちの訳業の立派さに改めて感嘆した。問題は、ドストエフスキーの小説は様々な声が競い合う壮大な悲喜劇であり、妙な口癖が入り乱れた言語のカーニバルのような異様さがはたして翻訳で伝えられるかということだ。少なくともそういった側面は、あまりに滑らかなリズムの新訳からは伝わってこない。ちょうど英語圏でも長年読み継がれてきたガーネット訳(日本の米川訳に相当)に代わって、ペヴィア=ヴォロホンスキーによる新しい訳が出て話題になっているのだが、英訳では日本の一歩先を行き、原文の特性を活かそうという新たな段階に入っているようだ。
 もっとも、私は亀山訳を批判したいのではない。そもそも、読みやすい口語体が平板になりがちなのは、現代の日本語じたいが抱える貧しさの問題でもあるだろう。ともあれ、現代人が楽に読み通せる訳を作り、ドストエフスキーの途方もない世界への導き手になった亀山氏の功績は巨大である。新訳のおかげで、いまやこの十九世紀ロシアの予言者は、九・一一以後の世界の「現代作家」として新たな生を享けつつある。文学作品とは、ある言語の土壌で一度限り起こった事件だ。翻訳とはそれを別の言語の土壌でもう一度甦らせるという、もともと不可能に近い作業にほかならない。しかし、ドストエフスキー本人にも対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者、亀山郁夫はその離れ業を可能にしてしまった。これは確かに信じがたい事件である。

毎日新聞 二〇〇七年七月二十九日 東京朝刊)


 柴田元幸の名まえを出すのは狡猾な手管ですね。「翻訳には賞味期限がある」という柴田元幸(ひいては村上春樹)のことばは『カラマーゾフの兄弟』には当てはまりません。原卓也訳の「賞味期限」はまだまだ切れていません。この意味では亀山訳は不必要な・余計な翻訳です。
「また研究や批評の積み重ねの結果、テキストの読みが深まり、それを反映した新しい解釈が翻訳に求められるという事情もある」というのは、たしかに一般論としてそうでしょう。しかし、つづく「今回の亀山氏による新訳はそういった現代的な必要に応える画期的なものだ」というのは、これを沼野充義は本気でいっているんでしょうか? 本気なら、沼野充義の程度が知れます。しかし、私は本気でないと思っているんです。彼はおそらく嘘をついたんです。「訳文は驚くほど読みやすくなり、まるで現代日本の小説を読んでいるようだが、その一方で、作品の構造全体に対する訳者の目配りが随所に生きていて」というのも嘘です。そうして、彼のなかでの「現代日本の小説」というのは、実は蔑称であるに違いないと私は思います。
「ただし、読みやすければいい、というものではない。また従来の訳がそれほど読みにくかったわけでもなく、私は以前の訳を四種類ほど引っ張り出して比べてみたが、先人たちの訳業の立派さに改めて感嘆した」というのは本当でしょう。沼野充義は困りはてていたでしょう。彼は亀山訳を本当はよくないと思っているにもかかわらず、この書評で褒めなくてはならなかったんですよ。「問題は、ドストエフスキーの小説は様々な声が競い合う壮大な悲喜劇であり、妙な口癖が入り乱れた言語のカーニバルのような異様さがはたして翻訳で伝えられるかということだ。少なくともそういった側面は、あまりに滑らかなリズムの新訳からは伝わってこない」というのも彼は本当にそう思っていたでしょう。なぜ彼がわざわざこんなふうにいうかというと、たぶんこういうことです。彼は、「いや、本当は亀山訳はひどいんだけれど、もちろん賢明なあなたがたにはそれがわかっていますよね。だから、どうか私と亀山郁夫を一緒にしないでください。私には亀山なんかと違ってドストエフスキーの本質がわかっています。ただ、ほら、ここはつきあいで何とか亀山訳を褒めなきゃいけないとこなんです。わかるでしょう? そこんとこを賢明なあなたがたは理解してくださいね」と目配せしたんです。
 そうして、「もっとも、私は亀山訳を批判したいのではない。そもそも、読みやすい口語体が平板になりがちなのは、現代の日本語じたいが抱える貧しさの問題でもあるだろう」というのも苦しまぎれの屁理屈です。
 さらに、「ともあれ、現代人が楽に読み通せる訳を作り、ドストエフスキーの途方もない世界への導き手になった亀山氏の功績は巨大である」の「現代人が楽に読み通せる訳」も沼野充義にとっては本来蔑称であるでしょう。ただ、ここで彼は完全に妥協したんですね。売れさえすればどんな訳でもいいと妥協したわけです。
 最後の「文学作品とは、ある言語の土壌で一度限り起こった事件だ。翻訳とはそれを別の言語の土壌でもう一度甦らせるという、もともと不可能に近い作業にほかならない」につづく「しかし、ドストエフスキー本人にも対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者、亀山郁夫はその離れ業を可能にしてしまった。これは確かに信じがたい事件である」というのはもうやけくそです。「信じがたい」というのは本当に信じがたかったろうと思いますよ。

 なぜ私に沼野充義の真意が ── 手に取るように ── わかるかといえば、私自身が約二十年前にある出版社でアルバイトをしていて、そこで出しているある低級な小説 ── にもかかわらずベストセラーになりましたっけ ── を宣伝するために署名入りで、「心ならずも」の文章をある雑誌に書かなくてはならなかった ── しかも、それはその出版社の社長から「こういう文章が欲しかったんだよ」と褒められもしました ── からですね。ところが実は、私の書いたのは、一見褒めているように見えながら実はそうではないということが賢明な読者にだけはわかるような文章でもあったんでした。まったく、その出版社での一年間は私の一生の恥ですが。

 ──「俗情との結託」